馬皇后(ばこうごう、1332年-1382年)は、明を建国した洪武帝・朱元璋の正妻であり、
明朝最初の皇后となった女性である。諡号から孝慈高皇后とも呼ばれる。
元末の反乱軍を率いた郭子興の養女として育ち、まだ一武将だった朱元璋と結婚した。
郭子興が朱元璋を疑った際には両者の関係修復に努め、朱元璋が勢力を拡大すると軍衣を縫い、
陳友諒との戦いでは宮中の金帛を兵士への褒賞に差し出すなど、その台頭を支えた。
1368年に朱元璋が明を建国すると皇后となったが、
豪奢に走らず、後宮を統率しながら皇帝への諫言を続けた。
郭景祥の子、李文忠、宋濂、沈秀らが朱元璋の怒りによって処罰されそうになると助命や再考を求め、
罪人や宮女に対する処罰にも慎重さを求めている。
朱元璋自身が馬皇后を唐の長孫皇后になぞらえて称賛した一方、
馬皇后は夫婦が苦難をともにしたことよりも、皇帝がともに戦った臣下を忘れないことを求めた。
朱元璋の妻というだけではなく、建国以前から明初までその傍らにあり、
苛烈になりやすい皇帝と臣下・民衆との間に立った人物だった。
生い立ちと朱元璋との結婚|郭子興の養女から武将の妻へ
馬皇后は1332年、宿州に生まれた。実名は史書に記されていない。
『明史』では父を「馬公」、母を「鄭媼」と記しており、
父の実名を馬三保と断定することはできない。
両親を早くに失い、父と親交のあった郭子興に託された。
父の死後、郭子興は馬氏を実の娘のように養育したという。
郭子興は元末に濠州で蜂起した反乱軍の指導者である。
飢饉や疫病で家族を失い、皇覚寺の僧となったのち各地を放浪していた朱元璋も、
1352年に郭子興の軍へ加わった。
朱元璋の能力を認めた郭子興は自らの養女である馬氏を妻として与え、二人は夫婦となった。
この婚姻によって朱元璋は郭子興と姻戚関係を結ぶことになったため、
軍中における立場にも一定の意味を持った。
ただし、馬氏は単に郭子興と朱元璋を結ぶだけの存在ではなかった。
『明史』は馬氏を「仁慈有智鑒」と評し、書史を好んだ女性だったとする。
朱元璋が書き留めた札記を管理し、軍中の慌ただしい状況でも内容を忘れなかったという記録もあり、
早い時期から朱元璋の身近で実務を支えていたことが分かる。
郭子興に疑われた朱元璋を支える
朱元璋が軍功を重ねるにつれて、郭子興との関係は必ずしも安定したものではなくなった。
郭子興が讒言を信じて朱元璋を疑った際、馬氏は養母にあたる郭子興の妻に丁寧に仕え、
朱元璋との間に生じた亀裂を解消するよう努めた。
朱元璋にとって馬氏は郭子興の養女である。
その立場を利用して養父側と夫側の関係を取り持ったことは、
朱元璋がまだ独立した勢力を確立していない時期には特に重要だった。
後に朱元璋が郭子興の勢力から自立し、明の建国者となったことを考えれば、
馬氏との婚姻はその初期経歴と切り離せない。
食料を胸に隠して朱元璋へ届ける
朱元璋と馬氏の関係を象徴する逸話として知られるのが、食料を衣服の中へ隠して届けた話である。
後世には「郭子興に投獄された朱元璋へ、焼きたての饅頭を胸に入れて運び、馬氏が火傷を負った」
という形で広く語られている。
『明史』にも、この逸話のもとになった記録がある。
朱元璋が郭氏から疑われ、飢饉も重なって食料に窮していた時、
馬氏は密かに炊餅を衣服の中へ入れて夫に届けた。
熱い餅を直接懐に入れたため、自分の肉が焼けるほどだったという。
普段から保存できる食料を用意して朱元璋が食べ物に困らないようにする一方、
自分自身は満腹になるまで食べなかったとも記されている。
したがって、馬皇后が食料を懐に隠して朱元璋を助けたこと自体は『明史』に記録されている。
ただし、後世に広まった「牢獄へ饅頭を差し入れた」という細部まで、
そのまま正史の記述とみなすべきではない。
朱元璋は皇帝となった後もこの時のことを忘れず、
貧しい時代から自分を支えた馬皇后の功績を群臣の前で語った。
明建国まで朱元璋を支える|軍衣・兵士・金帛
朱元璋が郭子興の一部将から独立した勢力の指導者へ成長すると、馬氏の役割も広がった。
朱元璋が太平を攻略した後、馬氏は将兵の妻妾を率いて長江を渡った。
江寧を拠点とした時期には周辺勢力との戦闘が絶えず、
馬氏自身が兵士の衣服や履物を縫って軍を支えたと『明史』に記されている。
単なる「内助の功」という抽象的な表現ではなく、
朱元璋軍がまだ国家として完成していなかった時代に、
軍の後方を実際に支える仕事を担っていたのである。
陳友諒の龍湾侵攻|宮中の金帛を兵士へ与える
1360年、陳友諒の大軍が龍湾へ迫ると、朱元璋は自ら軍を率いて迎撃した。
この危機に際して馬氏は宮中に蓄えていた金や絹をすべて出し、兵士への褒賞に充てたとされる。
陳友諒は当時、朱元璋にとって最大級の競争相手だった。
その後も両者の抗争は続き、1363年の鄱陽湖の戦いで朱元璋が決定的な勝利を収める。
馬氏はこうした戦乱の最中に朱元璋へ
「天下を定めるには、人を殺さないことを根本とすべきだ」という趣旨の言葉を述べた。
後に苛烈な刑罰と粛清でも知られる朱元璋に対し、
建国以前から殺戮を抑えるよう求めていたことになる。
明の初代皇后へ|豪奢を嫌い後宮を統率する
1368年正月、朱元璋は南京で皇帝に即位して明を建国した。
馬氏も皇后に冊立され、貧しい武将の妻から新王朝最初の皇后となった。
しかし、身分が変わっても生活態度は大きく変わらなかったと『明史』は伝えている。
朱元璋は貧困時代をともにした馬皇后を、
後漢の光武帝が苦難の中で受けた「蕪蔞の豆粥」「滹沱の麦飯」の故事になぞらえ、
群臣の前でもその賢さを称えた。
また唐の太宗を支えた長孫皇后と同じような賢后だとも評した。
しかし馬皇后は、自分が長孫皇后と並べられることを喜ぶより、朱元璋に別のことを求めた。
夫婦が互いを守るのは容易だが、君臣が互いを守り続けることは難しい。
皇帝が自分と貧しい時代をともにしたことを忘れないのであれば、
同じように苦難をともにした臣下のことも忘れないでほしいと説いたのである。
朱元璋との夫婦関係を、自分だけが皇帝から特別に扱われる理由にするのではなく、
建国を支えた臣下への配慮へ結びつけている。
↓↓「賢后」として名を残した唐太宗李世民の正妻・長孫皇后についての個別記事は、こちら

質素を貫き、古代の賢后を学ぶ
馬皇后は粗い練絹で作った洗いざらしの衣服を着用し、古くなっても簡単には取り替えなかった。
余った絹糸なども捨てずに衣服へ仕立て、諸王の妃や公主へ与えて養蚕や織物の苦労を理解させた。
また古い布を利用して寝具を作り、高齢者や身寄りのない者へ与えたという。
皇后自身が倹約するだけでなく、
皇族にも衣服や物資が生産されるまでの労苦を意識させようとしていた。
後宮の統率にも古い制度や賢后の事例を利用した。
宋代には賢明な皇后が多かったとして、女史にその家法を記録させ、日常的に読んでいた。
宋は仁厚に過ぎたのではないかと言われると、
刻薄であるより仁厚に過ぎる方がよいという考えを示している。
また『小学』を読み、朱元璋にその書を顕彰するよう求めたともいう。
妃嬪や宮人に対しても、朱元璋の寵愛を受けて子を産んだ者を厚く扱った。
皇后という地位を利用して他の妃嬪を排斥するのではなく、
後宮全体を統率する立場を取ったことが『明史』では強調されている。
外戚への爵禄を拒む
中国王朝では、皇后の父・兄弟などが皇帝との姻戚関係によって官爵を得て、
外戚として大きな政治力を持つことがあった。
朱元璋も馬皇后の一族を探し出し、官職を与えようとした。
しかし馬皇后は「外家に爵禄を私するのは法ではない」という趣旨で強く辞退した。
そのため、馬氏一族が皇后との血縁だけを理由として政権中枢へ進出することはなかった。
一方で、馬皇后自身は早くに亡くなった父母への思いが強く、両親の話になると涙を流したという。
朱元璋は父の馬公を徐王、母の鄭媼を王夫人として追封し、墓を整えて廟を建てている。
馬皇后は亡父母への顕彰まで拒絶したわけではなく、
生きている親族が皇后の権威を利用して政治的な利益を得ることを避けたのである。
朱元璋を諫める|処刑・冤罪・刑罰を抑えた具体例
馬皇后が後世「賢后」と評価された最大の理由の一つが、朱元璋への諫言である。
朱元璋は決断力のある皇帝である一方、怒りや猜疑から厳しい処罰を下すことも少なくなかった。
馬皇后は前殿で政務を行っている朱元璋が激怒した時、その場へ出て政治に口を挟むのではなく、
皇帝が後宮へ戻るのを待って事情に応じて諫めたという。
『明史』は、その結果として刑罰や処刑が軽減された例が何度もあったと記している。
郭景祥の一人息子を救う
和州を守っていた参軍・郭景祥について、
その一人息子が槍を持って父を殺そうとしたという告発があった。
朱元璋は息子を処刑しようとしたが、
馬皇后は郭景祥にはその子しかおらず、告発そのものが事実とは限らないとして調査を求めた。
朱元璋が改めて調べると、実際に冤罪だった。
馬皇后が単に「慈悲深いから助けてほしい」と頼んだのではなく、
告発の真偽を確認してから処罰すべきだと求めた例である。
楊憲に告発された李文忠を守る
朱元璋の甥であり武将として活躍した李文忠が厳州を守っていた時、楊憲がその不法行為を告発した。
朱元璋は李文忠を呼び戻そうとしたが、
馬皇后は厳州が敵と接する重要地域であり、守将を軽々しく交代させるべきではないと諫めた。
また李文忠のこれまでの人物評価を考えれば、楊憲の言葉だけを信用してよいのかとも問いかけた。
朱元璋は召還を取りやめ、李文忠はその後も軍功を挙げた。
ここでも馬皇后は情だけで李文忠を庇ったのではなく、
前線の軍事情勢と告発者の証言の信頼性を理由としている。
↓↓北方戦線や辺境統治を担った有力将軍・李文忠についての個別記事は、こちら

死刑となった宋濂を救う
馬皇后の諫言で特に有名なのが宋濂の助命である。
宋濂は明初を代表する学者であり、朱元璋の皇太子・朱標の教育にも関わった。
しかし孫の宋慎が胡惟庸の獄に連座したことで捕らえられ、死刑を宣告された。
馬皇后は、一般の家でも子弟の師を招けば最後まで礼を尽くすのに、
まして天子の師であればなおさらではないかと訴えた。
しかも宋濂本人はすでに故郷で暮らしており、孫の事件を知らなかったはずだとして助命を求めた。
朱元璋はすぐには聞き入れなかった。
すると馬皇后は朱元璋との食事で酒にも肉にも手を付けなかった。
不審に思った朱元璋が理由を尋ねると、宋先生のために福を祈っていると答えた。
朱元璋は箸を投げ出して席を立ったが、翌日には宋濂の死刑を取り消し、茂州への安置に変更した。
馬皇后の諫言が実際に一人の学者の命を救った代表的な例である。
↓↓明朝の理念的基盤を整備した宋濂についての個別記事は、こちら

富豪・沈秀の処刑を止める
呉興の富豪・沈秀は、都城建設費の三分の一を負担したうえ、軍への犒賞まで申し出た。
ところが朱元璋は、一私人が天子の軍を自分の財力で労うことを問題視し、処刑しようとした。
馬皇后は、法律とは不法な行為を処罰するためのものであり、
不吉なほど富裕であるという理由で人を殺すものではないという趣旨で諫めた。
沈秀は処刑を免れ、雲南への配流となった。
重囚を過酷な労役から救う
朱元璋が重罪人に築城工事をさせたこともあった。
馬皇后は、労役によって罪を償わせること自体は国家の恩恵であるとしながらも、
すでに疲弊した囚人へさらに重労働を課せば結局死んでしまうと指摘した。
朱元璋はこれを受けて囚人たちを赦免したという。
馬皇后の諫言は特定の功臣や知人だけに向けられたものではなく、
名も残らない囚人にまで及んでいた。
怒りに任せた宮女への処罰を止める
朱元璋が宮女に腹を立てた際には、馬皇后もあえて怒ったふりをして、
その宮女を宮正司へ引き渡して正式に罪を審議させようとした。
朱元璋が理由を尋ねると、皇帝は喜怒によって刑罰や褒賞を決めるべきではなく、
怒っている時には刑が必要以上に重くなる恐れがあるため、担当部署に判断させるべきだと答えた。
これは馬皇后の政治観をよく示している。
彼女が求めたのは、すべての罪人を無条件に赦すことではない。
皇帝個人の怒りと国家の刑罰を分け、法と手続きによって処断することだった。
民衆と官僚への視線|「天下の母」として何を求めたのか
馬皇后の関心は後宮だけに限られていなかった。
ある時、朱元璋に「天下の民は安らかに暮らしているか」と尋ねた。
朱元璋が「お前が尋ねることではない」と答えると、
馬皇后は、皇帝が天下の父であり、自分も天下の母という立場にある以上、
民が安らかであるかを尋ねないわけにはいかないと答えた。
干ばつになると宮人を率いて粗食にし、凶作の年には麦飯や野菜の羹を食べた。
朱元璋から救済を行っていると聞かされると、
災害が起きてから救済するより、平時から蓄えて備える方が重要だとも述べている。
単なる慈善ではなく、備蓄によって飢饉そのものに備える必要を説いたのである。
官僚の食事を自ら味見する
朝廷へ奏事に来た官僚たちが宮中で食事を取っていた時、
馬皇后は宦官にその料理を持って来させ、自ら味を確かめたことがあった。
料理がおいしくないことを知ると、朱元璋に対して、
君主自身の生活は質素でよいが、賢者を養う待遇は厚くすべきだと進言した。
朱元璋は光禄寺の担当者へ改善を命じた。
皇后自身が倹約しているからといって、
臣下にも粗末な待遇を強いるべきだとは考えていなかったのである。
太学生の家族にも食料を与える
朱元璋が太学を訪れた後、馬皇后は学生が何人いるのかを尋ねた。
数千人と聞くと、学生本人には官から食料が与えられているが、
その妻子は何を頼りに生活するのかと問題を提起した。
これを受けて「紅板倉」が設けられ、
穀物を蓄えて太学生の家族へ支給する制度が始まったと『明史』は伝える。
学問を奨励するのであれば、学生本人だけではなく、
その家族が生活できる環境まで考える必要があるという発想だった。
「宝」とは何か
明軍が元の大都を攻略すると、宝玉が戦利品として宮廷へ運ばれた。
馬皇后は、元朝はこれほどの宝を持ちながら天下を守れなかったのだから、
帝王には別の宝があるのではないかと朱元璋へ問いかけた。
朱元璋は、馬皇后が言いたいのは「賢人を得ることこそ宝だ」ということだろうと答えた。
馬皇后はその通りだと認め、自分たちは貧しい身分からここまで来たからこそ、
奢侈から驕りが生まれ、小さな綻びから国家の危機が始まることを常に恐れていると語った。
さらに、法律を頻繁に変更すれば弊害が生まれ、民を何度も煩わせれば疲弊し、
疲弊すれば乱につながると説いた。
朱元璋はこの言葉を高く評価し、女史に記録させている。
子女をめぐる問題|朱標・朱棣らは馬皇后の実子だったのか
馬皇后の子女については史料上の問題がある。
『明史』や明朝の公式系譜では、皇太子朱標、秦王朱樉、晋王朱棡、燕王朱棣、
周王朱橚らを馬皇后の子として扱う伝統的な系譜がある。
特に朱標は朱元璋の嫡長子として皇太子となり、明初の皇位継承体制の中心に置かれた。
一方、後世の史料には朱棣などの生母を別の妃とする異説があり、
馬皇后がどの皇子を実際に産んだのかについては議論が続いている。
とりわけ朱棣の生母については碽妃説など複数の説が知られるが、
決定的な史料によって確定しているわけではない。
したがって、「馬皇后には実子がいなかったことが現在の定説」と断定することも、
「朱標・朱棣ら全員が確実に馬皇后の実子だった」と断定することも避ける必要がある。
確実なのは、明朝の公式な皇統の中で馬皇后が嫡母として極めて重要な位置を占めたことである。
また『明史』は、馬皇后が朱元璋の妃嬪や、
その妃嬪が産んだ子供たちを厚く扱ったことも記している。
実際の生母をめぐる議論とは別に、
馬皇后が朱氏皇族全体を統率する嫡后として重要な立場にあったことは、
その人物像を考えるうえで欠かせない。
晩年と死|「求賢納諫」を朱元璋に遺す
洪武15年(1382年)8月、馬皇后は病に倒れた。
群臣は祈祷を行い、名医に治療させるよう求めたが、馬皇后はこれを望まなかった。
生死は天命であり、祈祷をして何になるのか。
また医師が必ず人を救えるわけではなく、薬が効かなかった場合、
自分の死を理由に朱元璋が医師を処罰することを恐れたのである。
死の間際まで、朱元璋の怒りによって他人が処罰されることを警戒していたことになる。
病状が悪化すると、朱元璋は最後に言い残したいことがあるかと尋ねた。
馬皇后が望んだのは、自分の一族への恩賞でも、葬儀を盛大にすることでもなかった。
賢人を求め、諫言を受け入れ、始めの時と同じ慎重さを最後まで失わず、
子孫が賢く、臣下と民衆がそれぞれ安んじられる政治を続けてほしいというものだった。
同月、馬皇后は51歳で死去した。
朱元璋は激しく悲しみ、その後、新たな皇后を立てることはなかった。
同年9月、馬皇后は孝陵へ葬られ、「孝慈皇后」と諡された。
永楽元年(1403年)には「孝慈昭憲至仁文徳承天順聖高皇后」、
嘉靖17年(1538年)にはさらに尊号が加えられ、
「孝慈貞化哲順仁徽成天育聖至徳高皇后」とされた。
宮人たちがその死を悼む歌を作ったことも『明史』に記されている。
馬皇后の死後に激化する朱元璋の粛清
馬皇后の死後も朱元璋の統治は続き、その後、明初を代表する大規模な粛清が相次いだ。
胡惟庸は馬皇后の存命中である洪武13年(1380年)に処刑されているため、
胡惟庸の獄そのものを「馬皇后の死後に始まった粛清」とすることはできない。
しかし胡惟庸事件への連座はその後も拡大し、洪武23年(1390年)には李善長ら多数が処刑された。
さらに洪武26年(1393年)には藍玉の獄が起こり、多くの功臣が粛清されている。
そのため、馬皇后が生きていればこれらの粛清を阻止できたと断定することはできない。
朱元璋の政治構造そのものに、皇帝権力の集中と功臣への強い警戒が存在していたからである。
それでも『明史』に残る郭景祥の子、李文忠、宋濂、沈秀、重囚、宮女らの事例を見れば、
馬皇后が朱元璋の処罰を実際に軽減させたことは確認できる。
彼女の死によって、朱元璋へ私的な場で直接諫言し、
その怒りを鎮めることのできた人物の一人が失われたことは確かである。
↓↓大規模粛清の対象となった胡惟庸、李善長、藍玉についての個別記事は、こちら



馬皇后の実像|「賢后」と呼ばれた理由
馬皇后には、質素な衣服、食料を懐に入れて朱元璋へ届けた話、民衆や罪人への慈悲など、
後世の「賢后」像にふさわしい逸話が数多く残されている。
そのため、後世の理想的な皇后像が史書の叙述に影響している可能性は考慮する必要がある。
しかし、馬皇后の重要性は単に「優しく質素な皇后だった」という点にはない。
朱元璋が郭子興の一部将だった時代には郭氏との関係を取り持ち、
勢力拡大期には軍衣や軍需を支え、皇后となってからは後宮を統率した。
その一方で、朱元璋が怒りに任せて処罰しようとすると、
皇帝の面子を公の場で傷つけるのではなく、後宮へ戻った後に諫言して判断を変えさせている。
郭景祥の子の冤罪を見抜き、李文忠については前線の事情を理由に召還へ反対し、
宋濂には師としての恩義を持ち出し、
宮女については皇帝個人の怒りと法による処罰を分けるよう求めた。
それぞれ理由が異なっており、単純に「誰でも助命した」わけではない。
また、外戚への官爵を拒否しながら官僚の待遇改善を求め、
皇后自身は粗衣を着ながら太学生の家族には食料を与えようとした。
馬皇后が重視したのは、自分や馬氏一族の権力を拡大することではなく、
皇帝の強大な権力が恣意的に使われないよう、その傍らから均衡を取ることだった。
朱元璋は皇帝となってからも、貧しい時代をともにした馬皇后を忘れなかった。
しかし馬皇后が最後まで朱元璋に求めたのは、自分への恩を忘れないことではなく、
ともに天下を取った臣下と、明の支配下に入った民衆を忘れないことだった。
そこに、彼女が明代を代表する「賢后」と評価された最大の理由がある。
まとめ
馬皇后の生涯は、朱元璋が一介の反乱軍兵士から明の皇帝へ上り詰めていく過程とほぼ重なっている。
しかし、皇帝の成功を陰で支えた「良妻」とだけ評すると、その役割の重要な部分が抜け落ちる。
朱元璋がまだ弱い立場にあった時には郭子興との亀裂を修復し、
戦乱の中では軍を支え、皇后となった後には強大になった朱元璋自身を諫める側へ回った。
夫の立場が変化するにつれて、馬皇后が果たす役割も変わっていったのである。
とりわけ興味深いのは、皇后となって絶大な権威を得た後も、
その権威を自分の一族のためには使わなかったことである。
一方で、冤罪の疑いがある者、死刑となった老臣、過酷な労役を課された囚人、
皇帝の怒りを買った宮女のためには朱元璋へ言葉を尽くした。
明初の皇帝権力を制度として制限した人物ではないし、
朱元璋の苛烈な政治をすべて止められたわけでもない。
それでも、朱元璋が最も強い権力を持つ場所のすぐそばで、
その判断を変えさせることのできた数少ない人物だった。
馬皇后の死後、朱元璋は二度と皇后を立てなかった。
それは単に正妻を失ったというだけではなく、貧しい時代から自分を知り、
皇帝となった後も恐れず諫めることのできた存在を失ったことでもあった。
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史書・参考文献
・張廷玉等『明史』巻113「列伝第一・后妃一・太祖孝慈高皇后」
・『明太祖実録』
・『国朝献徴録』
・談遷『国榷』
・谷応泰『明史紀事本末』
・檀上寛『明の太祖 朱元璋』白帝社
・山根幸夫編『中国史 明-清』山川出版社
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