楊麗華(ようれいか、561年頃~609年)は、
北周宣帝・宇文贇の皇后であり、隋の初代皇帝楊堅(文帝)と独孤伽羅(独孤皇后)の長女である。
十三歳前後で北周皇太子妃となり、夫の即位によって皇后、さらに「天元大皇后」となった。
しかし宣帝・宇文贇の後宮には複数の皇后が並立し、楊麗華自身も夫から死を命じられかけるなど、
その地位は決して安泰ではなかった。
宣帝・宇文贇の死後は幼い静帝の皇太后となったが、
父・楊堅が北周の実権を握り、やがて静帝から皇位を奪って隋を建国する。
楊麗華は父の新王朝では楽平公主となったものの、
夫の宇文氏と実家の楊氏との間に立たされることになった。
『周書』『北史』には、楊麗華が「柔婉」で嫉妬せず、他の皇后や妃嬪から敬愛されたこと、
父の王朝簒奪には強い不満を示したこと、
夫の死後に再婚を勧められても拒絶したことが記されている。
北周皇后から隋の公主へと立場を変えながら生きた楊麗華の生涯を、史料に沿ってたどる。
楊堅と独孤伽羅の長女として生まれる
楊麗華は561年頃、後に隋を建国する楊堅と、その正妻独孤伽羅の長女として生まれた。
父の楊堅は弘農楊氏を称する家の出身で、父・楊忠は西魏から北周に仕えた有力武将だった。
母の独孤伽羅も、西魏・北周の重臣で八柱国の一人に数えられる独孤信の娘であり、
楊麗華は北周を支える有力家門同士の婚姻によって生まれたことになる。
弟には後に皇太子となる楊勇、隋第二代皇帝となる楊広(煬帝)、
秦孝王楊俊、蜀王楊秀、漢王楊諒らがいた。
楊堅と独孤伽羅の長女であった楊麗華は、やがて北周皇室と楊氏を結びつける婚姻の当事者となる。
史書は楊麗華について、性格が柔和で嫉妬せず、節操を備えた女性として描いている。
後に夫の宣帝・宇文贇が複数の皇后を並立させた際にも、
他の皇后や妃嬪たちは楊麗華を敬愛していたと記されている。
↓↓父楊堅 、母独孤伽羅、祖父独孤信についての個別記事は、こちら



北周皇太子妃から皇后へ
北周皇室との婚姻
573年頃、十三歳前後の楊麗華は、
北周武帝宇文邕の皇太子であった宇文贇に嫁ぎ、皇太子妃となった。
当時の楊堅は北周朝廷の有力者の一人であり、
楊麗華と皇太子の婚姻によって楊氏は皇室と直接結びついた。
一方、夫となった宇文贇は武帝(宇文邕)から厳しく教育されていたものの、
その言動をたびたび問題視されていた。
後に即位すると、父・武帝(宇文邕)とは大きく異なる政治姿勢を見せることになる。


宣帝の皇后となる
578年、武帝(宇文邕)が死去すると、皇太子宇文贇が即位して宣帝となり、
楊麗華も皇后に冊立された。十八歳前後で北周後宮の最高位に立ったことになる。
宣帝・宇文贇は即位後、服飾や官制をたびたび変更し、
579年には幼い皇太子宇文闡へ皇位を譲って自ら「天元皇帝」と称した。
退位したとはいえ政治的実権を手放したわけではなく、独自の尊号や制度を次々と導入した。
楊麗華もこれに伴って「天元皇后」となり、さらに後宮制度そのものが大きく変更されていく。
宣帝の後宮と楊麗華
「五皇后」と天元大皇后
宣帝・宇文贇は楊麗華一人を皇后とする従来の制度を崩し、
朱満月、陳月儀、元楽尚、尉遅熾繁にも皇后の称号を与えた。
最終的には五人の皇后が同時に存在する異例の状態となり、
楊麗華はその中で「天元大皇后」とされた。
五皇后の中でも楊麗華は宣帝が皇太子だった時代からの正妻であり、特別な位置にあった。
ただし史書が強調しているのは、楊麗華が他の女性たちを嫉妬して排斥したのではなく、
むしろ「性柔婉、不妬忌」と評され、四皇后や妃嬪たちから敬愛されていたことである。
宣帝・宇文贇による複数皇后の冊立は北周末期を特徴づける異例の後宮制度だったが、
その中で楊麗華が他の皇后と激しく争ったという記録は残されていない。
宣帝から死を命じられる
宣帝・宇文贇の暴虐は楊麗華自身にも及んだ。
『周書』『北史』によれば、宣帝・宇文贇はあるとき楊麗華を責めて罪を加えようとしたが、
楊麗華は落ち着いた態度を崩さず、言葉や表情にも屈服する様子を見せなかった。
これに激怒した宣帝・宇文贇は、ついに楊麗華へ死を命じ、自害するよう迫った。
娘の危機を知った母独孤伽羅は宮中へ赴き、額から血を流すほど何度も叩頭して謝罪した。
その必死の嘆願によって、ようやく楊麗華は死を免れた。
宣帝・宇文贇は楊堅を警戒していたことも史料から確認できるが、
このとき楊麗華が処罰されかけた具体的な原因は明記されていない。
そのため、楊堅への警戒だけを直接の原因と断定することはできない。
北周皇后という高い地位にあっても、
楊麗華は夫の激しい喜怒によって命を奪われかねない状況に置かれていた。
しかし史書は、この危機に際しても彼女が取り乱さず、毅然と応対したことを伝えている。
宣帝の死と父・楊堅の台頭
静帝の皇太后となる
580年、宣帝・宇文贇が二十二歳で急死すると、幼い宇文闡が静帝として残された。
楊麗華は静帝の実母ではなかったが、宣帝の正妻として皇太后に尊ばれ、弘聖宮に居住した。
宣帝・宇文贇が危篤になると、楊麗華の父楊堅が宮中へ入った。
宣帝・宇文贇の死後、劉昉・鄭訳らは詔を作り、楊堅を幼帝の輔政に据えて政務を掌握させた。
ここで楊麗華の立場は単純ではない。
『周書』は、楊麗華自身はこの工作に最初から加わってはいなかったものの、
後継者である静帝が幼く、権力が別の一族へ渡れば自分に不利になることを恐れていたため、
父が輔政となったことを知ると喜んだと記している。
つまり、楊麗華は最初から父の台頭そのものに反対していたわけではない。
幼い静帝を支える後見者として実父の楊堅が政権を握ることは、
当初の楊麗華にとって受け入れられるものだった。
楊堅の簒奪意図を知って反発する
しかし楊堅は輔政の地位にとどまらず、急速に権力を集中させた。
これに反発した北周の有力者たちが各地で挙兵し、
とりわけ相州総管の尉遅迥は宇文氏を守ることを掲げて大規模な反乱を起こした。
楊堅は韋孝寛らを派遣してこれを鎮圧し、北周朝廷における対抗勢力を排除していった。
楊麗華も、父が単なる輔政ではなく皇位そのものを狙っていることを知ると態度を変えた。
『周書』には、楊堅に「異図」があることを知った楊麗華が不満を抱き、
それを言葉や表情に表したこと、
さらに禅譲が実行されると憤りと嘆きをいっそう強くしたことが記されている。
楊麗華にとって静帝は亡夫・宣帝・宇文贇の後継者であり、自身は北周の皇太后だった。
実父が静帝から皇位を奪うことは、実家の繁栄であると同時に、
自らが属してきた北周皇室の滅亡を意味していた。
↓↓楊堅に反発して反乱を起こした尉遅迥についての個別記事は、こちら

北周滅亡と楽平公主
父が隋を建国する
581年、楊堅は静帝から禅譲を受けて皇帝に即位し、隋を建国した。
北周は滅亡し、楊麗華は北周の皇太后から、新王朝を建てた皇帝の長女という立場へ変わった。
楊麗華は父の皇位簒奪に強い不満を示したが、楊堅は娘を処罰しなかった。
『周書』は、楊堅が娘に対して内心深く恥じていたと記している。
楊麗華は後に「楽平公主」に封じられた。
こうして北周皇太子妃、皇后、天元大皇后、皇太后を経た楊麗華は、
隋では皇帝の長女である公主として生きることになった。
再婚を拒絶する
宣帝・宇文贇の死後、楊麗華が再婚することはなかった。
父の楊堅は娘に新たな夫を迎えさせようと考えたが、
楊麗華は強く拒絶し、再婚しない意思を変えなかったため、楊堅も断念した。
史書は彼女が再婚を拒んだ理由までは記していない。
そのため、亡夫への愛情や北周への忠節など特定の理由を断定することはできないが、
父が皇帝となった後も自らの意思を通したことは確認できる。
一人娘・宇文娥英
楊麗華と宣帝・宇文贇の間には、宇文娥英という娘がいた。
楊麗華にとって確認できる唯一の娘であり、隋建国後も母とともに皇族に近い立場で生活した。
楊麗華は娘の夫を慎重に選んだ。
『隋書』の李敏伝によれば、貴族の子弟を弘聖宮へ集め、
自ら帳の内側から候補者を見て、経歴を述べさせたり技芸を試したりした。
その中から楊麗華が選んだのが李敏だった。
李敏は北周・隋の有力家門に属する人物で、容姿が美しく、
騎射だけでなく歌舞や音楽にも通じていたという。
楊麗華は李敏を気に入り、宇文娥英と結婚させた。
さらに楊麗華は、父・文帝(楊堅)に李敏へ高い官位を与えるよう働きかけた。
文帝(楊堅)が李敏へ官位を与えようとすると、
李敏は楊麗華の意向を受けての低い官位では謝意を示さず、
最終的に柱国を授けられたという逸話も『隋書』に残されている。
隋の公主としての晩年
楊勇と楊広の皇位継承問題
文帝(楊堅)の晩年には、皇太子楊勇と晋王楊広をめぐる皇位継承問題が深刻化した。
楊勇は楊麗華の弟であり、楊広もまた同母弟だった。
楊勇は側室を多く置いたことや生活態度などから父・楊堅と母・独孤伽羅の信任を失い、
600年に皇太子を廃された。
代わって楊広が皇太子となり、604年に文帝(楊堅)が死去すると煬帝として即位した。
楊麗華が楊勇の廃太子に反対し、楊広を批判したとする記述は、
少なくとも楊麗華の基本史料である『周書』巻9「宣帝楊皇后伝」や『北史』巻14「宣皇帝楊皇后伝」
には見えない。
そのため、楊麗華が皇位継承問題で特定の政治的行動を取ったと断定することは避けるべきである。
一方、楊広の即位後も楊麗華が皇族として遇されていたことは、
その後の煬帝の巡幸に同行していることから確認できる。
煬帝の巡幸に同行して死去
609年、楊麗華は煬帝の張掖への巡幸に同行したが、その途中、河西で死去した。享年49。
楊麗華は死に際して、自分には男子がなく、一人娘の宇文娥英だけが心残りであるとして、
自らの湯沐邑を娘婿・李敏へ与えるよう煬帝に願った。
煬帝はこの遺言を認め、李敏は五千戸の食邑を受けることになった。
煬帝は姉の遺体を長安へ戻させ、礼を整えて亡夫・北周宣帝宇文贇の定陵に合葬した。
夫の死から約29年、北周の滅亡から約28年を経て、
楊麗華は最後に北周皇后として夫と同じ陵墓に葬られた。
娘・宇文娥英と李敏のその後
楊麗華の死後も、娘の宇文娥英と李敏は隋の宮廷と深く関わった。
しかしその結末は厳しいものとなる。
煬帝の治世後半、李敏には「洪児」という別名があるという話が問題視された。
当時流布していた讖緯と結びつけて煬帝から疑われ、李敏は宇文述の告発を受けて処刑された。
『隋書』によれば、宇文娥英もその数か月後に毒を賜って死んだ。
楊麗華は609年に死去していたため、一人娘と娘婿のこの最期を見ることはなかった。
楊麗華の人物像
『周書』が楊麗華について残した人物評は簡潔だが、その生涯を考えるうえで重要である。
史書は彼女を「柔婉」で嫉妬せず、他の皇后や妃嬪から愛され敬われた女性として記している。
一方で、単に従順な女性だったわけではない。
宣帝・宇文贇から死を命じられた際には態度を崩さず、
父・楊堅が北周の皇位を奪おうとしていることを知れば不満を隠さず、
実際に禅譲が行われると強く憤った。
父から再婚を勧められた際にも、自らの意思で拒絶している。
その政治的立場は複雑だった。
宣帝・宇文贇死後、父が幼い静帝の輔政となったこと自体は歓迎しているため、
楊麗華を最初から一貫した「反楊堅」の人物として描くことも正確ではない。
彼女が反発したのは、父の権力掌握そのものというより、
それが北周皇位の簒奪へ進んでいった段階だったことが史書から読み取れる。
北周皇太子妃、宣帝・宇文贇の皇后、天元大皇后、静帝の皇太后、そして隋の楽平公主。
楊麗華ほど王朝交代によって立場が大きく変化した女性は多くない。
しかも彼女の場合、滅ぼされた北周の皇后であると同時に、
北周を滅ぼした隋の建国者の実娘でもあった。
まとめ
楊麗華の生涯を特徴づけるのは、単なる「北周最後の皇后」という肩書ではなく、
宇文氏と楊氏という二つの皇室の間に立たされたことである。
宣帝・宇文贇の皇后としては夫の異例の後宮制度と激しい気性に直面し、
一度は死を命じられながら生き延びた。
宣帝・宇文贇の死後には皇太后となり、当初は幼い静帝を支えるため父・楊堅の輔政を受け入れたが、
その父が皇位を奪おうとしていることを知ると反発した。
それでも隋建国後に父から処罰されることはなく、
楽平公主として遇され、再婚を拒みながら一人娘・宇文娥英の将来を案じて生きた。
史書に残る楊麗華は、父の建国を全面的に支持した人物でも、最初から父と敵対した人物でもない。
北周皇后としての立場、楊堅の娘としての立場、
そして宇文娥英の母としての立場が時代の変化によって重なり合っている。
北周から隋への王朝交代を皇室内部から経験した人物として、
その生涯そのものが南北朝末期から隋初へ移る政治状況を映している。
史書・参考文献
・『周書』巻9「皇后伝・宣帝楊皇后」
・『北史』巻14「后妃伝下・宣皇帝楊皇后」
・『隋書』巻37「李穆伝附李敏伝」
・『資治通鑑』巻173~175(北周末・隋建国前後)
・『資治通鑑』隋紀(文帝・煬帝期)
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