李輔国(704–762)は、唐玄宗末期〜粛宗・代宗期に権勢をふるった宦官で、
粛宗を霊武で即位させた立役者であり、唐代で初めて宰相級の権力を持った宦官である。
※李輔国任じられ中書令 は本来、宰相職の一つであるが、
宦官は原則として正式な宰相になれないという慣例があったため、
制度上の正式宰相ではない。
その一方で、玄宗(太上皇)を圧迫し、皇太子派を排除し、
最終的には代宗により暗殺されるという劇的な生涯を送った。
出自と宦官入り
高力士の下働きとして宮中入り
もともと身分の低い家の出身であった。
若い頃に去勢され、高力士の僕役として宮中に入った。
李輔国は、頭の回転が速く、人の心を読むのがうまい、
といった能力を持っていたとされている。
↓↓玄宗の最側近・高力士についての個別記事は、こちら

40歳を過ぎて太子・李亨(後の粛宗)に仕える
閑厩(皇室の馬を管理する部署)を掌握し、
太子・李亨の側近として仕えるようになる。
この人事が後の大出世の基盤となった。
安史の乱:太子を霊武で即位させた“影の立役者”
馬嵬坡で太子に「楊国忠の排除」を進言
755年、安史の乱が勃発し、玄宗は蜀へ逃亡。
李輔国は太子に随行し、馬嵬駅で太子に 「楊国忠を排除すべき」と進言した。
これは太子の独自行動を後押しする重要な助言だった。
霊武での即位を強く推す
李輔国は玄宗と別行動を取っていた太子に対し、
「民心を安定させるため、霊武で即位すべき」 と強く主張した。
756年、太子は霊武で即位し粛宗となる。
李輔国はこの功績により、元帥府行軍司馬に任命され、兵権を掌握した。
粛宗期:権力の絶頂と玄宗への圧迫
粛宗は李輔国を深く信頼し、 開府儀同三司に任じ、郕国公に封じた。
「宮廷政治」「人事」などに大きな影響力を持つだけでなく、
「軍政」の多くも李輔国の手に委ねられた。
玄宗と楊貴妃の時代の終わり
安史の乱終結後、蜀へ逃れていた玄宗が長安に戻ると、
李輔国は玄宗の復権を恐れ、玄宗を西内太極宮へ移動させるよう強要した。
さらに玄宗の側近であった高力士らを免官し、 太上皇の影響力を徹底的に削いだ。
粛宗末期:張皇后との権力闘争と“宮廷クーデター”
皇后殺害事件
粛宗の皇后・張皇后は宮廷で大きな権力を持っていたが、李輔国と対立するようになる。
粛宗が病に倒れると、張皇后は太子・李豫(後の代宗)を排除し、
越王・李係を皇位につけようと画策した。
李輔国はこの陰謀を察知し、太子・李豫を即位させ、張皇后と越王を殺害した。
これにより、李輔国は皇位継承を左右する絶対的権力者となった。
皇帝をも恐れぬ権力
762年、唐粛宗が死去すると、代宗が即位した。
代宗は李輔国の功績を認め、 司空兼中書令(宰相)に任じ、
さらに“尚父”(父のように尊ぶ存在)とまで呼んだ。
李輔国は宦官でありながら
・宰相以上の影響力
・皇帝への直接発言権
を持つようになり、宮廷では「宦官が国を動かしている」と言われるほどであった。
李輔国の最期
しかし専横が極まり、代宗の不興を買うことになる。
李輔国は官僚を監視する部署「察事庁子」を設置し、 政務を完全に掌握した。
代宗は李輔国の権力を警戒し、次第に彼を遠ざけた。
その後、李輔国は自宅で刺客に襲われて殺害された。
死後、太傅を追贈されたが、権勢は完全に消えた。
史書は犯人を明記していないが、多くの歴史家は、
皇帝側の命令だった可能性が高いと考えている。
当時禁軍を掌握していた宦官・程元振の関与が指摘されている。
↓↓流罪後、女装して密かに長安へ戻った・程元振についての個別記事は、こちら

まとめ
李輔国の権力は非常に強く、
・皇帝粛宗を補佐
・玄宗を幽閉
・張皇后を処刑
・軍の指揮に関与
などを行い、当時の人々は
「天下の事、皆決於輔国」
(天下の政務はすべて輔国が決める)
とまで言っている。
史書・参考文献
・『旧唐書』宦官伝
・『新唐書』宦官伝
・『資治通鑑』
・氣賀澤保規『隋唐帝国史』
・宮崎市定『中国史』

