李輔国(704~762)は、唐の玄宗・粛宗・代宗の時代に活動した宦官である。
本名は李静忠といい、もとは宮中で馬の管理に携わる下級の宦官だったが、
皇太子・李亨に仕えたことからその地位を高め、
安史の乱では李亨に従って玄宗と別れ、霊武での即位を勧めた。
李亨が粛宗として即位すると腹心として重用され、
四方から届く奏章や軍事上の符節、宮中の印璽などを委ねられた。
長安回復後にはさらに権力を拡大し、
宰相や高官が皇帝への謁見を求める際にも李輔国を介するほどになった。
官吏を監視する察事庁子を置き、訴訟や官僚の処分にも介入する一方、
太上皇となった玄宗を興慶宮から西内へ移し、高力士ら玄宗の側近を排除したことでも知られる。
粛宗晩年には張皇后と対立し、程元振とともに兵を動かして皇太子・李豫を確保した。
李豫が代宗として即位すると司空兼中書令となり、「尚父」と呼ばれるまでに地位を高めたが、
代宗はその権力を警戒して次第に実権を奪い、李輔国は762年に自宅で殺害された。
李輔国は、唐代の宦官が皇帝の身辺に仕えるだけでなく、
政治や皇位継承、宮廷内の軍事力に深く関与するようになっていく過程を考えるうえで
重要な人物である。
李輔国の出自と皇太子・李亨への接近
本名は李静忠
李輔国は704年に生まれ、本名を李静忠といった。
『旧唐書』は「閑厩馬家小児」、『新唐書』は「閹奴為閑厩小児」と記しており、
若くして去勢されて宦官となった。
容貌は醜かったとされる一方、文字や計算については一通りの知識を持っていたという。
当初は玄宗の側近として大きな影響力を持っていた高力士に仕えたが、
この頃の李静忠には目立った官歴はなく、
四十歳を過ぎてから宮中の厩舎に関する帳簿を担当するようになった。
若年のうちから玄宗の信任を得て昇進した高力士とは異なり、
李静忠が政治の中枢に近づくのは比較的遅かった。
↓↓玄宗の最側近宦官・高力士についての個別記事は、こちら

馬の管理を通じて東宮に入る
天宝年間、李静忠は閑厩で馬の飼料となる穀物などの管理を担当した。
『新唐書』によれば、物資の損耗や不正をよく調べたため馬の状態が改善され、
その能力を評価した王鉷の推薦によって皇太子・李亨の東宮に仕えることになった。
『旧唐書』も、閑厩使が李静忠の「畜牧之能」を評価して東宮へ推薦したと記している。
ここで仕えることになった李亨が、後の粛宗である。
李静忠は以後、李亨の側近として行動するようになり、
安史の乱が発生すると皇太子に従って長安を離れた。
安史の乱と粛宗の即位
馬嵬で玄宗とともに長安を離れる
天宝十四載(755)、范陽節度使の安禄山が反乱を起こし、安史の乱が始まった。
翌756年には潼関が破られ、玄宗は長安を離れて蜀へ向かった。
皇太子・李亨もこれに同行し、李静忠も皇太子に従った。
一行が馬嵬駅に到着すると、陳玄礼らの軍兵が楊国忠を殺害し、
玄宗は楊貴妃にも死を命じることを余儀なくされた。
『新唐書』は李輔国について「陳玄礼等誅楊国忠、輔国豫謀」と記しており、
楊国忠殺害の計画に関与していたとしている。
ただし、李静忠が単独で皇太子に楊国忠殺害を進言し、馬嵬の政変を主導したとする記述ではない。
李静忠の役割として史書が明確に記しているのは、
その後に皇太子へ玄宗とは別の行動を取るよう勧めたことである。
↓↓馬嵬の悲劇・楊貴妃についての個別記事は、こちら

皇太子に北上を勧める
馬嵬を出た後、玄宗は蜀へ向かおうとしたが、皇太子・李亨は玄宗と別れて北へ向かうことになった。
『旧唐書』によれば、李静忠は皇太子に対し、
玄宗の麾下にある兵の一部を率いて北の朔方へ向かい、唐朝の回復を図るよう進言した。
『新唐書』にも、朔方へ向かって河西・隴右方面の兵を集めるよう勧めたことが記されている。
当時の朔方には安禄山の反乱軍に対抗できる唐軍の有力な軍事基盤が残されていた。
皇太子は北上を続け、やがて霊武へ到着した。
霊武で即位を勧める
霊武に到着すると、李静忠は皇太子に皇帝として即位するよう勧めた。
『旧唐書』は「勧太子即帝位、以繋人心」と記しており、
反乱によって混乱する人心をまとめることが即位の理由として挙げられている。
至徳元載(756)、李亨は霊武で即位した。粛宗である。
蜀へ向かっていた玄宗は事後にこれを認め、太上皇となった。
粛宗即位後、李静忠は太子家令となり、元帥府行軍司馬の職務を担当した。
粛宗は李静忠を腹心として用い、「護国」の名を与え、その後さらに「輔国」と改名させた。
元帥府行軍司馬への任命をもって李輔国が直ちに唐軍全体の兵権を掌握したとするのは適切ではない。『旧唐書』も後の宦官政治について、
李輔国や程元振の段階では宦官がまだ兵権を全面的に握ってはいなかったとしている。
↓↓李輔国の部下から出発し、最終的に調停を支配した宦官・程元振についての個別記事は、こちら

粛宗の側近として権力を拡大する
奏章・軍符・印璽を任される
粛宗の即位後、李輔国には皇帝の側近として重要な職務が集中した。
『新唐書』は「凡四方章奏、軍符、禁宝一委之」と記し、
各地から届く奏章、軍事に用いる符節、宮中の印璽などが李輔国に委ねられたとしている。
李輔国は細かな事務を慎重に処理することで粛宗の信任を得た。
また肉食をせず、時には僧侶のように振る舞い、念珠を手にすることもあったため、
当初は温厚な人物と思われ、周囲から強く警戒されなかったという。
長安が回復されて粛宗が帰還すると、李輔国は殿中監となり、
閑厩・五坊・宮苑・営田など宮廷に関係する多数の職務を兼ねた。
至徳二載(757)十二月には開府儀同三司を加えられ、郕国公に封じられ、実封五百戸を与えられた。
皇帝への取次を支配する
長安帰還後、李輔国の影響力は官僚機構にも及んだ。
宰相や群臣が通常の朝議以外で粛宗への謁見を求める場合、
李輔国を通じて許可を求めなければならなくなった。
李輔国は銀台門で政務を処理し、皇帝に届けられる情報と、皇帝から出される命令の双方に関与した。『新唐書』によれば、詔書も李輔国が署名してから施行されるようになり、
群臣はこれに異議を唱えられなかったという。
外出時には三百人の武装した護衛を従えた。
高官たちも李輔国を官名で直接呼ぶことを避けて「五郎」と呼び、
宰相の李揆は子や甥のような態度で仕えて「五父」と呼んだと伝えられる。
粛宗は元擢の娘を李輔国の妻とし、元擢本人を梁州長史に任じた。
その兄弟も中央官庁で官職を得ており、李輔国の地位はその姻族にも影響を及ぼした。
察事庁子を置いて官僚を監視する
李輔国は「察事庁子」と呼ばれる者を数十人置き、官吏の行動を監視させた。
『新唐書』によれば、官吏にわずかな過失があっても調査し、捕縛や取り調べを行わせたという。
その介入は中央官僚の監視だけにとどまらず、
州県の訴訟や三司による審理、官僚の逮捕・流刑・降格などにも及んだ。
李輔国が独断で処分を決め、それを皇帝の命令であるかのように扱いながら、
実際には粛宗へ報告していない場合もあったと『新唐書』は記している。
こうした状況を問題視した宰相の李峴は、
中書省を経ていない命令について改めて審査するよう求め、李輔国の独断を抑えようとした。
このため李輔国は李峴を恨み、両者は対立するようになった。
玄宗を興慶宮から西内へ移す
太上皇となった玄宗
長安が回復された後、玄宗も蜀から帰還した。
皇帝の地位はすでに粛宗へ移っており、玄宗は太上皇として興慶宮で生活した。
玄宗の周囲には高力士、陳玄礼、王承恩ら長年仕えてきた側近がおり、
玉真公主なども出入りしていた。
玄宗自身が政権を奪い返そうとしていたことを示す明確な記録はないが、
李輔国は玄宗とその周辺を警戒した。
『新唐書』によれば、高力士らはかつて身分の低かった李輔国を軽く扱っていたため、
李輔国は彼らを恨んでいたという。
李輔国は粛宗に対し、玄宗の周囲にいる者たちが不穏な動きをしていると訴え、
玄宗を宮城内の西内へ移すことを求めた。
しかし粛宗は当初、これを認めなかった。
玄宗の馬を減らす
李輔国は玄宗の周囲にある人員や物資を削減していった。
玄宗が所有していた馬についても、皇帝の命令であるとして大部分を移し、わずかな数だけを残した。
玄宗はこの措置について高力士と語り、
粛宗が李輔国に惑わされていることを嘆いたと伝えられている。
上元元年(760)、粛宗が病気になると、李輔国は玄宗を興慶宮から西内へ移す行動に出た。
高力士が李輔国を叱責する
玄宗が移動する途中、李輔国は多数の騎兵を率いて現れた。
『新唐書』によれば、その数は五百騎で、兵士たちは武器を手に玄宗の前に立ったため、
玄宗は驚いて馬から落ちそうになったという。
このとき李輔国を叱責したのが高力士だった。
高力士は李輔国に馬から降りるよう命じ、さらに兵士たちに対して太上皇への礼を取るよう求めた。
兵士たちは武器を収めて玄宗に拝礼し、高力士は李輔国自身に玄宗の馬の手綱を取らせた。
玄宗はそのまま西内の甘露殿へ移された。
『新唐書』では、玄宗が高力士の手を取り、
高力士がいなければ自分は兵士に殺されていただろうと語ったとされる。
高力士らを玄宗から引き離す
玄宗の移転後、李輔国はその側近たちも排除した。
高力士は巫州へ流され、王承恩らも地方へ追放された。
陳玄礼も官を退き、玉真公主も玄宗のもとを離れた。
現在の記事ではこれを「玄宗の復権を恐れたため」としているが、
史書は李輔国が玄宗周辺の者を警戒したことや、高力士らとの私的な対立を記している一方、
玄宗が実際に復位を計画していたとは記していない。
そのため、玄宗の復権計画を李輔国が阻止したという形で説明するのは避けた方がよい。
張皇后との対立と粛宗の死
張皇后と李輔国の関係が悪化する
粛宗の皇后である張皇后も、粛宗の治世後半には宮廷内で大きな影響力を持っていた。
当初は李輔国と協力していたが、やがて両者の関係は悪化した。
宝応元年(762)、粛宗の病状が重くなると、
張皇后は皇太子・李豫を呼び、李輔国と程元振を排除するために協力するよう求めた。
しかし皇太子は、病床にある粛宗を驚かせることになるとして同意しなかった。
越王李係と李輔国排除を図る
皇太子の協力を得られなかった張皇后は、
粛宗の次男である越王・李係に李輔国排除の計画を持ちかけた。
李係はこれに同意し、宮中の宦官らを集めて武装させた。
この動きを知った程元振は李輔国に報告した。
李輔国と程元振は兵を動かし、皇太子が張皇后側に拘束されることを防ぐため、
皇太子を確保して禁軍のもとへ移した。
その後、李輔国らは宮中に入り、越王李係とその一派を捕らえ、張皇后も拘束した。
現在の記事では、
張皇后が「太子・李豫を排除し、越王・李係を皇位につけようと画策した」としているが、
この説明では経緯が省略されすぎている。
張皇后はまず皇太子自身に李輔国・程元振の排除を持ちかけており、
皇太子が拒否した後に李係と行動を共にした。
粛宗の死と代宗即位
宮中でこの政変が進行していた頃、粛宗は病床にあった。
やがて粛宗が崩御すると、皇太子・李豫が即位した。代宗である。
張皇后と越王李係らは殺害された。
李輔国は代宗の即位を支えたことで、新しい皇帝のもとでも高い地位を保つことになった。
しかし張皇后を排除した李輔国が自ら皇帝を選んで代宗を即位させたというより、
すでに皇太子だった李豫を確保し、その即位を実現させたとする方が実態に近い。
代宗即位後に中書令となる
代宗に政務を任せるよう求める
代宗が即位すると、李輔国は新帝に対しても従来の権力を維持しようとした。
『資治通鑑』には、李輔国が代宗に対して
「大家但居禁中、外事聴老奴処分」と述べたことが記されている。
皇帝は宮中におり、外部の政務は自分に任せるよう求めたという意味である。
代宗はこの言葉に不快感を抱いたが、李輔国が宮廷内で大きな影響力を持っていたため、
ただちに排除することはせず、表面上は厚遇した。
李輔国には「尚父」の称号が与えられ、代宗は李輔国を名前で呼ばないほどの待遇を示した。
司空兼中書令に任じられる
宝応元年(762)五月、李輔国は司空兼中書令に任じられた。
中書令は唐の中央政府における宰相職の一つである。
このため李輔国について単に「宰相級の権力を持った」とするより、
中書令そのものに任じられたと説明する方が正確である。
唐では太宗以来、宦官の官位を抑える方針が取られていたが、
安史の乱を経て李輔国は中央官制上でも極めて高い地位に到達した。
しかし代宗が李輔国を厚遇したのは、全面的に信頼していたためではなかった。
代宗による権力剥奪
程元振が台頭する
李輔国とともに張皇后側を排除した程元振は、代宗の即位後に新たな側近として台頭した。
代宗は程元振らを用いながら、李輔国が握っていた権限を徐々に切り離した。
李輔国は元帥府行軍司馬や兵部尚書などの職を解かれ、宮中から外の邸宅へ移された。
長期間にわたって李輔国の専横に苦しめられていた人々は、
その失脚を知って喜んだと史書は伝えている。
代宗は李輔国を博陸王に封じ、司空や尚父といった名誉的な待遇は残したが、
政治上の実権は奪っていった。
中書令を解任される
やがて李輔国は中書令からも解任された。
『新唐書』によれば、李輔国は中書令を罷免された後、
謝意を表す文書を作成するため中書省へ入ろうとしたが、
門吏から、すでに宰相ではないため正門から入ることはできないと告げられた。
李輔国はこれを受け、自分は先帝である粛宗には仕えることができたが、
今の皇帝には十分に仕えることができなかったとして、
地下で先帝に仕えたいという趣旨の言葉を述べたとされる。
李輔国の暗殺
自宅で殺害される
宝応元年(762)十月、李輔国の邸宅に何者かが侵入し、李輔国を殺害した。享年五十九。
『旧唐書』では、夜に「盗」が邸宅へ入り、李輔国の首を斬り、
右腕を切り取って持ち去ったと記されている。
一方、『新唐書』は代宗が公然と処刑することを避け、刺客を送って李輔国を殺害させたとしている。
したがって、李輔国の死については史書間で記述に違いがある。
代宗が李輔国の権力を削っていた経緯から、
皇帝側による暗殺とする『新唐書』の記述は一連の政治状況とは整合するが、
『旧唐書』は代宗の命令とは明記していない。
木製の首を作って埋葬する
李輔国を殺害した者は首を持ち去ったため、遺体には首が残されていなかった。
朝廷は木を彫って首を作り、それを遺体とともに埋葬した。死後には太傅を追贈された。
『新唐書』では諡を「醜」としたことも記されている。
李輔国と唐代の宦官政治
唐では李輔国以前にも、皇帝の近くで政治的な影響力を持った宦官は存在した。
玄宗に長く仕えた高力士はその代表であり、奏事の取次や人事などにも影響を及ぼした。
李輔国の場合、その活動はさらに広い範囲に及んだ。
粛宗への奏章や軍符、宮中の印璽を扱い、官僚が皇帝に会うための経路を押さえ、
察事庁子を通じて官僚を監視した。
玄宗を興慶宮から移して高力士らを排除し、
粛宗の死を前にした宮廷政変では程元振とともに兵を動かし、
代宗の即位後には司空兼中書令にまで任じられている。
一方で、李輔国の時代に唐後期の宦官による軍事支配が完成したとみるのは適切ではない。
『旧唐書』「宦官伝」は、李輔国や程元振が国政に干渉したことを認めながらも、
この段階では「亦未全握兵権」と記している。
宦官による神策軍の支配が制度的に強まるのは徳宗期以降であり、
その後には宦官が皇帝の廃立にまで深く関与する状況が生まれていった。
そのため李輔国は、唐代の宦官政治を完成させた人物というより、
安史の乱を契機として宦官が皇帝の側近から中央政治へ進出していく過程を代表する人物の一人
と位置づけられる。
李輔国の人物評
『旧唐書』『新唐書』に記された李輔国の経歴を見ると、
その権力の基礎には粛宗個人からの信任があったことが分かる。
李輔国は四十歳を過ぎるまで厩舎の帳簿などを扱っていたが、
皇太子・李亨に仕え、安史の乱に際して北上と霊武での即位を勧めたことで、粛宗の腹心となった。
その後、奏章や軍符、印璽などを委ねられたことで、
皇帝と官僚の間を結ぶ情報経路に強い影響力を持つようになった。
さらに察事庁子による監視、司法や官僚処分への介入、玄宗とその側近への圧迫などを通じて、
その権力は粛宗の身辺を越えて広がった。
宰相や高官が李輔国を介して皇帝への謁見を求め、「五父」とまで呼んだという記録は、
その影響力の大きさを示している。
しかし李輔国の権力は、独立した政治制度や官僚集団を基盤としたものではなく、
皇帝との近さや宮廷内部での影響力に大きく依存していた。
粛宗が死去し、代宗が程元振らを利用して李輔国の権限を切り離すと、その地位は短期間で失われた。
李輔国の経歴は、安史の乱後に唐の政治構造が変化し、
宦官が皇帝の側近という立場を利用して中央政治へ深く関与するようになったことを示す事例である。
その後の唐では宦官による禁軍支配がさらに強まり、皇位継承にも大きな影響を及ぼすようになるが、
李輔国の活動はその前段階に位置している。
まとめ
李輔国は704年に生まれ、本名を李静忠といった。
若くして宦官となり、高力士に仕えた後、四十歳を過ぎて皇太子・李亨の東宮に入った。
安史の乱が起こると皇太子に従い、馬嵬を経て玄宗と別れ、朔方へ向かうことを進言した。
さらに霊武では李亨に即位を勧め、粛宗の成立に関与した。
この功績と長年の側近関係によって粛宗から重用され、奏章、軍符、印璽などを委ねられ、
長安回復後には官僚が皇帝へ接触する経路にも強い影響力を持つようになった。
李輔国は察事庁子を置いて官吏を監視し、司法や人事にも介入した。
また太上皇となった玄宗を興慶宮から西内へ移し、高力士らをその周囲から排除した。
粛宗晩年には張皇后と対立し、程元振とともに皇太子・李豫を確保して張皇后側を制圧した。
代宗即位後には司空兼中書令となり、「尚父」と呼ばれたが、
代宗は李輔国の権力を警戒し、程元振らを用いてその実権を奪った。
762年、李輔国は自宅で殺害された。
『旧唐書』は侵入した「盗」に殺されたとし、『新唐書』は代宗が刺客を送ったと記している。
李輔国の時代には、宦官による禁軍支配はまだ後世ほど制度化されていなかった。
しかし、皇帝への情報経路を掌握し、官僚の監視や政務に介入し、
太上皇の処遇や皇位継承をめぐる宮廷政治にも関与した点で、
唐代における宦官権力の拡大を示す重要な人物である。
史書・参考文献
・『旧唐書』巻184「宦官伝・李輔国」
・『新唐書』巻208「宦者伝下・李輔国」
・『資治通鑑』巻218~222
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