江京(こうけい、生年不詳-125年)は、後漢の安帝に仕えた宦官である。
小黄門から中常侍へ進み、さらに皇后宮を統轄する大長秋を兼ね、
安帝の乳母・王聖、中常侍の樊豊、皇后の兄・閻顕らとともに宮廷政治へ深く関与した。
江京の名が後漢史上に大きく残るのは、安帝の皇太子・劉保の廃位に直接関与したためである。
皇太子の乳母らを死に追いやったのち、報復を恐れて劉保自身を讒言し、済陰王へ降格させた。
安帝の死後には閻皇后・閻顕らが北郷侯劉懿を皇帝に立てる政権に加わり、
劉懿が死ぬと再び劉保を排除して別の皇族を擁立しようとした。
しかし延光4年(125)、中黄門の孫程らが宮中で決起し、江京は劉安・陳達とともに斬殺された。
江京によって皇太子の地位を奪われた劉保は、その直後に順帝として即位する。
『後漢書』は江京を、安帝末期に乳母・外戚・宦官が結びついて権力を振るった
政治状況を象徴する人物の一人として記録している。
小黄門から安帝側近へ
江京の出身地・家系・生年について、『後漢書』は記していない。
史料上に現れる江京はすでに宦官であり、小黄門として宮廷に仕えている。
江京の初期経歴で重要なのが、安帝即位時の功績である。
『後漢書』宦者列伝によれば、江京は安帝を「邸」から迎えた功績を持っていた。
安帝劉祜は和帝の兄・清河孝王劉慶の子で、延平元年(106)に殤帝が幼くして死ぬと、
鄧太后によって皇帝に迎えられた。
江京はこの即位過程で安帝を迎えた人物の一人だったとみられる。
ただし、鄧太后が存命中は安帝が実際の政務を主導することはできなかった。
鄧太后は和帝の死後に臨朝称制を続け、殤帝、ついで安帝を補佐して政権を掌握していたためである。
安帝の周囲では、長く実権を持てない皇帝の不満を利用する勢力が形成されていった。
その中心となったのが安帝の乳母・王聖と宦官の李閏である。
二人は、鄧太后の兄弟が安帝を廃して平原王を皇帝にしようとしていると安帝に吹き込んだ。
安帝はこれを恐れ、鄧太后への不信を募らせた。
鄧太后の死後に中常侍・大長秋へ
建光元年(121)3月、鄧太后が死去すると、安帝はようやく親政を開始した。
それと同時に、鄧氏に対する大規模な報復が始まった。
『後漢書』鄧騭伝では、鄧太后に処罰されたことを恨んでいた宮人の告発と、
王聖・李閏らによる以前からの讒言が鄧氏粛清の直接的な背景として記されている。
鄧騭の兄弟や一族は免官・爵位剥奪・流刑などに処され、
鄧騭自身も子の鄧鳳とともに絶食して死んだ。
平原王も爵位を落とされた。
江京をこの粛清の首謀者とすることはできない。
一方、この時期に江京が急速に出世したことは確かである。
安帝を邸宅から迎えた過去の功績によって都郷侯に封じられ、食邑三百戸を与えられた。
さらに李閏とともに中常侍となり、江京は大長秋を兼任した。
大長秋は皇后宮を統轄する高位の官で、後漢では宦官が任じられるようになっていた。
江京は単なる宮中の使役者ではなく、
皇帝・皇后の近くに出入りしながら大きな政治的影響力を持ち得る地位に達したのである。
王聖・樊豊・閻顕らとの宮廷派閥
鄧氏が失脚した後、安帝の周囲では新たな権力集団が形成された。
『後漢書』宦者列伝は、中常侍となった李閏・江京のほか、
中常侍の樊豊、黄門令の劉安、鉤盾令の陳達、安帝の乳母・王聖とその娘らが内外を扇動し、
「競って奢侈と暴虐を行った」と厳しく記している。
さらに安帝の母方の一族では大将軍耿宝、皇后閻姫の一族では兄の閻顕らが権力を握り、
これらの勢力は互いに結びついた。
安帝末期の政治は、単純に「宦官対外戚」という構図ではない。
宦官、皇帝の乳母、その家族、皇后の外戚、皇帝自身の外戚が結合し、
宮廷内部に一つの権力網を形成していた。
江京はその中核の一人だった。
太尉・楊震の失脚
この宮廷勢力と対立した代表的人物が太尉の楊震である。
楊震は安帝期を代表する名臣で、樊豊ら宦官や王聖周辺の専横を批判した。
しかし延光3年(124)、樊豊、大将軍耿宝、侍中周広・謝惲らによって讒言され、太尉を免じられた。
楊震は帰郷を命じられる途中で自殺した。
『後漢書』宦者列伝は江京らの勢力について「遂に枉げて太尉楊震を殺し」と総括している。
ただし楊震を直接讒言した人物として各伝に名が挙がるのは樊豊・耿宝らであり、
江京個人が楊震失脚を主導したと断定するのは避けるべきである。
江京は、楊震を排除した宮廷権力集団の一角を占めていたと見るのが適切である。
皇太子劉保を廃位へ追い込む
江京の政治活動について、最も具体的に確認できる事件が皇太子劉保の廃位である。
劉保は安帝の皇子で、生母は宮人の李氏だった。
しかし閻皇后には男子がなく、李氏が劉保を産むと、
嫉妬した閻皇后によって毒殺されたと『後漢書』は記している。
劉保自身は永寧元年(120)に皇太子となった。
皇太子の乳母・王男と邴吉の死
延光3年(124)、皇太子が病を患い、安帝の乳母・王聖の邸宅へ移ることになった。
このとき皇太子の乳母・王男と厨監の邴吉は、
王聖の邸宅が新たに修築されたばかりで「土禁」に触れるとして、
皇太子を長く滞在させることに反対した。
これをきっかけに王聖側と王男・邴吉の間に対立が生じた。
王聖とその娘は江京・樊豊らと結び、王男と邴吉を讒言した。
二人は投獄され、そのまま死亡し、家族も遠方へ移された。
劉保は自分を育てた者たちの死を悲しみ、たびたび嘆息したという。
江京と樊豊にとって、これが新たな不安となった。
皇太子が即位すれば、王男・邴吉を死に追いやった自分たちが報復される可能性があったからである。
報復を恐れて皇太子そのものを攻撃
江京と樊豊らは、今度は皇太子自身と東宮の官僚を攻撃した。
『後漢書』来歴伝は、彼らが「虚無を妄造」して皇太子と東宮官属を讒言したと記している。
安帝は怒り、公卿を集めて皇太子を廃するかどうか議論させた。
来歴らは皇太子に明白な罪がないとして廃位に反対したが、安帝は聞き入れなかった。
延光3年9月、劉保は皇太子を廃され、済陰王へ降格された。
『後漢書』順帝紀も、王聖らが後日の禍を恐れ、
樊豊・江京とともに皇太子を陥れた結果であったことを明記している。
ここは江京が皇太子廃位に直接関与したと明確にいえる部分である。
劉保には生母を閻皇后に殺されたという事情もあり、
閻氏にとってもその即位は望ましくなかった。
江京らの自己保身と閻皇后側の利害が一致し、
安帝唯一の皇子であった劉保が皇位継承から排除される結果となった。
安帝の死と北郷侯劉懿の即位
延光4年(125)2月、安帝は南巡に出発した。
3月、葉県に至ったところで病状が悪化し、乗輿の中で32歳で死去した。
安帝の死はすぐには公表されなかった。
遺体を乗せた車を走らせながら、表向きには皇帝が重病であるかのように装い、
通常どおり食事を運び、起居を尋ねる儀礼まで続けた。
4日かけて洛陽へ戻った後、ようやく喪が発せられた。
閻皇后・閻顕兄弟と江京・樊豊らが協議して行った宮廷側の措置である。
『後漢書』閻皇后紀には、
彼らが「済陰王が宮中にいる以上、公卿がこれを皇帝に立てれば自分たちに大きな禍が及ぶ」
と恐れたことが記されている。
つまり秘匿の背景には、劉保即位を阻止する意図があった。
劉保ではなく北郷侯を皇帝に立てる
安帝の死後、閻皇后は皇太后となって臨朝し、兄の閻顕を車騎将軍として政権を握った。
皇位を継いだのは安帝の実子である劉保ではなかった。
閻太后らは章帝の孫にあたる済北恵王劉寿の子・北郷侯劉懿を選び、皇帝として即位させた。
後世「少帝」と呼ばれる人物である。
また劉懿の擁立を主導したのは皇太后となった閻氏と閻顕らである。
ただし江京が劉保排除に強く関与し、その後も閻氏政権に参加したことは確かであり、
劉懿擁立へ至る政治過程の重要人物ではあった。
閻顕政権に残った江京
北郷侯劉懿が即位すると、閻顕兄弟は朝廷でさらに権力を強めた。
しかし、それまで安帝のもとで結びついていた勢力はここで分裂する。
閻顕らは権力争いの相手となり得る者を排除し、
樊豊を処刑し、大将軍耿宝を失脚させて自殺へ追い込み、王聖とその娘を雁門へ流した。
安帝末期に江京とともに権力を振るっていた集団は、
安帝の死後そのまま一枚岩で存続したわけではなかった。
江京はこの粛清を生き残り、閻顕政権側に残った。
後には中常侍に加えて長楽太僕の職にあったことが、順帝即位後の詔から確認できる。
少帝の病と再び劉保を排除する計画
即位から二百余日後、北郷侯劉懿は重病となった。
このとき江京は閻顕と密かに相談し、今後の皇位継承を早く決めるべきだと持ちかけた。
『後漢書』閻皇后紀によれば、江京は、以前に済陰王劉保を皇帝にしなかった以上、
今さら劉保を即位させれば必ず自分たちを恨むだろうと指摘し、
別の諸王の子を早く呼び寄せて後継者を選ぶよう勧めた。
これは江京の行動原理をよく示している。
一度は皇太子廃位に加担し、その結果として劉保からの報復を恐れ、
今度は劉保の皇位継承そのものを阻止し続けなければならなくなっていたのである。
閻顕も江京の意見に同意した。
延光4年10月、劉懿が死去した。
しかし閻顕・江京らはただちに喪を発表せず、
閻太后に諸王の子を呼び寄せて新たな皇帝を選ばせようとした。
宮門を閉ざして兵を配置し、劉保を再び皇位から排除する準備を進めた。
孫程らの宮中クーデターと江京の死
江京らの計画に対し、宮中の別の宦官たちが動いた。
中心となったのは中黄門の孫程である。
孫程は済陰王劉保の謁者長・興渠に対し、劉保は正統な皇位継承者であり、
もともと徳を失って廃されたのではなく、先帝が讒言を信じたために廃位されたのだと語った。
そして北郷侯が助からないなら、江京と閻顕を排除して劉保を迎えるべきだと持ちかけた。
かつて太子府史だった中黄門の王康も、劉保廃位以来これを嘆いており、
長楽太官丞の王国らも計画に加わった。
↓↓皇太子劉保(順帝)を復位させた孫程についての個別記事は、こちら

十九人の宦官が決起
劉懿の死後、孫程は王康ら18人と西鐘の下に集まり、決起を誓った。
延光4年11月4日の夜、孫程らは崇徳殿に集まった後、章台門へ突入した。
このとき省門の下には江京、黄門令劉安、李閏、鉤盾令陳達らがいた。
孫程と王康は江京・劉安・陳達をその場で斬殺した。
李閏については、長年宮中で権勢を持ち、多くの者が従っていたため殺さず、
剣を突きつけて劉保擁立に協力させた。
孫程らはそのまま西鐘の下へ向かい、済陰王劉保を迎えて皇帝に立てた。
これが後漢第8代皇帝・順帝である。
閻顕兄弟も誅殺される
江京らを斬っただけでは政変は終わらなかった。
閻顕兄弟は兵を動かして抵抗し、宮中では武力衝突が起きた。
閻顕の弟・閻景は尚書郭鎮らと戦って捕らえられ、閻顕、閻耀、閻晏も逮捕されて処刑された。
こうして江京が最終的に依拠していた閻氏政権も崩壊した。
順帝は即位後の詔で、江京、劉安、陳達と閻顕兄弟について「謀議悪逆、傾乱天下」と非難した。
一方、孫程ら19人は王室を安定させた功績によって全員が侯に封じられ、
後世「十九侯」と呼ばれることになる。
さらに順帝は、かつて自分を皇太子から済陰王へ落とした延光3年9月の詔書を回収するよう命じた。
江京らによる太子廃位を、事実上取り消す措置であった。
人物評・評価
『後漢書』における江京の評価は厳しい。
宦者列伝では、李閏・樊豊・劉安・陳達、安帝の乳母王聖らとともに権勢を振るい、
奢侈と暴虐を競った人物として描かれている。
なかでも江京自身の責任が明確なのは皇太子劉保の廃位であり、
王男・邴吉を死に追いやったことへの報復を恐れて劉保を讒言し、
安帝の死後もその即位を阻もうとした。
一方、江京を後漢における「悪宦官」の始祖や、
宦官政治を始めた人物と位置づけるのは適切ではない。
宦官の政治的台頭は江京以前から進んでおり、
和帝期には鄭衆が外戚竇憲の排除に功績を立てて重用されている。
江京は宦官政治を創始した人物というより、
安帝末期に宦官・乳母・外戚などの宮廷勢力が皇位継承にまで介入する状況のなかで権力を振るい、
その争いによって滅んだ人物と見る方が実態に近い。
↓↓外戚竇憲の排除の功績を立てた宦官・鄭衆についての個別記事は、こちら


まとめ
江京は安帝の小黄門として仕え、
安帝即位時に迎立へ関わった功績から都郷侯に封じられ、中常侍・大長秋へ昇進した。
鄧太后死後には王聖、樊豊、劉安、陳達、耿宝、閻顕らとともに安帝側近の権力集団を形成し、
宮廷政治へ深く介入した。
江京の政治活動で最も重大なのは、皇太子劉保の廃位である。
王聖らとともに皇太子の乳母・王男と邴吉を死に追いやり、
その報復を恐れて劉保自身を讒言し、済陰王へ降格させた。
安帝が死ぬと、江京は閻皇后・閻顕らの政権に加わり、劉保ではなく北郷侯劉懿の即位を支えた。
劉懿が死ぬと、江京は再び劉保の即位を阻止して別の皇族を迎えようとしたが、
中黄門孫程ら19人が決起し、江京・劉安・陳達は宮中で斬殺された。
江京が廃位へ追い込んだ劉保はその夜に順帝として即位し、閻顕兄弟もほどなく誅殺された。
『後漢書』における江京は、単独で朝廷を支配した宦官というより、
乳母・宦官・外戚が結びついた安帝末期の宮廷政治の中核に入り、
自己保身のため皇太子廃位と皇位継承への介入を重ねた人物として理解するのが適切である。
史書・参考文献
・范曄『後漢書』巻五「孝安帝紀」
・范曄『後漢書』巻六「孝順帝紀」
・范曄『後漢書』巻十下「皇后紀下・安思閻皇后」
・范曄『後漢書』巻十五「来歙・来歴伝」
・范曄『後漢書』巻十六「鄧禹・鄧騭伝」
・范曄『後漢書』巻五十四「楊震伝」
・范曄『後漢書』巻七十八「宦者列伝」
・袁宏『後漢紀』安帝紀
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