北斉とは?高氏家系図と狂王朝の実態

010.家系図

南北朝時代の北朝の国。首都は鄴(ぎょう)。
春秋戦国時代の斉や南朝の斉などと区別するために「北斉」、
又は帝室の姓を冠し「高斉」と呼ぶ。

魏晋南北朝は、王朝の分裂・推移が激しいため、以下略図にて補足する。

魏晋南北朝。王朝の分裂・推移図
王朝の分裂・推移図

北斉:略家系図

北斉高氏家系図(高歓から後主までの血統と皇位継承)
北斉高氏家系図

北斉(550–577):皇帝一覧

 廟号 諡号名前(諱)生年-没年
(没年齢)
在位ー退位
(年齢)
 在位期間 
 文宣帝 高洋こう・よう529-559
(30歳)
550ー559
(21歳)ー(30歳)
9年
廃帝高殷こう・いん545-561
(16歳)
559ー560
(14歳)ー(15歳)
約1年
孝昭帝高演こう・えん535-561
(26歳)
560ー561
(25歳)ー(26歳)
約1年
武成帝高湛こう・たん537-569
(32歳)
561ー565
(24歳)ー(28歳)
4年
後主高緯こう・い556-577
(21歳)
565ー577
(9歳)ー(21歳)
12年
幼主高恒こう・こう570-578
(8歳)
577ー577
(7歳)ー(7歳)
数か月

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建国者

北斉は実質的には、高歓(こう・かん)の軍閥から始まる。
ただし皇帝になったのは、息子の 高洋(文宣帝)

皇族同士の粛清合戦

北斉はとにかく身内殺しが多い。

 ・兄弟同士で殺害
 ・甥を廃して殺害
 ・皇族大量粛清
 ・宮廷内恐怖政治

結果、短命皇帝が連続。

①文宣帝 高洋|奇行が多く“狂帝”と評される

北斉のイメージを決定づけた人物。

 ・初期は有能
   ~政務に励み、富国強兵、勢力範囲拡大など
 ・後期は酒乱・暴虐・粛清
     ~処刑道具を常備
   ~宮殿の庭に死刑囚用の檻を作り、戯れで殺す
   ~死刑囚を高所から飛び下りさせ、その転落死を見て楽しむ
   ~寵妃を殺しその遺骨を使って琵琶を作らせる
 ・大量殺戮
   ~漢族や、北魏の旧皇族末裔や北魏時代の高官ら
 ・奢侈を極めて民衆生活を圧迫

②廃帝 高殷|幸か不幸か、父 文宣帝に似ず

 ・聡明で漢家の学問に通じた。
 ・父の①文宣帝には自分に似ていないとして疎まれた。
 ・父の①文宣帝が高殷に手ずから囚人を斬らせようとしたが、
  高殷は難色を示して斬らなかった。このことに激怒した①文宣帝が高殷を鞭打つと、
  高殷は吃音となり、精神にも障害を負った。

③孝昭帝 高演|文宣帝に託された高殷を殺害

 ・遊宴に溺れ残虐な行いを好んだ①文宣帝に対し、その暴虐を諌めていたという。
 ・前代までの弛緩した朝政の建て直しに尽力。
   ~人材を広く求める
   ~民衆に対しては税賦の軽減を図る
   ~庫莫奚への親征を行う
 ・①文宣帝から死の間際、以下のように言い残されたが、殺害した。
  「息子の高殷から帝位簒奪するのは仕方ないが、命は奪わないでくれ」
 ・のちに母の婁昭君は、孫の②高殷が息子の③孝昭帝によって殺害されたことを知ると、
  ③孝昭帝を強く非難した。

④武成帝 高湛|孝昭帝に託された高百年を殺害

 ・少年期から気高く優雅な美少年と称えられた。
 ・暴虐傾向あり。酒色に溺れる。
 ・皇后胡氏(胡皇后)のスキャンダルが有名。
 ・③孝昭帝 高演に託された子 高百年を殺害。

⑤後主 高緯|滅亡皇帝

 ・奸臣(和士開・高阿那肱・穆提婆など)を信任して国力を衰退させた。
   ~斛律光を粛清して、蘭陵王高長恭を自殺に追い込んでからは軍事力が衰退
 ・宮廷遊戯に没頭。    
   ~馮小憐などが有名
 ・577年、北周武帝に滅ぼされ、わずか27年で滅亡。
  高緯は捕らえられ、のち処刑。

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関連リンク

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