曹彪は、後漢末から三国時代にかけて生きた曹操の子である。字は朱虎。
曹魏では寿春侯から汝陽公、弋陽王、呉王、寿春県王、白馬王と封爵を移され、
最終的に楚王となった。
曹操の子の中では、曹丕や曹彰、曹植、曹沖ほど多くの逸話を残した人物ではない。
しかし『三国志』の本伝以外に目を向けると、曹植の「贈白馬王彪」、朱建平の人相占い、
王凌伝とその裴松之注などに曹彪の記録が散在している。
とりわけ晩年には、司馬懿が曹爽を排除して政権の主導権を握ったのち、
太尉王凌と兗州刺史令狐愚から新たな皇帝候補として擁立を企てられた。
令狐愚は曹彪に「智勇」があると聞き、使者を送って密かに意向を伝えている。
曹彪もその意図を察し、使者を介して返答した。
計画は実現しなかった。
嘉平三年(251)、王凌の計画が司馬懿に発覚すると、
曹彪も関係を追及され、皇帝曹芳の璽書によって自決を命じられた。
このとき曹彪は五十七歳だった。
それより数十年前、相術家の朱建平は若き曹彪を見て、
「藩国に拠ることになり、五十七歳で兵難に遭う」と予言していた。
『三国志』は、曹彪の最期をその予言が的中した事例として記録している。
- 曹操と孫姫の子として生まれる
- 朱建平が予言した「五十七歳の兵難」
- 寿春侯に封じられる
- 曹丕即位後に繰り返された改封
- 曹植・曹彰と洛陽へ朝見する
- 曹叡への朝見と楚王への改封
- 曹芳即位と司馬懿・曹爽の対立
- 王凌と令狐愚が曹彪擁立を計画する
- 「白馬素羈、西南馳」――曹彪を指すとされた童謡
- 令狐愚が張式を曹彪のもとへ送る
- 令狐愚の意図を察した曹彪
- 南斗に熒惑が留まる――王凌が見た天文現象
- 呉軍の動きを利用して兵を動かそうとする
- 司馬懿が王凌討伐へ向かう
- 王凌の自殺と関係者への処分
- 曹彪の封国へ調査官が派遣される
- 「燕王旦の故事」――皇族に自決を命じる
- 曹彪に送られた璽書
- 曹彪の自殺
- 妃と子供たちは庶人に落とされる
- 楚国の廃止
- 三年後、世子曹嘉が王族へ復帰する
- 曹嘉の封邑加増
- 曹彪の人物評・評価
- まとめ
- 史書・参考文献
曹操と孫姫の子として生まれる
曹彪は曹操の子として生まれた。字を朱虎という。
『三国志』武文世王公伝によれば、曹操には二十五人の男子があり、その母も複数に分かれていた。
卞皇后は曹丕・曹彰・曹植・曹熊を生み、環夫人は曹沖・曹拠・曹宇を生んでいる。
曹彪の母は孫姫だった。
孫姫は三人の男子を生んでおり、長男が臨邑殤公子曹上、次男が曹彪、三男が剛殤公子曹勤である。
曹上と曹勤はいずれも早世しており、三兄弟の中で成人後まで生きたのは曹彪だった。
曹彪の生年について、『三国志』の曹彪本伝は明記していない。
一方、同書の朱建平伝には、曹彪が五十七歳になったとき
王凌と通謀した罪によって死を賜ったと記されている。
曹彪が死んだのは嘉平三年(251)であるため、
数え年から逆算すると生年は興平二年(195)となる。
したがって一般に曹彪は195年生まれとされるが、
これは本伝に生年が記載されているのではなく、享年から逆算した年代である。
曹彪が生まれたころ、父曹操は献帝を迎えて政権を確立する以前であり、
前年の興平元年(194)から兗州をめぐって呂布と争っていた。
曹彪は、曹操がまだ群雄の一人として各地を転戦していた時代に生まれ、
その後の曹操政権の拡大とともに成長した。
↓↓兄弟たち曹彰・曹丕・曹植・曹沖についての個別記事は、こちら




朱建平が予言した「五十七歳の兵難」
曹彪について伝わる早い時期の逸話に、相術家の朱建平による予言がある。
朱建平は沛国の人で、人相を見る術に優れていた。
曹操が魏公となったのち、その評判を聞いて召し出し、郎に任じたという。
曹丕がまだ五官中郎将だったころ、宴席に三十人余りの賓客が集まったことがあった。
曹丕は朱建平に自分の寿命を尋ね、さらに列席者たちの人相も見させた。
このとき朱建平は曹彪に、
「君は藩国に拠ることになり、五十七歳になると兵難に遭う。よくこれを防ぐように」と告げた。
原文は「君據藩國,至五十七當厄於兵,宜善防之」である。
その後、曹彪は実際に諸侯王となり、最終的に楚王に封じられた。
そして嘉平三年(251)、五十七歳のとき、
王凌らによる皇帝擁立計画への関与を問われて自決を命じられた。
『三国志』朱建平伝は、曹彪が『王凌と同謀した罪に座して死を賜った』と記し、
朱建平の予言が的中した事例としている。
寿春侯に封じられる
建安二十一年(216)、曹彪は寿春侯に封じられた。
この年、曹操は魏公から魏王へ進んでいる。
曹彪について、これ以前に官職や爵位を与えられていたことを示す記録は本伝にはなく、
寿春侯が史料上確認できる最初の封爵となる。
建安二十五年(220)正月、曹操が洛陽で死去すると、曹丕が魏王を継承した。
同年十月、曹丕は献帝から禅譲を受けて皇帝となり、後漢が滅亡して魏が成立した。
曹丕即位後に繰り返された改封
黄初二年(221)、曹彪は爵位を進められ、寿春侯から汝陽公となった。
翌黄初三年(222)には弋陽王となり、初めて王に封じられたが、同年のうちに呉王へ改封された。
その後も黄初五年(224)に寿春県王、黄初七年(226)に白馬王へと封国を移されている。
こうした頻繁な改封は曹彪に限ったものではなかった。
陳寿は『三国志』武文世王公伝の評で、
魏の王公は国土を持つ名目こそあったものの実質的な統治権を持たず、
行動を厳しく制限されて互いに隔てられ、その境遇は「牢獄に等しい」ほどだったと評している。
さらに位号も定まらず、大小の封国をたびたび移されたと述べている。
曹植・曹彰と洛陽へ朝見する
黄初四年(223)五月、曹彪は異母兄の任城王曹彰、曹植とともに洛陽へ朝見した。
曹植は「贈白馬王彪」の序文に、
「黄初四年五月、白馬王・任城王と余と倶に京師に朝し、節気に会す」と記している。
しかし洛陽では曹彰が死去し、曹彪と曹植は七月にそれぞれの封国へ戻ることになった。
二人は帰路をともにしようとしたが、有司から道中の宿泊場所を別にするよう命じられた。
曹植はこれを憤り、曹彪との別離を惜しんで「贈白馬王彪」を作った。
詩では曹彰の死への悲しみと曹彪から引き離される苦悩が語られ、
終盤では、離れていても恩愛は損なわれないとして曹彪を慰め、
互いに身体を大切にして、ともに白髪となる年齢まで生きようと呼びかけている。
曹彪自身がこの別離について何を語ったのかは残っていないが、
「贈白馬王彪」からは、曹植が曹彪との別離を惜しむ関係にあったことがわかる。
なお、曹植の序文では黄初四年(223)の曹彪を「白馬王」と呼んでいるが、
『三国志』曹彪伝によれば、この時点では呉王であり、白馬王への改封は黄初七年(226)である。
両史料の年代は一致しておらず、黄初四年の時点で曹彪が白馬王だったとすることはできない。
曹叡への朝見と楚王への改封
黄初七年(226)、曹丕が死去して皇太子曹叡が即位すると、
曹彪は白馬王のままその治世を迎えた。
太和五年(231)冬には京都へ赴いて曹叡に朝見し、
翌太和六年(232)、封国を移されて楚王となった。
以後、曹彪は史書で「楚王彪」として現れる。
ただし、太和五年の朝見では何らかの問題を起こしていた。
『三国志』曹彪伝は「初め、彪来朝し、禁を犯す」と記しており、
曹彪が朝見の際に何らかの禁令に違反したことがわかる。
ただし、その具体的な内容は記されていない。
青龍元年(233)、この件が有司によって上奏され、曹彪は封邑から三県、一千五百戸を削減された。
翌青龍二年(234)に大赦が行われると、削られていた三県は返還され、
景初三年(239)にはさらに五百戸を加増された。
これによって曹彪の封邑は、合わせて三千戸となった。
↓↓魏の第二代皇帝・曹叡についての個別記事は、こちら

曹芳即位と司馬懿・曹爽の対立
景初三年(239)正月、明帝曹叡が死去し、養子の曹芳が皇帝となった。
曹芳はまだ幼く、曹爽と司馬懿が輔政を担ったが、
やがて曹爽が政権の中心を占めるようになり、司馬懿との対立が深まった。
正始十年(249)正月、司馬懿は曹爽が曹芳に従って高平陵へ出向いた機会に洛陽を掌握した。
高平陵の変である。
曹爽は司馬懿に降伏したのち、その一派とともに処刑された。
これによって司馬懿が魏の政権を主導するようになり、
同年、太尉王凌と兗州刺史令狐愚は曹芳に代わる皇帝の擁立を企てるようになった。
↓↓三国時代の終焉を決定づけた司馬懿についての個別記事は、こちら

王凌と令狐愚が曹彪擁立を計画する
令狐愚は王凌の外甥で、兗州刺史となって平阿に駐屯していた。
一方の王凌も淮南方面の軍事を担い、
司馬懿が曹爽を誅殺したのちには太尉に昇進して節鉞を与えられている。
王凌と令狐愚は、やがて密かに皇帝の廃立を計画した。
『三国志』王凌伝によれば、
二人は皇帝曹芳について「天位に任ぜず」、皇帝の地位を担うに適さないと考え、
代わって楚王曹彪を擁立しようとした。
同伝は曹彪を「長而才」と記しており、
二人は年長で才能のある人物として曹彪を選んだことがわかる。
裴松之注所引『漢晋春秋』では、
曹芳は幼く強臣に制せられているため君主として不適格であると考え、
曹彪を迎えて皇帝に立て、「以て曹氏を興さん」としたと記されている。
曹彪を許昌へ迎え、そこを都とする計画だった。
さらに裴松之注所引『魏略』によれば、
令狐愚は「楚王彪に智勇有るを聞く」といい、曹彪に「智勇」があると聞いていた。
本伝には曹彪の軍事的な活躍や政治的実績は記されていないため、
その評価の具体的な根拠まではわからないが、
令狐愚が曹彪を「智勇」を備えた人物と認識していたことは確認できる。
「白馬素羈、西南馳」――曹彪を指すとされた童謡
『魏略』は、令狐愚が曹彪擁立を企てる前後の怪異と童謡も伝えている。
東郡では、白馬河から一頭の馬が現れ、官の牧場のそばまで来て鳴くと、
多くの馬が一斉にそれに応じたという。
翌日には大きな足跡が残されており、それは数里にわたって続いたのち、再び河へ入って消えていた。
さらに当時、「白馬素羈、西南馳。其誰乗者、朱虎騎」という童謡があったという。
白馬が白い羈をつけて西南へ走る。その馬に乗るのは誰か、朱虎が騎る、という内容である。
「朱虎」は曹彪の字であり、曹彪はかつて白馬王に封じられていた。
『魏略』はこの怪異と童謡を曹彪に結びつけ、
続けて令狐愚と王凌による曹彪擁立の計画を記している。
令狐愚が張式を曹彪のもとへ送る
嘉平元年(249)九月、令狐愚は部将の張式を曹彪のもとへ派遣した。
『三国志』王凌伝は、
「愚、将の張式を遣わして白馬に至らしめ、彪と相問して往来す」と記している。
曹彪はこのころ楚王だったが、張式は白馬へ赴いて曹彪と連絡を取り合った。
一方、王凌も舎人の労精を洛陽へ送り、息子の王広に計画を知らせた。
しかし王広は父に賛成せず、皇帝の廃立は重大事であり、
「禍の先」となってはならないとして王凌を諫めた。
裴松之注所引『漢晋春秋』によれば、
王広はその理由について、曹爽は驕奢によって人心を失い、その一派も政治を混乱させたため、
司馬懿が曹爽らを一挙に誅殺しても民衆は彼らを哀れまなかったと指摘している。
また、司馬懿の本心は測り難いものの、まだ明白な反逆行為はなく、
賢能を登用して先朝の政治を修め、人々の求めるところに応じているとした。
さらに司馬懿の父子兄弟は軍事上の要職を握っており、
容易に滅ぼせる相手ではないとして計画に反対したが、王凌は従わなかった。
令狐愚の意図を察した曹彪
曹彪が王凌・令狐愚の計画をどこまで知っていたのかについて、
『三国志』本文は、令狐愚が張式を白馬へ送り、曹彪と「相問往来」したと記すにとどまる。
一方、裴松之注所引『魏略』には、両者の間で交わされたさらに具体的なやり取りが残されている。
令狐愚は使者を通じて曹彪に、
「天下の事は二人に知られてはならない。願わくは王、自愛せよ」という趣旨を伝えた。
原文は「天下事不可二知,願王自愛」であり、
計画を他人に知られないよう注意を促したものとみられる。
続けて『魏略』は「彪亦陰知其意」と記しており、曹彪も密かに令狐愚の意図を察した。
これに対して曹彪は、「使君に謝す。厚意を知るなり」という趣旨の返答をしている。
この記録から、曹彪が皇帝擁立を明確に承諾したとまでは判断できない。
しかし、令狐愚から秘密の意向を伝えられ、
その意味を察したうえで返答していたことは『魏略』に明記されている。
同年十一月、令狐愚は再び張式を曹彪のもとへ派遣したが、張式が戻る前に病死した。
その後も王凌は曹彪擁立の計画を続けた。
南斗に熒惑が留まる――王凌が見た天文現象
令狐愚が死んだ後も、王凌は曹彪を擁立する計画を捨てなかった。
嘉平二年(250)、熒惑、すなわち火星が南斗の区域に入り、そこに留まる天文現象が起こった。
古代中国では星の位置や動きを地上の政治と結びつけて解釈する占星術が重視されていた。
王凌もこの現象に意味を見いだし、「斗中に星あり。当に暴貴なる者あるべし」と考えた。
南斗の中に異変がある以上、突然高い地位に昇る者が現れるというのである。
王凌は星の観測に通じていた東平の浩詳に、この天文現象が何を意味するのか尋ねた。
『晋書』天文志によれば、
浩詳は王凌の問いに何らかの意図があることを疑い、その意向に迎合しようとした。
本来、この星の動きには呉の君主の死を示すという占いもあったが、
浩詳はそれを告げず、「淮南は楚の分野であり、呉と楚は同じ占いに関係する。王者が興るであろう」
という趣旨の答えをした。
当時、王凌は淮南方面にあり、擁立しようとしていた曹彪は楚王だったため、
浩詳の言葉は王凌の計画に合致するものだった。
『晋書』は、これによって王凌の計画が定まったと記している。
ただし同じ『晋書』天文志は、
熒惑が南斗へ入ったことについて、実際には呉の孫権の死に対応した現象だったとしている。
呉軍の動きを利用して兵を動かそうとする
嘉平三年(251)春、呉軍が塗水付近に軍事行動を起こすと、
淮南方面の軍事を担当していた王凌は、これを討つためとして朝廷に出兵を求めた。
しかし許可は下りず、王凌は呉軍への対応を理由に軍を大きく動員し、
その機会に曹彪擁立の計画を実行しようとした。
一方、令狐愚の治中従事だった楊康は洛陽へ赴いた際、
令狐愚と王凌が皇帝の廃立を企てていたことを告げていた。
しかし、その供述には矛盾があったため、この時点では処理されなかった。
王凌自身も兗州刺史黄華を計画に加えようとし、
将軍の楊弘をそのもとへ派遣して、皇帝を廃して別の人物を立てようとしていることを伝えた。
しかし黄華は同調せず、使者として派遣された楊弘も王凌に従わなかったため、
二人は連名で計画を司馬懿へ報告した。
これによって、王凌らによる皇帝廃立の計画が発覚した。
司馬懿が王凌討伐へ向かう
王凌の計画を知った司馬懿は、中軍を率いて水路から淮南へ向かった。
一方で王凌の罪を赦免する命令を出し、書簡を送って帰順を求めている。
王凌は属官の王彧を司馬懿のもとへ送り、謝罪するとともに印綬と節鉞を差し出した。
司馬懿の軍が丘頭へ到着すると、王凌は自らを縛って水辺に出て降伏し、
司馬懿は主簿に命じてその縄を解かせた。
王凌は赦免の命令が出されていたことに加え、司馬懿と以前から交際があったため、
自分がすぐに殺されることはないと考えたという。
そこで小船に乗って司馬懿のもとへ近づこうとしたが、
司馬懿は人を出してこれを止め、二人の船は淮水上で十余丈ほど離れて向かい合った。
王凌は司馬懿に、
「一通の書状で私を呼んだなら、どうして行かなかっただろう。
それなのに、なぜ軍を率いて来たのか」と問いかけた。
司馬懿が「あなたは書状だけで来るような人ではないからだ」と答えると、
王凌は「あなたは私を裏切った」と言った。
これに対して司馬懿は、「私はむしろあなたに背いても、国家には背かない」と返した。
王凌の自殺と関係者への処分
司馬懿は歩兵・騎兵六百人をつけ、王凌を洛陽へ送った。
その途中、王凌は棺に使う釘を求めて司馬懿の意向を試した。
司馬懿がこれを与えたため、王凌は自分が赦されないことを悟ったという。
嘉平三年(251)五月甲寅、王凌は項まで来たところで毒薬を飲んで自殺した。
司馬懿はそのまま寿春へ進み、かつて令狐愚の使者として曹彪のもとへ派遣された張式らも自首した。
事件の関係者に対する処分も行われ、王凌と令狐愚は三族を誅された。
さらに二人の墓が暴かれて棺が開かれ、遺体は近くの市場で三日間さらされたのち、
印綬や朝服を焼かれて改めて土中へ埋められた。
曹彪の封国へ調査官が派遣される
『三国志』曹彪伝によれば、朝廷は曹彪の封国へ傅と侍御史を派遣した。
傅は諸侯王を補佐・監督する役職であり、侍御史は監察を担う官である。
現地では王凌・令狐愚の事件について取り調べが行われ、
「諸相連及する者」、すなわち計画に関係した者たちが逮捕・処罰された。
曹彪自身も追及の対象となり、廷尉は曹彪を召し出して罪を裁くよう朝廷に請求した。
「燕王旦の故事」――皇族に自決を命じる
燕王劉旦は前漢の武帝劉徹の子で、昭帝劉弗陵の異母兄にあたる。
昭帝の時代には皇位をめぐる政治運動に関与し、
のちに上官桀・桑弘羊らと結んだ陰謀が発覚すると、朝廷から罪を責められて自殺した。
曹彪を処分する際、魏の朝廷はこの燕王劉旦の故事を先例とした。
兼廷尉大鴻臚に節を持たせて曹彪のもとへ派遣し、
皇帝の璽書を与えてその罪を責め、自ら身の処置を決めるよう命じた。
このとき曹彪に送られた璽書の全文は、
裴松之が『三国志』曹彪伝の注に引用した孔衍『漢魏春秋』に残されている。
曹彪に送られた璽書
曹彪に送られた璽書は、まず刑罰は私情によって左右されてはならないという原則を説いている。
先王は功績を賞するなら仇敵であっても除外せず、罪を罰するなら親族であっても避けなかった。
その例として、周公が涙を流しながら管叔・蔡叔らを処断したこと、
前漢の武帝が心を痛めながら昭平君の罪を裁いたことを挙げ、これを「古今の常典」としている。
そのうえで曹彪の罪を厳しく責めた。
曹彪は皇帝に近い宗族として封国を与えられた諸侯王であり、
本来なら国家の法度を守り、宗室の模範となるべき立場にあった。
それにもかかわらず、太尉王凌や兗州刺史令狐愚らと結んで「逆謀」を企て、
国家を危うくしようとしたと断じている。
さらに忠孝の心を失ったとして、宗廟に霊があるなら、
どのような顔で先帝に会うつもりなのかとまで責めた。
璽書は続けて、皇帝も曹彪が罪に陥ったことを深く痛んでいると述べる。
有司からは曹彪を司法に付すよう求められていたが、
近親の諸侯王を市場や朝廷の公の場で処刑することには忍びないため、
使者を派遣して直接璽書を与えたという。
最後には「王自ら孼を作す。他に由るに匪ず」として、
この災いは曹彪自身が招いたものであると告げた。
そして前漢の燕王劉旦の故事を示したうえで、「王其れ自ら之を図れ」と結んでいる。
「自ら之を図れ」とは、自ら身の処置を決めよという意味であり、曹彪に自決を求めるものだった。
曹彪の自殺
璽書を受けた曹彪は、嘉平三年(251)に自殺した。
『三国志』曹彪伝はその最期について「彪乃自殺」とだけ記しており、
自殺の方法や最期の言葉は伝えていない。
曹彪が皇帝擁立計画にどこまで関与していたのかについても、
史料から確認できる範囲は限られている。
王凌と令狐愚が曹彪を皇帝に立てようとしたこと、
令狐愚が張式を二度にわたって曹彪のもとへ送り、
曹彪がその意図を察して返答したことは記録されている。
一方、曹彪自身が擁立計画を発案したことや、兵を集めて挙兵を準備したこと、
王凌らに具体的な行動を指示したことを示す記録は残っていない。
魏の朝廷は最終的に、曹彪が王凌・令狐愚と「構通逆謀」したとして、その罪を認定した。
曹彪はこのとき五十七歳だった。
若いころに朱建平から告げられた「五十七歳の兵難」は、
『三国志』朱建平伝ではここに至って現実となったものとして記されている。
妃と子供たちは庶人に落とされる
曹彪の死後、その妃と諸子も連座し、身分を奪われて庶人とされたうえ、平原へ移された。
曹彪の世子も王位を継承することは認められず、楚王家は一度ここで断絶することになった。
また、曹彪に仕えていた官属以下と監国謁者も、
「事情を知りながら輔導の義務を果たさなかった」ことを理由に、すべて処刑された。
諸侯王には封国内で仕える官属が置かれ、監国謁者はその監察にあたった。
彼らも事件を知りながら曹彪を輔導しなかったとして、連座の対象となった。
楚国の廃止
曹彪が自殺し、その子供たちも庶人とされたことで、楚王の爵位を継ぐ者はいなくなった。
『三国志』は、「国を除きて淮南郡と為す」と記す。
曹彪の楚国は廃され、その領域は王国ではなく郡として扱われることになった。
曹彪は建安二十一年(216)に寿春侯となって以来、
汝陽公、弋陽王、呉王、寿春県王、白馬王、楚王と封爵を重ねてきた。
その諸侯王としての経歴は、嘉平三年の事件によって終わった。
三年後、世子曹嘉が王族へ復帰する
曹彪の死から三年後の正元元年(254)、その子に対する処分が改められた。
『三国志』曹彪伝に収録された詔は、
まず「故楚王彪、国に背き奸に附し、身死して嗣替わる」と述べ、
曹彪が国家に背いて奸人に加担したために死に、その後嗣も廃されたとしている。
曹嘉を復封するにあたって、曹彪に対する罪の認定そのものが覆されたわけではなかった。
一方で詔は、「自らこれを取るといえども、なお哀矜す」として、
曹彪自身が招いた結果ではあるものの、その子孫については憐れむべきだとした。
さらに君主には人を包容する度量があり、親族を親しむのが道であるとして、
かつて曹彪の世子だった曹嘉を常山真定王に封じた。
これによって、王凌事件への連座で庶人とされていた曹彪の家系は、再び曹魏の諸侯王家へ復帰した。
なお、正元元年は曹芳が廃位され、曹髦が即位した年でもある。
しかし曹彪伝はこの詔が出された月を記していないため、
曹芳・曹髦のいずれの在位中に出されたものかは本文から確定できない。
曹嘉の封邑加増
景元元年(260)、曹嘉には封邑が加増され、それまでの分と合わせて二千五百戸となった。
王凌事件によって曹彪が自殺し、妃や諸子も庶人とされて楚国は一度廃されたが、
曹嘉は正元元年(254)に常山真定王として復封され、
その後も諸侯王として封邑を加増されたことになる。
『三国志』曹彪伝に記される曹彪の家系の記事は、曹嘉の二千五百戸への加増をもって終わっている。
曹彪の人物評・評価
曹彪について、陳寿は独立した人物評を残していない。
『三国志』武文世王公伝の末尾では曹操の子孫である諸王をまとめて論じ、
魏の王公は国土を持つ名目こそあったものの実際に社稷を統治する権限を持たず、
厳しい制限のもとで互いに隔てられ、その境遇は牢獄に等しかったと評している。
また、位号が安定せず封国の大小もしばしば変更されたため、
骨肉の恩愛と兄弟の義が損なわれたとして、曹魏の宗室政策そのものを批判した。
曹彪も曹丕の時代に弋陽王、呉王、寿春県王、白馬王と相次いで改封され、
黄初四年(223)には曹植とともに帰国しようとした際、
有司から道中の宿泊場所を別にするよう命じられている。
陳寿が評した曹魏の諸王の境遇は、曹彪の経歴にも見ることができる。
一方、曹彪個人について残された評価は少ないものの、
王凌と令狐愚は曹芳に代わる皇帝として擁立しようとした際、曹彪を「長而才」、
すなわち年長で才能のある人物と見ていた。
裴松之注所引『魏略』にも、令狐愚が「楚王彪に智勇あり」と聞いていたことが記されている。
曹彪にどのような政治的才能や軍事能力があったのかを具体的に示す事績は残っていないため、
「才」や「智勇」が何を根拠とした評価だったのかはわからない。
ただ、当時の有力者の間で、曹彪がこうした評価を受けていたこと自体は史料から確認できる。
曹植との関係を伝える「贈白馬王彪」も、曹彪の人物像を考えるうえで重要な史料となる。
曹植は曹彰の死後、曹彪とも別れなければならなくなったことを嘆き、
離れていても恩愛は失われないとして、互いに身体を大切にし、
ともに白髪となる年齢まで生きようと呼びかけている。
曹彪自身の言葉は残されていないが、
少なくとも曹植からは別離を惜しまれる関係にあったことがわかる。
その一方で、太和五年(231)の朝見では「禁を犯した」とされ、翌々年に封邑を削減されている。
ただし何を行ったのかは史書に記されておらず、
この一件から曹彪の性格や行状を具体的に判断することはできない。
晩年の王凌事件についても、王凌と令狐愚が曹彪を皇帝に立てようとしたこと、
令狐愚の意図を曹彪が察して返答したこと、
魏の朝廷が最終的に王凌・令狐愚との通謀を認定したことまでは確認できる。
一方、曹彪自身が計画を立案したことや、挙兵の準備を進めたことを示す記録は残されていない。
曹彪について史料から読み取れる人物像は断片的であり、
「長而才」「智勇」という評価が残る一方、それを裏づける具体的な事績はほとんど伝わっていない。
皇帝候補として擁立を企てられるほどの評価を受けながら、
その実像を詳しく知る史料が残されていない人物でもある。
まとめ
曹彪は曹操と孫姫の間に生まれ、寿春侯から各地の諸侯王へと改封を重ね、最終的に楚王となった。
曹植とは親しい関係にあったとみられ、
黄初四年(223)にともに洛陽へ朝見した際には、
帰路で引き離されたことを嘆いた曹植から長篇の「贈白馬王彪」を贈られている。
晩年には、司馬懿が曹爽を排除したのち、
太尉王凌と兗州刺史令狐愚から曹芳に代わる皇帝として擁立を企てられた。
令狐愚は曹彪を「智勇」のある人物と聞いており、
使者を通じて密かに意向を伝えると、曹彪もその意味を察して返答している。
嘉平三年(251)に計画が発覚すると、
曹彪も王凌・令狐愚との通謀を問われ、璽書によって自決を命じられた。五十七歳だった。
若いころ、相術家の朱建平から「五十七歳で兵難に遭う」と予言されており、
『三国志』はその最期を予言が的中した事例として伝えている。
曹彪の死後、妃と諸子は庶人とされ、楚国も廃されたが、
正元元年(254)には世子曹嘉が常山真定王に封じられ、曹彪の家系は再び諸侯王家へ復帰した。
史書・参考文献
『三国志』魏書二十「武文世王公伝・楚王彪伝」
『三国志』魏書二十八「王凌伝」
『三国志』魏書二十九「朱建平伝」
裴松之注所引『魏略』
裴松之注所引孔衍『漢魏春秋』
裴松之注所引『漢晋春秋』
『晋書』天文志
『資治通鑑』巻七十五
曹植「贈白馬王彪」

