許穆夫人(きょぼくふじん)は、中国春秋時代の衛(えい)に生まれ、
許(きょ)の君主・許穆公に嫁いだ女性である。
本名は伝わっておらず、夫の諡号である「穆」にちなみ、後世「許穆夫人」と呼ばれる。
彼女の名が中国史に残った最大の理由は、
『詩経』鄘風に収められた『載馳』の作者として伝えられていることにある。
紀元前660年、祖国の衛が狄の侵攻によって壊滅した際、許穆夫人は許から故国へ向かい、
その途上で帰還を制止しようとする許の大夫たちに対して自らの意思を表明した。
その心情を伝えるのが『載馳』であり、『左伝』にも許穆夫人がこの詩を作ったことが記されている。
一方、許穆夫人の生涯について残された史料は決して多くない。
生年も没年も確定しておらず、
後世に語られる逸話の中には『左伝』と『列女伝』で食い違うものもある。
また、『泉水』『竹竿』を許穆夫人の作品とする説も広く知られているが、
古い史料が明確に作者として名を挙げるのは『載馳』であり、
三篇すべてを確実な作品とみなすことはできない。
それでも、許穆夫人は単に詩を残した女性ではない。
諸侯国間の婚姻が外交そのものでもあった春秋時代に、
出身国と嫁ぎ先という二つの政治共同体の間に置かれ、
祖国の滅亡という非常事態に自ら行動した女性だった。
その姿は『左伝』『詩経』『列女伝』を通じて後世に伝えられ、
中国文学史・女性史の双方で重要な位置を占めている。
衛の王族に生まれる
許穆夫人は春秋時代の衛の公族に生まれた。
衛は周王朝の諸侯国の一つで、姫姓の国である。
都は朝歌を中心とする黄河流域にあり、斉・宋・鄭などと接する中原の諸侯国だった。
許穆夫人の出生を理解するには、当時の衛公室に起きていた複雑な婚姻関係を見る必要がある。
衛宣公には宣姜という夫人がいた。
宣姜はもともと衛宣公の子である太子伋の妻として斉から迎えられる予定だった女性だったが、
衛宣公自身が彼女を妻とし、寿と朔をもうけた。この朔が後の衛惠公である。
その後、衛宣公が死去して衛惠公が即位すると、衛公室では政変が相次いだ。
やがて斉の介入によって衛惠公が復位すると、斉側は衛宣公の子である公子頑、
すなわち昭伯と宣姜を結びつけた。
『左伝』閔公二年には、衛惠公が幼くして即位した際、
斉人が昭伯に宣姜との関係を持たせようとし、昭伯が拒んだため強制したと記されている。
この二人の間から「斉子、戴公、文公、宋桓夫人、許穆夫人」が生まれたとされる。
したがって、『左伝』に従えば許穆夫人の父は公子頑(昭伯)、母は宣姜であり、
衛戴公と衛文公は兄弟、宋桓公に嫁いだ宋桓夫人は姉妹にあたる。
紀元前660年の衛滅亡後に君主となる戴公と文公は、許穆夫人と同じ父母を持つ兄弟だった。
一方、前漢の劉向が編纂した『列女伝』では、許穆夫人を「衛懿公の娘」と記している。
しかし衛懿公は衛惠公の子であり、『左伝』の系譜とは一致しない。
後世の注釈家もこの矛盾を指摘しており、
現在では『左伝』に基づき公子頑と宣姜の娘とする説明が一般的である。
許穆夫人の出生年については紀元前690年頃とする説が流布しているものの、
同時代史料に明確な記載はない。したがって、生年を紀元前690年と断定することはできない。
衛公室を襲った相次ぐ内乱
許穆夫人が生まれた衛は、すでに長期間にわたって公室の内紛を抱えていた。
衛宣公の後継をめぐって太子伋と公子寿が殺害され、衛惠公が即位したものの、
その地位も安定しなかった。
紀元前696年には反対勢力によって衛惠公が追放され、公子黔牟が擁立される。
のち斉の支援を受けた衛惠公が復位したが、こうした政変によって衛公室の内部は大きく揺れていた。
許穆夫人の兄弟である文公も、
衛国内に災難が多いことを理由として早くから斉に身を寄せていたと『左伝』は伝えている。
こうした状況を考えると、許穆夫人が生まれ育った時代の衛は、
単に周辺国から侵攻される危険を抱えていただけではなく、
公室内部の対立と他国の介入が繰り返される不安定な国家だった。
のちに『列女伝』が描く「強国との連携によって衛を守るべきだ」とする許穆夫人像も、
このような衛の政治環境を背景に形成されたものと考えられる。
許と斉から婚姻を求められたという逸話
許穆夫人の若年期について具体的な逸話を残しているのが『列女伝』である。
同書によれば、まだ結婚する前の彼女に対し、許と斉の双方から婚姻の申し出があった。
衛の君主は許への嫁入りを決めたが、許穆夫人は傅母を通じて異議を述べたという。
彼女が問題にしたのは、許と斉の国力と地理的条件だった。
許は衛から遠いうえに国力も小さい。それに対して斉は大国であり、衛にも比較的近い。
もし衛の国境で戎狄の侵攻などが起きた場合、大国である斉との婚姻関係があれば援助を求めやすい。ところが小国の許へ嫁いでしまえば、
衛が危機に陥ったとき十分な支援を期待できないというのである。
『列女伝』では、
許穆夫人に「近きを捨てて遠きに就き、大を離れて小に附く」ことへの疑問を語らせ、
もし突然国家に危難が起きたなら誰と社稷を守る策を相談するのか、と主張させている。
しかし衛の君主はその意見を採用せず、彼女を許へ嫁がせた。
この逸話は、結婚前から許穆夫人が衛の外交戦略を論じていたことを示す物語として
非常に有名になった。
ただし注意しなければならないのは、『列女伝』が前漢時代に編纂された書物であり、
春秋時代から数百年後に成立した点である。
さらに同書は許穆夫人を衛懿公の娘とするなど、『左伝』と一致しない部分を含んでいる。
そのため、彼女が実際にこの言葉を述べたことまで史実として確定することはできない。
それでも、許が小国であり、斉が衛の存続に決定的な役割を果たす大国だった
という政治的構図自体は、その後の歴史と一致している。
許穆公に嫁ぐ
許穆夫人が嫁いだ許は、姜姓の諸侯国で、爵位は男爵だった。
国土は現在の河南省中部付近にあり、斉や宋などに比べれば小規模な諸侯国である。
夫となった許穆公の名は新臣といい、『春秋』にもその名が確認できる。
許穆夫人という呼称は、「許の穆公の夫人」という意味であり、本名ではない。
結婚後の具体的な生活について史料はほとんど残されていない。
許穆公との間にどのような夫婦関係があったのか、いつ頃結婚したのかも明確ではない。
後世には、許穆夫人と許穆公の子が後の許僖公だったとする説明も見られる。
しかし、許穆夫人自身の伝記史料から母子関係を明確に確認できるわけではなく、
慎重に扱う必要がある。
許へ嫁いだ後も、彼女の意識から故国の衛が消えることはなかった。
それを示すものとして後世に結びつけられたのが、『詩経』に収録された故郷を思う詩篇である。
『泉水』と『竹竿』は許穆夫人の作品なのか
許穆夫人について紹介する際、『載馳』『泉水』『竹竿』の三篇を代表作として挙げることが多い。
しかし三篇を同じ確実度で「許穆夫人作」とすることには問題がある。
『詩経』衛風の『泉水』は、故郷の衛を思う嫁いだ女性の心情を描いた作品である。
古い『毛詩序』は「衛女、帰るを思うなり」と説明し、
諸侯に嫁いだ衛の女性が父母の死後、故郷へ帰りたいと思いながら礼のため帰ることができず、
この詩を作ったとしている。
詩中には淇水や故郷の人々への思いが現れ、
「衛を懐う有り、日として思わざるなし」と、故国を忘れられない心情が語られる。
『竹竿』についても『毛詩序』は「衛女、帰るを思うなり」とする。
詩中には淇水、泉源、故郷での遊びなどが現れ、
遠く他国へ嫁いだ女性が父母や兄弟から離れた悲しみを詠んでいる。
内容だけを見ると、衛から外国へ嫁いだ許穆夫人の境遇とよく一致する。
そのため後世には両篇を彼女の作品とみなす説が生まれ、
現在でも許穆夫人の作品として紹介されることが多い。
しかし『毛詩序』は作者を「衛女」とするだけで、許穆夫人とは明記していない。
これに対して『載馳』については『詩序』が「許穆夫人作」と明記し、
『左伝』も許穆夫人が『載馳』を作ったと記録する。
したがって、史料上もっとも確実に許穆夫人と結びつく作品は『載馳』であり、
『泉水』『竹竿』については伝統的に彼女の作品とする説がある、
という程度に区別しておく必要がある。
衛懿公と「鶴」の政治
許穆夫人の人生を大きく変える事件が起こったのは紀元前660年である。
当時の衛君は衛懿公だった。
『左伝』によれば、衛懿公は鶴を非常に好み、中には大夫が乗るような軒車に乗せられる鶴までいた。やがて狄が衛へ侵攻すると、戦いに動員された国人たちは、
「鶴を戦わせればよい。鶴には俸禄や位が与えられているのだから、我々がどうして戦えるのか」
と反発した。
衛懿公は軍を率いて狄を迎え撃ったが、熒沢の戦いで衛軍は大敗した。
懿公自身も戦死し、衛の国都は失われた。
これは単なる敗戦ではなく、衛という国家そのものが滅亡しかねないほどの壊滅的な敗北だった。
生き残った衛の人々は逃亡し、黄河を越えて南へ退いた。
この事件について『列女伝』は、
かつて許穆夫人が「小さく遠い許では衛を助けられない」と警告した通りになったと描いている。
実際、衛を救う中心となったのは許ではなく、宋と斉だった。
宋桓公が衛の遺民を救出する
衛の壊滅後、救援に動いた人物の一人が宋桓公だった。
宋桓公の夫人は許穆夫人の姉妹であり、宋と衛の間にも婚姻関係が存在した。
『左伝』によれば、衛の敗北を知った宋桓公は黄河まで赴き、衛の人々を迎えた。
夜間に人々を渡河させ、生き残った衛人を救出したという。
このとき衛の遺民は男女合わせて七百三十人しかいなかった。
そこへ衛領の共と滕の住民を加え、ようやく五千人となった。
彼らは許穆夫人の兄弟である公子申を君主として擁立した。これが衛戴公である。
しかし衛は旧都を失っており、戴公と衛の遺民たちは漕に仮住まいすることになった。
かつて一国を形成していた衛が、わずかな遺民を集めて国外同然の場所で
国家を再建しなければならない状況に追い込まれていたのである。
故国の危機を知り許から衛へ向かう
祖国の壊滅を知った許穆夫人は、許に留まらなかった。
彼女は車を走らせ、衛の人々が避難している漕へ向かった。
『載馳』の冒頭にある「載馳載驅、帰唁衛侯」は、この行動を端的に表している。
「車を走らせ、馬を駆り、帰って衛侯を慰問する」という意味である。
ここでいう「唁」は、単なる帰省とは異なる。国を失った君主や人々を慰問することを意味する。
つまり許穆夫人は、衛が平穏な時期に故郷を懐かしんで帰ろうとしたのではない。
国君が戦死し、国土を奪われ、民衆が難民となっている非常事態を知って行動したのである。
ところが、彼女の行動は許側から歓迎されなかった。
諸侯に嫁いだ女性が、夫の国を離れて自分の出身国へ勝手に戻ることは、
当時の礼制や国家間関係から見れば簡単な行為ではなかった。
許の大夫たちは彼女を止めるために追ってきた。
『載馳』に「大夫跋渉、我が心則ち憂う」とあるのは、この場面を示すものと伝えられている。
大夫たちが苦労して追ってくるのを見て、許穆夫人自身も憂えたのである。
帰国を制止されても意思を変えなかった『載馳』
『載馳』で特に注目されるのは、
許穆夫人が自らの行動を批判する大夫たちに対し、簡単には意思を変えなかったことである。
彼女は、自分の行動を大夫たちがよいと思わなくても、
だからといって故国への思いまで変わるわけではないと詠む。
さらに詩は、衛へ向かう途上の風景へ移る。
野原に盛んに生える麦を眺め、貝母を採りながらも、心は衛のことから離れない。
そして後半では、許の大夫たちに対する反論がより明確になる。
女子はもともと物思いをするものだとしても、自分には自分なりの道理がある。
それを理解せず非難する者は未熟ではないか、とする趣旨が表れる。
最終章では、大国へ赴いて衛を援助してもらうことまで意識していたと読める表現が現れる。
「大邦に控告せん」衛の窮状を大国へ訴え、救援を求めようというのである。
ここでいう大邦は一般に斉と解される。
許穆夫人が実際に斉まで赴いて斉桓公と直接交渉したと証明する史料はない。
そのため、「許穆夫人が斉桓公を説得して衛を救わせた」とまで断定するのは適切ではない。
しかし少なくとも『載馳』には、ただ故国の滅亡を悲しむだけでなく、
大国への救援要請を考える政治的な意識が示されている。
『左伝』が明記する『載馳』の作者
『載馳』を許穆夫人の作品とみなすうえで重要なのが『左伝』である。
『左伝』閔公二年は、衛の滅亡、宋桓公による遺民の救出、戴公の擁立を記した直後に、
「許穆夫人、載馳を賦す」と記している。
したがって『載馳』は、後世になって単に許穆夫人と結びつけられた作品ではない。
春秋時代の歴史を伝える『左伝』そのものが、衛滅亡事件と許穆夫人の『載馳』を結びつけている。
『詩経』の作品の多くは作者が分からない。
その中で具体的な女性の名と作品が古い史料によって結びついている例は非常に限られる。
このため許穆夫人は、中国文学史において実名ではないとはいえ、
人物像と作品を結びつけることのできる最古級の女性詩人として扱われてきた。
ただし「中国史上最初の女性詩人」「世界最古の女性詩人」などの表現には注意が必要である。
中国以前・域外にはさらに古い女性作家として知られる人物も存在するため、
「世界最古」と断定することはできない。
また『詩経』にはほかにも女性の声で作られた詩が多数存在するが、その作者名が伝わっていない。
許穆夫人については、
「中国で作者の人物像を古い史料によって具体的に確認できる最古級の女性詩人」
とするのが比較的正確である。
斉桓公による衛救援
衛の再建に決定的な役割を果たしたのは、春秋五覇の一人として知られる斉桓公だった。
『左伝』によれば、斉桓公は公子無虧に戦車三百乗、甲士三千人を率いさせ、
衛の避難地を守備させた。
さらに衛君には馬、祭服、牛・羊・豕・鶏・犬、門を建てるための木材などを与え、
衛の夫人にも魚皮で飾った車や錦を贈っている。
単なる一時的な軍事援助ではなく、国家と君主の生活・祭祀を再建するための大規模な援助だった。
戴公は間もなく死去し、その弟で許穆夫人の兄弟にあたる毀が即位した。これが衛文公である。
衛文公の時代になると、衛は楚丘に新たな拠点を築き、本格的な復興に取りかかった。
文公は質素な衣服を身につけ、農業を奨励し、商工業を保護し、
人材を登用したと『左伝』は伝えている。
その結果、即位当初には兵車三十乗ほどだった衛が、晩年には三百乗を有するまでに回復した。
許穆夫人が危機に際して帰ろうとした祖国は、その後完全に消滅することなく存続した。
『列女伝』では「先見の明を持った女性」として描かれる
許穆夫人が後世に「愛国の女性」として定着するうえで、
大きな影響を与えたのが前漢の劉向による『列女伝』である。
『列女伝』は彼女を「仁智」の女性として収録した。
同書の物語では、結婚前の許穆夫人はすでに「許は小さく遠く、斉は大きく近い」と指摘していた。
それにもかかわらず衛君が許との婚姻を選び、
その後実際に狄が衛を破ると許は衛を救うことができなかった。
そこで『列女伝』は、衛の君主がかつて許穆夫人の忠告を聞かなかったことを後悔したとする。
最後には、彼女について「慈惠にして遠識あるを善しとす」と評価する。
慈愛を備え、遠い将来を見通す知恵を持った女性だったという意味である。
ただし、『列女伝』が記す衛君の行動や系譜には『左伝』との矛盾があり、
そのまま春秋時代の事実とすることはできない。
むしろこの逸話は、前漢時代にはすでに許穆夫人が
「国家の危機を予見し、君主よりも正しい判断をした女性」
として理解されていたことを示す資料として重要である。
許穆公の死
衛滅亡から数年後の紀元前656年、許穆夫人の夫である許穆公が史料から姿を消す。
この年、斉桓公は魯・宋・陳・衛・鄭・許・曹などの諸侯を率いて蔡を攻撃し、
そのまま楚へ軍を進めた。春秋時代の国際政治を大きく動かした斉桓公の南方遠征である。
『春秋』僖公四年には、この遠征に参加した「許男」、
すなわち許穆公新臣が同年夏に死去したことが記され、秋には「許穆公を葬る」とある。
したがって許穆公の没年は紀元前656年と確認できる。
しかし、その時点で許穆夫人が存命だったか、
夫の死後どのように暮らしたかについて、確実な記録は残されていない。
許穆夫人自身の死についても『春秋』『左伝』には記載がなく、
没年・享年・墓所はいずれも不明である。
一部では紀元前656年頃を許穆夫人の没年とする説も見られるが、
夫の許穆公がこの年に死去したことと混同した可能性もあり、史料的に確定することはできない。
許穆夫人の死後
許穆夫人がいつ死去したのかは分からない。
しかし、その名は本人の死後も『載馳』とともに伝えられた。
『詩経』が儒家の経典として定着すると、
『載馳』も歴代の学者によって注釈され、許穆夫人の行動は単なる望郷ではなく、
「礼」と「故国への情」の衝突を示す事例として論じられるようになった。
嫁いだ女性は夫の家に属し、
父母の死後は自由に故国へ帰ることができないという礼制上の原則がある。
一方、許穆夫人が置かれたのは祖国そのものが滅亡しかねない非常事態だった。
そのため後世の儒者たちは、
彼女が通常の礼を越えて故国へ向かおうとした行為をどのように評価すべきか議論した。
漢代には劉向が『列女伝』に彼女を収録し、慈愛と先見性を備えた女性として顕彰した。
その後も『毛詩』『毛詩正義』をはじめとする『詩経』注釈の中で、
『載馳』と許穆夫人の故事は繰り返し取り上げられた。
こうして許穆夫人は、春秋時代の一諸侯夫人から、
中国文学史を代表する古代女性の一人へと位置づけられていった。
許穆夫人は「愛国詩人」だったのか
現代中国では許穆夫人を「中国最初の愛国女詩人」と紹介することが多い。
ただし、「愛国」という近代的な言葉をそのまま春秋時代の人物に当てはめる場合には
注意が必要である。
当時の人々が帰属意識を持った対象は、現代的な意味での中国国家ではなく、
衛・許・斉・宋といった諸侯国や宗族だった。
許穆夫人が『載馳』で強く思っているのも、自分の生まれた衛と、
そこに残された兄弟・親族・民衆である。
一方で、嫁ぎ先である許の立場だけに従うのではなく、
滅亡寸前となった故国を救おうとして自ら行動したことは史料から読み取れる。
その意味で「故国への強い帰属意識を持った詩人」という評価には十分な根拠がある。
『載馳』が特徴的なのは、悲嘆だけを詠んでいない点である。
許の大夫から批判されても自らの考えを述べ、
衛の状況を見定め、大国へ救援を訴えることまで考えている。
詩人としての感情と、公族女性としての政治的判断が同じ作品の中に現れていることが、
許穆夫人を他の『詩経』の女性像から際立たせている。
中国最古級の女性詩人として
許穆夫人の生涯について確実に分かることは、それほど多くない。
本名、生年、結婚年、没年はいずれも不明であり、夫の死後の消息も伝わらない。
結婚前の外交論については『列女伝』にしか見えず、
『泉水』『竹竿』を彼女の作品とする説にも確定できない部分がある。
それでも紀元前660年の衛滅亡という歴史的事件と、
許穆夫人が『載馳』を作ったという記録は『左伝』に残されている。
女性の文章や名前が史料に残りにくかった古代中国において、具体的な政治事件の中で行動し、
その人物名と作品が結びついた形で二千年以上伝えられてきたこと自体が異例である。
しかもその作品で語られるのは、単なる個人的な恋情や家庭の悲しみではない。
国を失った人々への憂慮、自分の行動を制止する政治的立場への反論、
そして大国から援助を得ようとする考えが表現されている。
許穆夫人は、その意味で中国文学史に残る最古級の女性詩人であると同時に、
春秋時代の諸侯国間政治の中で、自らの意思を史料に残した稀有な女性でもある。
まとめ
許穆夫人は春秋時代の衛公族に生まれ、許穆公新臣の夫人となった女性である。
『左伝』によれば、公子頑(昭伯)と宣姜の娘であり、
衛滅亡後に君主となった衛戴公・衛文公とは兄弟姉妹の関係にあった。
前漢の『列女伝』には、結婚前に許と斉の国力を比較し、
衛の将来を考えて大国斉との婚姻を望んだという逸話が残る。
ただし同書には系譜などで『左伝』と矛盾する部分があり、
逸話のすべてを史実とすることはできない。
紀元前660年、狄の侵攻によって衛懿公が戦死し、衛が壊滅すると、
許穆夫人は許から故国へ向かった。
許の大夫たちは彼女を制止しようとしたが、
そのときの故国への思いと自らの判断を表した作品として伝わるのが『詩経』鄘風の『載馳』である。『左伝』にも「許穆夫人、載馳を賦す」と明記されており、
彼女の作品として最も確実な一篇となっている。
衛は宋桓公による遺民救出と斉桓公の大規模な軍事・物資援助によって滅亡を免れ、衛文公のもとで再建された。その後、紀元前656年に夫の許穆公が死去するが、許穆夫人自身の晩年と没年は史料から確認できない。
『泉水』『竹竿』も伝統的に許穆夫人と結びつけられてきたが、
『載馳』とは史料上の確実度が異なる。この区別を踏まえても、
人物と作品が古い歴史記録によって結びつけられる許穆夫人は、
中国で確認できる最古級の女性詩人の一人である。
後世の『列女伝』は彼女を「慈惠にして遠識あり」と評した。
祖国の危機を前に、嫁ぎ先の国の一員であるという立場と、
生まれ故郷である衛への思いとの間で行動した許穆夫人の姿は、
『詩経』に残された自らの言葉とともに、
春秋時代の女性としては異例なほど明瞭に後世へ伝えられている。
史書・参考文献
・『春秋』
・『春秋左氏伝』
・『詩経』「載馳」「泉水」「竹竿」
・『毛詩序』・孔穎達『毛詩正義』
・劉向『列女伝』仁智伝「許穆夫人」
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