劉楚玉(りゅう そぎょく)は、南朝宋の孝武帝劉駿の長女で、
山陰公主、のちに会稽郡長公主とされた皇族女性である。
弟には南朝宋屈指の暴君として知られる前廃帝劉子業がおり、その治世に大きな厚遇を受けた。
劉楚玉の名を中国史上でも特に有名にしたのが、
「皇帝には多数の後宮女性がいるのに、自分には夫が一人しかいないのは不公平だ」と弟に訴え、
三十人の「面首」を与えられたという『宋書』の記録である。
さらに美貌で知られた名門貴族の褚淵を望み、十日間にわたって自分に仕えさせたものの、
褚淵が最後まで応じなかったという逸話も残されている。
こうした記録から、劉楚玉は後世に「淫乱な公主」の代表的人物として描かれるようになった。
しかし彼女について残る同時代に近い記録は決して多くない。
現在知られている人物像の大部分は、前廃帝政権を否定的に描く『宋書』『南史』『資治通鑑』
などを通じて形成されたものであり、後世の小説や説話ではさらに脚色が加えられた。
確かなのは、劉楚玉が孝武帝の長女として名門何氏へ嫁ぎ、弟の前廃帝から破格の待遇を受け、
その政権が倒れると同時に粛清されたことである。
その短い生涯は、一人の奔放な公主の物語であると同時に、
皇族同士の殺害が続いた南朝宋後半の宮廷政治と切り離して考えることのできないものだった。
孝武帝の長女として生まれ、名門何氏へ嫁ぐ
劉楚玉の生年は史書に明記されていない。
父は南朝宋第4代皇帝の孝武帝劉駿で、『宋書』では孝武帝の長女として記録されている。
母は孝武帝の皇后である王憲嫄とされ、前廃帝劉子業の姉にあたる。
父の孝武帝は453年、皇太子劉劭が文帝劉義隆を殺害して皇帝を称すると、
これに対して挙兵し、劉劭を倒して即位した。
即位後は中央集権化を進める一方、叔父の劉義宣や弟の劉誕ら有力皇族を排除し、
皇族間の対立をさらに深めていった。
また史書には奢侈や女性関係を批判する記事も多く、
劉楚玉はこうした孝武帝期の宮廷で成長したことになる。
劉楚玉は山陰公主に封じられ、何戢へ降嫁した。
何戢は何偃の子で、廬江何氏という南朝の有力士族の出身だった。
何戢自身も容姿端麗で知られ、のちには「小褚公」と呼ばれたほどである。
皇帝の長女と名門士族の子との婚姻であり、
劉楚玉が皇女として高い地位に置かれていたことが分かる。
ただし、劉楚玉の幼少期や何戢との結婚生活について詳しい記録は残っていない。
後世には絶世の美女として描かれることも多いが、
容貌や性格について後世の文学作品から史実を復元することはできない。
彼女について具体的な記事が急増するのは、父の死後、弟の劉子業が皇帝となってからである。
↓↓父・孝武帝劉駿、弟・前廃帝劉子業についての個別記事は、こちら


前廃帝劉子業の即位と姉への破格の厚遇
464年閏5月、孝武帝が死去すると、皇太子劉子業が即位した。これが前廃帝である。
劉子業はまだ十代半ばだったが、戴法興ら自らを抑えていた側近を排除した後、
叔父や兄弟、重臣への粛清を繰り返すようになった。
前廃帝が特に警戒したのは有力な男性皇族だった。
叔父たちを建康へ集めて監視下に置き、
湘東王劉彧らを拘束して屈辱的な扱いを加え、弟の新安王劉子鸞には死を命じた。
義陽王劉昶は身の危険を感じて北魏へ亡命している。
その一方で、姉の劉楚玉は前廃帝から特別な待遇を受けた。
『宋書』によれば、
前廃帝は劉楚玉を山陰公主から会稽郡長公主へ進め、その待遇を郡王と同格とした。
湯沐邑二千戸を与え、鼓吹一部、班剣二十人まで加えるという破格の待遇である。
ただし『宋書』巻80には、
この新たな待遇を正式に受ける前に前廃帝政権が崩壊したことも記されている。
前廃帝が外出する際には、劉楚玉が朝臣らとともに輦に付き従ったとも記録される。
前廃帝が男性皇族を潜在的な敵として恐れる一方、
姉の劉楚玉を身近に置いて厚遇していたことがうかがえる。
しかし、劉楚玉が具体的な官僚人事や政策決定を行ったことを示す記録はない。
「大きな権勢を持っていた」という場合も、政治を直接動かした実力者というより、
皇帝の寵愛を背景に宮廷内で極めて特別な待遇を受けた皇族女性と見る方が適切である。
「夫が一人なのは不公平」――三十人の面首
劉楚玉に関する最も有名な記録が、「三十人の面首」である。
『宋書』巻7「前廃帝紀」によれば、劉楚玉は前廃帝に対し、
自分と皇帝は男女の違いこそあっても、ともに先帝である孝武帝の子である。
それにもかかわらず皇帝には多数の後宮女性がいるのに、
自分には駙馬一人しかいないのは不公平ではないか、という趣旨の訴えをした。
前廃帝はこの要求を受け入れ、劉楚玉のために「面首左右三十人」を置いた。
「面首」は、もともと容貌の美しい男性を表す語として用いられ、
やがて高貴な女性に仕える男寵・男性の愛人を意味する言葉として定着していった。
劉楚玉はこの記録によって、後世には「三十人の面首を持った公主」として知られるようになる。
この「三十人」については、『宋書』巻7だけではなく、
巻80の劉楚玉の記事や『南史』『資治通鑑』系統にも同じ内容が伝えられている。
そのため、「後世に突然作られた伝説」として処理することはできない。
少なくとも南朝宋に近い時期から、劉楚玉と三十人の面首を結びつける記録が存在していた。
一方で、史書に「面首三十人」と書かれていることと、
その三十人全員との具体的な関係が一人ずつ確認できることは別問題である。
彼らの名前や出自、劉楚玉との個別の関係について史書はほとんど伝えていない。
また『宋書』は劉楚玉を「淫恣過度」「肆情淫縦」と強く非難している。
前廃帝自身も同書で極端な暴君として描かれており、
彼の政権を構成した人物への道徳的評価が記述に影響している可能性は考慮する必要がある。
ただし、それを理由に面首の記事そのものを根拠なく創作とみなすこともできない。
「男女平等」を主張した女性だったのか
この逸話は現代では、「男性皇帝だけが多数の異性を持てることに異議を唱えた女性」
「古代中国で男女平等を主張した公主」といった形で紹介されることがある。
しかし、そこまで評価を広げるのは適切ではない。
劉楚玉の発言は、自分と弟が同じ皇帝の子であるにもかかわらず待遇が違うことへの不満であり、
社会全体の男女の権利を論じたものではない。
彼女が女性一般の地位向上を主張した記録も存在しない。
この発言から読み取れるのは、少なくとも史書上の劉楚玉が、自らを単なる臣下の妻ではなく、
皇帝と同じ孝武帝の子である皇族として強く意識していたことである。
褚淵を求める――十日間の「入侍」
三十人の面首以上に、劉楚玉の立場の強さを具体的に示しているのが褚淵との事件である。
褚淵は南朝を代表する名門河南褚氏の出身で、当時から容姿の美しさで知られていた。
のちに南朝宋から南斉への王朝交代にも深く関与し、南斉の重臣となる人物である。
劉楚玉は吏部郎だった褚淵の容貌を気に入り、前廃帝に自分のもとへ仕えさせてほしいと要求した。
前廃帝はこれを認め、褚淵を劉楚玉のもとへ送った。
『宋書』巻7は、褚淵が十日間劉楚玉に仕え、「備見逼迫」、
つまり激しく迫られながらも、死を覚悟して拒み続けたため、最終的に免れたと記している。
『宋書』巻80でも、褚淵は皇帝の命令には従って劉楚玉のもとへ行ったものの、
最後まで屈せず、劉楚玉も意のままにすることができなかったとされる。
後世になると、この事件は
「淫乱な公主」と「節操を守り抜いた名臣」を対比する物語としてさらに脚色されていった。
会話や誘惑の具体的な様子まで描く後世の作品も存在するが、
それらを『宋書』の記事と同列に扱うことはできない。
興味深いのは、劉楚玉の夫・何戢と褚淵のその後である。
『南斉書』「何戢伝」によれば、褚淵はこの事件の際に何戢と一か月余り同じ場所で過ごし、
それをきっかけとして二人の親交が深まったという。
何戢自身も美しい容姿で知られ、その立ち居振る舞いが褚淵に似ていたため、
当時の人々から「小褚公」と呼ばれた。
つまり正史に残る褚淵事件は、単なる劉楚玉の性的逸話だけではなく、
南朝の有力士族である何氏・褚氏の人物関係まで伝える記事となっている。
前廃帝の殺害と劉楚玉の賜死
劉楚玉の破格の地位は、弟の皇帝権力に全面的に依存していた。
そのため前廃帝政権の崩壊は、そのまま彼女自身の破滅につながった。
前廃帝は即位後、戴法興、江夏王劉義恭、柳元景、沈慶之らを相次いで殺害し、
叔父たちにも虐待を加えた。
なかでも湘東王劉彧は「猪王」と呼ばれて辱められ、何度も殺害されかけていた。
465年11月、前廃帝がさらに叔父たちを殺害しようとしていることを知った劉彧の側近らは、
皇帝を先に排除する計画を実行した。
寿寂之らが宮中で前廃帝を殺害し、劉彧が政権を掌握する。のちの明帝である。
劉楚玉もこの政変を生き延びることはできなかった。
『宋書』巻80によれば、明帝側は太皇太后の令という形式で、
前廃帝の弟である豫章王劉子尚と劉楚玉に死を命じた。
劉子尚については「頑凶極悖」、劉楚玉については「淫乱縦慝、義絶人経」と非難され、
二人とも邸宅で死を賜った。
465年11月30日、劉楚玉は賜死となった。生年が分からないため享年も不明である。
ここで注意したいのは、劉楚玉が何らかの反乱を起こしたため処刑されたわけではないことである。
史書が処刑理由として掲げるのは性的・道徳的な非難だが、
実際には前廃帝の姉として特別な待遇を受けていた人物が、
政権交代直後に前廃帝の弟劉子尚とともに処分されている。
したがって、その死には道徳的断罪だけでなく、
前廃帝政権に近い皇族を新政権が排除するという政治的側面もあったと考える必要がある。
一方、「前廃帝の旧政権勢力が劉楚玉の死によって事実上消滅した」とまで言うのは正確ではない。
前廃帝の死後も孝武帝の皇子たちは多数生存しており、
明帝劉彧と孝武帝の子・劉子勛との間では大規模な内戦が発生する。
劉楚玉の処刑は旧政権勢力全体の消滅ではなく、
明帝による孝武帝系皇族排除の始まりの一つとして位置づける方が適切である。
↓↓叔父・明帝劉彧についての個別記事は、こちら

夫・何戢はなぜ生き残ったのか
劉楚玉が処刑された一方、夫の何戢は連座して殺されなかった。
明帝の即位後も何戢は官僚として活動し、建安王劉休仁の軍事行動に従ったのち、
黄門郎、東陽太守、吏部郎などを歴任した。
さらに宋末から南斉初期にかけても官界に残り、侍中、中書令、吏部尚書などの要職を務めている。
劉楚玉の夫だったというだけで
何氏一族全体が前廃帝派として処罰されたわけではなかったことが分かる。
南朝政治では皇族と士族の婚姻は広範に行われており、
政変で皇族女性が処刑されても、その夫の家まで必ず滅ぼされるわけではなかった。
何戢は482年、36歳で死去した。
何婧英は劉楚玉の実娘ではない
何戢の娘で、のちに南斉の鬱林王蕭昭業の皇后となった何婧英も、
劉楚玉の記事ではしばしば取り上げられる。
ただし、ここには注意が必要である。
何婧英は何戢の娘だが、実母は宋氏であり、劉楚玉の実娘ではない。
劉楚玉は何戢の正妻であったため、何婧英にとって嫡母にあたる。
何婧英は南斉の皇族蕭昭業へ嫁ぎ、蕭昭業が皇帝となると皇后となった。
『南史』は、何婧英の嫡母である劉氏を高昌県都郷君、
生母宋氏を余杭広昌郷君としたことを記している。この「劉氏」が劉楚玉である。
したがって、劉楚玉自身の血統が何婧英を通じて南斉皇室へ受け継がれたわけではない。
何氏との婚姻関係を通じて、死後も南斉皇后の「嫡母」という位置づけが残ったと見るべきである。
「淫乱な公主」はどこまで史実なのか
劉楚玉の名は、本人が生きた五世紀よりも、その後の時代にはるかに有名になった。
『宋書』の段階ですでに「淫恣過度」「肆情淫縦」という非常に厳しい人物評が付され、
三十人の面首や褚淵への強要が記録されている。
『南史』『資治通鑑』も基本的にこの人物像を継承したため、
劉楚玉は中国史を代表する「淫乱な公主」として定着していった。
さらに後世の小説や説話では描写が拡大され、
絶世の美女として多数の男性を従えた人物として描かれるようになる。
明代以降の美人画や文学でも題材となり、
『百美新詠図伝』では歴代の美人の一人として取り上げられた。
しかし、ここでは正史に記録された内容と後世の創作を分ける必要がある。
正史で確認できる中心的な事実は、孝武帝の長女で山陰公主となったこと、何戢へ嫁いだこと、
前廃帝から会稽郡長公主への昇格と破格の待遇を与えられたこと、三十人の面首を置かれたこと、
褚淵を求めたものの拒絶されたこと、そして前廃帝の死後に賜死となったことである。
一方、後世に語られる具体的な性愛描写や、劉子業との近親関係などは、
『宋書』の劉楚玉記事には記されていない。
特に弟の前廃帝と性的関係を持ったという話は、後世の歴史小説などで大きく膨らんだものであり、
正史に基づく事実として書くべきではない。
また「皇族第一の美女」「中国史上最も淫乱な女性」といった評価も、
史実そのものではなく後世に形成された人物像である。
その一方で、政治的宣伝だった可能性を強調しすぎて、
三十人の面首や褚淵事件までほとんど信用できない逸話として処理する必要もない。
これらは劉宋滅亡後かなり早い時期に成立した『宋書』に明記され、複数の伝にも残されている。
劉楚玉について最も慎重な見方は、「史書が伝える行動には一定の史料的根拠があるが、
その行動に付された強烈な道徳的評価と、
後世に増幅された人物像は分けて考える」というものになる。
まとめ
劉楚玉の生涯で興味深いのは、三十人の面首という逸話そのものだけではない。
孝武帝の長女として名門何氏へ嫁ぎ、弟が皇帝になると郡王に匹敵する待遇を与えられながら、
その弟が殺害されると翌日には自らも死を命じられている。
彼女には官職も軍隊もなく、自ら皇位を争った形跡もない。
それでも皇帝との近さによって大きな特権を得ることができ、
政権が倒れれば同じ近さが処刑理由となった。
そこには南朝宋後半の皇族女性が置かれた不安定な立場がよく表れている。
「三十人の面首」と褚淵の逸話があまりに有名になったため、
劉楚玉は長く性的なスキャンダルだけで語られてきた。
しかし彼女の人生を政治史の中に戻してみれば、前廃帝の寵愛によって急速に地位を高め、
前廃帝政権の崩壊と同時に粛清された皇族女性だったことが見えてくる。
そして後世に作られた数多くの脚色を取り除いても、『宋書』そのものに残された三十人の面首、
褚淵への要求、会稽郡長公主への破格の昇格という記録だけで、
劉楚玉が南朝宋の公主の中でも異例の存在だったことは十分にうかがえる。
史書・参考文献
・『宋書』巻七「前廃帝紀」
・『宋書』巻五十九「何偃伝」
・『宋書』巻八十「孝武十四王伝」
・『南史』「宋本紀」
・『南斉書』巻三十二「何戢伝」
・『南史』巻十一「后妃伝」
・『資治通鑑』宋紀
・『百美新詠図伝』
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