【前漢】許広漢|死罪寸前から皇帝の外戚となった“波乱の宦官”

前漢の宦官 許広漢 037.宦官

許広漢(きょこうかん)は、前漢の武帝・昭帝・宣帝期を生きた宦官であり、
宣帝の皇后・許平君の父、元帝劉奭の外祖父にあたる人物である。

若い頃には昌邑王に仕える郎だったが、武帝の行幸に随行した際、
他人の鞍を誤って自分の馬に付けたことから盗みの罪に問われ、死刑に相当すると判断された。
その後、宮刑を受けて宦官となり、宦者丞まで昇進したものの、
上官桀の謀反事件では再び処罰され、刑徒として掖庭へ送られるという波乱を経験している。

その許広漢の人生を大きく変えたのが、掖庭で養育されていた皇曾孫・劉病已との出会いだった。
掖庭令の張賀の仲介によって娘の許平君を劉病已に嫁がせると、
許平君は劉奭を産み、まもなく劉病已自身も宣帝として即位する。

かつて死罪寸前まで追い込まれ、宮刑を受けた許広漢は、
一転して皇后の父、皇太子の外祖父となり、最終的には平恩侯に封じられた。

ただし、その出世は最初から順調だったわけではない。
霍光は許広漢が宮刑を受けた「刑人」であることを理由に列侯への封爵を認めず、
皇后の父となってからもしばらく侯にはなれなかった。

許広漢の生涯は、前漢の宮廷における刑罰、宦官、外戚、
そして宣帝をめぐる人間関係が交差する異例の事例である。

許広漢とは

許広漢は昌邑の出身である。
『漢書』「外戚伝上」は、若い頃に昌邑王の郎を務めていたと記している。

ここでいう昌邑王については、武帝の子・劉髆を指すと考えられる。
許広漢はもともと宦官として宮廷に入った人物ではなく、通常の男性官人として諸侯王に仕えていた。

のちに宮刑を受けたため宦官となったが、その時点ですでに娘の許平君がいた。
許広漢が歴史上特異なのは、この経歴によって宦官でありながら娘を持ち、
その娘が皇后となった結果、皇帝の外戚にもなった点にある。

鞍の取り違えから宮刑へ

許広漢の人生が大きく変わったのは、武帝の甘泉宮への行幸に随行した時だった。

他人の鞍を使って死罪に問われる

『漢書』によれば、許広漢は行幸中に他の郎の鞍を誤って取り、自分の馬に付けてしまった。
本人に盗む意思があったとは記されておらず、史書も「誤取」としている。
しかし皇帝の行幸に従っている最中の盗みとして役人から弾劾され、
罪は死刑に相当すると判断された。

現代の感覚では鞍の取り違えで死罪というのは極端に見えるが、
皇帝の行幸中という特殊な状況であり、宮廷秩序に関わる犯罪として厳しく処理されたと考えられる。

その後、「蚕室に下る者を募る」という詔が出され、許広漢は宮刑を受けることで死刑を免れた

「蚕室」とは宮刑を受けた者が収容される場所を指す。
許広漢はここで生殖能力を失い、以後は宦官として生きることになった。

宦者丞まで昇進

宮刑を受けた後も、許広漢は宮廷から排除されなかった。
やがて「宦者丞」となっている。
宦者を管理する官署に属する役職であり、
刑罰を受けた後にも一定の地位まで再び昇進していたことが分かる。

ところが許広漢は、ここでも再び事件に巻き込まれる。

上官桀の謀反事件で再び失脚

昭帝の元鳳元年、紀元前80年、上官桀・上官安・桑弘羊らによる政変計画が発覚した。
許広漢も事件に関係する捜索を担当していた。

証拠品を見つけられず処罰される

『漢書』によれば、許広漢の担当区域にある宮殿内の建物には、
人を縛ることができる数尺の縄が数千本、一つの箱に封じられて隠されていた。
ところが許広漢はこれを発見できず、別の役人が後から見つけた。

そのため許広漢は職務上の責任を問われ、「鬼薪」に処せられた。
鬼薪とは刑徒として労役に服する刑罰で、
もともとは宗廟のための薪を採取する役務に由来する名称である。

許広漢は掖庭へ送られ、そこで労役に従事した後、やがて「暴室嗇夫」となった。
暴室は後宮に属する施設で、病人や罪を犯した宮女などを収容する場所として用いられた。
嗇夫はその実務を担当する役人である。

許広漢は一度宦者丞まで昇進しながら、再び処罰されて掖庭の下級実務官へと転落したことになる。

掖庭で劉病已と縁が生まれる

この掖庭で、許広漢の人生を決定的に変える人物との縁が生まれた。

劉病已、後の宣帝である。

劉病已は「幽閉」されていたわけではない

劉病已は武帝の皇太子・劉拠の孫である。
巫蠱の獄によって父母や祖父母を失い、幼児のうちから獄に入れられたが、
丙吉らの保護によって生き延びた。

その後、朝廷の命令で掖庭に移され、皇族として宗正に籍を置きながら養育されていた。

このため、許広漢の記事で「掖庭に幽閉されていた」とするのは適切ではない。
掖庭で生活していたことは確かだが、この時点では囚人として収監されていたわけではない。
『漢書』は許広漢と劉病已が「同寺居」、すなわち同じ官署の区域に住んでいたと記している。

当時、掖庭令を務めていたのが張賀だった。

張賀はかつて劉病已の祖父・衛太子劉拠に仕えた人物で、
自身も巫蠱の獄に連座して宮刑を受けていた。
張賀は劉病已を深く憐れみ、私財を使って生活と教育を支えていた。

そして劉病已が成長すると、結婚相手を探すことになる。

↓↓劉病已の生活と教育を支えていた張賀についての個別記事は、こちら

【前漢】張賀|皇太子の孫を守り育て“宣帝の恩人”となった宦官
張賀(ちょうが)は前漢の宦官で、巫蠱の獄で宮刑に処されながらも掖庭令として幼い劉病已(のちの宣帝)を保護し、教育し、結婚まで取り計らった恩人。死後は陽都哀侯に追封された人物。

許平君と劉病已の結婚

張賀は当初、自分の孫娘を劉病已に嫁がせようと考えた。
しかし弟の張安世が、衛太子の子孫と張氏が婚姻を結ぶことは政治的に危険だとして反対したため、
この計画は断念された。

そこで張賀が候補として考えたのが、許広漢の娘・許平君だった。

婚約者を失っていた許平君

許平君は当時十四、五歳ほどだった。
もともとは内者令を務める欧侯氏の息子に嫁ぐ予定だったが、
結婚直前に相手の男性が死亡してしまった。

許平君の母は娘の将来を占わせたところ、
「大いに尊貴となる」という結果が出たため、それを喜んでいたという。

もちろん、この占いは後に許平君が皇后となった事実を踏まえて記された逸話
として見る必要があるが、『漢書』に実際に記録されている話である。

張賀の勧めを許広漢が承諾

張賀は、許広漢に娘がいると知ると酒宴を設け、劉病已との婚姻を持ちかけた。

張賀は劉病已について、たとえ将来大きく出世しなくても、
皇族の血筋を考えれば関内侯程度にはなれるだろうという趣旨で説得した。

許広漢はこれを承諾した。
ところが翌日、妻がこの話を知ると激しく怒った。
占いでは娘は将来非常に高貴になると言われていたため、
当時ほとんど政治的地位を持たなかった劉病已との結婚を不満に思ったのである。

それでも許広漢は仲人を立て、最終的に許平君を劉病已へ嫁がせた。
この判断が許広漢自身の人生も、許氏一族の運命も一変させることになる。

劉奭の誕生

結婚から約一年後、許平君は男子を産んだ。劉奭、後の元帝である。

当時の劉病已はまだ皇帝ではなく、皇位継承の中心から遠い皇族にすぎなかった。
許広漢も、この孫が将来皇帝になるとは予想できなかったはずである。

ところがその数か月後、状況は一変した。

宣帝即位と許氏の急浮上

紀元前74年、昭帝が後継者を残さず死去すると、霍光らはまず昌邑王劉賀を皇帝に迎えた。
しかし劉賀は即位後わずか二十七日で廃位され、新たな皇帝として選ばれたのが劉病已だった。

劉病已は宣帝として即位し、許平君はまず婕妤となった。

「故剣」を求めた宣帝

宣帝の即位後、朝廷では新たな皇后を誰にするかが問題となった。
当時、政治の実権を握っていた大将軍霍光には娘の霍成君がおり、
大臣たちは霍氏の娘が皇后になるものと考えていた。

しかし宣帝は、「微時の故剣を求める」と詔した。
貧しく身分の低かった頃に使っていた古い剣を探させるという意味である。

大臣たちはその意図を理解し、
宣帝が貧しい時代からの妻である許平君を忘れていないのだと判断した。
そして許平君を皇后に立てるよう上奏した。

こうして許平君は皇后となり、許広漢は一夜にして皇后の父となった。

皇后の父でも侯になれなかった許広漢

娘が皇后となれば、その父が列侯に封じられることは珍しくなかった。
しかし許広漢の場合、すぐには侯になれなかった。
理由は、かつて宮刑を受けた「刑人」だったことである。

霍光が封侯に反対

『漢書』によれば、霍光は許広漢について、皇后の父であっても刑罰を受けた人物を国君、
すなわち侯国を持つ列侯にすることは適切ではないと考えた。

そのため宣帝は、許平君を皇后に立てた後も、許広漢をすぐ列侯にはできなかった。
一年余りを経てようやく「昌成君」の号を与えている。
昌成君は尊貴な称号ではあったが、列侯とは異なる。

許平君の死

許平君は皇后となって三年後、紀元前71年に亡くなった。

その死の背後には霍光の妻・霍顕がいた。
霍顕は自分の娘・霍成君を皇后にするため、女医の淳于衍を使って出産後の許平君に毒を盛らせた。
許平君は死亡し、「恭哀皇后」と諡され、杜陵の南園に葬られた。

許広漢にとっては、皇后となった娘を早くに失うことになった。
しかし許平君が残した劉奭は生き残り、のちに皇太子となる。

平恩侯となり皇太子の外祖父へ

紀元前67年、宣帝は劉奭を皇太子に立てた。

ここで許広漢の地位は再び大きく変わる。
皇太子の外祖父として、許広漢は正式に平恩侯へ封じられ、「特進」の位を与えられた。
かつて霍光の反対によって侯になれなかった許広漢が、ここでようやく列侯となったのである。

許氏一族も次々と封侯

許広漢だけでなく、弟たちも出世した。
許舜は博望侯、許延寿は楽成侯となり、許氏から三人の列侯が出た。
許延寿はさらに大司馬・車騎将軍となり、宣帝晩年の政権を補佐するまでになる。

もともと許氏は中央政界で有力だった家ではない。
許平君と劉病已の婚姻をきっかけとして、皇帝の外戚へ急速に成長した一族だった。

宣帝の政治にも関わった許広漢

許広漢を単に「娘のおかげで侯になった人物」とするだけでは不十分である。
宣帝の親政が進むと、許広漢は皇帝へ直接意見を届けることのできる外戚として
一定の役割を持つようになった。

魏相の上奏を宣帝へ取り次ぐ

霍光の死後、宣帝は霍氏の権力を徐々に削っていった。

丞相魏相も霍氏一族への権力集中を警戒していたが、
当時は上奏文が尚書を経由する仕組みになっており、
内容によっては皇帝に届く前に握りつぶされる余地があった。

そこで魏相は、許広漢を通じて宣帝に封事を上奏した。

魏相は、霍光の死後もその子や一族が軍事・宮廷の要職を占め続けていることは危険であると指摘し、
その権力を分散させるよう求めた。

さらに、上奏書に副本を付け、尚書が先に内容を確認できる制度も廃止するよう、
再び許広漢を通して申し入れた。
宣帝はこれを認めている。

この事実から、許広漢が単なる名目的な皇帝外戚ではなく、
皇帝への取り次ぎが可能な位置にいたことが分かる。

弟・許舜を皇太子の側に置こうとする

一方で、外戚としての許広漢の行動がすべて受け入れられたわけではない。

皇太子劉奭がまだ若かった頃、
許広漢は弟の許舜を太子家に入れ、皇太子を監護させたいと申し出た。

宣帝は太子太傅の疏広に意見を求めた。
疏広は、皇太子は国家の後継者であり、その師や友は天下の優れた人物から選ぶべきで、
外戚の許氏ばかりを親しく近づけるべきではないと反対した。
また太傅・少傅以下の官属はすでに整っているため、
さらに許舜を監護役として加える必要はないと述べた。

宣帝はこの意見を採用し、許広漢の要望は実現しなかった。

この逸話は、宣帝が許氏を厚遇しながらも、
皇太子教育を外戚の私的影響下に置くことまでは認めなかった
ことを示している。

晩年と死

許広漢は神爵元年、紀元前61年に死去したとされる。
死後、「戴侯」と諡された。

『漢書』は許広漢について「無子」と記している。
男子の後継者がいなかったため、平恩侯国はいったん断絶した。

また許広漢は、娘の許平君が葬られた南園のそばに葬られた。
墓には三百家からなる園邑が設けられ、
長や丞などの官吏を置いて墓を守らせるという厚い待遇が与えられた。

許嘉が平恩侯を継ぐ

元帝が即位すると、許広漢の弟・許延寿の中子である許嘉が改めて平恩侯に封じられ、
許広漢の祭祀を継いだ。
許嘉も後に大司馬・車騎将軍となる。

こうして許広漢の直系男子は途絶えたものの、
許氏そのものは宣帝・元帝期を通じて有力外戚として存続した。

許広漢はどのような人物だったのか

許広漢は、若い頃には鞍の取り違えから死刑に直面し、宮刑を受け、
その後も上官桀事件で職務上の失敗を問われて刑徒に落とされた。
本人の能力によって一貫して地位を上げた人物とは言い難い。

その人生が一変した最大の理由は、娘・許平君と劉病已の結婚だった。
ただし、これを単純に「運が良かっただけ」と片づけることもできない。

張賀から婚姻を持ちかけられた時、妻は反対したが、許広漢は承諾を撤回しなかった。
当時の劉病已は皇曾孫とはいえ、皇位継承からは遠く、
政治的な将来もほとんど保証されていなかった。
その男性に娘を嫁がせる決断をしたことが、後に許氏一族の運命を変えることになった。

また宣帝即位後には、皇帝への上奏を取り次ぐ存在となり、外戚として一定の政治的影響力も持った。一方、皇太子の周囲を許氏で固めようとした試みは疏広によって退けられており、
外戚としての権力拡大を図る面も見える。

「悪名ではなく幸運と縁の象徴」とだけ評価すると、やや単純化しすぎる。
許広漢自身が霍氏のように政権を独占した記録はないが、
宣帝政権下では皇太子の外祖父として無視できない位置にあり、
許氏一族も次々と封侯・高官へ進んでいる。

その意味で許広漢は、権力を振るった宦官として見るより、
宮刑を受けた元官人が偶然と婚姻を通じて皇帝外戚へ転じた、
前漢でも極めて特殊な人物として見るべきだろう。

まとめ

許広漢の生涯で特異なのは、刑罰によって宦官となった人物が、
のちに皇后の父、さらに皇太子の外祖父として列侯にまで上ったことである。

その転機となったのは、張賀の勧めを受けて娘の許平君を、
まだ皇位から遠い立場にあった劉病已へ嫁がせたことだった。
結果として劉病已は宣帝となり、許氏も有力外戚へと成長する。

許広漢自身は霍氏のように政権を掌握した人物ではない。
しかし、刑徒として掖庭にいた人物が婚姻を契機に皇帝家の中枢へ入り、
平恩侯として生涯を終えた経歴は、前漢の外戚の中でも異例のものだった。

史書・参考文献

・班固『漢書』巻8「宣帝紀」
・班固『漢書』巻18「外戚恩沢侯表」
・班固『漢書』巻71「雋疏于薛平彭伝・疏広伝」
・班固『漢書』巻97上「外戚伝上・孝宣許皇后」
・司馬光『資治通鑑』巻25

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