蕭昭業(しょう しょうぎょう、473年-494年)は、南朝斉の第3代皇帝である。
字は元尚、小名は法身。武帝 蕭賾の孫で、皇太子蕭長懋の長男として生まれた。
父の死後に皇太孫となり、493年に武帝が崩御すると21歳で即位した。
若い頃は容姿や立ち居振る舞いに優れ、祖父の武帝から深く寵愛されていたが、
即位後は武帝が残した莫大な財貨を浪費し、側近や後宮の人々を重用したと史書は伝える。
その一方で、武帝の遺詔によって尚書令となった西昌侯蕭鸞が朝廷の実権を強めていった。
蕭昭業は蕭鸞の排除を図ったものの先手を取られ、494年に宮廷クーデターによって殺害された。
死後は皇帝としての地位を剥奪され、鬱林王に降格された。在位は1年にも満たない。
蕭昭業は南斉を代表する暗君として知られる。
しかし、その短い治世は一人の若い皇帝の放縦だけではなく、
武帝蕭賾死後の皇位継承と宗室間の権力争い、
そして後に明帝となる蕭鸞の台頭が重なった時期でもあった。
武帝に寵愛された皇孫
容姿と書に優れた青年
蕭昭業は文恵太子蕭長懋の長男として生まれた。
高帝 蕭道成の曾孫、武帝蕭賾の孫にあたり、南斉皇室の直系に属していた。
武帝が即位すると南郡王に封じられ、永明5年(487年)には東宮の崇政殿で元服した。
『南斉書』巻四によれば、
若い頃の蕭昭業は容姿や立ち居振る舞いが美しく、隷書を好み、受け答えにも優れていたという。
武帝蕭賾は孫を深く寵愛し、他の王侯とは別に身近へ呼び、小名の「法身」で呼んでいた。
武帝蕭賾は蕭昭業の書いた文字がむやみに外へ出ないよう命じたともいい、
少なくとも即位以前から愚鈍な皇族として扱われていたわけではない。
一方、父の蕭長懋は息子の生活を厳しく管理していた。
蕭昭業が南郡王だった頃、自由に金銭を使うことを許さなかったため、
蕭昭業は豫章王妃庾氏に対し、帝王の家に生まれることは福徳のようにいわれるが、
実際には何をするにも拘束され、
市場で自由に暮らす富豪の方がよいという趣旨の不満を漏らしている。
皇帝となった後の激しい浪費を考えるうえでも、
即位以前には父によって金銭や行動を厳しく制限されていたことは見逃せない。
父の死と皇太孫への立太孫
永明11年(493年)、父の蕭長懋が武帝に先立って死去した。
蕭昭業は父の棺前では激しく泣き、悲しみに耐えられない様子を見せた。
しかし『南斉書』は、人前を離れるとすぐに笑って楽しんでいたと記している。
さらに父や祖父が病に伏していた際、
その死を待ち望むような言動をしていたという逸話も残されている。
こうした記述には、
後に廃位された蕭昭業に対する史書の厳しい評価が反映されている可能性を考える必要がある。
ただし、『南斉書』が蕭昭業を、人前では孝行な皇孫として振る舞いながら、
私生活では異なる態度を見せる人物として描いていることは明らかである。
父の死後、武帝蕭賾は蕭昭業を皇太孫に立てた。
武帝には竟陵王蕭子良をはじめ多数の息子が生存していたが、
皇位を弟世代へ移すのではなく、亡くなった皇太子の長男へ継承させる方針が維持された。
同年7月に武帝蕭賾が崩御すると、蕭昭業が21歳で即位した。
↓↓祖父・武帝(蕭賾)についての個別記事は、こちら

即位と武帝死後の政権
複数の宗室・重臣による補佐
武帝蕭賾は死に際して、若い蕭昭業を支えるための人事を残した。
竟陵王蕭子良を太傅、西昌侯蕭鸞を尚書令とし、
武陵王蕭曄、陳顕達、沈文季らにも重要な地位を与えた。
このため、即位直後から蕭昭業がすべての政治権力を失っていたわけではなく、
蕭子良と蕭鸞だけが政権を分け合ったわけでもない。
複数の宗室と重臣が若い皇帝を支える体制が作られ、
その中で蕭鸞が次第に大きな権力を持つようになった。
蕭昭業の即位直後には、滞納していた租税の一部免除、
不要となった官有施設の整理、関市の負担軽減、軍籍から民籍への復帰などを命じる詔も出された。
隆昌元年(494年)正月にも、百官に政治の得失について意見を求め、
人材を推薦させるとともに、地方官へ農業振興や刑政・民情の把握を命じている。
したがって、蕭昭業が即位した途端に南朝斉の行政機構そのものが停止したわけではない。
しかし皇帝自身は、次第に政務よりも宮廷内での享楽に傾いていった。
武帝の遺産を浪費
数億銭を使い果たしたとされる浪費
蕭昭業の治世を象徴するのが、即位後の莫大な浪費である。
父から金銭使用を厳しく制限されていた蕭昭業は、皇帝になると大規模な恩賞を繰り返した。
『南斉書』によれば、一度の賞賜が百数十万銭に達することもあり、
金を見ると、以前は一文すら自由に使えなかったが、
今なら使えるという趣旨の言葉を口にしたという。
武帝蕭賾が宮中の斎庫に蓄えていた銭は数億に達していたが、
蕭昭業の即位後一年ほどでほとんど使い果たされたと記されている。
皇后や寵姫を衣服や宝物を収めた倉へ入れ、宦官らにも人を付けて好きなだけ財物を運び出させた。
宝器を互いにぶつけて壊し、それを遊びとして楽しんだという逸話も残る。
闘鶏を好み、密かに鶏を買い求めて一羽に数千銭を費やすこともあった。
武帝蕭賾が使用していた甘草杖を宮女たちに細かく切らせ、
武帝蕭賾の招婉殿を壊して寵愛する徐龍駒の住居に与えたともいう。
ただし、ここでいう「数億銭」は武帝蕭賾が斎庫に蓄積していた宮廷財産である。
これを根拠に、南朝斉国家の財政そのものが
蕭昭業の一年足らずの治世で完全に破綻したとするのは行き過ぎである。
喪中にも続いた享楽
蕭昭業の行動は、当時重視された服喪の規範からも大きく外れていたとされる。
父の蕭長懋が死去した際には人前で激しく泣きながら、奥へ戻ると笑って楽しんだと記されている。
祖父の武帝蕭賾が崩御した際にも、喪の儀式で泣いた後に後宮へ戻り、
胡人の楽妓を二組並べて音楽を演奏させたという。
こうした逸話は、
蕭昭業の「表向きの孝行」と「私生活での放縦」の落差を示すものとして史書に収められた。
武帝蕭賾は生前、蕭昭業を深く寵愛していた。
それだけに、武帝蕭賾の死後すぐに享楽へ戻ったという記録は、
後世における蕭昭業の暗君像を強く形作ることになった。
後宮と側近をめぐる混乱
父祖の姫妾にまで手を出す
蕭昭業の放縦は後宮にも及んだ。
『南斉書』によれば、
武帝蕭賾や父・蕭長懋の姫妾まで自らの後宮に入れ、父の寵姫だった霍氏とも関係を持ったとされる。
霍氏については、表向きには出家して尼になったことにしながら、実際には宮中へ残したという。
皇后何氏についても史書は淫乱だったと記し、
後宮の門が夜通し開かれ、宮廷内外の区別が失われていたとする。
蕭昭業自身も宮廷内で礼制を顧みず、微服して密かに外出することがあった。
何日も宮中へ戻らず、正式な朝服だけが用意されたまま、
皇帝不在の宮殿を宿衛の兵が守っていたともいう。
これらの記録で問題とされているのは、単なる性的放縦だけではない。
本来厳格に管理されるべき宮廷の内外や公私の境界が失われ、
皇帝自身がその秩序を守らなくなったことである。
徐龍駒ら側近の台頭
蕭昭業の周囲では、中書舎人綦毋珍之、朱隆之、曹道剛、周奉叔らが側近として勢力を伸ばした。
なかでも徐龍駒は蕭昭業から強く信任され、後閤舎人として後宮へ出入りし、
皇帝の近くで影響力を持った。
しかし、この側近集団を危険視したのが尚書令の蕭鸞だった。
蕭鸞は蕭昭業へたびたび諫言し、徐龍駒を処刑させた。
周奉叔や綦毋珍之らも排除され、蕭昭業の周囲から皇帝に近い人物が次々と失われていった。
蕭昭業は皇帝でありながら、自らが信任する側近を蕭鸞から守ることができなかった。
この段階になると、問題は蕭昭業の放縦だけではなく、
誰が南朝斉の政権を実際に動かすのかという権力闘争へ移っていた。
蕭鸞との対立と宮廷クーデター
蕭鸞排除を図る
蕭昭業も、蕭鸞が自らの皇位を脅かす存在であることに気づいていた。
皇后何氏の叔父にあたる中書令何胤に蕭鸞殺害を相談し、実行を任せようとしたが、
何胤は引き受けず、計画を思いとどまるよう諫めたため実行には至らなかった。
また蕭昭業は、蕭鸞を政権中枢から遠ざけようとした。
一方の蕭鸞も、自らが排除される危険を感じていた。
ここで重要なのが蕭諶と蕭坦之である。
二人は蕭昭業から信任されていたが、次第に蕭鸞側へ接近し、
宮廷内部から政変に協力するようになった。
蕭昭業は蕭鸞を排除しようとしたが、先に行動したのは蕭鸞だった。
494年、宮中で殺害される
隆昌元年(494年)7月、蕭鸞は政変を決行した。
蕭諶・蕭坦之らが曹道剛、朱隆之ら皇帝側近を殺害し、蕭鸞は兵を率いて雲龍門から宮中へ入った。
王晏、徐孝嗣、陳顕達、沈文季らも政変に加わった。
蕭昭業は寿昌殿にいた。
異変を知ると内殿の門を閉じさせ、宦官を興光楼へ上らせて外の様子を確認させた。
しかし蕭諶らは宮中へ侵入し、寿昌閤を封鎖する。
蕭昭業は愛姫徐氏の部屋へ逃げ、自ら剣で刺そうとしたものの失敗した。
その後、首に絹を巻いた状態で担ぎ出された。
宿衛の兵士たちは武器を手に抵抗しようとしたが、
蕭諶は標的は決まっているので動く必要はないと告げた。
兵士たちはその言葉を信じ、蕭昭業が連れ出されて初めて事態を悟ったという。
蕭昭業は延徳殿の西側で殺害された。22歳だった。
皇帝から鬱林王へ降格
蕭昭業の死後、皇太后王宝明の令という形式で廃位が宣言された。
廃位の理由として、服喪中の享楽、酒色への耽溺、側近の重用、先帝の姫妾との関係、
宮廷秩序の混乱、微服での外出、忠臣への猜疑などが列挙された。
蕭昭業は皇帝としての地位を剥奪され、鬱林王へ降格された。
遺体は徐龍駒の旧宅へ移され、王の礼で葬られた。
皇帝としての廟号や諡号は与えられていない。
蕭鸞はすぐに自ら即位せず、蕭昭業の弟蕭昭文を皇帝に立てた。
しかし実権は蕭鸞が握り、蕭昭文も数か月後には廃位される。
蕭鸞は自ら即位して明帝となり、さらに高帝 蕭道成・武帝 蕭賾系の皇族を次々と粛清していった。
↓↓明帝(蕭鸞)についての個別記事は、こちら

蕭昭業は本当に南斉を崩壊させたのか
蕭昭業が皇帝として大きな問題を抱えていたことは否定しにくい。
武帝 蕭賾が残した宮廷財産を短期間で消費し、服喪中にも享楽を続け、
後宮や側近を中心とする生活に傾いたことは、『南斉書』に具体的に記録されている。
しかし、南朝斉そのものが蕭昭業によって滅ぼされたわけではない。
蕭昭業が殺された494年から南朝斉が滅亡する502年までには約8年あり、
その間には明帝蕭鸞による皇族粛清、蕭宝巻の失政、各地の反乱、
蕭衍の挙兵という重大な事件が続いた。
また、蕭昭業を殺した蕭鸞を、混乱した王朝を救った忠臣と見ることもできない。
蕭鸞は蕭昭業を殺した後、その弟を皇帝に立てて実権を握り、
やがて蕭昭文も廃して自ら皇帝となった。
さらに即位の障害となり得る高帝 蕭道成・武帝 蕭賾系の皇族を大量に排除している。
蕭昭業の治世で決定的だったのは、南朝斉が滅亡したことではなく、
武帝 蕭賾まで維持されていた直系皇統の安定が崩れたことである。
蕭昭業は皇帝でありながら、蕭鸞を抑えるだけの政治基盤を築くことができなかった。
自らの側近を利用して対抗しようとしても、その側近を次々と排除され、最後には宮中で殺害された。
蕭昭業の放縦は蕭鸞に政変の口実を与えた。
そして蕭鸞による政変は、蕭昭業個人の廃位にとどまらず、
武帝 蕭賾の子孫から皇位を奪う簒奪へと発展していった。
まとめ
蕭昭業には、南朝斉の暗君と呼ばれるだけの根拠が史書に残されている。
莫大な浪費や喪中の享楽、後宮の混乱は、後世に作られた逸話だけではなく、
『南斉書』が具体的に伝えるものである。
しかし、蕭昭業の失脚を「放蕩な若者が自滅した」というだけの話にしてしまえば、
武帝 蕭賾死後の南朝斉で起きた変化は見えなくなる。
皇帝でありながら蕭鸞の権力拡大を止められず、
排除を試みたときにはすでに宮廷内部まで切り崩されていた。
494年の蕭昭業殺害を境に、南朝斉では武帝の直系から蕭鸞へと実権が移り、
皇位そのものが政変によって動かされる時代に入る。
蕭昭業は南朝斉を一人で滅ぼした皇帝ではない。
その短い治世は、
武帝 蕭賾の「永明の治」から明帝蕭鸞の簒奪と粛清政治へ移る転換点だったのである。
史書・参考文献
・『南斉書』巻四「鬱林王紀」
・『南斉書』巻二十一「文恵太子伝」
・『南斉書』巻四十二「王晏・蕭諶・蕭坦之・江祏伝」
・『南史』巻五「斉本紀下」
・『資治通鑑』巻一三八~一三九
・王仲犖『魏晋南北朝史』
・川勝義雄『六朝貴族制社会の研究』
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