司馬錯とは何者か|蜀併合で秦を「勝てる国」に変えた戦略家の実像

司馬錯(秦・武将) 033.武将

司馬錯(しばさく)は、戦国時代中期の秦に仕えた将軍である。
生没年はわからず、白起や王翦のような独立した列伝も残されていない。

それでも『史記』『戦国策』『華陽国志』などに散在する記録を拾っていくと、
秦恵文王から昭襄王の時代にかけて長く軍事に携わり、
蜀の征服と再平定、魏方面への進出、楚の黔中攻略など、
秦が西方の一国から巨大な領域国家へ変わっていく過程に深く関わった人物だったことがわかる。

司馬錯を最も有名にしたのは、紀元前316年、
秦が韓と蜀のどちらを攻めるべきかをめぐって張儀と争った「伐蜀・伐韓論争」である。

張儀が中原へ進出して周王室を圧迫する構想を唱えたのに対し、
司馬錯はまず蜀を取り、領土と財貨を増やして秦そのものを強くするべきだと主張した。
恵文王は司馬錯の策を採用し、その年のうちに蜀は秦によって滅ぼされた。

しかも司馬錯と蜀との関係は、この一戦で終わらない。
征服後の混乱にも関わり、昭襄王の時代には再び蜀を平定し、
晩年にはその蜀を経由して楚へ攻め込んでいる。

史料上の空白や異説を含め、司馬錯の生涯を時系列に沿って見ていく。

出自――司馬遷につながる秦の司馬氏

司馬錯の生年や父母、少年期について伝える史料はない。
出自を知る手掛かりとなるのは、『史記』「太史公自序」に記された司馬氏の系譜である。

司馬遷によれば、司馬氏はもともと周王室に仕えた家系で、のちに各地へ分かれた。
そのうち秦へ移った一族は少梁に居住し、そこから司馬錯が出たという。
少梁はのちに夏陽と改称された土地で、現在の陝西省韓城市付近にあたる。

秦系司馬氏がいつ少梁へ移住したのか、
司馬錯がどのような経緯で秦王に仕えるようになったのかはわからない。
史料に姿を現した時点ではすでに王の前で国家戦略を論じるほどの地位にあり、
それ以前に相応の軍歴や官歴を積んでいた可能性は高いが、
その過程を復元できる記録は残っていない。

司馬錯は、のちの歴史家・司馬遷にとっても遠い過去の秦将ではなかった。
『史記』は司馬錯の孫を司馬靳とし、
その後、司馬昌、司馬無沢、司馬喜、司馬談を経て司馬遷へと続く家系を記している。
司馬遷自身が、司馬錯を自らの祖先の一人として歴史のなかに位置づけているのである。

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秦恵文王に仕える

司馬錯がはっきりと歴史上に姿を現すのは秦恵文王の時代である。
紀元前316年には、秦王の前で張儀と今後の対外政策を論じている。

張儀は合従策に対抗する連衡策を進め、恵文王から厚く信任されていた秦政界の中心人物だった。
その張儀と王前で国策を争い、最終的に自説を採用させたことからも、
司馬錯が単なる現場指揮官ではなく、
秦の軍事政策について意見を述べられる立場にあったことがわかる。

『華陽国志』では蜀遠征の場面に張儀・司馬錯・都尉墨らが並んで登場し、
別の箇所では司馬錯を「大夫」とする記述もある。
ただし独立した列伝がないため、いつどの官職に就き、どの順序で昇進したのかまでは追えない。

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巴・蜀の内紛

紀元前316年、秦の南西に位置する巴・蜀で内紛が起きた。
当時の四川盆地西部には蜀、東部には巴があり、その間には苴と呼ばれる勢力が存在していた。

『華陽国志』によれば、蜀王は弟を漢中の葭萌に封じて苴侯としたが、
苴侯は蜀と敵対する巴王と親しく交わるようになった。
これを知った蜀王は苴侯を攻撃し、敗れた苴侯は巴へ逃亡した。
巴側はさらに秦へ救援を求め、秦は四川盆地の争いへ介入する機会を得た。

しかし秦には別の選択肢もあった。
東方では韓への攻勢を強める余地があり、中原へ直接進出すれば周王室を圧迫することもできる。
ここで秦が西南の蜀へ向かうのか、それとも東方の韓へ向かうのかをめぐり、
司馬錯と張儀の意見が分かれた。

張儀との論争――韓を取るか、蜀を取るか

『戦国策』「秦策一」には、司馬錯と張儀が秦恵王の前で論争した記事が残る。

張儀が唱えたのは韓への攻撃だった。
魏・楚と連携して韓の三川方面へ進み、さらに東西周を圧迫して九鼎や図籍を手に入れれば、
秦は周天子を押さえて諸侯に号令できるという構想である。
秦が中原の政治秩序へ直接入り込み、一気に天下の主導権を握ろうとする策だった。

張儀にとって蜀は優先順位の低い土地だった。
西方の遠隔地にある蜀を征服しても天下に対する威名は上がらず、
秦が王業を進めるなら韓を破って周王室を掌握する方が効果が大きいと考えたのである。

これに対し、司馬錯は秦の現状そのものを違った角度から見ていた。
秦は強国ではあるが、まだ天下を制するだけの土地と富を十分に備えていない。
まず国家の基礎を拡大してから中原へ進むべきだというのが、司馬錯の判断だった。

司馬錯の伐蜀論

『戦国策』で司馬錯は、国を富ませるには領土を広げ、兵を強くするには民を富ませ、
王者となるには徳を広めるべきだと論じる。
そのうえで、当時の秦はまだ領土が十分ではなく、民も豊かではないため、
まず容易に利益を得られる相手を攻めるべきだとした。

その対象が蜀だった。
内乱中の蜀を征服すれば広大な土地を得られ、財貨を取り込んで秦の国力を増すことができる。
しかも秦は「乱を鎮める」という名目で介入できるため、他国から露骨な侵略と見なされにくい。

一方、韓を攻めて周王室を脅し、九鼎を奪えば事情は異なる。
天子を圧迫したという悪名を負ううえ、韓・周だけでなく斉・趙・楚・魏まで秦に警戒し、
連携して対抗する可能性がある。

司馬錯が見ていたのは一度の戦争でどれほど華々しい勝利を得られるかではなく、
その戦争によって秦が何を獲得し、周囲の諸国がどう動くかだった。

蜀を取れば領土と財貨を得ながら、天下から貪欲・暴虐と非難される危険も比較的小さい。
司馬錯はこの策なら「名」と「実」をともに得られると説き、秦恵文王はその意見を採用した。

『華陽国志』が伝えるもう一つの伐蜀論

『華陽国志』「蜀志」にも、秦が蜀攻略を決定するまでの議論が記されている。
ただし、そこに描かれた構想は『戦国策』よりも軍事的な色合いが強い。

ここでは司馬錯と中尉・田真黄が蜀攻略を唱え、
蜀の布帛や金銀を軍費として利用できることに加え、
巴蜀の兵と舟を用いれば長江水系を通って楚へ攻め込めると論じている。
最終的には、蜀を得れば楚を得ることができ、
楚が亡びれば天下併合へ近づくというところまで議論が進む。

『戦国策』では国力増強と諸侯外交の利害が中心なのに対し、
『華陽国志』では蜀そのものを楚攻略の拠点として利用する発想が前面に出ている。

どちらが紀元前316年当時の議論をより正確に伝えているかは判断できないが、
後年の司馬錯が実際に蜀を経由して楚へ侵攻したことを考えると、
秦にとって蜀が単なる征服地ではなく、
南方へ進出するための地理的な足場でもあったことは重要である。

紀元前316年――司馬錯、蜀へ侵攻

秦恵文王後元9年、紀元前316年、秦は司馬錯の主張を採用して蜀へ出兵した。

『史記』「秦本紀」は「司馬錯、蜀を伐ち、これを滅ぼす」と簡潔に記しているが、
『華陽国志』にはさらに詳しい経過が残る。
同年秋、張儀・司馬錯・都尉墨らは秦と蜀を結ぶ石牛道を通り、山地を越えて四川盆地へ進入した。

蜀王も軍を率いて北上し、葭萌で秦軍を迎え撃った。
秦の介入は苴侯救援を名目として始まったものの、
ここに至って戦争は蜀王国そのものの存亡をかけた戦いとなった。

葭萌の戦いと蜀王の最期

葭萌の戦いでは秦軍が勝利し、敗れた蜀王は南へ逃れた。
『華陽国志』によれば、蜀王は武陽まで退却したものの追撃を受けて殺され、
王の傅・相・太子らも逢郷方面へ逃走した末、白鹿山で死んだという。

これによって蜀を支配してきた開明氏の王朝は滅亡した。
同年冬10月には蜀全域の平定が進み、秦軍はさらに苴と巴へ勢力を広げた。
もともとは苴と蜀の争いに救援者として介入した秦だったが、
結果として救援対象を含む四川盆地の諸勢力を支配下へ組み込むことになった。

巴・苴まで秦の勢力下に入る

蜀を破った秦は東方の巴にも進んだ。
『華陽国志』には巴王が秦によって捕らえられたことが記され、その後、巴の地には巴郡が置かれた。

これによって秦は関中だけでなく、その南西に広がる四川盆地へ一挙に版図を広げた。
四川盆地は肥沃な平野を持ち、塩や金属資源にも恵まれ、
さらに長江水系を通じて東方の楚へつながっている。

秦がこの地域をどこまで短期間で利用できたかは別として、
蜀征服によって領土構造そのものが大きく変化したことは確かだった。

蜀征服後の統治

蜀王国を滅ぼした秦は、ただちに旧蜀領を通常の郡として完全に直轄化したわけではなかった。

『華陽国志』によれば、秦恵文王は子の通国を蜀侯に封じ、陳壮を相とした。
また張若を蜀国守とし、秦から一万家を移住させたという。
旧蜀の支配体制を部分的に利用しながら秦の官僚と住民を送り込み、
徐々に支配を固めていく方式だったとみられる。

『史記』「太史公自序」には、司馬錯について蜀を攻略した後に「因而守之」と記されている。
この表現から司馬錯自身が征服後の守備や統治に関わったと考えることはできるが、
正式に「蜀守」へ任命されたことを示す記録はなく、どこまで現地行政を担当したのかは不明である。

なお、『華陽国志』に見える成都・郫・臨邛などの築城事業では、
成都城の建設に関わった人物として張儀や張若の名が挙げられている。
司馬錯を成都の都市建設を主導した人物とすることは、現存史料からは確認できない。

征服後も続いた蜀の混乱

秦による蜀支配は、一度の征服戦によって安定したわけではない。

『華陽国志』には、蜀相の陳壮が反乱を起こし、蜀侯通国を殺害したという記事があり、
秦は庶長甘茂・張儀・司馬錯らを派遣して陳壮を誅したとされる。
ただし、この事件については紀年や張儀の動向が他史料と整合しない部分があり、
記述全体をそのまま確定史実として扱うことは難しい。

それでも、征服直後の蜀で旧支配層と秦側の統治機構をめぐる混乱が続き、
秦が現地支配を固めるまでには一定の時間を必要としたことは、後の事件からも確認できる。

紀元前301年――再び蜀を平定

秦昭襄王6年、紀元前301年、司馬錯は再び蜀へ派遣された。

『史記』「秦本紀」には「蜀侯煇反す。司馬錯、蜀を定む」とあり、
「六国年表」にも司馬錯が蜀へ赴いて煇を誅し、蜀を平定したと記されている。
紀元前316年の征服から十五年が過ぎても、
司馬錯は蜀で重大事件が起きた際に起用される立場にあった。

一方、『華陽国志』はこの事件をまったく異なる形で伝える。
そこでは蜀侯惲が山川への祭祀に用いる供物を秦王へ献上しようとしたところ、
蜀侯を憎む継母が密かに毒を加えた。
秦王が近臣に試食させると死亡したため、蜀侯に謀反の疑いがかかり、
司馬錯が剣を持って蜀へ派遣されたという。

追及を受けた蜀侯は妻とともに自殺し、郎中令嬰ら二十七人も処刑された。
のちに蜀侯の無実が判明して改葬されたとも伝えられる。

『史記』が明確に「反乱」とするのに対し、
『華陽国志』では謀反そのものが冤罪だったことになっており、両者の内容は一致しない。
ただし、いずれの系統でも司馬錯が事件処理のため蜀へ赴いたとされている点は共通している。

昭襄王のもとで東方戦線へ

司馬錯は蜀攻略によって知られるが、
昭襄王期の史料には魏方面でも「錯」と呼ばれる将が繰り返し現れる。

ここでは人物比定に注意が必要となる。
史料には「司馬錯」のほか、「尉錯」「左更錯」「客卿錯」、単に「錯」とだけ記された人物があり、
これらをすべて司馬錯とみなすかについて確実な結論は出ていない。

年代が連続していることから同一人物とみる解釈は成り立つものの、
『史記』内部でも「秦本紀」「六国年表」「白起王翦列伝」の年代や肩書には食い違いがある。
したがって、以下の魏方面での戦歴は、
司馬錯本人であることが明記された蜀・楚での事績とは区別して見る必要がある。

紀元前295年――襄城を攻撃

紀元前295年、『資治通鑑』には「秦の尉錯、魏の襄城を伐つ」とあり、
胡三省の注では「尉」を国尉と解している。

この尉錯を司馬錯とみなすなら、
紀元前301年の蜀平定後には東方戦線へ移り、魏への攻撃を指揮していたことになる。
ただし史料はここで姓を記しておらず、司馬錯本人であることを断定はできない。

紀元前291年――左更錯、軹と鄧を取る

秦昭襄王16年、紀元前291年、『史記』「秦本紀」は「左更錯、軹及び鄧を取る」と記している
。左更は秦の爵位で、この人物を司馬錯とみる場合、彼が左更に昇っていたことになる。

軹と鄧はいずれも魏の河内方面に位置する要地であり、
ここでいう鄧は楚に近い南陽の鄧ではなく、軹の近くにあった魏の邑と解される。

秦はこの時期、白起らを使って韓・魏への攻撃を本格化させており、
「錯」の軍事行動もその一環だった。

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紀元前289年――垣・河雍と六十一城

紀元前289年にも、「錯」と呼ばれる将が魏との戦争に現れる。

『史記』「秦本紀」では、錯が垣と河雍を攻め、橋を決壊させてこれを取ったとされる。
一方、「六国年表」には客卿錯が魏を攻めて軹まで進み、大小六十一城を奪ったとの記録があり、
『資治通鑑』では大良造白起と客卿錯が共同して魏を攻め、六十一城を取ったとされている。

ところが『史記』「白起王翦列伝」に記された白起の戦歴は、
「秦本紀」や「六国年表」と年代が一致しない部分があり、
垣・軹・六十一城をめぐる記事は特に錯綜している。
そのため、「司馬錯と白起がこの年に共同して六十一城を攻略した」と断定するのは避けた方がよい。

確実に言えるのは、昭襄王18年前後に秦軍が魏領へ大規模な侵攻を行い、
その作戦に「錯」と呼ばれる将が参加していたことである。

紀元前286年――魏の河内を攻める

秦昭襄王21年、紀元前286年、『史記』「秦本紀」には再び「錯」が現れ、
魏の河内へ攻め込んでいる。

戦いの結果、魏は安邑を秦へ献上した。
秦は安邑の住民を移動させる一方、河東へ移住する者には爵位を与え、
さらに罪人を赦して新領土へ移住させた。
秦が軍事的に土地を奪うだけでなく、人口移動を伴わせて領土支配を固めていたことがわかる。

この「錯」まで司馬錯本人とみなすなら、
紀元前316年の蜀征服からすでに三十年にわたって第一線で軍を率いていたことになる。
ただし、ここでも史料は「司馬錯」とは記していない。

紀元前280年――蜀を経由して楚の黔中を攻略

秦昭襄王27年、紀元前280年、司馬錯は再び南方戦線に現れる。
『史記』「秦本紀」によれば、秦は司馬錯に隴西の兵を動員させ、
その軍を蜀へ入れたうえで楚の黔中へ進攻させた。
司馬錯は黔中を攻略し、秦は楚の西方領域へさらに勢力を広げた。

同じ年、楚は秦との戦いに敗れて漢水以北と上庸の地を割譲している。
ただし、これらの割譲と司馬錯の黔中攻略をすべて同一の作戦による結果とみなせるかには
注意が必要である。

魏戦線の記事では「尉錯」「左更錯」「客卿錯」などの人物比定に問題が残るが、
この遠征について『史記』は明確に「司馬錯」と記している。
したがって紀元前280年の黔中攻略は、司馬錯本人の確実な軍歴として扱うことができる。

十万の兵、一万艘の船――『華陽国志』の楚遠征

『華陽国志』には、司馬錯の楚遠征について『史記』よりも具体的な記録が残る。

それによれば、司馬錯は巴・蜀の兵十万を率い、大船一万艘を用意し、
米六百万斛を積み込んで長江水系を下り、楚へ攻め込んだ。
さらに商於を攻略し、これを黔中郡としたとされる。

十万の兵、一万艘の船、六百万斛の米という数字をそのまま実数とみなせるかは
慎重でなければならない。
『華陽国志』の紀年には『史記』と一致しない部分があり、
商於と黔中をめぐる地理的な記述にも問題が残るため、
遠征の規模や経路を細部まで確定することはできない。

それでも、『史記』にも司馬錯が蜀を経由して黔中へ攻めたことは明記されている。
紀元前316年に秦が征服した四川盆地が、
数十年後には楚へ軍を送るための経路として実際に利用されていたことになる。

史料から姿を消す司馬錯

紀元前280年の黔中攻略を最後に、司馬錯本人の活動を明確に伝える記事は史料から見えなくなる。
いつ死んだのか、どこで死んだのか、死因が何だったのかはいずれもわからず、
戦死や失脚、処刑を伝える記録も残されていない。墓所についても確実な情報はない。

紀元前316年の蜀征服から紀元前280年の楚攻略までだけでも、
確認できる活動期間は三十六年に及ぶ。
若いころの経歴がまったくわからないことを考えれば、
実際の仕官期間はさらに長かった可能性がある。

司馬錯が最初に現れたのは、張儀が秦の外交を動かしていた恵文王の時代だった。
その後も昭襄王のもとで活動を続け、晩年には白起が秦軍の中心へ台頭する時代まで生きている。
戦国中期の秦が急速に領土を広げた数十年間を、ほぼ一貫して軍事の第一線で過ごした人物だった。

孫・司馬靳と白起

司馬錯自身の最期はわからないが、その家系は『史記』「太史公自序」によって追うことができる。
司馬錯の孫・司馬靳は秦の将軍となり、武安君・白起に仕えた。

司馬靳は紀元前260年の長平の戦いにも参加した。
「太史公自序」には、司馬靳が白起とともに趙の長平軍を陥れたとあり、
趙軍の主力が壊滅した大戦役に従軍していたことが確認できる。

長平の戦いの後、白起は秦昭襄王や宰相・范雎との関係を悪化させ、
再度の趙遠征にも消極的な態度を取り続けた。
やがて王命によって杜郵まで移され、紀元前257年に自害を命じられる。

司馬靳も白起とともに死を賜ったと「太史公自序」は伝え、華池に葬られたという。
祖父の司馬錯が蜀・楚へ秦の領土を広げた時代から、その孫が長平で趙軍を破る時代まで、
司馬氏は秦の対外戦争に関わり続けていた。

司馬錯から司馬遷へ

司馬靳の死後も司馬氏の家系は続いた。
『史記』「太史公自序」によれば、司馬靳の孫・司馬昌は秦の時代に鉄官を主管し、
その後は司馬無沢、司馬喜、司馬談へと系譜がつながる。
司馬談は前漢で太史令を務め、その子として生まれたのが『史記』を著した司馬遷である。

系譜を簡略化すると、司馬錯 → (子・名不詳) → 司馬靳 → (子・名不詳) → 司馬昌 → 司馬無沢 → 司馬喜 → 司馬談 → 司馬遷 となる。

司馬遷は司馬錯のために独立した列伝を立てなかったが、
「太史公自序」では自家の歴史を述べるなかで司馬錯の名を挙げ、蜀を攻めた事績を記している。
続いて孫の司馬靳が白起とともに長平で戦ったことも記録した。

司馬錯の生涯そのものを詳細に伝える列伝は失われた、あるいは最初から作られなかった。
それでもその名と蜀攻略の事績が今日まで残った背景には、
子孫である司馬遷自身が一族の歴史として書き留めたことも大きい。

人物評・評価

司馬錯については、容貌や性格、私生活を伝える逸話がほとんど残されていない。
白起のような戦場での詳細な逸話もなく、
どのような陣形を好み、どのような戦術を得意としたのかもわからない。
そのため、後世から司馬錯独自の兵法や戦闘様式を作り上げることはできない。

一方で、史料に残る言葉と軍歴からは、司馬錯が単なる実戦指揮官ではなかったことが見えてくる。

『戦国策』の伐蜀論で司馬錯が論じたのは、敵をどのように撃破するかではなく、
秦がどの土地を取れば国力を増し、その戦争によって他国がどう動くかという問題だった。

韓と周を攻めれば秦は一時的な威名を得られるかもしれないが、諸侯の反発を招く。
内乱中の蜀なら比較的小さな外交的代償で土地と財貨を獲得できる。
この判断には軍事だけでなく、経済と外交を同時に見る発想があった。

そして司馬錯は、自ら主張した蜀攻略を実際に軍を率いて実行した。
征服後も蜀で重大事件が起これば派遣され、
昭襄王期の紀元前280年には蜀を経由して楚の黔中へ進攻している。

恵文王から昭襄王に至る長い期間、
秦が西南方面の重要な軍事行動に司馬錯を繰り返し起用していることは、
その経験と能力が王権から高く評価されていたことを示している。

もっとも、蜀征服の後に秦が強大化したすべての結果を司馬錯一人の功績に帰することはできない。
征服後の蜀統治には張若らが関わり、さらに後代には蜀守・李冰による都江堰の整備が行われた。
東方では白起らが韓・魏・楚・趙を相次いで撃破し、
秦が天下を統一するまでにはさらに約一世紀を要している。

司馬錯の歴史的な位置は、秦の天下統一を完成させたことではなく、
秦が持つ領土の形と進出方向を大きく変えたところにある。

それまで関中を中心としていた秦は、蜀征服によって四川盆地へ領土を広げた。
紀元前280年には、その新たな領域を通って楚へ軍が送られている。
司馬錯は「蜀を取るべきだ」と王に説いた人物であると同時に、
その征服を自ら実行し、数十年後には同じ地域を経由してさらに外へ進んだ将軍だった。

戦場で何万人を斬ったかという数字ではなく、秦が次に何を持つべきかを考えたこと。
それが、司馬錯を戦国時代の多くの将軍とは異なる存在にしている。

まとめ

司馬錯には独立した列伝がなく、生年も没年も、どのような最期を迎えたのかもわからない。
それでも『史記』『戦国策』『華陽国志』を合わせれば、
秦恵文王の時代に国策を論じ、紀元前316年に蜀を征服し、
その後も昭襄王のもとで数十年にわたって軍事に関わった人物像が浮かび上がる。

司馬錯の名を最もよく表すのは、やはり蜀である。
蜀を攻めるべきだと唱え、自ら軍を率いてその王国を滅ぼし、征服後の混乱にも関わり、
晩年には蜀を経由して楚へ攻め込んだ。

秦の天下統一は司馬錯一人が作ったものではない。
しかし秦が関中の外へ大きく版図を広げ、四川盆地という新たな領域を獲得した転換点に、
司馬錯がいたことは確かである。
彼の功績は一つの大勝利ではなく、秦がその後どこへ進める国になるかを変えたことにあった。

お薦め商品

漫画『キングダム』の司馬錯(しばさく)は、
秦の「六大将軍」の一人として名前が登場する武将。
王騎や白起、胡傷らと同じ旧六大将軍の世代に属する。

史書・参考文献

・『史記』巻5「秦本紀」
・『史記』巻15「六国年表」
・『史記』巻70「張儀列伝」
・『史記』巻73「白起王翦列伝」
・『史記』巻130「太史公自序」
・『戦国策』「秦策一・司馬錯与張儀争論於秦恵王前」
・常璩『華陽国志』「巴志」
・常璩『華陽国志』「蜀志」
・『資治通鑑』「周紀」
・『史記』三家注(『集解』『索隠』『正義』)

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