童貫(どうかん、?-1126年)は、北宋末期の徽宗に仕え、
約20年にわたって軍事に強い影響力を持った宦官である。
若い頃に宦官将軍・李憲の門下に入り、徽宗即位後には杭州の明金局を担当して蔡京と結びつき、
やがて西北戦線で軍事的地位を確立した。
青唐方面や西夏との戦争で功績を重ね、太尉・開府儀同三司・太師など異例の高位に上り、
時には「媼相」と呼ばれるほどの権勢を誇った。
方臘の乱では十五万の大軍を率いて江南へ出征し、
その後は金と結んで遼を挟撃する「海上の盟」を背景に燕雲地域の回復を目指した。
しかし宋軍による燕京攻略は失敗し、最終的には金軍の力によって燕山地域を獲得することになる。
さらに金が宋へ侵攻すると太原から撤退し、徽宗に従って南へ逃れたことで批判が集中した。
欽宗即位後には徽宗朝の政治を批判する声のなかで「六賊」の一人とされ、
1126年、南雄で斬首された。
また童貫は、一般的な宦官像とは大きく異なる容貌でも知られる。
『宋史』には魁梧な体格を持ち、顎に十数本の髭が生え、
皮膚や骨が鉄のように頑健で「宦官らしくなかった」と記されている。
軍功によって前例の少ない出世を遂げながら、
北宋末期の軍事政策にも深く関わり、最後は処刑された童貫とはどのような人物だったのか。
西北戦線、方臘の乱、遼・金との戦争、そして『水滸伝』に描かれた奸臣像まで、
その生涯と実像を史書から見ていく。
李憲の門下から徽宗の側近へ
童貫の生年や家系については明確ではない。
現存する『宋史』童貫伝も出身地を明記しておらず、確実に確認できる若年期の経歴は、
若い頃に李憲の門下へ入ったことから始まる。
李憲は神宗朝に西北戦線で活動した有力な宦官であり、軍事にも深く関与した人物だった。
後に軍事宦官として異例の権力を握る童貫にとって、李憲の存在は重要だったと考えられる。
『宋史』は童貫について、人の意を察することに巧みで、
宮廷に仕え始めた頃から皇帝の意向を先回りして迎合する能力に長けていたと記している。
徽宗が即位すると、杭州に明金局が設置され、童貫は供奉官としてこれを担当した。
明金局は宮廷で必要とされる書画や工芸品などを扱う機関であり、
文化や美術を好んだ徽宗の治世を象徴する存在でもあった。
この杭州滞在中、童貫は蔡京と親しくなる。
蔡京が中央政界へ復帰する際には童貫の働きかけもあったと『宋史』は記しており、
蔡京が宰相となると、今度は蔡京が童貫を軍事面で強く推薦した。
こうして徽宗・蔡京との関係を足掛かりとして、
童貫は宮廷に仕える一宦官から国家の軍事政策に関与する人物へと変わっていった。
↓↓宰相として徽宗朝で権勢を振るった蔡京についての個別記事は、こちら

西北戦線で軍事的権力を握る
童貫の地位を大きく押し上げたのが、西北方面での軍事活動だった。
蔡京は青唐方面への進出を進言するとともに、童貫が何度も陝西方面へ赴いており、
各地の情勢や将軍たちの能力をよく把握しているとして徽宗へ推薦した。
青唐攻略と皇帝の停止命令
宋朝は十万の兵を集め、王厚を軍事指揮官とし、童貫には李憲の先例にならって軍を監督させた。
ところが童貫が湟川へ到着した頃、宮中で火災が発生した。
徽宗は不吉な出来事と考えたのか、童貫へ親筆の命令を送り、軍事行動を停止するよう命じた。
童貫はその命令を読んだものの、すぐ靴の中へしまい込んだ。
王厚が内容を尋ねると、童貫は「皇帝は成功を急いでいる」という趣旨の説明をして、
そのまま出兵したという。
軍は四州を回復し、童貫は景福殿使・襄州観察使へ昇進した。
皇帝の停止命令を事実上無視したにもかかわらず、
結果として戦果を挙げたことで処罰されるどころか昇進したのである。
その後も童貫は熙河蘭湟・秦鳳路経略安撫制置使となり、
積石軍・洮州などを回復して武康軍節度使、検校司空へと昇った。
蔡京との関係にも亀裂
軍功を重ねた童貫は次第に自信を強め、
将軍や官吏の任免に際して正式な朝廷の手続きを経ず、
徽宗の内意を直接得る形で処理するようになった。
これによって、かつて童貫を推薦した蔡京との関係にも亀裂が生じた。
童貫を開府儀同三司に任命しようとした際には、
蔡京が「使相の地位を宦官に与えるべきではない」と反対し、
詔を奉じなかったと『宋史』は伝えている。
つまり童貫と蔡京は常に一枚岩だったわけではない。
互いに利用しながら権力を拡大した一方、
童貫が独自の軍事権力を形成すると対立する局面も生じたのである。
契丹への使節と「媼相」
政和元年(1111)、童貫は検校太尉となり、遼への使節に加わった。
宦官を使節の重要な地位に就けることに対して「国に人材がいないのか」と批判する声もあったが、
徽宗は契丹側が西北で軍功を挙げた童貫に関心を持っていること、
さらに遼の内情を探らせる目的があるとして派遣を正当化した。
帰国後、童貫の軍事的権限はさらに強まり、陝西・河東・河北宣撫使となった。
やがて開府儀同三司、枢密院関係の要職を経て、国家の軍事政策に強い影響力を持つようになる。
『宋史』は、当時の人々が蔡京を「公相」と呼んだのに対し、童貫を「媼相」と呼んだと記す。
これは正式な宰相だったという意味ではなく、
宦官でありながら宰相級の権勢を持つ人物として見られていたことを示している。
劉法の戦死と敗北の隠蔽
童貫の西北政策が常に成功していたわけではない。
童貫は秦・晋方面の精鋭を率いて河・隴方面へ進出し、西夏への圧力を強めた。
その過程で名将・劉法に朔方攻略を命じたが、劉法は作戦に難色を示した。
童貫は命令に従うよう強く迫り、劉法はやむなく出撃したものの伏兵に遭って戦死した。
ところが『宋史』によれば、童貫はこの敗北を隠し、逆に勝利として朝廷へ報告したという。
また新たに獲得した地域の維持を優先するあまり軍政にも混乱が生じ、
兵士の逃亡や制度の弛緩を招いたと『宋史』は厳しく批判している。
西北戦線は童貫が軍事的権威を築いた場所である一方、
その強引な作戦や軍政の問題が表面化した場所でもあった。
筋骨隆々で顎髭が生えた宦官
童貫は政治・軍事だけでなく、その異様な風貌でも知られている。
『宋史』は童貫の容貌について、体格が魁梧で威厳のある外見をしており、
顎の下には十数本の髭が生え、皮膚と骨は鉄のように強健で、宦官らしくなかったと記している。
去勢された男性には一般に髭などの男性的特徴が現れにくくなるため、
顎髭を持つ童貫の姿は当時でも特異に映ったと考えられる。
ただし「筋骨隆々」という表現は
『宋史』の「魁梧」「皮骨勁如鉄」を現代的に表現したものであり、
現代医学的な身体測定が残っているわけではない。
また『宋史』は、童貫には度量があり、財貨を人に与えることを惜しまなかったとも記している。
その一方で後宮の妃嬪以下から贈り物を受け、周囲から童貫を称賛する声が絶えず、
邸宅には多くの人々が出入りしたという。
地方長官や宰相級の人物にも童貫の門下から出る者があり、
身近に仕える者から高官となった者も多数いたとされる。
多数の妻妾や養子を抱えていたという伝承もあり、
後世には通常の宦官とは大きく異なる生活を送った怪人物として語られるようになった。
こうした記録には『宋史』編纂者による強い批判的視線も含まれているが、
少なくとも童貫が一般的な宮廷宦官の枠を大きく越えた権力者だったことは確かである。
方臘の乱と北方遠征
童貫が軍事権力を握っていた徽宗朝後半、北宋では社会不安が拡大していた。
徽宗は芸術や文化の振興に力を注ぐ一方、
宮殿や庭園の造営、珍品の収集などにも多額の費用を投じた。
特に江南では、朱勔らが担った花石綱によって珍石や奇木の収集・輸送が行われ、
住民に大きな負担を与えた。
朝廷では蔡京をはじめとする有力者が政治を左右し、汚職や縁故人事に対する批判も強まった。
童貫も軍事と政治の両面で巨大な権力を持つ徽宗の側近として、こうした批判の対象となっていく。
馬植と燕雲攻略構想
1111年、童貫が遼へ赴いた際、その後の北宋の運命を左右する人物と出会った。燕人の馬植である。
馬植は遼の支配下にあった燕雲地域を宋が奪還する構想を童貫に説き、
童貫は帰国後に馬植を朝廷へ推薦した。
馬植は後に趙良嗣と名を改め、金と宋を結ぶ外交に関与することになる。
当時、女真族の完顔阿骨打が建てた金は急速に勢力を伸ばし、遼を圧迫していた。
北宋にとって、五代以来失われていた燕雲地域の回復は長年の課題だった。
宋は海路を通じて金と交渉し、遼を南北から挟撃する「海上の盟」を結ぶことになる。
童貫はその軍事面で中心的な役割を担った。
しかし北伐が本格化する直前、江南で大規模な反乱が発生した。
方臘の乱と十五万の大軍
宣和2年(1120)、睦州青渓を中心に方臘の乱が起こった。
江南では花石綱などによる負担への不満が蓄積しており、方臘の勢力は急速に拡大した。
杭州を含む広い地域が反乱軍の攻撃を受け、朝廷は北伐計画を一時中断せざるを得なくなる。
童貫は江・淮・荊・浙宣撫使となり、
譚稹とともに禁軍や秦・晋方面の蕃漢兵など約十五万を率いて江南へ向かった。
王稟、王淵、劉延慶、楊惟忠、辛興宗らが各軍を率い、
宋軍は反乱軍が占領した都市を次々と奪還した。
韓世忠もこの遠征に参加し、方臘捕縛で大きな功績を挙げたと史書に記されている。
宣和3年(1121)には方臘が捕らえられ、反乱の主力は崩壊した。
翌年までに残党も鎮圧され、童貫はその功績によって太師となり、楚国公に進んだ。
ただし反乱鎮圧の被害は甚大だった。
『宋史』には方臘軍が六州五十二県を攻略し、極めて多数の犠牲者を出したとする記録があるが、
記載される数字は非常に大きく、そのまま実数とみなすには注意が必要である。
また、西北などから大兵力を江南へ移動させたことは宋軍に大きな負担を与えた。
ただし、その後の対遼戦争での敗北を方臘討伐による
「精鋭軍の消耗」だけで説明することはできない。
指揮系統、作戦、遼軍の抵抗、宋軍自体の軍事構造など複数の要因を見る必要がある。
↓↓名将・韓世忠についての個別記事は、こちら

海上の盟と燕京攻略の失敗
方臘の乱が鎮圧されると、北宋は再び燕雲地域の回復へ動いた。
宋と金は遼を挟撃することで合意し、宋は南側から燕京方面を攻撃することになった。
童貫は宋軍の軍事責任者としてこの作戦に深く関与する。
第一次燕京攻略
宣和4年(1122)、童貫のもとで宋軍は北遼への攻撃を開始した。
しかし北遼には耶律大石ら有力な将軍が残っていた。
種師道、楊可世、辛興宗ら宋軍の諸将は激しい反撃を受け、白溝河方面まで後退する。
宋軍は兵力を動員していたにもかかわらず、燕京攻略に失敗した。
長年にわたって西北戦線で軍功を重ねてきた童貫にとって、大きな挫折となった。
郭薬師の投降と再度の攻撃
その後、北遼内部では混乱が起こり、有力武将の郭薬師が宋へ降伏した。
燕京周辺の地理や遼軍の事情を熟知する郭薬師を得た宋軍は、再び燕京攻略を試みる。
劉延慶の軍が進み、郭薬師らは燕京への奇襲を敢行した。
宋軍は一時城内へ侵入したものの、北遼軍の反撃を受けて敗退した。
こうして宋軍は自力で燕京を攻略することに再び失敗した。
金軍によって燕京を獲得
最終的に燕京を攻略したのは金軍だった。
金軍が遼軍を破って燕京を占領した後、交渉によって宋へ燕山地域の一部が引き渡された。
童貫は燕山回復の功績を認められ、三公の地位や徐国公・豫国公などの封爵を受け、
のちには広陽郡王に封じられた。
ただし「北宋が燕雲十六州を完全に回復した」とするのは正確ではない。
宋が得たのは金との交渉で引き渡された燕山地域を中心とする一部であり、
燕雲十六州すべてを安定的に支配したわけではなかった。
しかも金は一連の戦争を通じて宋軍の軍事力と内部事情を知ることになった。
さらに燕山引き渡しをめぐる条件や、その後の張覚事件などによって宋金関係は急速に悪化していく。
金軍侵攻と童貫の失脚
宣和7年(1125)、金軍が北宋への大規模な侵攻を開始した。
このとき童貫は太原にいた。
金側は宋が金から離反した張覚を受け入れたことなどを問題とし、宋へ軍を進めた。
童貫は馬拡・辛興宗らを金側へ派遣したが、
事態が深刻であることを知ると太原から開封へ戻ろうとした。
太原を離れて開封へ
太原の知府・張孝純は童貫に対し、
河東を放棄すれば河北も危険にさらされるとして留まるよう求めた。
しかし童貫は、自分は宣撫使であって城を守る地方長官ではない
という趣旨の反論をして太原を離れた。
『宋史』は張孝純が、これまで大きな威勢を誇ってきた童太師が
重大事に直面すると恐れて逃げるのか、と厳しく批判したことを伝えている。
童貫の西北戦線以来の軍事的名声は、この撤退によって大きく傷ついた。
徽宗に従って南へ
童貫が開封へ戻った頃には、徽宗は皇太子趙桓へ譲位し、欽宗が即位していた。
欽宗は自ら金軍への対応にあたり、童貫を東京留守に任じた。
しかし童貫はこの命令を受けず、太上皇となった徽宗に従って南へ向かった。
童貫は西北で「勝捷軍」と呼ばれる屈強な兵士を集め、
自らの親軍として数万人規模の部隊を抱えていた。
徽宗一行が浮橋を渡って開封を離れる際、衛士たちは太上皇を引き留めようとして泣き叫んだ。
童貫は出発が遅れることを恐れ、勝捷軍に命じて衛士を射させたと『宋史』は記す。
百人余りが矢を受けて倒れたとされ、この事件によって童貫への批判は一気に高まった。
「六賊」として批判される
欽宗政権では、徽宗朝に権勢を握った人物への責任追及が進んだ。
太学生の陳東らは、
蔡京・童貫・王黼・梁師成・朱勔・李彦らを「六賊」として批判し、処罰を要求した。
童貫はまず左衛上将軍へ降格され、さらに昭化軍節度副使へ落とされて英州へ流され、
その後はさらに遠い吉陽軍への配流を命じられた。
ここで注意すべきなのは、
「六賊」が北宋滅亡の原因そのものを六人だけに帰した客観的な分析ではないことである。
徽宗朝の政治に対する同時代の強烈な批判を象徴する呼称であり、
北宋滅亡には軍事制度、財政、宋遼金関係、徽宗自身の政策判断など多くの要因が絡んでいた。
童貫はその中でも、長年軍事政策の中心にいたため、
対遼・対金政策の失敗に対する責任を強く問われる立場にあった。
↓↓「隠相」と呼ばれ「六賊」の一人に数えられた梁師成についての個別記事は、こちら

十大罪を問われ南雄で斬首
童貫が配流先へ向かっている途中、欽宗は改めて童貫の「十大罪」を列挙し、死罪を命じた。
監察御史の張澂が童貫を追い、南雄で追いついて斬首した。
童貫の首は箱に入れて開封へ送られ、市中にさらされた。
1126年、約20年間にわたって宋の兵権に強い影響を及ぼした童貫の生涯はここで終わった。
なお、童貫の処刑については、首が異常に硬く、処刑人が何度斬っても切断できず、
最後には門の敷居を利用してようやく首を落としたという逸話も伝わっている。
ただし『宋史』童貫伝では確認できないため、正史に記された事実ではなく、
後世に伝わった逸話として区別する必要がある。
童貫の人物像と『水滸伝』
童貫は後世、「北宋を滅亡へ導いた奸臣」の一人として強く記憶された。
確かに西北戦線で劉法を強引に出撃させて戦死させ、その敗北を勝利として報告したこと、
軍政を混乱させたこと、対遼戦争で宋軍が敗北したこと、金軍侵攻時に太原を離れたことなど、
『宋史』には厳しい批判材料が数多く記録されている。
一方で童貫が単に軍事能力のない宦官だったとするのも、その経歴を正確には捉えていない。
西北戦線では王厚ら前線指揮官を用いながら青唐方面で領土を拡大し、西夏への圧力を強めた。
方臘の乱では大軍を統括し、短期間で主要拠点を奪還して反乱を鎮圧している。
また『宋史』自身も童貫に「度量」があり、財貨を人に分け与える一面があったことを記している。
童貫の特徴は、自ら最前線で武器を振るう武将というより、
皇帝の信任を背景に大軍と将軍たちを統括し、
軍事政策そのものに関与した軍事権力者だった点にある。
『水滸伝』に描かれた童貫
後世の『水滸伝』では、童貫は高俅・蔡京・楊戩らと並ぶ奸臣として描かれている。
作中では梁山泊討伐軍を率いて宋江らと戦うものの、
たびたび敗北を喫し、腐敗した朝廷を象徴する権力者の一人として登場する。
もちろん、これは史実そのものではない。
『水滸伝』は後世に成立した文学作品であり、
童貫の人物像も物語上の奸臣として大きく脚色されている。
しかし史実の童貫も徽宗朝で巨大な軍事権力を握り、燕雲攻略や宋金関係に深く関与し、
最後には徽宗朝の失政を象徴する人物として処罰された。
その歴史的な評価が、後世の小説や民間伝承における奸臣像の形成につながったと考えられる。
まとめ
童貫は北宋徽宗朝に軍事面で異例の権勢を握った宦官である。
若くして軍事宦官・李憲の門下に入り、徽宗即位後には杭州の明金局を担当して蔡京と結びついた。
蔡京の推薦によって西北戦線へ進出すると、青唐方面での戦果を背景に急速に昇進し、
太尉・開府儀同三司・太師などの高位へ上った。
『宋史』が「握兵二十年」と記すように、
童貫は約20年間にわたり北宋の軍事政策に強い影響を及ぼした。
方臘の乱では十五万の大軍を率いて鎮圧にあたり、
その後は燕雲地域回復を目指す対遼戦争を主導した。
しかし宋軍による燕京攻略は失敗し、
最終的には金軍が攻略した燕山地域の一部を受け取る形となった。
その後、張覚事件などを経て宋金関係が悪化し、1125年に金軍が南下すると童貫は太原から撤退した。
欽宗から東京留守を命じられながら徽宗に従って南下し、
その途中では勝捷軍に命じて衛士を射殺したとされる。
この事件をはじめ、それまでの軍事・政治上の責任を追及されて失脚し、1126年に南雄で斬首された。
一方、『宋史』が伝える魁梧な体格、顎に生えた十数本の髭、鉄のように強健な身体という容貌は、
宦官として極めて特異な人物像を後世に残した。
さらに『水滸伝』では奸臣として描かれ、
史実以上に「北宋末の悪宦官」という印象が定着していった。
童貫一人を北宋滅亡の原因とすることはできない。
しかし、皇帝の寵愛を背景に宦官が長期間軍事政策へ介入し、
西北経営から方臘討伐、遼・金との戦争まで国家規模の軍事行動に関与したことは、
北宋政治史の中でも異例だった。
その栄達と失脚は、徽宗朝の政治と軍事が抱えた問題を象徴するものだったといえる。
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史書・参考文献
・『宋史』巻468 列伝第227「宦者三・童貫伝」
・『宋史』巻468 列伝第227「方臘伝」
・『宋史』徽宗本紀・欽宗本紀
・『宋史紀事本末』「方臘之乱」ほか
・徐夢莘『三朝北盟会編』
・『靖康要録』
・『宋会要輯稿』
・李燾『続資治通鑑長編』
・竺沙雅章『宋代政治史研究』
・宮崎市定『中国史』
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