中国史には数多くの未解決事件が存在するが、
その中でも柔福帝姫事件は特に奇妙な事件として知られている。
靖康の変によって金へ連行された北宋皇女・柔福帝姫。
その十数年後、南宋へ一人の女性が現れ、自らを柔福帝姫だと名乗った。
高宗は彼女を本物と認め、公主として遇したが、後に帰国した韋太后の証言によって事態は一変する。
『宋史』はこの女性を偽者と断定するが、
後世には「処刑された女性こそ本物だったのではないか」という異説も絶えなかった。
本記事では、柔福帝姫事件の経緯と諸説を整理しながら、その真相に迫る。
柔福帝姫の出自
柔福帝姫の諱は嬛嬛(けんけん)とも、多富(たふ)とも伝えられる。
1111年、北宋第8代皇帝徽宗の皇女として生まれた。
母は懿粛貴妃王氏であり、兄には趙植、姉には恵淑帝姫・康淑帝姫、妹には賢福帝姫趙金児らがいた。
徽宗の後宮には多くの妃嬪がおり、皇子・皇女の数も非常に多かった。
柔福帝姫は第20皇女とされるが、夭折した皇女を除けば実質的には第10皇女にあたる。
当初は柔福公主に封じられ、その後、北宋皇室独特の称号である「帝姫」が用いられるようになると、
柔福帝姫へ改封された。徽宗は政和年間以降、従来の公主号を帝姫へ改めており、
柔福帝姫もその制度改革の影響を受けた皇女の一人である。
靖康の変と北宋皇族の悲劇
1125年、金は宋への侵攻を開始する。
1126年、開封が包囲され、北宋王朝は存亡の危機に陥った。
1127年、金軍は開封を陥落させた。これが中国史上有名な「靖康の変」である。
靖康の変では徽宗・欽宗の二帝が捕虜となっただけでなく、
多数の皇族・妃嬪・皇女・宗室女性が金軍によって北方へ連行された。
柔福帝姫もその一人だった。
この事件は単なる王朝交代ではなく、宋皇室にとって未曽有の屈辱だった。
皇帝や皇族が異民族国家の捕虜となること自体が異例であり、
多くの女性たちは故郷へ戻ることもできなかった。
金への連行
柔福帝姫は他の宋皇族女性たちと共に金へ連行された。
『宋史』には詳細な記述は少ないが、後世の史料や筆記には過酷な境遇が語られている。
特に有名なのが、柔福帝姫が凌辱を受けて妊娠し、その後流産したという話である。
もっとも、この種の記録の多くは正史ではなく後世の文献に見られるものであり、
事実関係については慎重な検討が必要である。
ただし、靖康の変によって宋皇室の女性たちが極めて悲惨な扱いを受けたこと自体は疑いない。
柔福帝姫もまた、皇女という身分を失い、捕虜として北方で暮らさざるを得なくなった。
金での生活
柔福帝姫が金でどのような生活を送ったのかについては、確実な史料は少ない。
後世の記録では、柔福帝姫が徐還という人物と結婚したとされている。
また1141年頃に病死したとも伝えられる。
しかし、これらの記録の多くは後世の伝承と複雑に混ざり合っているため、
実際に何が起きたのかを確定することは難しい。
柔福帝姫の人生は、この後発生する「偽帝姫事件」によってさらに複雑なものとなる。
南宋に現れた「柔福帝姫」と偽帝姫事件
1130年、南宋に一人の女性が現れ、自らを柔福帝姫と名乗った。
彼女は靖康の変後に金から脱出してきたと語り、容貌も柔福帝姫によく似ていたという。
さらに宮中の旧事にも通じていたため、高宗は彼女を柔福帝姫本人と認めた。
当時は靖康の変から間もない時期であり、
北方に取り残された皇族の帰還を望む空気も強かったのである。
こうして彼女は福国長公主に封じられ、高世栄へ降嫁した。
ところが1142年、南宋と金の間で紹興の和議が成立し、高宗の母である韋太后が帰国した。
長年金に抑留されていた韋太后は、柔福帝姫について「すでに亡くなっている」と証言したため、
朝廷は福国長公主の身元を再調査した。
『宋史』によれば、取り調べを受けた福国長公主は拷問の末、
自らを静善という尼僧であると認めたという。
こうして彼女は偽帝姫と断定されて処刑され、本物の柔福帝姫には和国長公主の位が追贈された。
正史の叙述はここで完結している。しかし、この結論は後世の人々を納得させなかった。
なぜ本物説が生まれたのか
最大の理由は、福国長公主があまりにも多くの人々を欺いていたことである。
彼女は単に容貌が似ていただけではない。
宮廷内部の事情を詳しく知っており、高宗自身も本人と認めていた。
もし本当に尼僧だったのなら、どこでその知識を得たのか。
また、宋皇室を知る旧臣や宮人たちはなぜ見抜けなかったのか。
本当に一介の尼僧がそこまで巧妙に身分を偽れたのか。
こうした疑問から、
後世には「実は処刑された女性こそ本物だったのではないか」という説が生まれた。
韋太后の証言は正しかったのか
本物説を支持する人々は、韋太后の証言そのものにも疑問を投げかけた。
韋太后自身も長年にわたって金に抑留されており、
柔福帝姫の生死をどこまで正確に把握していたのかは不明だった。
そのため後世には、「韋太后が間違っていたのではないか」という説が現れる。
さらに一部では、何らかの政治的事情によって別の証言をしたのではないかと推測する者もいた。
もっとも、これらはいずれも推測の域を出ない。
また後世には、韋太后と柔福帝姫が共に金で過酷な境遇を経験し、
その過程で韋太后が柔福帝姫に恨みを抱くようになり、
帰国後に彼女を排除したという劇的な伝説まで生まれた。
しかし、この話は主として野史や後世の伝承に依拠しており、
史実として裏付けられているわけではない。
「静善こそ偽物」説
柔福帝姫事件で最も有名な異説は、
「徐還の妻となった女性こそ静善であり、南宋へ帰還した福国長公主こそ本物の柔福帝姫だった」
というものである。
この説では、『宋史』が伝える結論そのものが覆されることになる。
しかし、この説を裏付ける決定的な史料は存在せず、
逆に『宋史』の記述を完全に否定できる証拠も見つかっていない。
結局のところ、『宋史』の記述を完全に否定できる史料も、
本物説を完全に証明できる史料も存在しないのである。
柔福帝姫事件の真相
柔福帝姫事件の最大の特徴は、正史が結論を示しているにもかかわらず、
その結論に疑問を抱かせる要素が少なくないことである。
『宋史』は福国長公主を静善という尼僧であったとし、偽帝姫として処刑されたと記す。
しかし、高宗が本人と認めた事実、宮中事情への異常な詳しさ、そして後世に生まれた数々の異説は、この事件を単純な詐欺事件として片付けることを難しくしている。
結局のところ、本物の柔福帝姫は金で亡くなったのか、
それとも南宋へ帰還した福国長公主こそ本人だったのかは断定できない。
柔福帝姫事件は、靖康の変が生み出した数多くの悲劇の中でも、
とりわけ謎の多い事件として現在まで語り継がれている。
史書・参考文献
『宋史』巻248「公主伝」
『宋史』巻243「后妃伝」
『三朝北盟会編』
『建炎以来朝野雑記』
『続資治通鑑』
『靖康稗史』
『宋会要輯稿』
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