狄青(てきせい、1008~1057)は、北宋仁宗期に活躍した武将で、字は漢臣。
西夏との戦争で一兵卒に近い立場から頭角を現し、
二十年以上にわたる軍歴を経て、軍事を統轄する枢密使にまで昇った。
北宋では文官が政治・軍事の中心を占め、武人が中央の最高軍事機関を率いることは異例だった。
そのため狄青の昇進は仁宗からの厚い信任を示す一方、
朝廷では「軍人に兵権を集中させてよいのか」という警戒も生んだ。
晩年に枢密使を解任された背景には、こうした宋朝特有の文武関係があった。
狄青の名を最も高めたのは、西夏との長い戦歴と、皇祐五年(1053年)の儂智高討伐である。
しかし『宋史』が伝える人物像は、単に先頭に立って戦う猛将ではない。
敵の追撃をあえて止める慎重さ、軍律を徹底する統率力、功績を部下へ譲る態度、
外国軍の援助を拒んだ政治的判断なども記録されている。
- 汾州西河の農家から軍籍に入る
- 西夏との戦争で常に先鋒を務める
- 敵の動きを読んで追撃を止める
- 尹洙に見出され、范仲淹から『左氏春秋』を学ぶ
- 水洛城をめぐって劉滬を拘束する
- 仁宗に肖像を求められる
- 顔の刺青を消すよう命じられても拒む
- 儂智高の反乱
- 孫沔に戦後処理を任せ、自ら功を独占しない
- 枢密使に昇る
- 「黥卒」と罵られても怒らなかった
- 狄仁傑の子孫を名乗ることを断る
- 韓琦と范仲淹への恩を忘れなかった
- 父母への孝養を伝える逸話
- 枢密使となったことで警戒を受ける
- 洪水を避けて相国寺へ移ったことが疑念を強める
- 陳州で病死する
- 『宋史』が記す狄青の用兵
- 子の狄詠も武将として戦功を立てる
- 神宗が肖像を宮中へ取り寄せる
- 狄青の人物像
- まとめ
- 史書・参考文献
- 関連リンク
汾州西河の農家から軍籍に入る
狄青は汾州西河の出身で、現在の山西省汾陽市付近にあたる。
『宋史』は家系について詳しく記しておらず、
騎射を得意とし、はじめ騎御馬直に属し、その後に散直へ選ばれたことから経歴を始めている。
後世の史料では、狄青が農家の出であったことが繰り返し語られている。
のちに唐の名臣・狄仁傑の子孫を名乗るよう勧められた際にも、
狄青自身が「自分は田家から出た者」としてこれを退けたという逸話が残っており、
少なくとも名門武門の出身ではなかったと考えられる。
狄青が軍籍に入った事情について、『宋史』本伝は説明していない。
一方、蘇軾が狄青の子・狄詠から聞いた話として記した逸話では、
十六歳のとき、兄の狄素が村人と争った事件に巻き込まれ、自ら罪を引き受けたとされる。
この話には、溺れた相手を狄青が蘇生させたという伝奇的な部分まで含まれているため、
そのまま史実とはみなしにくい。
ただし別系統の『画墁録』にも、狄青が罪を得て京師へ送られ、軍籍に入ったとの記録がある。
若年期に何らかの犯罪処分を受け、
その結果として軍人になったという伝承自体は早くから存在していた。
宋代の兵士には逃亡防止や身分識別のため、
顔や身体に文字を刺す「黥」「涅」が行われることがあった。
後に狄青を象徴する顔の刺青も、この軍籍入りに伴うものだった。
西夏との戦争で常に先鋒を務める
宝元元年(1038年)、西夏の李元昊が皇帝を称して宋から離反すると、
北宋朝廷は禁軍から兵士を選んで西北辺境へ送り、
狄青も三班差使・殿侍・延州指使として前線に配置された。
当時の宋軍は西夏軍との戦闘で敗北を重ね、兵士の士気も低下していた。
『宋史』によれば、狄青はこうした状況でも常に先鋒に立ち、
約四年間に大小二十五回の戦闘を経験し、八回も矢傷を負った。
金湯城を破り、宥州周辺へ進出し、複数の西夏系部族を攻撃して物資を焼き、
二千三百の帳幕と五千七百人を獲得した。
また橋子谷に城を築き、招安・豊林・新砦・大郎などの堡寨を整備して、
西夏軍の進路を押さえている。
安遠での戦いでは重傷を負ったが、
敵軍が迫っていると聞くと病床から起き上がり、そのまま出陣した。
兵士たちは狄青の姿を見て争うように前へ出たという。
戦場では髪を振り乱し、銅製の仮面をつけて敵陣へ突入したとも記される。
これは後世の創作ではなく『宋史』本伝に記載された姿であり、
西夏兵の間でも狄青は目立つ存在だった。
同時代に近い『談苑』には、四年間に二十五戦し八度矢を受けた狄青を、
人々が「狄天使」と呼んだとの記録もある。
仁宗がその姿を見て関羽・張飛になぞらえたという話も伝わるが、
こちらは正史本伝ではなく逸話資料に属する。
敵の動きを読んで追撃を止める
狄青は勇猛さで知られた一方、後世の史料には、単純な突撃を避ける戦術的な逸話も残る。
ある戦いでは寡兵で多数の西夏軍と対峙したため、
兵士に弓弩を捨てて短兵器を持たせ、鉦の音に合わせて行動するよう命じた。
一度鳴れば停止し、二度鳴れば隊列を整えながら偽装退却し、
音が止まった瞬間に反転して突撃するという手順だった。
宋軍が後退するのを見た西夏兵は狄青を嘲ったが、その直後に一斉攻撃を受けて崩れたという。
別の戦いでは宋軍が勝利して敵を数里追撃したところ、
西夏兵が山際で突然立ち止まって陣形を整えた。
部下たちはそのまま攻撃しようとしたが、狄青は鉦を鳴らして停止させ、敵を退却させた。
後で現場を確認すると、敵が陣取っていた場所の背後には深い谷があった。
将校たちが追撃しなかったことを惜しむと、
狄青は、敗走していた敵が突然止まって抵抗する以上、何らかの策を疑うべきであり、
すでに勝っているのに残兵を追って危険を冒す必要はないという趣旨を述べたとされる。
これらは『宋史』本伝にはないが、『史伝三編』などが採録した逸話で、
後世に狄青が「勇将」だけでなく状況判断に優れた将として理解された理由の一つになった。
尹洙に見出され、范仲淹から『左氏春秋』を学ぶ
狄青の才能を早くから評価したのが、鄜延路で経略判官を務めていた尹洙だった。
尹洙が狄青と軍事について語ったところ、その見識を高く評価し、
経略使の韓琦と范仲淹に「良将の材である」と推薦した。
韓琦と范仲淹も狄青を厚く遇した。
范仲淹は狄青に『左氏春秋』を渡し、
「将たる者が古今を知らなければ、匹夫の勇にすぎない」と諭した。
狄青はこれを契機に読書へ取り組み、秦漢以来の将軍や兵法を学んだと『宋史』は記す。
この逸話は、狄青の人物像を考えるうえで重要である。
軍歴初期の狄青は騎射と戦場での勇敢さによって評価されたが、
その後は過去の戦例や兵法を学び、軍を統率する側へ移っていった。
戦功によって西上閤門副使、秦州刺史、涇原路副都総管、経略招討副使などへ昇進し、
捧日天武四廂都指揮使・恵州団練使も加えられた。
水洛城をめぐって劉滬を拘束する
慶暦四年(1044年)、狄青は水洛城の築城をめぐり、部下の劉滬と激しく対立した。
水洛城は秦州と渭州方面を結ぶ軍事上の拠点として以前から築城が検討されていた。
劉滬は現地の羌族を服属させ、築城を進めたが、
狄青や尹洙は孤立した城を維持する危険を問題視し、工事の停止を命じた。
ところが劉滬は築城を続けたため、狄青は命令違反として劉滬と董士廉を拘束し、
枷をつけて徳順軍の獄へ送った。
『続資治通鑑長編』によれば、狄青側には軍令に従わない以上処罰すべきだという考えがあり、
劉滬側には朝廷の意向に基づいて進めてきた築城を中止すべきではないという事情があった。
この問題では欧陽脩、余靖、孫甫らも意見を提出した。
欧陽脩は、水洛城を完成させることにも劉滬を保護することにも理由がある一方、
大将である狄青の命令を無視した者を無条件で赦せば軍令が崩れるとして、
双方の立場を保つ処置を求めている。
最終的に劉滬は釈放され、水洛城の築城を続けることになった。
狄青にとっては、後に語られる華々しい戦功とは異なり、
前線指揮官として軍令と現地判断が衝突した事例だった。
仁宗に肖像を求められる
狄青の戦功が重なると、仁宗は本人を都へ呼び、直接軍略を聞こうとした。
しかしその時、西夏軍が渭州方面へ侵入したため、狄青を前線から離すことができず、
代わりに肖像を描かせて宮中へ送らせたという。
慶暦四年(1044年)に宋と西夏の和議が成立すると、狄青は真定路副都総管へ転じ、
その後、侍衛歩軍殿前都虞候、眉州防御使、歩軍副都指揮使、保大・安遠二軍節度観察留後、
馬軍副都指揮使などを歴任した。
一兵卒として軍籍に入った人物が、十数年のうちに禁軍上層部へ到達したことになる。
顔の刺青を消すよう命じられても拒む
この頃になっても、狄青の顔には軍籍入りの際に刻まれた刺青が残っていた。
仁宗は薬を使って文字を消すよう命じたが、狄青は顔を指して、
自分が今日の地位にあるのは、皇帝が家柄ではなく功績によって登用してくれたためであり、
この刺青を軍中の者への励みとして残したいと答えた。
仁宗はそれ以上、刺青を消すよう強制しなかった。
この逸話は「刺青を誇った」というより、
自分が軍卒から昇進した経歴そのものを消さないという意思を示したものと考えた方がよい。
宋代社会では文官の家柄や科挙出身者と比較して軍人の社会的地位が低く、
顔の黥はその出自を視覚的に示すものでもあった。
皇祐四年(1052年)、狄青は彰化軍節度使・知延州から枢密副使へ抜擢された。
しかし御史中丞王挙正らは、兵卒出身の武人を執政に近い地位へ置くのは宋朝では前例がなく、
朝廷の威信にかかわるとして反対した。仁宗はこの反対を退けている。
儂智高の反乱
自ら出征を願い出る
皇祐四年(1052年)、広源州の儂智高が反乱を起こし、邕州を陥落させた。
その勢力は広南西路から東へ進み、沿江の州を次々と攻略して広州まで包囲した。
北宋朝廷は楊畋らを派遣したものの成果が上がらず、
孫沔や余靖も討伐に向かったが、仁宗は情勢を憂慮していた。
このとき狄青が自ら出征を願い出た。
翌日の対面で狄青は、自分は軍伍から身を起こした者であり、
戦によって国へ報いるほかないとして、
蕃落の騎兵数百と禁軍を与えられれば、儂智高を捕らえて都へ連行すると申し出た。
仁宗はその言葉を評価し、
狄青を宣徽南院使・荊湖南北路宣撫使・広南盗賊経制使として南方へ派遣した。
出征に際しては垂拱殿で宴を設けて送り出している。
朝廷では宦官の任守忠を副官としてつける案も出たが、知諫院の李兌は、
唐が宦官に軍を監督させて主将の指揮を妨げた前例を挙げて反対し、取りやめとなった。
また韓絳は武人である狄青へ軍権を集中させることを問題視したが、
龐籍は、指揮権を一本化できないなら派遣する意味がないと主張した。
最終的に嶺南の諸軍は狄青の節制を受けることになった。
交趾からの援軍を断る
儂智高討伐では、南方の交趾も宋へ援軍を送ると申し出ていた。
余靖はこれを信用し、一万人分の食糧を邕州・欽州に準備した。
朝廷も交趾軍への軍費として銭三万緡を与える方針を決めていた。
しかし現地に到着した狄青は、交趾軍を受け入れないよう余靖へ命じ、
朝廷にも援軍を断るよう上奏した。
狄青は、儂智高一人を討てないため外国の兵力を借りれば、宋の弱さを示すことになるうえ、
援軍が利益を求めて別の混乱を起こした場合に対処できなくなると考えた。
仁宗はこの意見を採用し、交趾の出兵を停止させた。
軍律を立て直し、陳曙らを処刑する
南へ向かう途中、狄青が重視したのは軍紀の立て直しだった。
後世の記録では、曾公亮から討伐方針を問われた狄青は、
これまでの敗北は軍制が整わず賞罰が明確でなかったためであり、
まず軍制を立てて賞罰を明らかにすると答えたという。
従軍を願う者にも、功績があれば朝廷が賞するが、失敗すれば軍法は重く、
自分も私情で救うことはできないと告げたとされる。
狄青が賓州へ到着する以前、宋軍では蔣偕や張忠が軽率に戦って敗死しており、士気が低下していた。狄青は諸将に、自分の命令なしに敵と戦ってはならないと厳命した。
ところが広西鈐轄の陳曙は命令を待たず、歩兵八千を率いて昆侖関へ進撃し、大敗した。
狄青は「命令が統一されていないから軍が敗れる」として、
翌朝、将軍たちを集めた席で陳曙を呼び出し、逃亡した袁用らとともに敗戦の責任を調べた。
その後、陳曙ら三十人を軍門の外へ引き出して斬った。
孫沔と余靖も驚き、諸将は恐れて軍令に従うようになった。
十日休むと見せて昆侖関を突破する
軍律を整えた狄青は、すぐには進撃せず、兵を休ませて十日間動かないよう命じた。
儂智高側の偵察兵は、宋軍はしばらく攻めてこないと判断した。
しかし狄青はその裏をかき、翌日には軍を動かし、一昼夜で昆侖関を越えた。
後世の記録にはさらに詳しい逸話がある。
上元節に狄青が大規模な宴を開き、途中で病気を理由に席を外したため、諸将はそのまま休んでいた。
ところが翌朝、狄青から「関を越えたのでこちらで食事をせよ」と伝令が届き、
初めて狄青が密かに昆侖関を奪ったことを知ったという。
これは『宋史』本伝より後世の記録だが、
休息を装って敵の警戒を解き、迅速に関を越えたという骨格は本伝と一致している。
昆侖関を失った儂智高軍は重要な防御線を突破され、邕州付近まで後退した。
帰仁鋪で儂智高軍を破る
宋軍は帰仁鋪で儂智高軍と遭遇した。
戦いの初めは宋軍にとって容易ではなかった。
前鋒を務めた孫節が敵と激しく戦い、戦死すると、儂智高軍の勢いが増した。
孫沔らも動揺したと『宋史』は記す。
狄青は高所から戦況を確認し、白旗を使って騎兵へ指示を出した。
左右の騎兵を展開させて敵軍の側面へ回り込み、予想していなかった方向から攻撃させると、
儂智高軍の陣形は崩れた。
宋軍は約五十里にわたって追撃し、数千人を斬った。
儂智高の側近である黄師宓ら多数が死亡し、五百人余りが捕虜となった。
儂智高自身は夜に邕州へ火を放ち、そのまま逃走した。
翌朝、狄青は軍を整えて邕州へ入り、多量の金帛と家畜を接収した。
また儂智高軍に捕らえられ、やむなく従っていた七千二百人を集めて慰撫し、帰郷させた。
「儂智高の死」とする報告を拒む
戦場には金龍の衣服を身につけた遺体があり、周囲の者は儂智高本人ではないかと考えた。
部下たちは、儂智高を討ち取ったと朝廷へ報告するよう勧めた。
しかし狄青は、敵が欺くために別人へ着せた可能性があり、
功績を得るため朝廷へ虚偽を報告することはできないとして拒否した。
実際、儂智高は戦場から逃れており、この遺体は本人ではなかった。
狄青の本伝では、この出来事は戦場での武勇ではなく、
功績を過大に報告しなかった例として記されている。
孫沔に戦後処理を任せ、自ら功を独占しない
帰仁鋪の戦いで勝利した後、狄青は戦後の行政処理を孫沔へ任せた。
『宋史』は、儂智高討伐の軍略は主として狄青から出たとしながら、
反乱平定後の処理については孫沔に委ね、狄青自身はあたかも関心がないように退いたと記す。
孫沔は当初、狄青の勇敢さに感心していたが、
後にはその人柄にも服し、自分は狄青に及ばないと認めたという。
この「功を将佐へ譲る」という姿勢は、『宋史』が狄青の人物評でも特に取り上げている特徴である。
枢密使に昇る
儂智高平定の報告を受けた仁宗は、すぐに恩賞を決めるよう宰相へ命じた。
狄青は護国軍節度使・河中尹などを経て京師へ戻り、
皇祐五年(1053年)五月、軍事行政の最高責任者である枢密使に任命された。
敦教坊に邸宅を与えられ、子供たちも昇進している。
仁宗は南征中の狄青についてもかなり気を配っていた。
狄青には威名があるため、敵が暗殺を企てる可能性があるとして、
身辺には信頼できる者だけを置き、飲食や就寝にも注意するよう急使を送って警告したという。
軍卒出身者が枢密使まで昇ることは北宋ではきわめて異例だった。
その一方、狄青が軍中で持つ人気と名声そのものが、やがて朝廷から警戒される理由にもなった。
「黥卒」と罵られても怒らなかった
狄青の地位が上がっても、その出自を軽蔑する者はいた。
『事実類苑』には、真定の副帥だった頃、韓琦を招いた宴席での逸話が残る。
そこには劉易という士人も参加しており、俳優が儒者をからかう演目を演じたところ、
劉易が激怒し、狄青を「黥卒」と呼んで罵り続け、酒器まで投げて席を立った。
狄青は怒らず、かえって普段より穏やかに話していたという。
翌日には狄青の方から劉易を訪ね、謝罪した。
韓琦はこの一件によって、狄青には人を受け入れる度量があると知ったとされる。
狄仁傑の子孫を名乗ることを断る
枢密使となった狄青のもとへ、唐代の名臣・狄仁傑の子孫を称する人物が、
狄仁傑の肖像と十数通の告身を持参したことがあった。
その人物は狄青と狄仁傑を同族として結びつけようとしたらしい。
しかし狄青は、自分は農家の出で、偶然時代にめぐり合わせて昇進しただけであり、
どうして梁国公狄仁傑に自分を結びつけることができようかと答えた。
そして相手へ十分な贈り物を与えて帰したという。
当時、高位に上った人物が名門の祖先と系譜を結びつけることは社会的な意味を持ったが、
狄青はその方法で出自を飾ろうとはしなかった。
韓琦と范仲淹への恩を忘れなかった
狄青は出世した後も、自分を早くから評価した韓琦らへの礼を失わなかったと伝えられる。
韓家を訪れる際にはまず家廟を拝し、韓琦の夫人にも丁重に挨拶し、
その子供たちにも若い頃と変わらない態度で接したという。
また、自分を韓琦や范仲淹へ推薦した尹洙が左遷先で死亡すると、
狄青は残された家族の生活をできる限り援助した。
こちらは『宋史』本伝にも記録されている。
父母への孝養を伝える逸話
後世の史料は狄青が父母への孝養を重んじたことも伝えている。
父が死亡した際には軍務の最中だったが、深く悲しんだという。
また母への孝養も厚く、儂智高討伐へ向かう際には、高齢の母が心配しないよう、
家族には戦争へ行くとは伝えず、江南への公務で出張するとだけ知らせるよう命じたとされる。
『宋史』本伝にはこの逸話はなく、後世の伝記資料に収録されたものである。
枢密使となったことで警戒を受ける
狄青は枢密使として約四年間、中央の軍事行政を担当した。
しかし一兵卒から最高軍事官へ上った経歴と、軍中での高い人気は、
文官を中心とする北宋政界では次第に不安視されるようになった。
狄青が外出すると、兵士たちが指さして誇らしげに語り合ったという。
京師の民衆も狄青を見るため集まり、道を塞ぐほどだったとの記録もある。
枢密副使の王堯臣は狄青に対し、
古来、低い身分から大将となり、富貴を得た者の中には最後まで身を保てなかった者がいるので、
それを戒めとするよう諭した。狄青はこの言葉を聞いて気落ちしたという。
さらに狄青の家の犬に角が生えた、家の周囲に奇妙な光が現れたといった怪異まで取り沙汰された。
現代的には政治的な風説として扱うべき話だが、
当時は有力者の家に異常な兆候が現れることが、帝位への野心と結びつけられることがあった。
欧陽脩らも、武臣が枢密を掌握して軍人の支持を集める状況は国家にも狄青自身にも危険であり、
地方へ出した方が本人を保全できると主張した。
洪水を避けて相国寺へ移ったことが疑念を強める
嘉祐元年(1056年)、開封が洪水に見舞われた。
狄青は水を避けるため家族を相国寺へ移し、自身も寺院の殿上で生活した。
しかしこの行動が都で噂となり、人々の疑念をさらに強めた。
寺院の殿上に有力な武将が居住したことに何らかの政治的意図があったと確認できる史料はない。
にもかかわらず、すでに「軍人に人気のある枢密使」として警戒されていたため、
行動そのものが疑われる状況になっていた。
同年八月、狄青は枢密使を解任され、同中書門下平章事の名誉職を与えられて陳州へ出された。
後任の枢密使には韓琦が就任した。
狄青が反乱を計画していた事実は記録されていない。
むしろ文官たちは、狄青自身が謀反を考えているというより、
軍人の支持が一人の武将へ集中する状態そのものを危険視していた。
陳州で病死する
陳州へ移ってから一年もたたない嘉祐二年(1057年)三月、
狄青は髭のあたりにできた疽が悪化して死亡した。五十歳だった。
『宋史』は仁宗がその死を悼み、中書令を追贈して「武襄」と諡したと記している。
一部では狄青が朝廷の疑いを受けたことによる憤死のように語られることもあるが、
正史が直接記している死因は疽である。
枢密使解任から短期間で死亡したことは事実だが、
政治的失意が直接の死因だったと断定する史料的根拠はない。
『宋史』が記す狄青の用兵
『宋史』は狄青の死を記した後、その人物と用兵についてまとまった評を載せている。
狄青は慎重で口数が少なく、作戦を立てる際には機会を十分に見極めてから実行した。
軍を動かす前には部隊編成を整え、賞罰を明確にし、
自らも兵士と飢えや寒さ、疲労をともにしたという。
そのため敵が突然攻撃してきても、兵士が勝手に進退することがなく、
出征すれば成果を挙げることが多かった。
西夏戦線で自ら先頭に立つ勇敢さを見せながら、追撃時には敵の罠を疑って停止し、
儂智高討伐では軍令を破った将を処刑して指揮系統を立て直し、休息を装って昆侖関を突破した。
『宋史』が「慎密」「審中機会」と評したのは、こうした用兵を背景としている。
子の狄詠も武将として戦功を立てる
狄青には複数の子がおり、『隆平集』は狄諒・狄諮・狄詠・狄諫・狄譓・狄説の六人を挙げている。
『宋史』では狄諮と狄詠がともに閤門使となり、とくに狄詠には戦功があったと記されている。
後世の記録によれば、神宗が狄諮に父の遺した軍事書があるか尋ねた際、
狄諮は『平蛮記』と帰仁鋪の戦陣図を献上したという。
狄青の南征について、その子の世代まで記録が保管されていたことを示す逸話である。
神宗が肖像を宮中へ取り寄せる
狄青の死から十一年後の熙寧元年(1068年)、
即位したばかりの宋神宗は近世の将帥を調べ、その中で狄青を高く評価した。
『宋史』によれば、神宗は狄青について、軍伍から身を起こして名声を内外に響かせ、
深沈で智略があり、慎みをもって最後まで身を保った人物として追想した。
そして狄青の肖像を宮中へ取り寄せ、自ら祭文を作り、使者を派遣してその家で祭祀を行わせた。
生前の仁宗も西夏戦線にいる狄青を召せないため肖像を描かせており、
死後には神宗が再びその肖像を宮中へ取り寄せたことになる。
狄青の人物像
狄青の経歴で最も目立つのは、北宋では例外的なまでの身分上昇である。
名門の武家や科挙官僚の家に生まれたのではなく、
軍籍に入り、顔に刺青を持つ一兵士から、最終的には枢密使へ昇った。
しかし、出世の理由を戦場での勇敢さだけに求めると、その後半生を説明できない。
西夏戦線では二十五戦して八度負傷しながら先鋒を務めた一方、
敵の不自然な停止を見て追撃を中止した逸話も残る。
范仲淹から『左氏春秋』を与えられて以降は過去の戦例や兵法を学び、将兵を統率する立場へ移った。
儂智高討伐ではその性格がさらに明確になる。
外国である交趾の援兵を拒否し、無断で戦った陳曙らを処刑して軍令を統一し、
敵に休息すると見せて昆侖関を突破した。
帰仁鋪では騎兵を左右に展開して戦局を変え、
戦後には儂智高の遺体かどうか確認できない以上、討ち取ったとは報告しなかった。
一方で、水洛城をめぐっては劉滬を拘束し、朝廷内で大きな論争を引き起こしている。
狄青の軍令重視が常に適切な判断を生んだわけではなく、
現地で成果を上げていた部下との対立を生んだ例として見る必要がある。
枢密使となってからは、能力とは別の問題に直面した。
宋朝は建国以来、武将への兵権集中を警戒する政治体制を築いており、
軍卒出身の狄青が兵士や民衆から人気を集めたことは、
本人の意思にかかわらず政治的な不安要因となった。
『宋史』は狄青について、慎密で寡黙、機会を見て行動し、
兵士と苦労をともにし、功績を部下へ譲った人物と記している。
その評価は、銅面をつけて敵陣へ突入する猛将像だけでは捉えきれない。
狄青は北宋の軍事制度の中から生まれ、その制度では異例の地位まで昇りながら、
最後には同じ北宋の政治構造によって中央の軍権から離された武将だった。
まとめ
狄青は、北宋では例外的なほど低い身分から軍功を重ね、最終的に枢密使まで昇った武将だった。
勇猛さだけでなく、軍律を重んじ、敵情を見て攻守を切り替える慎重さを備えていた点に特徴がある。
一方、その出世そのものが、武人への兵権集中を警戒する北宋朝廷では不安材料となった。
枢密使を解かれて陳州へ移された翌年に死去したが、
死後も神宗に顕彰され、北宋を代表する将帥の一人として評価され続けた。
史書・参考文献
『宋史』巻290「狄青伝」
李燾『続資治通鑑長編』仁宗紀
『皇宋通鑑長編紀事本末』
曾鞏『隆平集』巻11
江少虞『事実類苑』
張舜民『画墁録』
蘇軾「書狄武襄事」
『宋史紀事本末』「儂智高」
欧陽脩「論水洛城事宜乞保全劉滬等劄子」
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