春申君(黄歇)|楚を支えた戦国四君の栄光と破滅

春申君(楚・宰相) 032.権臣

春申君は、戦国時代末期の楚で二十年以上にわたって宰相を務めた黄歇の封号である。
斉の孟嘗君、趙の平原君、魏の信陵君と並ぶ「戦国四君」の一人として知られ、
三千人を超える食客を抱えた大政治家であった。

しかし、その出発点は大領主としての権勢ではない。
黄歇が最初に頭角を現したのは外交官としてであり、
秦の昭王を弁舌によって説得して楚への侵攻を思いとどまらせ、
さらに秦で人質となっていた楚の太子完を命懸けで脱出させたことによって、後の地位を築いた。

楚考烈王の即位後には相となって春申君に封じられ、
趙の邯鄲救援や魯への進出を指揮し、荀子を蘭陵令に任じるなど、
政治・軍事・人材登用の各方面で存在感を示した。

一方、『戦国策』には、荀子や汗明をはじめとする士との応対を通じ、
必ずしも常に人を見る目に恵まれていたわけではない姿も伝えられている。

春申君の生涯は、若き日の大胆な決断と晩年の判断の遅れが鮮やかな対照をなす。
まずは、楚の危機に現れた弁士・黄歇が、戦国屈指の権力者へ上り詰めるまでをたどる。

  1. 出自――「游学博聞」と評された楚の黄歇
  2. 白起の侵攻を前にした楚
  3. 「秦と楚は二虎」――秦昭王を説得する
  4. 太子完とともに秦へ
  5. 范雎を説得する
  6. 太子完を変装させて秦から逃がす
  7. 范雎の助命と黄歇の帰国
  8. 楚の宰相となり「春申君」に封じられる
  9. 長平の戦い後、邯鄲救援へ
  10. 魯への進出と楚の再強国化
  11. 荀子を蘭陵令に任じる
  12. 荀子を退け、再び呼び戻そうとする
  13. 三千余人の食客
    1. 平原君の使者と「珠履」
    2. 唐且――一人では天下の大事を成せない
    3. 汗明を三か月待たせる
  14. 淮北十二県を返上する
    1. 呉に築かれた春申君の本拠
  15. 秦では呂不韋が台頭する
  16. 五国合従――楚を盟主として秦を攻める
  17. 魏加と「驚弓の鳥」
  18. 函谷関での敗北
  19. 朱英が説いた楚の危機
  20. 考烈王に後継者がない――『史記』が伝える李園事件
  21. 李園が春申君の舍人となる
  22. 春申君の子を楚王の子にする策
  23. 身重の李園の妹を考烈王へ献じる
  24. 李園が死士を養う
  25. 朱英が警告した三つの「無望」
  26. 「李園は弱い」――退けられた朱英の忠告
  27. 十七日後、考烈王が死去
  28. 棘門で殺される
  29. 春申君の一族も滅ぼされる
  30. 太子が即位――楚幽王となる
  31. 「考烈王に子がなかった」は本当か
  32. 春申君死後の楚
    1. 司馬遷が見た春申君の故城
    2. 司馬遷が評価した若き日の「智」
    3. 晩年には「耄した」と評される
    4. 「当断不断、反受其乱」
  33. まとめ
  34. お薦め商品
  35. 史書・参考文献

出自――「游学博聞」と評された楚の黄歇

春申君は姓を黄、名を歇という。
『史記』「春申君列伝」は、
その出自について簡潔に「春申君は楚人なり、名は歇、姓は黄氏」と記すだけで、
生年や父祖、具体的な出生地については伝えていない。

後世には出身地をめぐる諸説が生じているが、
少なくとも同時代に近い基本史料から確実に確認できるのは、楚の人であったという点までである。

その一方、『史記』は若い黄歇について「游学博聞」と記す。
各地に遊学して広く学び、多くの知識を身につけていた
という意味であり、
後に秦王を相手に長大な外交論を展開する黄歇の基礎は、
こうした学問と見聞の蓄積によって培われたとみられる。

やがて黄歇は楚の頃襄王に仕えた。
『史記』は頃襄王が黄歇を「辯」、すなわち弁舌に優れた人物として秦へ派遣したと記している。
黄歇が史書の表舞台に現れるのは、この秦への使節としてであった。

白起の侵攻を前にした楚

黄歇が秦へ赴いた頃、楚の国勢は深刻な状況にあった。

秦昭王のもとで秦は急速に勢力を拡大し、
名将・白起が楚へ侵攻して巫や黔中を奪い、さらに鄢・郢を攻略して竟陵付近まで進出していた。
楚の都・郢も失われ、頃襄王は東方の陳へ政権の拠点を移している。

さらに秦昭王は白起を韓・魏へ向かわせ、華陽の戦いで両国を破った。
魏将の芒卯は敗れ、韓・魏は秦に服属する。

秦昭王はこの韓・魏の軍勢まで利用して、白起に楚を攻撃させようとしていた。
その計画が実行される直前に、楚の使者として秦へ到着したのが黄歇だった。


楚にとって秦との外交が危険であることは、すでに先王・懐王の末路が示していた。
懐王は秦の誘いに応じて入秦したものの拘留され、結局帰国することなく秦で死んでいる。
黄歇は、秦が懐王の子である頃襄王を軽く見ており、
このまま大軍を起こせば楚そのものが滅亡しかねないと判断した。

そこで黄歇は、秦昭王に長文の上書を提出した。

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白起|秦の天下統一への道を切り開いた戦国最強の武安君
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「秦と楚は二虎」――秦昭王を説得する

黄歇の上書は、単純に楚への攻撃をやめてほしいと哀願するものではなかった。
秦自身の利益から考えて、楚を攻撃することが得策ではないと論じたのである。

黄歇は、天下で最も強大なのは秦と楚であり、
この二国が争うことは「二虎相与闘」のようなものだと説いた。

二頭の虎が争って互いに傷つけば、その利益を得るのは第三者である。
秦が楚を弱体化させるため韓・魏と組んだとしても、
その結果として韓・魏その他の諸国を利する可能性がある以上、
秦にとっても最善の策ではないという論理であった。

特に黄歇は、韓と魏が秦に心から従っているわけではないことを指摘した。
長年秦の攻撃を受けて領土を失ってきた韓・魏が秦を恨まないはずはなく、
そのような国々を伴って楚を攻めれば、いずれ秦自身に不利益が返ってくると論じた。

逆に秦と楚が争わず協力すれば、韓・魏を圧迫し、
その先の斉・燕・趙にまで影響力を及ぼすことができる。
楚という大国を敵として消耗するより、味方として利用する方が秦の覇業にもかなうというのである。

秦昭王は黄歇の主張を「善」と認めた。
予定されていた楚への軍事行動は中止され、白起への出兵命令も取り下げられた。
秦は楚へ使者を送り、贈物を交換して同盟を結ぶことになる。

黄歇は軍を率いることなく、外交交渉によって楚に迫っていた大規模侵攻を回避した。
この成功によって、楚王宮廷における黄歇の評価は大きく高まったと考えられる。

太子完とともに秦へ

秦との関係が改善すると、楚は頃襄王の太子である完を秦へ人質として送り、
黄歇も太子の傅としてこれに同行した。


諸侯間の同盟を保証するため王族を人質とすること自体は戦国時代には珍しくなかったが、
楚にとって秦は、先王の懐王を拘留し、そのまま帰国させなかった相手でもある。
太子完と黄歇は、その秦に数年間とどまることになった。

やがて楚では頃襄王が重病となり、太子完の帰国が急務となった。
『史記』によれば、頃襄王には陽文君の娘との間に二人の子がおり、
完が秦に留め置かれたまま王が死ねば、楚国内で別の王子が擁立される可能性があった。
太子の地位にあっても国外にいる以上、王位継承は確実ではなく、
帰国が遅れれば完はそのまま王位を失いかねなかったのである。

そこで黄歇は、太子完を楚へ帰すため秦側への働きかけを始めた。

范雎を説得する

黄歇が接触したのは、秦昭王の宰相である応侯・范雎だった。
范雎は太子完と親しい関係にあったとされる。

黄歇はそこを利用し、太子を楚へ帰すことが秦にとっても利益になると説いた。
太子完を帰国させれば、頃襄王の死後に楚王となる可能性が高い。
その場合、新王は秦と范雎に帰国を許された恩を感じるだろう。

一方、太子を秦に留め続け、楚で別の王族が即位してしまえば、
完は王位を失い、秦の都咸陽にいる一人の身分なき人物にすぎなくなる。
太子という人質の価値は、楚王になる可能性があるからこそ生じる。
王位継承の機会を失わせることは、秦にとっても得策ではないという論理だった。


范雎は黄歇の意見を秦昭王に伝えたが、昭王はすぐには太子の帰国を許可しなかった。
まず太子の傅を楚へ戻して頃襄王の病状を確認し、その結果を見て判断しようとしたのである。

このまま正規の許可を待っていれば、頃襄王の死に間に合わない可能性があった。
黄歇は別の手段を選んだ。

太子完を変装させて秦から逃がす

黄歇は太子完を楚の使者の御者に変装させ、密かに秦を脱出させた。
太子が逃亡していることを秦側に悟らせないため、黄歇自身はそのまま太子の宿舎に残った。

太子は病気で人に会えないということにして面会を断り、
その間に完をできるだけ遠くへ逃がしたのである。

太子が追跡されても捕まらないほど遠ざかった頃、黄歇は初めて秦昭王の前へ出た。
そこで太子完がすでに秦を脱出して楚へ向かったことを明かし、
自分が昭王を欺いた以上、死罪を受ける覚悟であると申し出た。

太子だけを逃がし、自分は秦に残ったことに黄歇の策の特徴がある。
二人で逃亡すれば追跡を受ける可能性が高いが、
黄歇が残って太子の病気を装えば、その分だけ時間を稼げる。

しかも発覚した際の責任は黄歇自身が負うことになる。

秦昭王は激怒し、黄歇に自殺を命じようとした。

范雎の助命と黄歇の帰国

このとき黄歇を救ったのも范雎だった。
范雎は昭王に対し、黄歇が自らの主君のために命を捨てる覚悟を示した忠臣であることを指摘した。
太子完が無事に楚へ帰り王となれば、黄歇は必ず重用される。
その黄歇を殺すより、恩を施して楚へ帰した方が秦にとって利益になるというのである。

昭王はこの進言を受け入れ、黄歇を赦した。

黄歇が楚へ帰国してから三か月後、頃襄王が死去した。
秦から脱出していた太子完が即位し、楚考烈王となった。

後に司馬遷は『史記』「太史公曰」で、
秦昭王を説得して楚への攻撃を止めさせたことと、太子完を秦から脱出させたことを、
黄歇の知略を示す代表的な事績として高く評価している。
『太史公自序』でも、
黄歇について主君のために身を投げ出して強秦から太子を逃がした「義」を特筆しており、
司馬遷が若き日の黄歇を極めて高く評価していたことがわかる。

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楚の宰相となり「春申君」に封じられる

考烈王元年、黄歇は楚の相に任じられ、「春申君」に封じられた。
さらに淮北十二県を封地として与えられる。
黄歇が秦で命を賭けて守った太子が王となり、
その新王の政権を黄歇が宰相として支える体制が成立したことになる。
以後、春申君は二十年以上にわたり楚政界の中心に立ち続ける。

当時の諸国には、大量の食客を抱えて政治力を競った有力者がいた。
斉には孟嘗君、趙には平原君、魏には信陵君がおり、楚の春申君も彼らと並ぶ存在となった。
『史記』は四者が士を低い身分からも招き寄せ、賓客を集め、
互いに競いながら国を助け権力を保持したと記している。
後世、この四人は「戦国四君」と総称される。

長平の戦い後、邯鄲救援へ

春申君が楚の相となって四年目、秦は長平の戦いで趙軍を大破し、
『史記』「春申君列伝」によれば四十余万を破った。
その翌年には秦軍が趙の都・邯鄲を包囲したため、危機に陥った趙は楚へ救援を求めた。

楚考烈王はこれに応じ、春申君に軍を率いさせて趙へ向かわせた。
魏でも信陵君が軍を率いて邯鄲救援に赴っており、楚・魏の援軍を受けた趙軍は秦軍を撃退した。
秦軍が邯鄲の包囲を解いて退却すると、春申君も軍を率いて楚へ帰還した。

春申君は弁舌と外交だけで出世した人物ではなく、
宰相就任後には軍を率いて諸国間の戦争にも関与していた。

魯への進出と楚の再強国化

春申君が相となって八年目、楚は北方へ軍を進め、魯を攻撃した。
『史記』「春申君列伝」は、この戦いについて春申君が北伐して「魯を滅ぼした」と記し、
その頃には「楚復た彊し」、すなわち楚が再び強国となったとしている。

ただし魯の滅亡年代については注意が必要となる。
『史記』内部でも紀年との間に齟齬があり、三家注もその問題を指摘している。
したがって、春申君の相国八年に魯が最終的に消滅したと単純に断定するより、
この頃に楚が魯を攻めて支配を広げ、最終的な魯滅亡へつながったと捉える方が安全である。

それでも、この時期に楚の勢力が北方へ拡大していたことは、
『史記』が春申君の政権期を「楚復彊」と評価していることからも明らかである。

荀子を蘭陵令に任じる

魯方面への勢力拡大と関連して登場するのが、思想家の荀卿、すなわち荀子である。

『史記』「春申君列伝」は、魯を攻めた後に春申君が荀卿を蘭陵令としたことを記す。
蘭陵は旧魯領に近い地域であり、楚が北方へ勢力を広げるうえで重要な位置を占めた。

春申君が三千余人の食客を集めたことは有名だが、その人材登用を象徴する人物の一人が荀子だった。
荀子は単に春申君の邸宅に出入りする食客としてではなく、実際に地方官に登用されている。

ただし、『戦国策』には、
両者の関係が必ずしも一貫して良好だったわけではないことを示す話も残されている。

荀子を退け、再び呼び戻そうとする

『戦国策』には、春申君の食客が荀子について讒言したという逸話がある。

ある客が春申君に、賢人である荀卿に大きな土地と権限を与えることは
春申君自身にとって危険ではないかと説いた。
春申君はその言葉を受け入れ、荀子を退けたとされる。
荀子は楚を離れて趙へ向かい、趙では上卿として遇された。

ところが今度は別の客が春申君に対し、
伊尹が夏を去って殷に仕え、管仲が魯を離れて斉に仕えたように、
賢者を失った国は弱くなり、賢者を得た国は強くなると説いた。
荀子を追放することは楚の利益にならないというのである。
春申君は考えを改め、荀子を呼び戻そうとした。

これに対して荀子は書を送り、賢者の扱い方を知らない春申君を批判した
春申君が多数の士を養いながらも、
周囲の意見に左右されて人物評価を変えてしまう一面を示す逸話である。

『史記』だけを読めば、
春申君と荀子の関係は「荀卿を蘭陵令とした」という簡潔な記述にとどまるが、
『戦国策』まで視野を広げれば、
人材を集めることと人材を正しく見抜くことが必ずしも同じではなかった姿が浮かび上がる。

三千余人の食客

『史記』によれば、春申君のもとには三千余人の食客がいた。
孟嘗君や平原君、信陵君と同様、春申君も身分を問わず士を招き、
彼らを養うことで巨大な人的ネットワークを形成していた。

戦国時代の「君」と呼ばれる大封君にとって、食客の多さは単なる贅沢ではない。
外交、弁論、軍事、策謀など、それぞれ異なる能力を持つ人々を抱えることは政治力そのものだった。
春申君の食客集団がどれほど豪華だったかを示す有名な逸話が、平原君の使者との対面である。

平原君の使者と「珠履」

趙の平原君が春申君のもとへ使者を送ったとき、春申君はその使者を上等な客舎に宿泊させた。
趙の使者は楚の人々に自分たちの富を見せつけようと考えたらしく、
鼈甲製の簪を頭に挿し、刀剣の鞘を珠玉で飾って春申君の食客たちとの面会に臨んだ。

ところが、春申君の上客たちはさらに豪華だった。
『史記』によれば、彼らは真珠を飾った履を履いて現れた。
豪華な簪や刀剣を見せつけるつもりだった趙の使者は、大いに恥じたという。

この話は春申君自身の贅沢を直接描いたものではない。
彼のもとで最上位に位置する食客たちですら珠玉を履物に用いるほど、
春申君の邸宅が富と権勢を誇っていたことを示すものである。


後に司馬遷自身も楚を訪れた際、春申君の旧城や宮室の壮麗さを見たと述べている。
春申君の権勢は伝聞だけでなく、その死後にも巨大な建造物として痕跡を残していた。

唐且――一人では天下の大事を成せない

『戦国策』には、春申君と士たちとの応対がさらに残されている。
唐且、あるいは唐雎と記される人物が春申君を訪ねた際には、
千里余りを旅して会いに来た自分をどう用いるのかという問題から話が始まる。

唐且は、どれほど優れた人物でも一人だけでは天下の大事を成し遂げられず、
周囲に有能な人材が必要だと説いた。

その説明には当時の博戯を用いた比喩が使われ、
「梟」と呼ばれる強い駒であっても、
他の駒との組み合わせがなければ勝負にはならないという趣旨を述べている。

これは三千余人を養った春申君の政治手法とも重なる。
春申君自身が卓越した能力を備えていたとしても、
一人の知略だけで広大な楚を動かすことはできない。

唐且は、士を集めることが単なる名声ではなく、
政治を実行するための実力となることを説いたのである。

汗明を三か月待たせる

一方で、春申君が訪ねてきた士を常に丁重に扱っていたわけではない。

『戦国策』「汗明見春申君」によれば、
汗明という人物は春申君への謁見を求めたものの、三か月待ってようやく会うことができた。
二人が話すと春申君は大いに喜んだが、
汗明がさらに話そうとすると、「私はすでに先生のことを理解した」と告げた。

これに対して汗明は、春申君に問い返した。
春申君は堯より賢いのか、自分は舜より賢いのかというのである。
もちろん春申君は、自分が堯を超えるなどとは答えられない。

汗明はそこで、堯でさえ舜を理解するまでには長い時間を要したのに、
春申君がわずかな会話だけで汗明という人物をすべて理解したと言うなら、
春申君は堯より賢く、自分は舜より容易に理解できる人物ということになってしまうと切り返した。

春申君はこの言葉に納得し、汗明を客籍に加え、以後は五日に一度会うことにしたと伝えられる。

汗明はさらに、老いた駿馬と伯楽の逸話を引いて自らを用いるよう求めた。
千里を走る名馬であっても、老いて塩車を引かされれば才能を発揮できない。
そこへ伯楽が現れてその馬を見つければ、馬は自分を理解する者に出会えたことを喜ぶ。
汗明もまた、自分の才能を見抜いて用いる人物として春申君に期待したのである。

三千人を超える食客を抱えていたからこそ、春申君には「士を集める」だけでなく、
「その中から誰を評価し、どう用いるか」という問題が絶えずつきまとっていた。

淮北十二県を返上する

春申君が相となって十五年後、封地に大きな変更があった。
春申君が最初に与えられていたのは淮北十二県である。
しかし淮北は斉と境界を接する軍事上の要地だった。

春申君は考烈王に、淮北は斉に近く情勢が緊迫しやすいため、
個人の封地として置くより楚王の直轄郡とした方がよいと進言した。
そのうえで、自分が与えられていた十二県を返上し、
代わりに江東へ封じてもらいたいと願い出た。

考烈王はこれを認めた。
一見すると自ら重要な土地を返したことになるが、
江東は楚の中心部から遠く、独自の地盤を築きやすい地域でもあった。
春申君は旧呉の都城跡を築き直し、そこを自らの都邑とした。
『史記』は「春申君因城故呉墟、以自為都邑」と記す。

戦国末期の春申君は、楚王朝の相であると同時に、
江東に大規模な封地と拠点を持つ大領主となったのである。

呉に築かれた春申君の本拠

旧呉の地に築いた拠点は、春申君の後半生において重要な意味を持つ。
春申君は中央政界で楚の相を務めながら、江東には自らの封国に近い政治的・経済的基盤を持った。
後に楚が陳から寿春へ遷都した際にも、春申君は呉へ赴きながら相としての政務を続けている。

このため江南には、後世まで春申君にまつわる地名や治水伝承が数多く残ることになった。
上海の略称「申」や黄浦江の名称を春申君と結びつける説も広く知られているが、
これらは『史記』本文に見える事績ではなく、後代に形成された地名伝承と区別する必要がある。

史料から確実に確認できるのは、春申君が淮北十二県を返上して江東へ移封され、
故呉の墟を築いて自らの都邑としたというところまでである。

秦では呂不韋が台頭する

春申君が楚の相として勢力を築いていた頃、秦でも大きな政変が進んでいた。

春申君が相となって十四年目、秦では昭王の死後を経て荘襄王が即位し、
呂不韋が相国となって文信侯に封じられた。
さらに秦は東周を滅ぼし、戦国諸国に対する優位を一段と強めていった。

楚が春申君のもとで一時的に国力を回復していたとはいえ、長期的な趨勢は秦の膨張にあった。
春申君自身、若い頃には秦昭王を説得して楚への侵攻を回避させ、邯鄲救援にも加わったが、
その後も秦が東方諸国を圧迫する構図は変わらなかった。

やがて春申君は、諸国をまとめて秦に対抗する合従策の中心に立つことになる。

五国合従――楚を盟主として秦を攻める

春申君が相となって二十二年目、秦始皇六年、前241年に諸侯による大規模な合従が成立した。
『史記』「春申君列伝」によれば、秦が諸侯への攻撃をやめなかったため、
趙・魏・韓・燕・楚の五国が合従して秦を攻めることになった。
楚考烈王が「従長」、すなわち合従の盟主となり、春申君がその実務を担った。


これは春申君の政治的経歴の中でも最大規模の対秦軍事行動であった。
若い黄歇は秦と楚を「二虎」にたとえて直接対決を避けるよう秦王を説得したが、
戦国末期には状況そのものが変化していた。

秦の圧力がさらに強まり、一国だけでは対抗できなくなった諸侯は、
再び合従による包囲を試みるほかなかったのである。

魏加と「驚弓の鳥」

この合従に関連して、『戦国策』には後世の故事成語「驚弓之鳥」の由来となった逸話が残る。

趙から来た魏加が春申君に会い、今回の軍の将を誰にするつもりなのかと尋ねた。
春申君は臨武君を将にしようと考えていると答えた。
すると魏加は、自分は若い頃に弓を好んだので、
射術をたとえにして話してよいかと断ったうえで、更羸という射手の逸話を語り始めた。

かつて更羸が魏王と高台の下にいたとき、一羽の雁が飛んできた。
更羸は矢を放たず、弓弦を鳴らすだけでその鳥を落としてみせると言った。

魏王が疑っていると、更羸が弓を引いて弦音を響かせただけで、
雁は高く舞い上がったのち地上へ落ちた。

更羸によれば、その雁は飛ぶ速度が遅く、鳴き声も悲しげだった。
飛ぶのが遅いのは以前受けた傷が痛むためであり、
悲しく鳴くのは長く群れから離れていたためである。
傷がまだ治らず恐怖も消えていないので、
弓弦の音を聞けば驚いて無理に高く飛び、古傷が開いて落ちると見抜いたのである。

魏加はこの話をしたうえで、臨武君もかつて秦との戦いで痛手を受けた人物であり、
そのような将を再び対秦戦の中心に置くべきではないと諫めた。

現在使われる「驚弓の鳥」という表現は、この『戦国策』の逸話に由来する。

ただし、『史記』「春申君列伝」は五国合従について記すものの、
臨武君を実際に総大将としたとは記していない。
魏加の進言が最終的な人事にどこまで影響したかは、史料からは明確ではない。

函谷関での敗北

五国の連合軍は秦へ向かって進み、函谷関にまで迫った。
しかし秦軍が出撃すると、諸侯軍はこれを支えきれず敗走した。

かつて蘇秦らの時代から繰り返されてきた合従は、
諸国が共通の敵を前に一時的に結束することはできても、
それぞれの利害が異なるため長期的な軍事協力を維持することが難しかった。
前241年の合従も秦を押し返すことには失敗した。

『史記』では、
この敗北の後、楚考烈王が春申君を責め、それ以後は春申君を疎んじるようになったと記す。
秦から太子完を救い出して以来、長く考烈王から絶大な信任を受けてきた春申君にとって、
これは政治的立場の大きな変化だった。

朱英が説いた楚の危機

春申君の食客の一人に、観津出身の朱英がいた。
朱英は春申君に対し、楚を取り巻く地理的・軍事的環境が以前とは変化していると説いた。

かつて秦と楚の間には韓や魏の領土があり、それらが緩衝地帯となっていたため、
秦と楚が直接国境を接する部分は限られていた。
しかし秦が韓・魏を侵食し続ければ、いずれ秦と楚が直接対峙するようになる。
秦の圧力を受ける楚にとって、北西部に位置する陳を都とし続けることは危険だった。

朱英の進言を受け、楚はより東方の寿春へ都を移したと『史記』は記している。
春申君自身は江東の封地である呉へ赴き、そこにあって楚の相として政務を行った。

春申君が以前、淮北十二県を楚王へ返して江東へ移封されていたことは、
この段階で大きな意味を持った。
王都が東へ移る中、春申君もまた呉に強固な地盤を持っていたのである。

考烈王に後継者がない――『史記』が伝える李園事件

春申君の晩年を語るうえで最も有名なのが、李園とその妹をめぐる事件である。

ただし、この一連の話は『史記』に明記され、『戦国策』にも類似した物語が収められている一方、
その前提となる「楚考烈王に子がなかった」という記述には史料上の問題がある。

まずは『史記』が伝える内容をそのままたどり、その後に史実性を検討する必要がある。
『史記』によれば、楚考烈王には長い間子がなかった。
春申君はこのことを憂え、子を産みそうな女性を探して多数王に献じたが、
それでも子は生まれなかったという。

そこへ現れたのが、趙出身の李園であった。

李園が春申君の舍人となる

李園には美しい妹がいた。
李園は当初、この妹を楚考烈王へ献じようと考えていた。
しかし考烈王に子ができないと聞き、たとえ妹が王の寵愛を受けても子を産めなければ、
いずれ寵愛を失うだろうと懸念した。

そこで直接王へ近づくのではなく、まず春申君のもとへ入り、舍人となった。
しばらくすると李園は休暇を願って帰郷し、わざと期限を過ぎてから戻ってきた。
春申君が遅れた理由を尋ねると、
李園は「斉王が使者を送って妹を求めてきたので、その使者と酒を飲んでいて遅れた」と答えた。

春申君が、妹の婚姻はすでに決まったのかと尋ねると、李園はまだだと答えた。
さらに春申君がその妹に会えるかと尋ねると、李園は妹を春申君の前へ出した。
こうして李園の妹は春申君の寵愛を受けた。

春申君の子を楚王の子にする策

やがて李園の妹は妊娠した。
『史記』では、彼女が妊娠したことを確認すると、李園は妹と密かに策を相談したという。

妹は頃合いを見計らい、春申君に語りかけた。
考烈王は春申君を兄弟以上に重んじ、すでに二十年以上にわたって国政を任せている。
しかし王に子がないまま死ねば、次に王となるのは考烈王の兄弟である。
その新王は自分が以前から親しくしていた者を重用するはずであり、
春申君がこれまでと同じ権勢を保てる保証はない。

しかも春申君は長年権力を握ってきたため、王の兄弟たちに対して礼を欠いたことも少なくない。
彼らの誰かが王になれば、相印や江東の封地を失うだけでなく、身に災いが及ぶ可能性さえある。

そこで彼女は、自分が春申君の子を妊娠していることを利用するよう勧めた。
妊娠している事実はまだ誰も知らない。
自分を楚王へ献じれば、春申君ほどの重臣が薦める女である以上、王は寵愛する可能性が高い。
その後に男児を産めば、その子は楚王の実子として扱われ、いずれ王位を継ぐことになる。
そうなれば、実際には春申君の子が楚王になる。


『史記』によれば、春申君はこの計画を「大然之」、大いにもっともだと考え、受け入れた。

身重の李園の妹を考烈王へ献じる

春申君は李園の妹の策を受け入れると、
彼女をいったん別邸へ移して住まわせたのち、楚考烈王に推薦した。
『史記』によれば、考烈王は彼女を召し入れて寵愛し、やがて生まれた男児を太子に立てた。
李園の妹も王后となり、兄の李園も外戚として楚の政界で勢力を持つようになった。

こうして『史記』の叙述では、春申君の子を身ごもった女性が楚王の后となり、
その子が王位継承者となったことになる。
ただし、この出生譚には史料上の疑問があり、その史実性については後述する。

李園が死士を養う

妹が王后となり、その子が太子になると、李園は次第に権勢を強めた。
同時に李園は、春申君が太子出生の真相を口外することを恐れるようになった
春申君が「太子は自分の実子である」と明かせば、
李園兄妹の立場も太子の王位継承も崩壊しかねない。

そこで李園は密かに死士を養い、春申君を殺して口を封じようとした。
この計画は完全な秘密だったわけではない。
『史記』は、楚国内にもそのことを知る者が少なからずいたと記している。

その一人が、かつて遷都についても春申君に進言した食客・朱英だった。

朱英が警告した三つの「無望」

春申君が相となって二十五年目、楚考烈王が病に伏すと、食客の朱英が春申君を訪ねた。
朱英はそこで、「思いがけない福」「思いがけない禍」「思いがけない人」という
三つの「無望」を挙げ、考烈王の死後に起こりうる事態を説いた。

「思いがけない福」とは、春申君がこれまで以上の権力を握る可能性である。
考烈王が死んで幼い太子が即位すれば、
二十年以上にわたって楚の相を務めてきた春申君が新王を補佐し、国政を担うことになる。
朱英は、殷の伊尹や周の周公のように幼主を支える立場となるだけでなく、
状況によっては春申君自身が王となることさえありうると説いた。

これに対する「思いがけない禍」が、李園による暗殺だった。
李園は王后の兄として権勢を得る一方、すでに死士を養って春申君を排除する機会をうかがっている。考烈王が死ねば、李園は春申君より先に宮中へ入り、
新王のもとで実権を握ったうえで春申君を殺すだろうと朱英は警告した。

そして、その禍を防ぐための「思いがけない人」として朱英が挙げたのが、自分自身だった。
自分を郎中に任じて宮中に置いておけば、
考烈王が死んだ際、李園が宮中へ入って行動を起こす前にこれを殺すことができる。

朱英は王の死後に訪れる権力の空白を見越し、
李園に先手を取られる前に排除するよう春申君に求めたのである。

「李園は弱い」――退けられた朱英の忠告

若い頃の黄歇であれば、危険を察知したときには極めて大胆に動いていた。
しかし晩年の春申君は、朱英の警告を受けても動かなかった。

春申君は、李園について「弱人」であり、自分も彼を善く遇しているので、
そのようなことをするはずはないという趣旨で答えた。
李園には自分を殺すほどの胆力はないと見ていたのである。

朱英は、春申君が自分の忠告を受け入れない以上、
李園による粛清が始まれば自分にも災いが及ぶと判断し、楚を離れて逃亡した。

十七日後、考烈王が死去

朱英が去ってから十七日後、楚考烈王が死去した。
『史記』によれば、李園は春申君より先に宮中へ入り、棘門の内側に死士を伏せた。

春申君は考烈王の死を受けて宮中へ向かった。
長年楚の相を務めてきた人物であり、
王の死後の政務や太子の即位に関与するため宮中へ入ること自体は当然の行動だった。

しかし、すでに門の内側には李園の刺客が待ち構えていた。

棘門で殺される

春申君が棘門へ入ると、李園の死士が襲いかかった。
春申君はその場で殺され、首を斬られた。
『史記』は、その首が棘門の外へ投げ出されたと記している。


秦始皇九年、前238年のことであった。
『史記』「六国年表」にも、この年の楚の記事として「李園、春申君を殺す」と明記されている。

若い頃には自ら秦に残り、死を覚悟して太子を救った黄歇が、
晩年には自邸から王宮へ向かう途上で殺された。
死の直前には危険を具体的に告げる者までいたが、春申君はその忠告を採用しなかった。

春申君の一族も滅ぼされる

李園の目的は春申君本人を殺すだけではなかった。
『史記』によれば、春申君の死後、李園は役人に命令して春申君の家をことごとく滅ぼした。
これによって、二十五年にわたって楚の国政を掌握し、淮北十二県、
のちには江東を封地として三千余人の食客を養った巨大な政治勢力は、一挙に解体された。

春申君が朱英の提案を受け入れていれば李園を先に排除することはできたかもしれない。
しかし、それが楚王家に対する春申君自身のさらなる権力掌握につながった可能性もあり、
『史記』が示す構図を単純に「忠告を聞けばすべて解決した」と見ることもできない。

少なくとも史書が描く春申君の最期において、決定的だったのは李園の能力を低く見積もり、
自らが長く保ってきた権勢を過信したことだった。

太子が即位――楚幽王となる

考烈王の死後、太子が王位を継いだ。楚幽王である。
『史記』「春申君列伝」は、この幽王について、
李園の妹が春申君の寵愛を受けて妊娠したのち考烈王へ献じられ、
その結果生まれた子であると明記する。

すなわち『史記』の叙述をそのまま採れば、楚幽王は考烈王の実子ではなく、
春申君黄歇の実子ということになる。

これは春申君にまつわる逸話の中でも特に有名であり、
秦の呂不韋と始皇帝の出生伝説にも似た構図を持つ。
権臣の愛妾が身ごもった状態で王の後宮へ入り、その子が王位を継ぐという話である。

ただし、楚幽王の出生については、そのまま史実と断定できない。

「考烈王に子がなかった」は本当か

『史記』「春申君列伝」は李園事件の冒頭で「楚考烈王無子」と明記している。
李園兄妹の策は、考烈王に後継者がいないからこそ成り立つ。
王に実子が存在すれば、春申君の子を秘密裏に王子として入り込ませる必要性も、
その子が当然のように太子となる可能性も低くなる。

ところが『史記』の他の記述を合わせると、考烈王には幽王以外にも子がいたことになる。

幽王の死後にはその弟の哀王が即位し、さらに哀王を殺して王となった負芻も考烈王の子とされる。
このため、『史記』三家注の『索隠』は、
考烈王に子がなかったとする「春申君列伝」の記述について疑問を呈している。

したがって、「春申君の実子が楚王になった」という話は、
『史記』と『戦国策』が伝える重要な逸話として扱うことはできても、
確定した史実として扱うべきではない。


李園が春申君を殺したこと自体は『史記』の年表にも記されているが、
その背景に本当に王統をめぐる出生秘密があったのか、
それとも春申君と新たな外戚勢力である李園との権力闘争が物語化されたのかは、
史料から断定できない。

春申君死後の楚

春申君が殺された前238年は、楚にとって秦の圧力がさらに強まっていく時期でもあった。

考烈王の後を継いだ幽王は長く在位せず、その後は哀王、負芻へと王位が移った。
春申君が秦王を説得して楚への大攻勢を回避した時代から数十年が経過し、
もはや外交や合従によって秦の膨張を止めることは難しくなっていた。

やがて秦は本格的な楚攻略を開始し、王翦らの軍によって楚の主力を破る。
春申君の死から十年余りのうちに楚王負芻は秦軍に捕らえられ、
戦国時代を代表する大国だった楚も秦の統一戦争の前に屈した。

春申君の死がそのまま楚滅亡の原因だったわけではない。
楚の衰退は秦との長期的な国力差や領土喪失、王権内部の問題など複数の要因による。
しかし、考烈王の治世を二十五年間支えた宰相が王の死とほぼ同時に粛清されたことは、
楚政界における一つの時代の終わりではあった。

司馬遷が見た春申君の故城

春申君の死から一世紀以上を経て、『史記』を著した司馬遷は自ら楚の地を訪れた。
「太史公曰」によれば、司馬遷は春申君の故城を見て、その宮室の壮麗さに感嘆したという。

三千余人の食客を抱え、上客が真珠を飾った履を身につけるほどの富を誇った春申君の権勢は、
その死後にも巨大な建築物として痕跡を残していたことになる。

しかし司馬遷が春申君について評価したのは、その富や宮殿だけではない。

司馬遷が評価した若き日の「智」

司馬遷はまず、春申君が秦昭王を説得したことを高く評価した。
当時の楚は白起によって郢を奪われ、さらに秦が韓・魏を率いて楚へ侵攻しようとしていた。
そこで黄歇は秦王自身の利害を論じ、
秦と楚という二大国が争えば第三国を利するだけだとして、秦の楚攻撃を中止させた。

さらに太子完が秦で人質となり、頃襄王の死が近づくと、
黄歇は秦王の正式な許可を待たず太子を変装させて脱出させた。
自分は秦に残って時間を稼ぎ、太子が十分遠ざかってから事実を明かして死罪を覚悟した。

司馬遷はこの二つの行動について、「何ぞ其の智の明らかなるや」と賞賛している。
春申君の政治家としての原点は、権力や封地ではなく、この判断力と決断力にあった。

晩年には「耄した」と評される

その直後、司馬遷の評価は大きく変わる。
若い頃の明晰な知略を称賛したあと、「後に李園に制せらる、耄したるかな」と記す。
「耄」は老いによって判断力が衰えたことを意味する。


晩年に朱英から「李園は死士を養い、王が死ねばあなたを殺す」と具体的に警告された春申君は、
李園を「弱い人物」と決めつけて何もしなかった。
そのため自らが殺されるだけでなく、一族まで滅ぼされた。

司馬遷が春申君の老いを問題にしたのは、単に李園に殺されたという結果だけではなく、
若い頃に備えていた危機への感覚と決断力が失われていたからであろう。

「当断不断、反受其乱」

司馬遷は春申君評の最後に、当時のことわざを引用している。
「当断不断、反受其乱」決断すべき時に決断しなければ、かえってその乱を受けるという意味である。
そして「春申君が朱英を失ったことを言うのであろうか」と結んだ。

これは春申君の生涯そのものを貫く評価でもある。
司馬遷が春申君の前半生と後半生を並べて記したのは、
同じ人物の中に「決断できた黄歇」と「決断できなかった春申君」という対照を見ていたからである。

まとめ

春申君の生涯で印象的なのは、若い頃と晩年の鮮やかな対照である。
秦昭王を相手にした外交では相手の利害を読み、太子完の救出では自らの命を賭けて即座に行動した。
一方、長く楚の政権を担い、戦国四君の一人に数えられるほどの権勢を得た晩年には、
朱英から具体的な危険を告げられながら李園を軽視し、破滅を避けられなかった。

司馬遷が春申君を評して「当断不断、反受其乱」と記したのも、この落差を見てのことだろう。
春申君は単なる「悲劇の宰相」ではなく、優れた知略と決断力によって頂点に達し、
最後にはその決断を誤った人物として『史記』に描かれている。

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漫画『キングダム』での春申君は、楚の宰相として登場する大物政治家。
楚の軍事・外交を取り仕切る実力者で、秦を攻めた「合従軍」では総大将を務め、
李牧ら各国の将をまとめる立場にある。

楚国内でも絶大な権力を持つが、合従軍敗北後は政治的立場が揺らぎ、
のちに李園の策によって暗殺される。


史書・参考文献

『史記』巻七十八「春申君列伝」
『史記』巻十五「六国年表」
『史記』巻四十「楚世家」
『史記』巻七十四「孟子荀卿列伝」
『戦国策』楚策四