【魏】曹植|才高八斗と七歩の才で知られる魏の天才詩人

曹植(三国魏・文学) 034.文人・学者

曹植(そうしょく、192~232年)は、後漢末から三国時代の魏に生きた皇族・文学者である。
字は子建。父は曹操、母は卞氏で、曹丕・曹彰の弟、曹熊の兄にあたる。

幼いころから驚異的な文才を示し、曹操から一時は後継者候補として期待されたが、
任性な振る舞いや飲酒による失敗を重ね、最終的には兄の曹丕が太子となった。

曹丕の即位後は藩王として厳しく統制され、
曹叡の時代になっても政治や軍事への登用を繰り返し願いながら実現しなかった。
その一方で、『白馬篇』『名都篇』『白馬王彪に贈る』『洛神賦』などを残し、
建安文学を代表する詩人として後世に巨大な影響を与えた。

「七歩の才」や「才高八斗」の故事でも知られるが、
これらは曹植の死後に成立した逸話や評価であり、正史にそのまま記された事実ではない。

曹植の実像を知るには、天才詩人としての華やかな面だけでなく、
父曹操から後継者として期待されながら失敗し、
その後も政治参加への望みを捨てきれなかった生涯を見る必要がある。

曹操に才能を認められた少年時代

曹植は192年、曹操と卞氏の間に生まれた。
曹操と卞氏の間には曹丕曹彰、曹植、曹熊の四男があり、曹植はその三男だった。

曹操にはほかにも曹昂をはじめ多くの息子がいたが、
曹昂や曹鑠が早くに亡くなり、卞氏が曹操の継室となったことで、
卞氏の子供たちは曹家の後継をめぐって重要な位置を占めるようになった。

『三国志』「陳思王植伝」によれば、
曹植は十歳あまりのころにはすでに『詩経』『論語』や辞賦数十万言を読み覚え、
文章を作ることにも優れていた。

曹操がその文章を見て、あまりの出来のよさから
「誰かに代作させているのではないか」と疑った
ところ、
曹植は、口を開けば論となり、筆を取れば文章となるので、その場で試してほしいと答えたという。

その機会となったのが銅雀台の完成だった。
曹操が諸子を銅雀台へ登らせ、それぞれに賦を作らせると、
曹植はその場で筆を取り、すぐに文章を完成させた。
曹操はその才能に大いに驚いたと記されている。

曹植は文学の才能だけでなく、曹操からの問いにも即座に答える機転を持っていた。
一方で性格は簡素で、威儀を整えることにこだわらず、車馬や服装も華美を好まなかった。
この飾らない性格と鋭い応答能力も、曹操が曹植を特にかわいがった理由の一つだった。

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曹操の遠征に従った青年時代

曹植は後世には文人として知られるが、その青年時代は曹操の軍事活動と無関係ではなかった。
後年に曹叡へ提出した「求自試表」で曹植自身は、父曹操に従い、
南は赤岸、東は滄海、西は玉門、北は玄塞に至るまで軍事活動を目にしたと述べている。

したがって、曹植が曹操の遠征に同行し、軍事や行軍の実際を見ていたこと自体は確認できる。
ただし、烏桓遠征や張魯討伐など個々の戦役すべてに曹植が参加したと断定できるわけではない。

こうした経験は、曹植の思想にも影響を与えた。
曹植は単なる文学者として名声を得ることを人生の目標とは考えておらず、
後年まで繰り返し、国家のために軍事や政治の場で働くことを願っている。


『白馬篇』に描かれる勇敢な遊侠・騎士像も、そうした曹植自身の理想と重ねて読むことができる。

曹操の後継者候補となった曹植

建安16年(211)、曹植は平原侯に封じられた。
建安19年(214)には臨淄侯へ転封され、曹操からの待遇はさらに厚くなった。

曹操が孫権征討へ向かった際には、曹植に鄴の留守を任せたこともある。
このとき曹操は、かつて自分が頓丘県令だったのは23歳のころで、
その時代の行動を今になって振り返っても後悔していない、
お前も同じ23歳なのだから努力せよ、という趣旨の言葉を曹植に与えた。

単に詩文に優れた息子としてではなく、
政治的な責任を担わせる対象として曹植を見ていたことが分かる。

楊修・丁儀らが曹植を支持する

曹植の周囲には楊修、丁儀、丁廙らが集まり、彼を強く支持した。
『三国志』は、曹植が才能によって特別視され、
この三人らがその「羽翼」となったため、曹操は何度も後継者を曹植にしようか迷ったと記している。

ここから、曹植が単に後世の物語で「曹丕のライバル」に仕立てられたのではなく、
実際に曹操の後継者候補としてかなり有力な位置にいたことが分かる。

ただし、曹丕派と曹植派が現代的な意味で
明確な二大派閥に分かれていたと単純化するのは危険である。
曹操の臣下たちは後継者問題についてそれぞれ異なる立場を取っており、
曹植の側近とされた人物も一枚岩ではなかった。

曹植が曹操に愛された最大の理由は、やはり圧倒的な文才と応答能力だった
一方で、それと並行して曹植には後継者として致命的になり得る欠点もあった。

任性と飲酒が後継者争いの弱点となる

『三国志』は曹植について、「任性而行、不自彫励、飲酒不節」と記している。
自分の性質のままに行動し、自らを厳しく律することがなく、
飲酒にも節度がなかったという意味である。

対する曹丕については、立ち回りに巧みで、自らを飾り、
宮中の人々も曹丕を支持したと記されている。

この叙述には陳寿の評価も含まれるため、
そのまま「曹丕は演技だけで太子になった」と解釈するべきではないが、
曹植が才能では優れていても、
後継者として必要な自制という点で曹丕に劣ったと見られていたことは確かである。

建安22年(217)、曹操は曹丕を正式に魏王太子とした。
曹植はこの時点で後継者争いに敗れたことになるが、
その前後には曹操の信頼を決定的に損ねる事件が続いていた。

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司馬門を勝手に通過する

曹植の失敗として有名なのが司馬門事件である。

曹植はかつて車に乗ったまま天子専用の馳道を通り、司馬門を開かせて外へ出た。
司馬門や馳道は皇帝の権威と直接結びつく空間であり、
皇族であっても自由に使用できるものではなかった。

曹操は激怒し、門を管理していた公車令は罪を問われて死刑となった。
その後、曹操は諸侯に対する法令や禁制をさらに厳しくし、
曹植への寵愛も日に日に衰えたと『三国志』は記している。

単なる交通規則違反ではなく、
曹操が築こうとしていた政治秩序を皇子自身が破った事件だったため、
後継者としての曹植には大きな打撃となった。

楊修の処刑

曹操は後継者争いが曹氏内部に混乱を残すことを警戒していた。
楊修は才知に優れ、曹植を支持していたうえ、袁紹・袁術と同族である袁氏とも血縁を持っていた。

建安24年(219)、曹操は楊修を罪に問って処刑した。
楊修の処刑理由を単純に「曹植を支持したから」とすることはできないが、
曹操が後継者争いを収束させ、曹植周辺の政治的勢力を整理していく過程と無関係ではなかった。

楊修の死によって、曹植はさらに不安を深めた。

酒によって曹仁救援の機会を失う

同じ建安24年(219)、関羽が北上して樊城を包囲すると、曹仁は危機に陥った。

曹操は曹植を南中郎将・行征虜将軍に任じ、曹仁を救援させようとした。
曹植にとっては、軍を率いて実際に功績を立てる大きな機会だった。

ところが曹操が曹植を呼び、命令を与えようとすると、
曹植は泥酔していて命令を受けることができなかった。

曹操は後悔して派遣そのものを取りやめた。

この事件は、曹植が政治家・軍人として重用される可能性を自ら損なった象徴的な失敗だった。

なお、曹植の代わりとして徐晃が直ちに派遣された、
とまで『三国志』「陳思王植伝」が記しているわけではない。
徐晃は実際に樊城救援で大きな功績を挙げているが、
二つの出来事を単純な交代人事として結びつける必要はない。

曹丕即位後の厳しい処遇

建安25年(220)、曹操が死去すると曹丕が魏王を継ぎ、
同年に献帝から禅譲を受けて魏の皇帝となった。

曹植を支えていた丁儀・丁廙兄弟は曹丕によって処刑され、曹植自身も藩国へ赴くことになった。
かつて皇位継承を争った兄が皇帝となったことで、曹植の立場は大きく変化した。

黄初2年(221)、監国謁者の灌均が、
曹植は酒に酔って傲慢な態度を取り、使者を脅迫したと奏上した。

担当官は処罰を求めたが、曹丕は母である卞太后の存在を考慮し、
曹植を死刑にはせず、爵位を安郷侯へ落とした。

同年には鄄城侯へ改封され、黄初3年(222)には鄄城王となった。
黄初4年(223)には雍丘王へ移された。

曹植が曹丕にただちに処刑されなかった一方で、
かつて後継者候補だった弟として常に警戒の対象となっていたことが分かる。

曹丕との関係は敵対一色ではなかった

曹丕と曹植は後継者争いを経験したため、後世には激しく憎み合う兄弟として描かれることが多い。
しかし、実際の関係はそれほど単純ではない。

曹植は曹丕即位後にも上表し、自らの過失を謝罪し、皇帝への忠誠を繰り返し表明している。
曹丕も曹植を処刑せず、爵位を回復して王に封じている。

一方で、曹植が中央政治へ自由に参加することは許されず、藩国の王として統制され続けた。
親族としての情と、皇帝と旧後継者候補という政治的な緊張が
同時に存在していたと考えた方が実態に近い。

曹彰の死と「白馬王彪に贈る」

黄初4年(223)、曹植は洛陽へ朝見した。このころ兄の曹彰が洛陽で急死する。

その後、曹植は弟の白馬王曹彪とともにそれぞれの封国へ戻ろうとしたが、
監国謁者によって途中から別々に帰るよう命じられた。

この別離を背景に作られたとされるのが「贈白馬王彪」である。

作品には兄弟との別れ、旅路の苦しさ、人生の無常、
肉親でありながら自由に行動できない苦悩が重ねられている。
曹植の政治的失意を伝える代表作の一つである。

ただし、「兄弟であるだけで会うことさえ全面的に禁止されていた」とまで単純化するのではなく、
魏の藩王に対する厳しい統制の中で、移動や交流が制限されていたと捉える方が正確である。

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曹叡の時代にも登用を求め続ける

黄初7年(226)、曹丕が死去すると、子の曹叡が魏の第2代皇帝として即位した。

曹植にとって曹叡は甥であり、兄の死によって政治参加の機会が再び開かれる可能性があった。
しかし曹植の状況は大きく変わらなかった。

太和元年(227)には浚儀王へ移され、翌太和2年(228)には再び雍丘王へ戻された。
曹植はこのころ、自分には優れた能力があるのに使われる場所がないと憤り、
曹叡へ「求自試表」を提出した。


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「求自試表」に見る軍事への強い願望

「求自試表」で曹植は、爵位や俸禄だけを受けながら国家に功績を立てないことを恥じると述べ、
呉や蜀との戦いで自分を用いてほしいと訴えている。

西では諸葛亮、東では孫権が魏と対立するなか、自分を大将軍や大司馬の指揮下に置き、
一部隊でも任せてほしいという内容である。
危険な場所へ進み、兵士の先頭に立ち、
たとえ命を失っても国家の役に立ちたいという強い意志を示している。

曹植が文学者としてのみ生きることに満足していなかったことを、最もはっきり示す文章である。

しかし曹叡は曹植を軍事指揮官として起用しなかった。
太和3年(229)には東阿王へ移される。

皇族をもっと登用するよう求める

曹植は自分自身の登用だけでなく、曹氏宗室全体の扱いにも不満を持っていた。

魏では皇族諸王が大きな兵力や政治権力を持つことを警戒し、その行動を厳しく制限していた。
曹植は、皇族を過度に遠ざければ国家を支える血縁勢力が弱体化すると考え、
宗室をもっと信頼し、国家運営に参加させるべきだと繰り返し主張した。

後世から見ると、この問題は曹魏の政治にとって重要だった。
曹氏宗室の政治力が弱い状態で司馬氏が急速に権力を拡大し、最終的に魏を簒奪したためである。

ただし、曹植の提言がその後の司馬氏台頭を直接予見したものとまでは言えない。
曹植自身の立場から、宗室を政治的に無力化する政策への不満を示したものとして見るべきである。

最後まで皇帝との直接対話を望む

太和5年(231)、諸王が朝廷へ集められた際にも、
曹植は皇帝と個別に会い、時事や政治について直接論じる機会を望んだ。

しかしその願いはかなわなかった。
太和6年(232)、曹植は陳の四県を封地とする陳王となった。
かつて平原侯となって以来、平原、臨淄、安郷、鄄城、雍丘、浚儀、東阿、陳と、
何度も封地を変えられた人生だった。

曹植は何度も自分を用いてほしいと訴えたが、
最後まで本格的な政治・軍事の役割を与えられることはなかった。

同年、失望を抱えながら病を発し、41歳で死去した。
諡号は「思」とされ、後世には「陳思王」と呼ばれる。

建安文学を代表する曹植の作品

政治家として大きな役割を果たすことはできなかった曹植だが、文学史上の評価は極めて高い。

後漢末から三国時代初頭にかけて、
曹操・曹丕・曹植の「三曹」や王粲・劉楨ら「建安七子」を中心として新しい文学が発展した。


この時代の文学は後に「建安文学」と呼ばれ、五言詩を中心に
個人の感情、戦乱、社会、人生の短さ、功名への願いなどが強く表現されるようになった。

曹植はその中でも特に優れた詩人と評価されてきた。
若いころの作品には勢いと理想があり、
後半生の作品には政治的挫折や別離、人生の無常が強く表れる。
同じ人物の作品でありながら、人生の前半と後半で大きく雰囲気が変わる点も曹植文学の特徴である。

『白馬篇』と武人への憧れ

『白馬篇』は、白馬に乗って国境へ向かう若い遊侠を描いた五言詩である。

主人公は騎射に優れ、異民族の侵入に対して家族や自らの生命を顧みず国家のために戦う。
曹植が後年「求自試表」で繰り返し軍事任務を求めていることを考えると、
この作品に描かれる武人は曹植自身の理想像とも重なる。

曹植を「戦いとは無縁の文学青年」と考えると、この作品の背景は見えにくい。
彼自身、曹操の軍事活動を見ながら成長し、実際に将軍として曹仁救援を命じられかけた人物だった。

『名都篇』と貴公子の世界

『名都篇』は、洛陽などの都市で生活する若い貴公子の華やかな姿を描いた作品である。
馬術、狩猟、宴飲といった活動が描かれ、曹植の若いころの生活や周囲の貴族文化を想起させる。

ただし、詩中の主人公をそのまま曹植本人と考えることはできない。
作品として構成された人物像であり、曹植の自伝そのものではない。

それでも、後年の苦悩に満ちた作品と比べると、
若き日の曹植が生きた華やかな世界を感じさせる作品である。

『白馬王彪に贈る』と皇族としての孤独

「贈白馬王彪」は曹植後半生の代表作である。

洛陽への朝見を終え、兄曹彰の死を経験し、
曹彪と別れて封国へ戻る途中の感情が長大な詩として表現されている。
旅の困難だけでなく、兄弟を失う悲しみ、残された兄弟との別れ、
自分の境遇への憤りが重なっている。

曹植はかつて父曹操から後継者として期待された皇子だった。
その人物が、兄の皇帝即位後には地方を転々とし、政治的に厳しい監視を受ける立場となった。
その落差が最も強く現れた作品の一つである。

『洛神賦』と洛水の女神

曹植の辞賦で最も有名なものの一つが『洛神賦』である。

洛水を渡る途中、作者の前に美しい女神が現れ、互いに思いを抱きながらも結ばれず、
最後には別れるという幻想的な作品である。
女神の容姿を描く華麗な文章は後世の文学や美術に大きな影響を与えた。

後世には、この洛神のモデルが曹丕の妻で曹叡の母である甄氏だったという有名な説が生まれた。
曹植が甄氏に恋をし、その死後に思慕を込めて『洛神賦』を書いたという物語である。

しかし、『三国志』には曹植と甄氏の恋愛を示す記録は存在しない。
『洛神賦』と甄氏を結びつける説は後世に発展した伝説であり、史実として扱うことはできない。

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「七歩の才」と「才高八斗」は史実なのか

曹植の名は、作品そのものだけでなく、
後世に成立した二つの有名な故事によって広く知られている。
一つが「七歩の才」である。

七歩詩

『世説新語』「文学」には、曹丕が曹植に対し、
七歩歩く間に詩を作るよう命じ、できなければ処罰すると告げたという逸話がある。

曹植はその場で、豆を煮るために豆殻を燃やし、
同じ根から生まれたもの同士が互いを苦しめることを嘆く内容の詩を作ったとされる。
曹丕はこれを聞いて恥じたという。

この話から、非常に短い時間で優れた作品を作る才能を「七歩の才」と呼ぶようになった。
また兄弟や同族が争うことを表す「煮豆燃萁」という故事成語も生まれた。

ただし、この逸話は陳寿の『三国志』本文にはない。
曹丕と曹植の死から二世紀ほど後に成立した『世説新語』に見える話であり、
史実として断定することはできない。

また、今日広く知られる「煮豆燃豆萁」から始まる四句形式と、伝来する本文の形には異同もある。
曹植の天才像を象徴する後世の伝説として扱うのが妥当である。

「才高八斗」

もう一つが「才高八斗」である。

この言葉は南朝宋の詩人・謝霊運が曹植を称賛した言葉に由来するとされる。
天下の文学的才能を全部で一石とすれば、曹子建だけで八斗を占め、
自分が一斗を得、残る人々が一斗を分け合う、という趣旨の逸話である。

曹植の死後二百年以上たってから成立した評価であり、曹植本人の時代の呼称ではない。
それでも、この故事が定着したこと自体、
曹植が後世の文人からいかに突出した存在として見られたかを示している。

曹植は後世にどう評価されたのか

曹植の同時代における評価と、後世における評価には大きな違いがある。

政治の世界では、曹植は父曹操の期待を受けながら、最終的には後継者になれず、
曹丕曹叡の時代にも十分な役割を与えられなかった。
『三国志』を著した陳寿も、曹植について文才を高く評価する一方、
自制に欠け、飲酒にも節度を失いやすかった点を明確に記している。

一方、文学者としての評価は時代が下るほど高まった。

南朝梁の鍾嶸は『詩品』で曹植を最高位の「上品」に置き、
その文章における地位を周公や孔子にたとえるほど高く評価した。
曹植の作品は、骨格の強い表現、華麗な言葉、豊かな感情、優れた五言詩の構成などによって、
後世の詩人に大きな影響を与えた。

父の曹操、兄の曹丕と並んで「三曹」と呼ばれるが、
純粋な詩人としては三曹の中で曹植を最も高く評価する見方も古くから強い。

その一方で、曹植自身は「後世に詩人として名を残すこと」だけを人生の成功とは考えていなかった。繰り返し皇帝へ上表し、自ら軍を率ち、呉や蜀と戦い、国家に功績を残すことを望んだ。

文学史では大成功した人物が、本人の政治的人生という観点では志を遂げられなかった。
この矛盾こそ、曹植の生涯を特徴づけている。

まとめ

曹植は「七歩で詩を作った天才」という一つの逸話だけでは捉えられない人物である。
少年時代から群を抜く文才を示して曹操の寵愛を受け、楊修や丁儀らの支持も得て、
一時は曹丕に代わる後継者候補にまで近づいた。

しかし司馬門事件や飲酒による失態など、自らを律することができない面が曹操の信頼を損ない、
最終的に太子となったのは曹丕だった。

曹丕の即位後には厳しい監視下に置かれ、爵位を落とされ、何度も封地を移された。
曹叡の時代になっても、呉や蜀との戦いで自分を用いてほしい、
曹氏宗室を国家運営に参加させてほしいと訴え続けたが、その願いは実現しなかった。

その一方で、政治的な挫折を経験したからこそ、曹植の文学は若年期の華やかさだけでなく、
別離、孤独、無常、理想と現実の隔たりまで表現するものとなった。
『白馬篇』『名都篇』『白馬王彪に贈る』『洛神賦』などが長く読み継がれ、
「才高八斗」とまで称賛されたのは、単に技巧が優れていたからではない。

国家に功績を立てたいと願い続けながら政治では志を遂げられず、
結果として文学によって後世に巨大な名を残した。
その皮肉な生涯まで含めて見ることで、曹植という人物の実像が見えてくる。

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史書・参考文献

・『三国志』魏書巻19「陳思王植伝」
・『三国志』魏書巻1「武帝紀」
・『三国志』魏書巻2「文帝紀」
・『三国志』魏書巻3「明帝紀」
・『三国志』裴松之注
・曹植『曹子建集』
・蕭統編『文選』
・劉義慶『世説新語』
・鍾嶸『詩品』
・司馬光『資治通鑑』

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