北周の武帝・宇文邕(うぶんよう、543~578)は、
権臣に実権を奪われた若い皇帝から、
北斉を滅ぼして華北の大部分を統一する君主へと変貌した人物である。
即位した560年、北周の軍事と政治を握っていたのは、父・宇文泰の甥である宇文護だった。
孝閔帝・宇文覚を廃位して殺害し、明帝・宇文毓も毒殺したとされる宇文護を前に、
宇文邕は十年以上にわたって表立った対立を避けた。
しかし572年、宇文邕は宇文護を宮中で殺害し、ようやく親政を開始する。
その後は皇帝への軍事権の集中、官僚・軍事制度の再編、倹約、仏教・道教の廃止などを進め、
国家の人的・経済的資源を皇帝権力のもとへ集めていった。
575年からは宿敵北斉への本格的な攻勢に転じ、一度は病によって撤退したものの、
翌年には平陽・晋陽を攻略。
577年には鄴を陥落させ、北斉を滅ぼした。
西魏以来続いていた東西両政権の対立はここに決着し、北周は華北最大の勢力となった。
その勢いのまま南朝陳や突厥との戦いを進めようとしたが、
578年、突厥親征の途中で病に倒れ、36歳で急死した。
北周の最盛期を作りながら、その成果を全国統一へつなげる前に世を去った皇帝である。
出自|宇文泰が期待した第四子
宇文邕は543年、西魏の同州で生まれた。字は禰羅突。
父は西魏の実権を握った宇文泰、母は叱奴氏で、後に皇太后となった。
『周書』『北史』はいずれも宇文邕を宇文泰の第四子と記している。
兄には後に北周初代皇帝となる孝閔帝・宇文覚、二代皇帝となる明帝・宇文毓らがおり、
誕生した時点では皇位継承者として特別な立場にあったわけではない。
しかし幼少期から孝行で聡明だったとされ、父の宇文泰はその資質を高く評価した。
『周書』には、宇文泰が宇文邕について「我が志を成し遂げるのはこの子であろう」
という趣旨の言葉を残したと記されている。
宇文邕は12歳で輔城郡公に封じられた。
556年に宇文泰が死去し、翌557年に兄・宇文覚が北周を建国すると、
大将軍となって同州へ出鎮する。
ところが北周の皇帝には、父・宇文泰が持っていたほどの権力はなかった。
宇文泰は死の直前、自分の子供たちがまだ若いことを憂慮し、甥の宇文護に後事を託していた。
宇文護は北周建国を主導すると軍事・政治の大権を掌握し、やがて皇帝をも左右する権臣となる。
↓↓南北朝後期の二大権力者の一人・宇文泰についての個別記事は、こちら

明帝に重用される
557年、孝閔帝・宇文覚は宇文護を排除しようとして失敗し、廃位された後に殺害された。
宇文護が次に擁立したのが、宇文邕の兄・宇文毓である。これが明帝だった。
明帝の即位後、宇文邕は柱国となり、蒲州刺史、大司空などを歴任し、魯国公へ進封された。
明帝からの信頼は厚く、朝廷の重要事項にも参加するようになる。
『周書』『北史』がこの時期の宇文邕について強調しているのが、
沈着で口数が少ない性格だったことである。
自分から軽々しく意見を述べず、問われたときには的確に答えたため、
明帝はその発言には必ず要点があると感嘆したという。
この慎重さは、後に宇文護の支配下で十年以上を生き延びるうえでも重要な意味を持つことになる。
560年、明帝が急死した。
『周書』によれば、宇文護は明帝の聡明さを恐れ、膳部下大夫の李安に命じて毒を盛らせた。
死を悟った明帝は宇文邕を後継者に指名し、宇文護らに弟を支えるよう遺詔を残した。
こうして宇文邕は18歳で北周第三代皇帝となった。
即位|宇文護の支配下で耐えた十二年間
宇文邕は皇帝になったが、即座に北周を自由に動かせたわけではない。
軍事の大権を握っていたのは依然として宇文護だった。
宇文護は大冢宰・都督中外諸軍事として北周軍を統轄し、
宇文泰の死後から続く後見体制の頂点に立っていた。
宇文護によって、すでに二人の皇帝が死に追いやられていた。
孝閔帝は廃位・殺害され、明帝も『周書』では宇文護によって毒殺されたと記されている。
宇文邕が宇文護と正面から争えば、同じ運命をたどる危険は十分にあった。
そのため宇文邕は表面上、宇文護を尊重し続けた。
宇文護の母が宮中へ入った際にも礼を尽くし、
宇文護に対して一族の長老として接することで、敵意を表面化させなかった。
ただし、宇文邕が十年以上にわたって何もしていなかったわけではない。
皇帝として祭祀や行政に関与し、軍事演習や地方巡幸を行いながら、
北周国家の実情を把握していった。
一方の宇文護は、北周軍の指揮権を握ったまま北斉との戦争を主導していたが、
564年の洛陽方面への大遠征では北斉軍に阻まれ、大きな成果を得られず撤退している。
その後も北周と北斉の戦争は続き、北斉側には斛律光ら優秀な将軍が存在したため、
北周は決定的な優位を築けなかった。

宇文護誅殺|「酒誥」を利用した宮中の暗殺
572年、宇文邕はついに宇文護を排除する。
宇文邕は宇文護を宮中へ呼び出し、
母の叱奴太后が高齢になっても酒をやめないので、酒を慎むよう説得してほしいと持ちかけた。
そして古代の酒に対する戒めを記した『酒誥』を宇文護に渡し、太后の前で読み上げるよう求めた。
宇文護は疑うことなく太后のもとへ向かい、『酒誥』を読み始めた。
その背後から宇文邕が玉珽で宇文護を打ち倒した。
宇文邕は宦官の何泉に宇文護を斬るよう命じたが、何泉は恐れて仕留められなかった。
そこで待機していた衛王・宇文直が飛び出し、宇文護を殺害した。
長年北周を支配してきた権臣の最期は、戦場でも公開の政変でもなく、
皇帝自身が仕掛けた宮中での暗殺だった。
宇文護の子や側近も相次いで処分され、約15年に及んだ宇文護体制は崩壊する。
宇文邕は即位から約12年を経て、29歳で初めて北周の実権を完全に掌握した。
宇文憲を大冢宰とする
宇文護の死後、その地位を継ぐ形で大冢宰となったのが、宇文邕の弟・宇文憲だった。
しかし宇文憲が第二の宇文護となったわけではない。
大冢宰という官職そのものは残されたが、
宇文護時代のように一人の大臣が軍政全体を支配する体制は解体された。
宇文憲は北周屈指の名将として重用されたものの、最終的な軍事・政治判断は宇文邕自身が握った。
宇文護を倒した意味は、単に一人の政敵を殺したことではない。
宇文泰の死後、皇帝の外側に置かれていた最高軍事権力を皇帝自身のもとへ取り戻し、
北周を「宇文氏一族の有力者が支える政権」から、皇帝を頂点とする国家へ変える転換点となった。
↓↓北周の名将・宇文憲についての個別記事は、こちら

親政と国家改革|北斉を倒すための国力強化
宇文護を排除した宇文邕は、政治・軍事・経済の各方面で国家統制を強めた。
宇文泰以来の府兵は、六鎮系軍人や軍事貴族との結びつきが強かった。
宇文邕はこれを皇帝の軍隊として再編し、軍事力を中央へ集中させていく。
574年には諸軍の軍士を「侍官」と改称した。
『隋書』食貨志によれば、百姓からも兵士を募集し、
採用された者を県籍から外して軍籍へ移す措置が進められた。
これは従来の鮮卑系・軍人系集団だけに依存していた軍隊の兵源を広げ、
漢人を含む一般民にも軍役への道を開く改革だった。
同時に、有力軍事貴族に分属していた軍事力を皇帝直属の方向へ再編する意味も持っていた。
したがって宇文邕の軍制改革は、唐代型の府兵制を一挙に完成させたものではない。
しかし宇文泰以来の府兵組織をさらに中央集権化し、北周の動員力を拡大した点は重要である。
政治面でも宇文邕は、官僚組織の整理、法令の整備、地方統治の強化を進めた。
宮廷では華美を避け、自ら質素な生活を送り、奢侈を抑えたことが史書で強調されている。
『周書』が描く宇文邕は、
政務に熱心で、細かな事柄まで自ら判断し、厳格でありながら刑罰をむやみに好む人物ではなかった。
ただし、これは温和な君主だったという意味ではない。
必要と判断すれば宇文護を自ら殺害し、宗教勢力にも大規模な弾圧を加えた。
宇文邕の統治は、寛容さよりも国家目的のために権力と資源を集中させる実務性に特徴があった。
廃仏・廃道|宗教勢力を国家へ取り込む
574年、宇文邕は北周全土で仏教と道教を廃止する命令を出した。
仏教だけを対象としたものではなく、僧侶・道士を還俗させ、
寺院や宗教財産を国家の統制下へ置く大規模な宗教政策だった。
当時、寺院は多くの土地や財産を保有し、
僧侶となった人々は租税や労役など国家負担の外側に置かれることがあった。
北斉との戦争を続ける北周にとって、
宗教勢力に集中していた土地・人口・財産を国家の統制下へ戻すことは、
財政や動員力の強化にもつながった。
ただし、廃仏・廃道を単なる北斉攻略のための財源確保と見ることはできない。
宇文邕は以前から仏教・道教・儒教の三教について議論させ、
その国家における位置づけを検討していた。
宗教組織が皇帝国家とは別の権威と組織を形成していることも、
宇文邕にとって無視できない問題だった。
寺院財産を国家の統制下へ置き、僧尼や道士を一般民へ戻せば、
国家が把握できる土地・人口・租税・労働力は増加する。
廃仏・廃道は宗教弾圧という側面を持つ一方、
宇文邕が進めた皇帝権力の強化と国家資源の集中にも深く結びついた政策だった。
三教論争と通道観
宇文邕は仏教を禁圧する一方、単純に宗教思想そのものを消滅させようとしたわけでもない。
廃仏・廃道後には「通道観」を設置し、仏教・道教を含む思想や経典を研究させた。
そこには僧侶・道士のなかから学識ある人物も選ばれたが、
宗教者として独立した身分を認めるのではなく、国家の制度内に置かれた学士として扱われた。
つまり宇文邕の宗教政策は、「仏教を嫌ったので破壊した」というだけでは説明できない。
宗教教団の独立した組織と特権を解体し、
その思想や人材の一部を皇帝国家の内部へ回収する政策だった。
この廃仏は後に北斉領へも拡大され、多数の寺院・僧尼に大きな影響を与えることになる。
北斉征服|失敗から華北統一へ
宇文邕が親政を確立した時期、最大の対外目標は東方の北斉だった。
北斉は長年にわたって北周を上回る人口と経済力を持ち、
西魏・北周は何度もその軍事力に苦しめられてきた。
しかし570年代になると状況が変化する。
北斉では後主・高緯のもとで政治的混乱が深まり、572年には名将斛律光が処刑された。
さらに高長恭も573年に死を命じられ、北周との戦争を支えてきた有力将軍が相次いで消えていく。
一方、南では南朝陳が北斉領へ攻勢をかけた。
573年、南朝陳の宣帝は呉明徹らを北伐させ、寿陽をはじめ淮南の北斉領を奪取した。
北斉は南からも領土を削られ、以前のような圧倒的優位を失いつつあった。
宇文邕はこうした情勢を見ながら軍備を整え、北斉との決戦に踏み切る。
↓↓北斉の名将・斛律光、高長恭についての個別記事は、こちら


575年|第一次北斉遠征
575年、宇文邕は大軍を率いて北斉へ侵攻した。
宇文邕は河陰方面へ進み、宇文憲らにも別方面から進撃させ、洛陽周辺の攻略を図った。
北周軍は北斉領へ深く進出したものの、北斉側の守備も崩れなかった。
さらに宇文邕自身が病に倒れたため、遠征を続けることが困難となる。
宇文邕は無理に決戦を続けず、全軍を撤退させた。
これは北斉征服の失敗だったが、翌年の遠征では攻撃目標を変えることになる。
洛陽を正面から攻めるのではなく、北斉の西部防衛線を突破し、晋陽へ迫る戦略へ転換したのである。
576年|平陽を奪う
576年、宇文邕は再び北斉へ親征した。
北周軍は平陽を攻撃し、城を攻略する。
宇文邕はいったん主力を引きながら梁士彦らに平陽を守らせた。
平陽を奪われた北斉の後主・高緯は大軍を率いて奪還に向かい、城を包囲する。
梁士彦らは激しい攻撃に耐えた。
平陽が陥落すれば北周の遠征は再び失敗に終わる可能性があったため、
宇文邕は救援軍を率いて急行する。
両軍は平陽周辺で決戦となった。
北斉軍は当初なお大軍を保持していたが、
戦闘の途中で陣形を崩し、後主高緯が退却すると全軍が崩壊した。
北周軍はこの勝利を逃さず追撃する。
↓↓北斉の後主・高緯についての個別記事は、こちら

晋陽陥落と高延宗の抵抗
高緯は北斉の副都・晋陽へ逃れたが、北周軍の追撃を恐れてさらに鄴方面へ退いた。
晋陽では安徳王・高延宗が残された。
将兵は高延宗を皇帝として擁立し、北周軍に抵抗する。
高延宗軍は一時、晋陽へ入った北周軍を激しく攻撃し、宇文邕自身も危険な状況に陥った。
しかし北周軍は態勢を立て直して反撃し、晋陽を制圧する。高延宗も捕らえられた。
晋陽は北斉の軍事的根拠地であり、高氏政権が東魏以来重視してきた都市だった。
その晋陽を失ったことで、北斉の防衛体制は決定的に崩れる。
宇文邕はそのまま鄴へ進軍した。
577年|鄴陥落と北斉滅亡
高緯はすでに皇太子・高恒へ譲位し、自ら太上皇となっていたが、
北周軍の進撃を止めることはできなかった。
宇文邕は諸軍を率いて鄴を攻撃し、北斉軍を破って城内へ入った。
高緯は母や妻子を青州方面へ逃がし、自身も逃亡したが、北周軍の追撃を受けて捕らえられた。
幼主・高恒も捕らえられ、高氏による北斉政権は事実上滅亡した。
こうして西魏と東魏の分裂以来、約40年以上続いてきた東西両勢力の抗争は北周の勝利で終わった。
宇文邕は父・宇文泰も、
長年北周を支配した宇文護も成し遂げられなかった北斉征服を実現したのである。
北斉旧領をどう統治したのか
北斉征服後、宇文邕は征服地を無差別に破壊する政策を取らなかった。
北斉の官僚や地方勢力のうち利用できる人材は北周の統治機構へ取り込み、
旧北斉領を早期に安定させようとした。
李徳林のように北斉から北周へ仕え、後に隋でも重用された人物もいる。
また北斉側で最後まで職務を果たした人物についても、その忠節や能力を評価した例が見られる。
これは単純な慈悲ではない。
北斉の広大な領土と人口を獲得した北周にとって、
旧臣をすべて排除すれば統治機構そのものが機能しなくなる。
宇文邕は征服者であると同時に、新領土を実際に統治しなければならなかった。
高緯は当初、温国公に封じられるなど処遇されたが、
同年には反乱を企てたとの告発を受け、高氏皇族の多くとともに処刑された。
したがって宇文邕の北斉平定後の政策は、
「旧北斉勢力を一律に粛清しなかった」という点では寛容だったが、
「北斉皇族まで一貫して保護した」というものではない。
北斉の廃仏を北周領へ拡大
北斉を征服すると、宇文邕は北周ですでに実施していた宗教政策を旧北斉領にも広げた。
北斉は仏教が非常に盛んな国家であり、多数の寺院と僧尼を抱えていた。
そのため北斉領への廃仏拡大は、574年の北周国内での廃仏以上に大規模なものとなった。
寺院財産は国家の管理下に置かれ、僧尼は還俗させられた。
これによって宇文邕の宗教政策は、北周西部だけの政策から華北規模の政策へ拡大した。
華北統一後|次に狙ったのは突厥と南朝陳
北斉を滅ぼしたことで、北周は華北の大部分を支配する国家となった。
しかし宇文邕は北斉征服で軍事行動を終えたわけではなく、
北方の突厥と南方の南朝陳への対応を続けた。
南方では、北斉末期から南朝陳の呉明徹が淮南方面へ進出していた。
北斉滅亡後は旧北斉領をめぐって北周と陳が直接対峙するようになり、
578年、北周軍は呂梁で陳軍を破って呉明徹を捕らえた。
これにより北周は南方戦線でも優位に立ち、陳へのさらなる進出が可能な状況となった。
一方、北周は以前から突厥と外交・婚姻関係を結び、
宇文邕自身も突厥の阿史那氏を皇后として迎えていた。
しかし北斉が消滅して北周が華北最大の勢力になると、両国を取り巻く情勢も変化する。
578年に突厥が北周領へ侵入すると、宇文邕は自ら軍を率いて討伐に向かった。
宇文邕は北斉滅亡後も軍制の整備を続けながら、南では陳、北では突厥への対応を進めていた。
華北統一によって南朝陳との統一戦争へ進む条件も整いつつあったが、
その途上で宇文邕は病に倒れ、中国統一を自ら完成させることなく世を去ることになる。
最期|突厥親征の途中で急死
578年、宇文邕は突厥討伐のため自ら軍を率いて北へ向かった。
しかし遠征の途中で病に倒れる。
病状は悪化し、宇文邕は長安へ戻ることになったが、
6月、帰還途中の乗輿の中で死去した。36歳だった。
死後、武皇帝と諡され、廟号を高祖とされ、孝陵に葬られた。
北斉を滅ぼしてから、わずか一年余り後の死だった。
宇文邕の死によって、北周は華北統一後の新しい国家体制を十分に固める時間を失う。
後継者となったのは皇太子・宣帝(宇文贇)だった。
宇文邕は皇太子時代の宇文贇の言動を厳しく監督し、過失があれば処罰していた。
後継者としての資質に不安を持っていたことがうかがえるが、
最終的に別の皇子へ皇位を移すことはなかった。
宇文贇は即位後、父の時代とは大きく異なる政治を行い、北周の政治秩序は急速に不安定化する。
580年に宇文贇が死ぬと、幼い静帝のもとで外戚の楊堅が実権を掌握した。
翌581年、楊堅は北周から禅譲を受けて隋を建国する。
宇文邕が北斉を滅ぼして作り上げた華北統一国家は、
最終的には宇文氏ではなく楊堅によって引き継がれ、589年の陳滅亡と中国再統一へつながった。
↓↓宇文邕の後継者・宣帝(宇文贇)についての個別記事は、こちら

宇文邕の人物像|「名君」だけでは捉えられない皇帝
宇文邕は北周の歴代皇帝のなかでも、際立って大きな成果を残した。
十二年間にわたって宇文護との正面衝突を避け、
好機が訪れると自ら宇文護を殺害して親政を確立した。
その後は軍事力を皇帝へ集中させ、国家の動員力を高め、わずか数年後には北斉征服を実現している。
戦場でも宮廷に留まって将軍へ命令するだけではなく、自ら前線へ出た。
質素な服装で兵士と苦楽を共にしたという人物像も史書に残されており、
北斉との最終戦争でも皇帝自身が軍を率いた。
一方で、必要と判断した政策は極めて苛烈だった。
宇文護暗殺では自ら相手を打ち倒し、廃仏では巨大な宗教組織を国家権力によって解体した。
北斉平定後も、高氏皇族に対する処刑が行われている。
したがって「名君」と「暴君」という二つの単純な分類に分けるより、
国家の強化と統一という目的を最優先し、
そのためには強硬手段も辞さなかった皇帝として見る方が実像に近い。
父・宇文泰との違い
父の宇文泰は、西魏という弱小政権を作り上げ、高歓の東魏と対抗できる国家へ育てた人物だった。
宇文泰が残したのは、府兵制につながる軍事組織、六官制、関中を中心とする軍事貴族層、
そして西魏から北周へ続く国家基盤だった。
しかし宇文泰自身は東魏を滅ぼせなかった。
その遺産を受け継ぎながら、宇文護による長い権臣支配を終わらせ、
皇帝自身の権力へ再編したのが宇文邕である。
そして宇文泰が成し遂げられなかった東方政権の征服を実現し、
西魏以来分裂していた華北を一つにまとめた。
宇文泰が北周の「基礎を作った人物」なら、
宇文邕はその国家能力を最大限に引き出した皇帝だったといえる。
北斉滅亡は宇文邕一人の力だったのか
北斉滅亡を宇文邕個人の軍事能力だけで説明することもできない。
北斉では後主・高緯の時代に政治的混乱が進み、斛律光や高長恭といった有力武将が失われた。
南からは南朝陳の攻撃を受け、国力を消耗していた。
北周側でも、宇文憲、韋孝寛、梁士彦、宇文忻ら多くの将軍が戦争を支えている。
宇文邕の功績は、こうした北斉の弱体化を見逃さず、
自国の軍制と統治体制を整えたうえで攻勢に転じ、
575年の失敗後にも戦略を修正し、翌年の決戦へつなげたところにある。
敵国の自壊だけでも、皇帝一人の軍事的才能だけでもなく、
北周の国力強化と北斉の内部弱体化が重なった結果として577年の滅亡が起きたのである。
まとめ
宇文邕は、父・宇文泰が築いた国家を受け継ぎながら、
宇文護によって実権を奪われた状態で皇帝となった。
孝閔帝と明帝が宇文護によって死に追いやられた状況を見ながら、即位後約12年間は正面衝突を避け、
572年になって「酒誥」を利用した策で宇文護を宮中へ誘い込み、自ら打ち倒した。
親政開始後は、宇文護のような権臣へ集中していた軍事権を皇帝へ戻し、
軍士の侍官化や兵源の拡大を進めた。
574年には仏教・道教を廃止し、宗教組織の独立性を削る一方、
通道観を設置して思想や人材を国家の内部へ取り込んだ。
そして575年から北斉征服に乗り出す。
一度目の遠征は病によって撤退したが、576年には平陽を奪い、北斉主力軍を撃破して晋陽を攻略。
577年には鄴を陥落させ、高緯らを捕らえて北斉を滅ぼした。
これによって西魏・東魏分裂以来の東西対立は終わり、北周は華北の大部分を支配する国家となった。
しかし宇文邕の最盛期は短かった。
北斉滅亡後も南朝陳・突厥との戦争を進めようとしたが、
578年の突厥親征中に病に倒れ、36歳で死去した。
後継者・宇文贇のもとで北周は急速に不安定化し、
わずか3年後には楊堅によって隋へ取って代わられる。
宇文邕自身が中国統一を完成させることはなかった。
しかし宇文護による権臣支配を終わらせ、北斉を滅ぼして華北を統合したことで、
後に隋が南朝陳を滅ぼして全国統一を達成するための政治的・地理的条件を大きく整えた。
宇文泰が作った西魏・北周の国家基盤を最盛期へ押し上げながら、
その成果を次代へ残して36歳で急逝したことこそ、宇文邕の生涯を特徴づける最大の点である。
↓↓隋を建国した楊堅についての個別記事は、こちら

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史書・参考文献
・『周書』巻五「帝紀第五 武帝上」
・『周書』巻六「帝紀第六 武帝下」
・『周書』巻十一「列伝第三 晋蕩公護」
・『周書』巻十二「列伝第四 斉煬王憲」
・『北史』巻十「周本紀下」
・『資治通鑑』巻一六八~一七三
・『隋書』巻二十四「食貨志」
・『隋書』
・川勝義雄『中国貴族社会の研究』
・宮崎市定『隋唐時代史』
・布目潮渢『中国史 上』
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