【北周】宇文贇(宣帝)|北周崩壊を体現した皇帝

宣帝・宇文贇(北周・皇帝) 031.皇帝

宇文贇(うぶんいん、559–580)は、北周の第4代皇帝であり、諡号を宣帝という。
父は北斉を滅ぼして華北をほぼ統一した武帝・宇文邕で、宇文贇はその最盛期の北周を受け継いだ。

しかし即位すると有力宗室や重臣を粛清し、
後宮を拡大して複数の皇后を並立させ、刑罰と宮廷儀礼を恣意的に変更した。
さらに即位から一年足らずで幼い息子に皇位を譲り、
自らは「天元皇帝」と称して皇帝を超える存在として振る舞った。

宇文贇の死後、幼帝を擁する北周では楊堅が急速に実権を掌握し、
わずか一年後の581年に北周は滅亡する。

ただし、楊堅の台頭を宇文贇が生前から意図的に進めたわけではない。
宇文贇の統治によって宗室・重臣を取り巻く政治秩序が弱体化し、
彼自身が22歳で急死したことで生じた権力の空白を、楊堅が利用したというのが実態に近い。

『周書』『北史』『資治通鑑』を中心に、
北周最盛期をわずかな期間で崩壊へ向かわせた宇文贇の生涯と、
その死がなぜ楊堅による隋建国へつながったのかを見ていく。

出自と皇太子時代|武帝に恐れられた後継者

宇文贇は559年、同州で武帝・宇文邕の長男として生まれた。
母は李氏で、561年に魯国公に封じられ、572年に皇太子となった。

皇太子となった宇文贇は、単に宮中で教育を受けていただけではない。
573年には西方を巡撫し、武帝が服喪していた時期には約50日にわたって朝政を総覧した。
また武帝が各地へ巡幸すると長安に残って監国し、
576年には再び西方へ派遣され、吐谷渾への軍事行動にも参加している。
したがって、即位するまで政治や軍事の実務経験がなかった人物ではない。

しかし武帝は早い段階から後継者としての宇文贇に強い不安を抱いていた。
『北史』によれば、
宇文贇は酒を好んだため東宮への酒の持ち込みを禁じられ、過失があれば杖で打たれた。
朝廷での振る舞いについても一般の臣下と同じように厳しく扱われ、
酷暑や厳寒でも特別扱いされなかったという。

武帝はさらに東宮の官僚に宇文贇の言動を記録させ、毎月報告させた。
宇文贇は父を恐れ、自分の本性を隠して表面上は行いを改めたため、
問題行動が外部へ伝わりにくくなったと史書は記している。

武帝は
「古来、廃された皇太子が何人いたと思うのか。私の他の子が皇太子になれないとでも思うのか」
という趣旨の言葉まで宇文贇に告げたとされる。

父子関係は、単なる厳格な帝王教育という範囲を超え、
皇位継承そのものをちらつかせた強烈な統制のもとに置かれていた。

後世には、こうした抑圧が即位後の宇文贇の暴走につながったと説明されることがある。
ただし、皇太子時代の厳格な教育と即位後の暴虐との間に直接的な因果関係があったことを
史料から証明することはできない。

確認できるのは、武帝が息子の資質を危惧して厳しく監視していたことと、
宇文贇が父の前では問題行動を隠していたことである。

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【北周】宇文邕(武帝)|宇文護を倒し北斉を滅ぼした北周最強の皇帝
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即位と粛清|父の死とともに抑制が外れる

578年6月、武帝が死去すると宇文贇は皇帝に即位した。
『北史』は、父の死に際して悲しむ様子を見せず、
武帝の棺が置かれている間にも先帝の宮人と関係を持ったと記している。
また別の史料には、父から打たれた痕をさすりながら、
武帝の棺に向かって「死ぬのが遅い」という趣旨の言葉を吐いたという逸話も伝えられる。

即位後の宇文贇は、武帝が築いた政治体制をそのまま継承しなかった。
象徴的なのが、即位直後に行われた斉王・宇文憲の誅殺である。

宇文憲は武帝の弟で、北斉征服でも大きな軍功を挙げた北周屈指の将軍だった。
皇族としての血統、軍事的実績、名望のいずれも高く、
新帝にとって潜在的な脅威となり得る存在だった。
宇文贇は即位から間もなく宇文憲を殺害し、有力宗室の一角を自ら取り除いた。

一方で、のちに隋を建国する楊堅はこの時期に昇進している。
578年7月には上柱国・大司馬となり、579年には新設された四輔官の一つである大後丞に任じられた。ただし、この段階の楊堅は北周政権を掌握していたわけではなく、
宇文贇のもとにいた有力臣僚の一人だった。

579年には柱国・徐州総管の王軌も殺害された。
王軌はかつて武帝に皇太子宇文贇の資質を問題視する意見を述べた人物であり、
宇文贇にとって自らの皇位継承を脅かした過去を持つ重臣だった。

宇文憲や王軌の排除によって皇帝に対抗し得る有力者が失われたことは、
宇文贇自身の専制を強める一方、彼が急死した際に幼帝を支える政治基盤を弱くする結果にもなった。

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【北周】宇文憲|最盛期を支えた『周書』で「智勇冠世」と称えられた名将
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暴走する皇帝|後宮・刑罰・礼制を次々に改変

女色と五人の皇后

宇文贇は即位すると後宮を急速に拡大した。
史書は、全国から女性を選抜して後宮へ入れたと記している。

皇太子時代からの正妻は楊堅の長女・楊麗華だったが、
宇文贇は従来の一人の皇后を頂点とする制度を崩し、複数の女性を同時に皇后とした。

静帝・宇文衍の生母である朱満月をはじめ、元楽尚、陳月儀、尉遅熾繁らにも次々と皇后号を与え、
最終的には楊麗華を含む五人の皇后が並立する異例の状態となった。
『周書』皇后伝には、宇文贇自身が五という数字を五行の「土」に対応させ、
五皇后制を正当化する詔を出したことが記録されている。

尉遅熾繁を後宮へ入れた経緯も異常だった。
彼女は宇文贇の親族である西陽公宇文温の妻だったが、
その美貌に目をつけた宇文贇が酒を飲ませて関係を強要したと『北史』は記す。
その後、宇文温を殺し、尉遅氏を宮中へ入れて最終的には皇后とした。

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「天杖」と監視政治

宇文贇の統治では刑罰も恣意的に運用された。

武帝は厳格な『刑書要制』を制定していたが、
宇文贇は即位後、人心を得るためとしてこれを廃止した。
しかし579年には新たに『刑経聖制』を制定し、
『北史』自身がその法を「深刻」と表現するほど厳しい刑制へ転じている。

さらに宇文贇は側近を使って群臣の言動を密かに監視させ、少しでも自分の意に反すれば処罰した。
公卿以下の高官も例外ではなく、誅殺・免官・降格された者は数え切れないと史書はいう。

とりわけ宇文贇が好んだのが杖刑だった。
一度に120回打つことを基準とし、これを「天杖」と称した。
対象は官僚だけではなく宮人にも及び、
寵愛している后妃であっても背中を杖で打たれた者が少なくなかった。

そのため朝廷内外には恐怖が広がり、人々は積極的に政治へ関与するよりも、
自分が処罰されないことを優先するようになったと『北史』は描いている。

奢侈と洛陽宮の造営

宇文贇は宮殿や儀礼にも莫大な労力を投入した。

579年、洛陽を東方の政治拠点として再建するため、大規模な洛陽宮建設を開始した。
山東諸州から兵役を徴発し、通常でも約4万人を工事に従事させ、その工事は宇文贇が死ぬまで続いた。
完成には至らなかったが、
『北史』はその規模と壮麗さが漢・魏の宮殿をはるかに上回るものだったと記している。

宮中でも奢侈を極め、帷帳には金・玉・珠宝を飾った。
居所である天徳殿には方角に応じて五色の土を塗り、皇后たちと並んで座り、
本来は宗廟祭祀に用いる尊・彝・圭瓚などの礼器を日常の飲食に使用した。

これは単に贅沢を好んだというだけではない。
国家の秩序を象徴する礼器や儀礼を皇帝個人の権威演出へ転用し、
従来の皇帝制度そのものを書き換えようとした行為だった。

皇位を譲って「天元皇帝」へ|皇帝を超える存在を演出

579年2月、宇文贇は在位一年足らずで皇太子・宇文衍に皇位を譲った。
宇文衍は当時まだ幼児で、のちの静帝である。

しかし、これは政治から引退するための譲位ではなかった。

宇文贇は自らを「天元皇帝」と称し、その居所を「天台」と呼んだ。
臣下に対しては自らを「天」と称し、冠の旒や車服・旗鼓なども従来の皇帝を上回る規格へ変更した。
臣下が天台へ朝見する際には三日間の斎戒と一日の沐浴を要求するなど、
自らを通常の皇帝よりさらに上位の存在として演出した。

さらに「高」「大」「天」など、
自分の権威を連想させる文字や称号を他人が使用することまで制限した。
高姓を姜姓へ変更させ、「高祖」という呼称を「長祖」に変えさせるなど、
官名や言葉にまで介入している。

一方、宇文贇自身は後宮に入り浸り、十日ほど姿を現さないこともあり、
政務を求める公卿や近臣は宦官を通じて奏上しなければならないことがあった。
遊興のため頻繁に宮殿や苑へ出入りし、雑技や歌舞を常に身近に置いた。

したがって579年の譲位は、権力を放棄したというより、
幼い皇帝を別に立てたうえで自分自身をその上位に置くという、
極めて特殊な二重構造を作ったものだった。

22歳で急死|楊堅が実権を握るまで

580年5月、宇文贇は病に倒れた。
病状が悪化すると、当時揚州総管だった楊堅を宮中へ呼び寄せた。
そして580年、宇文贇は天徳殿で死去した。享年22。

ここで北周の政治状況は一変する。

宇文贇の死後に残された皇帝・宇文衍はまだ幼く、自力で政治を行える年齢ではなかった。
御正下大夫の劉昉と内史上大夫の鄭訳は詔を作り、
楊堅に遺命を受けて輔政する立場を与えたと史書は記している。

楊堅は左大丞相・仮黄鉞となり、百官がその命令に従う体制を構築した。
ここから初めて、楊堅は北周の最高権力者へ急速に浮上する。

したがって、「宇文贇が政治を放棄したため、生前から実務が楊堅へ委ねられていった」
と単純に理解するのは正確ではない。
宇文贇の生前にも楊堅は大司馬・大後丞・大前疑などの高官を歴任していたが、
決定的な権力掌握は宇文贇の急死後である。

ただし、宇文贇の統治が楊堅の台頭を容易にした側面は否定できない。
宇文憲や王軌など有力な宗室・重臣がすでに排除され、皇位には幼い静帝しか残されていなかった。
宇文贇自身が皇帝制度や官制を頻繁に変更したことも、武帝時代の安定した政治秩序を弱めていた。

楊堅の権力掌握に対しては北周の有力者も抵抗した。
相州総管の尉遅迥をはじめ、司馬消難や王謙らが相次いで挙兵したが、楊堅はこれらを鎮圧した。
さらに北周の諸王も排除され、楊堅に対抗できる勢力は急速に失われていった。

581年、静帝は楊堅へ皇位を譲り、楊堅は隋を建国した。
北周は建国から約25年で滅亡することになった。

宇文贇は本当に「北周を壊した皇帝」だったのか

『周書』『北史』における宇文贇の評価は極めて厳しい。
とくに『北史』は、皇太子時代から武帝が後継者としての資質を危惧していたことを詳しく記し、
即位後についても女色・酒・奢侈・猜疑・刑罰・遊興などを列挙している。

実際、宇文贇が即位後に宇文憲や王軌を殺害し、全国から女性を集め、五人の皇后を並立させ、
刑制や朝儀を頻繁に変更し、大規模な洛陽宮造営を進めたことは史書から確認できる。
幼い息子へ皇位を譲りながら「天元皇帝」としてその上位に立つという政治体制も、
北周の皇帝権力を複雑化させた。

一方で、北周滅亡を宇文贇一人の「暗愚」だけで説明するのも十分ではない。

武帝は北斉を滅ぼして北周を華北最大の勢力へ押し上げたが、
その強力な皇帝権力を安定して継承できる制度までは確立できなかった。
武帝自身も宇文贇の資質を疑いながら皇太子を交代させず、
結果としてそのまま皇位を継承させている。

そして決定的だったのは宇文贇の死そのものだった。
22歳という若さで突然死したため、皇位には幼児の静帝しか残らず、
輔政者をめぐる権力争いが直ちに発生した。
その空白に入ったのが外戚でもあった楊堅である。

宇文贇が自ら楊堅へ北周を渡したわけではない。
しかし有力宗室や重臣を排除し、政治秩序を大きく改変した状態で幼帝を残して急死したことが、
楊堅による権力掌握を容易にしたことは確かである。

武帝のもとで北斉を滅ぼし最盛期を迎えた北周は、宇文贇の即位からわずか三年ほどで滅亡した。
宇文贇の短い生涯は、強大な皇帝個人に依存した王朝が、
後継者の失敗と突然の皇位継承によっていかに急速に崩壊し得るかを示す事例でもある。

まとめ

宇文贇は、北周を最盛期へ導いた武帝・宇文邕の後継者として皇位に就いた。
皇太子時代には監国や西方巡撫、吐谷渾への軍事行動などを経験していたが、
武帝からは資質を危ぶまれ、厳格な監視と処罰を受け続けた。

即位後は宇文憲や王軌を排除し、後宮を拡大して五人の皇后を並立させ、
「天杖」と呼ばれる杖刑を多用した。
洛陽宮の大規模造営や宮廷儀礼の改変も進め、579年には幼い宇文衍へ譲位しながら、
自らは「天元皇帝」として皇帝を超える権威を作り上げようとした。

しかし580年、宇文贇は22歳で急死する。
幼い静帝のもとで劉昉・鄭訳らによって輔政者に据えられた楊堅は反対勢力を次々と制圧し、
581年には皇位を譲らせて隋を建国した。

北周の滅亡は宇文贇一人だけで説明できるものではない。
しかし、武帝が築いた政治秩序を短期間で大きく変え、
有力宗室・重臣を排除し、幼帝しか残さないまま急死したことが、
楊堅の権力掌握と北周滅亡につながる重要な条件を作ったことは間違いない。

宇文贇は北周を直接滅ぼした皇帝というより、
最盛期にあった王朝をわずかな期間で後継者危機へ転落させ、
その死によって楊堅が台頭する政治的空白を残した皇帝だった。

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史書・参考文献

・『周書』巻七「帝紀第七 宣帝」
・『周書』巻八「帝紀第八 静帝」
・『周書』巻九「列伝第一 皇后」
・『北史』巻十「周本紀下」
・司馬光『資治通鑑』巻173・巻174

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