陶母とは?陶侃を育てた賢母と倹約・教育の逸話

陶母(東晋・陶侃の母) 05.才女

陶母(とうぼ)は、西晋から東晋にかけて活躍した名将・陶侃(とうかん)の母で、
史書では湛氏(たんし)と記される女性である。
個人名も生没年もわからないが、『晋書』では「列女伝」に独立した記事が立てられ、
貧しい家で息子を育てながらその将来を支えた賢母として伝えられている。

陶母の名を後世に残したのは、単に生活を切り詰めて息子を養ったからではない。
陶侃がまだ無名だったころ、自ら機織りをして交際費を工面し、
より優れた人物と付き合うよう促した。

客人が訪れれば自分の髪まで売ってもてなし、
陶侃が役所の管理する魚を母へ送ると、それを受け取るどころか送り返して厳しく叱った。

なかでも「截髪延賓」と「封鮓責子」の二つは、中国における賢母の逸話として長く語り継がれた。
ただし、後世に美談として整えられた部分もあり、
とくに魚の逸話については『世説新語』の注釈者自身が別人の故事との混同を疑っている。

陶母とは実際にどのような女性だったのか。
息子・陶侃の若いころから、その死後に「賢母」の象徴となっていくまでを史料に沿って見ていく。

陶母・湛氏の出自

『晋書』「列女伝」は、陶侃の母を「湛氏」とし、豫章郡新淦県の出身だったと記している。
新淦は現在の江西省吉安市新幹県付近にあたる。

ただし、姓については異なる伝承も残る。
『晋書斠注』が引用する『寰宇記』や雷次宗の『豫章記』などでは「諶氏」とされており、
「湛」と「諶」の字形が似ているため転写の過程で誤りが生じた可能性も指摘されている。
現存する『晋書』本文では「湛氏」であるため、一般にはこの名で知られているが、
古い地誌まで含めれば表記は一定していない。

湛氏は陶丹という人物の妾となり、陶侃を生んだ。
『晋書』「陶侃伝」によれば、陶丹は三国時代の呉で揚武将軍を務めた人物だったという。
一方で陶侃自身については「早く父を失い貧しかった」と記されており、
父の地位がそのまま息子へ受け継がれるような境遇ではなかった。

湛氏が正妻ではなく妾だったことも、母子の立場を考えるうえでは無視できない。
陶氏そのものが当時すでに有力な名門だったわけではなく、
父を失った陶侃には強力な家門の後ろ盾もなかった。

父を失った陶侃を支える

『晋書』「列女伝」は、陶家について「貧賤」と明記している。
そのような環境で湛氏が行ったのが、自ら紡績をして陶侃を経済的に支えることだった。

史書には、湛氏が紡績によって陶侃を「資給」し、「己に勝る者と交結させた」とある。
つまり、自分より優れた人物と付き合えるよう、息子の交際そのものを経済的に支えていたのである。

当時の官界では、能力があるだけで出世できるわけではなかった。
地方の無名の若者が中央や郡県の官途へ進むには、
自分を評価し、推薦してくれる人物とのつながりが重要だった。
家に十分な財産も有力な親族もない陶侃にとって、
人との交わりは将来を切り開くための重要な手段だった。

湛氏の教育で現存史料で強調されているのは、
息子が自分より優れた人物と交わるためなら、自ら働いてでもその機会を作ろうとする姿勢だった。

范逵の訪問

湛氏を代表する逸話が生まれたのは、陶侃がまだ出世する以前のことである。

『晋書』「陶侃伝」によれば、当時の陶侃は県の下級役人として働いていた。
そこへ鄱陽の孝廉・范逵(はんき)が訪れ、陶侃の家へ宿泊することになった。

范逵はすでに名の知られた人物だったが、陶家には突然の客を十分にもてなす余裕がなかった。
しかも范逵は一人で旅をしていたのではなく、馬や従者も連れていた。

『世説新語』はこのときの陶家を「室、懸磬の如し」と表現している。
室内が吊るした磬のように空っぽで、
客に出せるものがほとんど何もないほど貧しかったという意味である。

陶侃は名士を迎えながら、もてなす手段を持っていなかった。

截髪延賓――髪を切って客をもてなす

『晋書』「陶侃伝」では、湛氏は自分の髪を切って「双髲」を作り、
それを酒や料理と交換して范逵をもてなしたと記されている。

髲はかもじ、すなわち髪を補うために用いる付け髪のようなもので、
女性の長い髪には商品としての価値があった。

『晋書』「列女伝」ではさらに、雪の降るなかで范逵が宿泊した際、
湛氏は自分が寝ていた敷物を取り、それを刻んで馬のために使い、
密かに髪を切って隣人に売り、料理を用意したとされる。
客本人だけではなく、その従者や馬にまで不足が出ないよう工面したのである。

『世説新語』「賢媛篇」になると、話はさらに詳しくなる。
湛氏の髪は地面まで届くほど長く、それを切って二つの髲にすると数斛の米を得た。
また家の柱を削って薪にし、敷物を刻んで馬の飼料にしたと伝えられる。
夕方になるころには立派な食事が整い、范逵の従者にも不足するものがなかったという。

細部は史料によって異なるが、
髪を売って客をもてなしたという核心部分は『晋書』の「陶侃伝」と「列女伝」の双方に見える。

これが後世に「截髪延賓」、
すなわち「髪を切って賓客をもてなす」という故事として知られるようになった。

なぜそこまでして范逵をもてなしたのか

范逵は孝廉に挙げられていた名士であり、陶侃にとって今後の官途に影響を与えうる人物だった。
范逵の来訪はまさに陶侃の将来につながる機会だった。

翌朝、范逵が出発すると、陶侃は百里あまりも追って見送った。
范逵から郡に仕える意思があるかと問われた陶侃は、そうしたいが「津」がないと答えている。
ここでいう津とは、官界へ入るための取り次ぎや推薦者を意味する。

范逵はその後、廬江太守・張夔のもとを訪れると陶侃を高く評価して推薦した。
張夔は陶侃を召し出して督郵とし、さらに樅陽令を兼ねさせた。
陶侃はそこで能力を認められ、主簿へ昇進していく。
『世説新語』では范逵が洛陽へ赴いた後、羊啅や顧栄らにも陶侃を称賛し、
その評判が大いに高まったとされる。

湛氏が髪を切って作った一夜の宴席は、
結果的に陶侃が地方の下級役人から本格的な官途へ進むきっかけの一つとなった。

「非此母不生此子」――范逵が驚いた母

『晋書』「列女伝」は、湛氏が自分の寝具や髪まで使って客をもてなしたことを知った范逵が、
「この母でなければ、この子は生まれなかっただろう」
と感嘆したと記している。
後に大人物となった陶侃の素質や人格の背後には、このような母親の存在があったという評価である。

『晋書』「列女伝」はこの逸話の直後を、「侃、竟に功名を以て顕る」と結ぶ。
陶侃は最終的に功績と名声によって世に知られるようになった、という意味であり、
史書そのものが母の行動と息子の成功を対応させる構成を取っている。

後世に陶母が「賢母」とされた理由は、貧困に耐えたことだけではない。
息子が進むべき機会を見定め、家財がなくてもその機会を失わせなかったことにあった。

封鮓責子――官物の魚を送り返す

湛氏のもう一つの有名な逸話が「封鮓責子」である。
若い陶侃が尋陽県の役人として魚梁を監督していたころ、
職務上扱っていた鮓(さ)、すなわち塩漬けの魚を一坩、母のもとへ送った。
ところが湛氏はこれを受け取らず、封をしたまま使者に持たせて陶侃へ送り返した。

その際に添えた手紙には、
「お前は役人でありながら官の物を私に送ってきた。
 これは私の利益にならないばかりか、かえって私の心配を増す」という趣旨の言葉が記されていた。

陶侃が送った魚は、誰かから受け取った賄賂や贈答品ではない。自らが管理する官有の物品だった。
まだ下級役人だった息子が、公の物をわずかでも家族のために使ったことを問題にしたのである。
後に陶侃は荊州・江州を統轄するほどの権力を持つが、
この逸話では官吏となったばかりの時期から公私を混同しないよう母に戒められていたことになる。

ただし、この「封鮓責子」が実際に陶侃母子の間で起きた出来事だったかについては、
早くから疑問が示されている。
逸話は『世説新語』「賢媛篇」にも収められているが、
劉孝標の注は、呉の孟宗が雷池監だったとき魚を母へ送ろうとして拒まれたという類似の故事を挙げ、
もともとは孟宗の話を後世の人が陶侃に仮託したのではないかと指摘している。

代に編纂された『晋書』「列女伝」にも陶母の逸話として採録されたため、
後世には「截髪延賓」と並ぶ陶母の代表的な故事となった。
しかし南朝期の時点ですでに異説が記録されている以上、
陶母の実話と断定するのではなく、史料上の疑義を伴う伝承として扱うのが妥当である。

湛氏の教育

『世説新語』「賢媛篇」の注に引用された「陶侃別伝」は、
湛氏を「賢明にして法訓あり」と評している。

実際、陶侃は後年、高官となってからも宴席で飲む酒の量を厳しく制限していた。
さらに飲むよう勧められると、若いころ酒で失敗して両親から戒められ、
それ以来、決められた量を越えないようにしていると語ったという。

この逸話は湛氏だけでなく「二親」、すなわち父母から受けた戒めとして伝えられている。
陶母単独の教育逸話ではないものの、
陶侃が成人後も若いころに受けた親の戒めを守り続けていたことを伝える記事である。

出世した陶侃が母を官舎へ迎える

范逵の推薦を受けて官途へ進んだ陶侃は、
その後、廬江太守張夔のもとで督郵・樅陽令・主簿などを歴任し、
やがて江夏太守となって鷹揚将軍を加えられた。

『晋書』「陶侃伝」は、このとき陶侃が威儀を整えて母を官舎へ迎え、
郷里の人々がこれを名誉としたと記している。

陶母の死と墓

湛氏の没年や享年、死因はわかっていない。
ただし『世説新語』注に引用された「陶侃別伝」には、陶侃が母の墓のそばで喪に服していた際、
二人の客が弔問に訪れ、立ち去った後に二羽の鶴となって飛び去ったという怪異譚が残されている。

墓所についても定説はない。
『寰宇記』は新淦県の東北、『豫章記』は臨川南方の抱岡山村、
『輿地紀勝』は都昌県西方の石壁精舍付近とし、
『晋書斠注』も諸説のどれが正しいか判断できないとしている。

代の文人・舒元輿は「陶母墳版文」で、
彭蠡(鄱陽湖)付近を通った際、石壁の東南に「陶母」と刻まれた碑を伴う墓があったと記している。
少なくとも唐代には陶母の墓とされる場所が知られていたが、
それが湛氏本人の墓であったかは確認できない。

孟母と並べられた「賢母」

陶母の名声は、陶侃の死後も長く伝えられた。
代の文人・舒元輿は「陶母墳版文」で陶母を取り上げ、
孟子を育てた孟母と並ぶ賢母として高く評価している。

舒元輿が重視したのは、母の教えが息子一人の成功にとどまらなかったことである。
陶母のもとで育った陶侃は西晋末から東晋初の動乱を生き抜き、
のちに荊州・江州を中心とする強大な軍事力を率いて朝廷を支える存在となった。
そのため舒元輿は、陶母の教育によって陶氏の家が栄えただけでなく、
結果として晋王朝もその恩恵を受けたと評価した。

また舒元輿は、母が子を愛すること自体は珍しくないとしながら、
愛情だけに流されず、守るべき規範をもって子を導くことの難しさを論じている。
その点で陶母を孟母と重ね、その「賢母の風」は後世にも伝えられるべきものだと称えた。

陶母が生きた時代から数百年後の代にも、その墓とされる場所が知られ、
文人が文章を残すほどの存在となっていた。
湛氏はすでに陶侃の母というだけではなく、
孟母と並んで「名臣を育てた賢母」の一人として記憶されていたのである。

陶母の人物評・評価

陶母・湛氏について、『晋書』は容貌や日常生活をほとんど伝えていない。
一方、「列女伝」に「陶侃母湛氏」として独立して立伝しており、
単に名将の母だったから記録された女性ではない。

『世説新語』注に引かれる「陶侃別伝」は、湛氏を「賢明にして法訓あり」と評する。
後世に形成された陶母像も、この「賢明」と「法訓」に集約されるだろう。
息子への愛情そのものより、何を助け、何を許さないかを判断できる母として評価されたのである。

ただし、陶母の逸話には後世の脚色や他人の故事との混同が疑われるものもある。
実像を細部まで復元することはできないが、
南朝から代にかけて「賢母」の典型として人物像が定着し、
『晋書』では列女の一人として歴史上に位置づけられた。

まとめ

陶母・湛氏について残る史料は多くなく、生没年や個人名さえわからない。
それでも、その名は息子・陶侃とともに伝えられ、
『晋書』では「列女伝」に立伝されるまでになった。

「截髪延賓」や「封鮓責子」には後世の脚色や異説も含まれるが、
南朝から代にかけて陶母が「賢母」の代表として語られていたこと自体は確かである。

とりわけ范逵の「この母でなければ、この子は生まれなかった」という評は、
後世の人々が陶侃の成功と母の存在を強く結びつけていたことを象徴している。

陶母は、歴史の表舞台に立った女性ではない。
しかし名将・陶侃の出発点にいた母として、その名は中国史に残り続けた。

史書・参考文献

『晋書』巻六十六「陶侃伝」
『晋書』巻九十六「列女伝・陶侃母湛氏」
『世説新語』賢媛篇
劉孝標注『世説新語』賢媛篇
『晋書斠注』巻九十六
舒元輿「陶母墳版文(并序)」
『寰宇記』
雷次宗『豫章記』
『輿地紀勝』

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