孟母(もうぼ)は、戦国時代の思想家・孟子の母として知られる女性である。
「孟母三遷」「断機の戒め」は中国を代表する教育故事となり、後世には賢母の典型として扱われた。
しかし、孟母について伝えられているのは幼い孟子を教育した話だけではない。
前漢の劉向が編纂した『列女伝』「鄒孟軻母」には、孟子が結婚した後に夫婦の争いを仲裁した話、
斉で政治的に行き詰まった孟子との対話まで収められている。
『孟子』本文にも母の死と葬儀に関する記事があり、
孟子が成人して諸国を遊説する時期まで母子の関係を追うことができる。
一方、これらの逸話の多くは孟母と孟子の時代からかなり後の史料に現れる。
後世の伝承や類似する故事との混同もあるため、どこまでを史実とみなせるかには注意が必要である。
孟母の出自――本当に「仉氏」だったのか
孟母の生年や出身地、若いころの経歴はわかっていない。
『列女伝』も個人名を記さず、冒頭で「鄒の孟軻の母なり。号して孟母という」とするだけである。
したがって、少なくとも前漢の『列女伝』から確認できるのは「孟子の母」としての呼称であり、
その本名ではない。
後世には仉氏(しょうし)と呼ばれるようになった。
明代の陳士元『孟子雑記』は「軻の母、仉氏」と記し、
『姓苑』を引いて仉氏の出自についても説明している。
しかし、これは孟子と同時代の史料から確認できる姓名ではなく、
孟母を最初期から「仉氏」と断定するには慎重さが必要となる。
夫についても事情は似ている。
後世には孟子の父が早世し、孟母が息子を育てたという人物像が定着した。
元の延祐3年(1316年)に孟子の父母を追封した制書にも「其の父夙に喪し」とあり、
父の早世が明記されている。ただし、これは孟子の時代から千年以上後の記録である。
現行記事にある「夫を早くに亡くし、女手一つで孟子を育てた」という説明は、
後世の伝承としてなら書けるが、同時代史料で確認された事実として扱うべきではない。
孟母三遷――墓地、市場、学宮へ
孟母を最も有名にしたのが「孟母三遷」の故事である。
『列女伝』によれば、孟母が幼い孟子と暮らしていた家は、最初は墓地の近くにあった。
孟子は周囲で目にする葬送の様子をまねて、墓を築いたり埋葬したりする遊びをするようになった。
それを見た孟母は「ここは我が子を住まわせる場所ではない」と考え、家を移した。
次に住んだのは市場の近くだった。
すると孟子は今度は商人が商品を売買する様子をまねて遊んだ。
孟母はここも息子を育てる場所として適切ではないと判断し、再び転居した。
三度目に選んだのが学宮のそばだった。
そこで孟子は、俎豆と呼ばれる祭器を並べ、揖譲進退、
すなわち礼に従った挨拶や立ち居振る舞いをまねるようになった。
孟母は「ここなら本当に我が子を住まわせることができる」と考え、ようやくそこに定住したという。
ここで注意したいのは、「三遷」という言葉から三回引っ越したように受け取られやすい点である。
『列女伝』の物語は「墓地の近く→市場の近く→学宮の近く」と居所が三か所変わる構成であり、
実際の転居は二回と読める。後世には一連の故事そのものが「孟母三遷」として定着した。
『列女伝』は、この話を「孟母は善く漸化を以てす」と評価している。
「漸化」とは、周囲から少しずつ影響を受けて人が変化していくことを意味する。
孟母は言葉で孟子を叱り続けるのではなく、
幼い子が周囲の人間を模倣することを見抜き、生活環境そのものを変えた母として描かれている。
断機の戒め――学問を途中でやめた孟子
孟子が成長して学問を始めたころの話として伝えられるのが「断機の戒め」である。
ある日、学問から帰ってきた孟子に、機を織っていた孟母が「学問はどこまで進んだのか」と尋ねた。
孟子が以前と変わらないという趣旨の返事をすると、
孟母は刀を取り、織っていた布を途中で断ち切った。
驚いた孟子が理由を尋ねると、孟母は、
学問を途中でやめることは織物を途中で切ってしまうことと同じだと諭した。
織物は糸を積み重ねて初めて衣服となるが、途中で切ればそれまでの仕事を完成させられない。
学問も継続して初めて身を立て、知識を広げるものになるという教えだった。
『列女伝』では、これに恐れ入った孟子が朝夕休まず学ぶようになり、
子思に師事して天下に知られる儒者になったと続けている。
ただし、「孟子が子思本人に師事した」という部分はそのまま史実とするには問題がある。
孟子と子思の年代関係をめぐっては古くから議論があり、
後世には子思の門人から学んだとする理解も生まれた。
したがって、この箇所は孟子の学統を孔子―子思へ結びつける
『列女伝』の記述として見る必要がある。
三遷が幼児期の「環境」を扱う故事なら、断機は成長後の「継続」を扱う故事だった。
この二つが組み合わされることで、孟母は後世の教育論において特別な存在となっていった。
「殺豚の教え」は孟母の逸話なのか
『韓詩外伝』系統の伝承では、
近所で豚を殺しているのを見た孟子が「あれは何のために殺しているのか」と母に尋ねる。
孟母は何気なく「お前に食べさせるためだ」と答えたが、すぐに自分の発言を悔いた。
子供に知恵がつき始めた時期に親が嘘をつけば、子供に不信を教えることになると考えた孟母は、
実際にその豚肉を買って孟子に食べさせ、自分の言葉を嘘にしなかったという。
後世には、胎教の段階から自らの振る舞いを慎んでいたという説明まで加えられている。
ただし、この逸話には大きな問題がある。
『韓非子』には非常によく似た話が曾子とその妻の故事として収められている。
後世の『孟子雑記』もこの一致に気づき、孟母と曾子の家で偶然同様の出来事があったのか、
それとも伝承の附会なのかと疑問を呈している。
したがって「殺豚の教え」は孟母に結びつけられた古い伝承の一つではあるが、
「孟母三遷」や『列女伝』所載の逸話と同列に確実な故事として扱うことはできない。
孟子の妻を離縁から救う
『列女伝』には、孟子成人後の逸話も残されている。
孟子が結婚した後、私室へ入ろうとしたところ、妻がくつろいだ姿でいるのを目にした。
孟子は不快に思って部屋へ入らなかった。
妻は、自分の私室での姿を夫に非難されたことを理由に、孟母へ離縁して実家へ帰りたいと申し出た。
ここで孟母が叱ったのは嫁ではなく孟子だった。
孟母は、礼では人のいる部屋へ入る際には声をかけ、
相手の過失や見られたくない姿を不用意に見ないよう配慮するものだと説いた。
そのうえで、相手に礼を要求しながら、自分自身が礼を守っていないのではないかと孟子を批判した。
孟子は自分の非を認めて謝罪し、妻はそのまま家にとどまったという。
『列女伝』はこの話を受けて、孟母を「礼を知り、姑母の道に明らかだった」と評価している。
この逸話で描かれる孟母は、幼い息子を一方的に指導する母ではない。
すでに成人し、儒者となった孟子であっても、礼に反していると判断すれば息子の側を戒めている。
斉を去りたい孟子と老いた母
『列女伝』が伝える孟母最後期の逸話は、孟子が斉に滞在していた時期に置かれている。
孟子が憂いの表情を見せ、柱にもたれて嘆息しているのを孟母が見つけ、その理由を尋ねた。
孟子は、自分の説が斉で用いられないため本来なら去りたいが、
母が老いているので踏み切れずにいると打ち明けた。
これに対して孟母は、成人した孟子は自らが正しいと思う「義」に従えばよく、
自分は自分の「礼」に従うので、母の存在を理由に進退を迷う必要はないという趣旨で答えた。
『列女伝』本文では、当時の儒教的女性観に従い、
父・夫・子に従う「三従」の道を引いてこの考えを説明している。
幼少期には息子の住む場所を決め、学問を戒めた母だったが、
この逸話ではすでに老母となり、成人した孟子自身の判断を妨げない人物として描かれている。
孟母の死――『孟子』本文に残る葬儀
孟母の没年や享年はわからない。
しかし、その死については後世の説話だけでなく、『孟子』本文から確認できる。
『孟子』「公孫丑下」には、
孟子が斉から魯へ赴いて葬儀を行い、その後斉へ戻ったことが記されている。
趙岐の注は、孟子が斉に仕えていたときに母を亡くし、魯へ帰って葬った記事だと解釈している。
葬儀では弟子の充虞が棺を作る職人を監督した。
後になって充虞が、棺に使った木材があまりにも立派だったのではないかと尋ねると、
孟子は礼に反せず、それを用意できる財力があるなら、
親の葬儀をことさらに倹約する必要はないと答えている。
「君子は天下を以て其の親に倹せず」とする孟子の言葉からは、
母の葬送にできる限りを尽くそうとした姿勢がうかがえる。
これは孟母自身の教育逸話ではないが、
説話ではなく『孟子』本文に母の存在が直接現れる重要な記録である。
「孟母三遷」はいつから有名だったのか
孟母の故事が後世に作られた教育標語にすぎないわけではない。
少なくとも前漢には『列女伝』にまとまった孟母伝が成立しており、その後も長く引用されていった。
晋代の左九嬪が作った「孟母賛」にも三遷と断機が取り上げられており、
孟母を「善く導き、三たび徙って教えを成した」母として称えている。
明代の『孟子雑記』が引用するこの文章から、
三遷と断機が早い段階で孟母を象徴する二大故事として定着していたことがわかる。
一方で、伝承が広がるにつれて孟母に帰された話も増えた。
「殺豚」のように他人物の故事と酷似するものもあり、
現在知られている「孟母の教育逸話」をすべて一人の女性の実際の行動として読むことはできない。
元代に「邾国宣献夫人」となる
孟母への評価は、元代になると国家による顕彰へ発展した。
元仁宗の延祐3年(1316年)、孟子の父は「邾国公」、母は「邾国宣献夫人」に追封された。
追封の制書では、孟子が孔子の道統を継いだ「亜聖」となった背景には父母の教養があり、
とりわけ母の「三遷の教」が後世を励ました功績は大きいと称えている。
ここでは孟母三遷が単なる家庭内の逸話ではなく、
孟子という儒家の大思想家を生み出した教育として王朝から公的に評価されている。
孟母は「孟子の母」から、儒教社会における理想的な母親を象徴する
歴史的人物へと位置づけられていった。
孟母の人物評・評価
孟母の実像を復元することは難しい。
生没年も個人名も同時代史料からは確認できず、有名な三遷や断機も孟子本人の著作ではなく、
主として後世の『列女伝』などによって知られる逸話である。
それでも『列女伝』の孟母像は、単純な「教育熱心な母」には収まらない。
幼い孟子には環境を選び、成長すれば学問の中断を戒め、
成人後には妻を責めた孟子の礼の誤りを指摘し、
政治的な進退に悩む孟子には自らの判断に従うよう促している。
『列女伝』が三遷について用いた評価は「善以漸化」、
すなわち周囲から徐々に感化される作用を巧みに利用したというものだった。
後世の「孟母三遷」が教育環境の重要性を象徴する故事となったのも、
この評価を受け継いだものである。
ただし、現在の価値観から理想の教育者像を遡って投影することも避ける必要がある。
『列女伝』に描かれた孟母は、
前漢の儒教的な礼や女性規範を体現する「母儀」として造形された人物でもある。
実在した孟子の母と、後世の儒教社会が作り上げた「孟母」という賢母像は、
完全に同一とは限らない。
それでも前漢から晋、元へと時代を越えて語り継がれ、
ついには王朝から「邾国宣献夫人」の号まで贈られた事実は、
孟母が中国史上もっとも強い影響力を持った「母」の一人となったことを示している。
史書・参考文献
・『孟子』「公孫丑章句下」
・劉向『列女伝』巻1「母儀伝・鄒孟軻母」
・『韓詩外伝』
・『韓非子』
・陳士元『孟子雑記』
・「追封孟子父母制」
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