平陽公主|父・李淵を助け唐建国を支えた“娘子軍”の女将軍

平陽公主(唐の女将軍) 06.女傑

平陽公主(へいよう こうしゅ/? – 623年)は、
中国王朝の建国期に活躍した女性であり、の高祖李淵の三女として知られる。
本名は伝わっておらず、封号の「平陽」と諡号の「昭」を合わせ、
通常は平陽昭公主(へいよう しょう こうしゅ)と呼ばれる。

彼女は夫柴紹と共に李淵の挙兵へ呼応し、自ら兵を募って「娘子軍」を率いたことで知られる。
中国史上には多くの女性政治家や后妃が存在するが、
平陽公主のように自ら軍を率いて戦った皇族女性は極めて珍しい。

建国における功績は非常に高く評価され、死後には女性として異例の軍礼による葬儀まで行われた。

本記事では、平陽公主の生涯、娘子軍、李世民との関係、逸話、後世創作における描写までを、
史実と伝承を踏まえて詳しく解説する。

平陽公主の出自と家族

平陽公主は初の有力貴族李淵と、その正妻である竇皇后の間に生まれた。
生年は不詳であり、本名も史書には残されていない。

兄弟には後の太宗李世民、皇太子李建成、斉王李元吉らがおり、
後に王朝成立の中心となる人物たちと同じ環境で育った。

父李淵は朝の有力軍人・貴族であり、関隴貴族集団の一員として高い地位を持っていた。
母竇皇后もまた名門出身であり、李氏一族は末政治において非常に重要な家系だった。

平陽公主は成人後、柴紹へ嫁いだ。
柴紹は後にの名将として活躍する人物であり、李世民とも近い関係にあった。
後世では「英雄夫婦」として語られることも多い。

隋末の混乱と李淵の挙兵

7世紀初頭の朝は、煬帝による高句麗遠征や大規模土木工事によって急速に疲弊していた。
民衆反乱が各地で続発し、地方統制は崩壊しつつあった。

617年、李淵は太原で挙兵する。これが後の建国へつながる決定的行動だった。
当時、平陽公主と柴紹は長安にいた。
もし李淵の挙兵が失敗すれば、一族全体が処刑されかねない極めて危険な状況だった。

『旧唐書』『新唐書』などによれば、この時柴紹は平陽公主へ、
「李淵へ合流したいが、あなたを連れて逃げるのは難しい」と相談したという。
すると平陽公主は、「あなたは行ってください。私は自分で道を切り開きます」と答えたとされる。
この逸話は後世でも特に有名であり、平陽公主の胆力と独立心を象徴するものとして語られている。

娘子軍の結成

柴紹が太原へ向かった後、平陽公主は長安を脱出し、鄠県へ逃れた。
そして彼女は、自ら家財を放出して兵を募り始める。

当時の関中地方では朝統制が急速に崩壊しており、
各地で群盗・反乱軍・地方武装勢力が乱立していた。

平陽公主は単なる亡命ではなく、自ら軍事勢力形成へ動いたのである。

彼女は家奴の馬三宝を派遣し、司竹園に拠っていた何潘仁を説得して降伏させた。
さらに鄠県を攻略し、周辺地域へ勢力を広げていく。
また、武功・盩厔・始平などを攻略し、李仲文・向善志・丘師利らを撃破した。

重要なのは、この時の平陽公主軍が単なる略奪集団ではなかった点である。
史書によれば、平陽公主は部下へ厳格な軍律を課し、略奪を禁じたという。

末は各地で盗賊化した軍閥が横行していた時代であり、民衆にとって軍隊は恐怖の対象だった。
その中で平陽公主軍は規律を維持したため、関中近隣では彼女へ帰順する者が増えたとされる。

『旧唐書』では、その兵力は七万に達したとも記されている
もちろん誇張の可能性はあるが、
それでも平陽公主が一地方反乱勢力を超える規模の軍事集団を形成していたことは確実視されている。

娘子軍とは何だったのか

平陽公主の軍勢は「娘子軍」と呼ばれた。この名称は後世極めて有名になる。

ただし、「女性だけの軍隊」だったわけではない。
実際には男性兵士が中心だったと考えられている。
「娘子軍」という名称は、女性である公主が指揮した軍であることに由来するとみられる。

中国史では、女性が軍を率いること自体が珍しかった。
まして有力貴族の女性が自ら軍を編成し、城を攻略し、軍事行動を行う例は極めて少ない。

そのため平陽公主は、建国期において特異な存在として強い印象を残したのである。
また、彼女は単なる象徴的存在ではなく、実際に軍事指導を行っていたとみられている。

李淵が黄河を渡って関中へ進出すると、平陽公主は渭北で李世民軍と合流した。
そして柴紹と平陽公主は別々に幕府を置き、長安攻略へ参加したという。

これは平陽公主が独立した軍事指揮権を持っていたことを示している

唐建国と平陽公主

618年、李淵はを倒してを建国し、高祖として即位した。
平陽公主は建国功臣の一人として扱われ、公主へ封じられる。

建国期には多くの武将や功臣が存在したが、その中でも平陽公主は極めて特異な存在だった。
彼女は単なる皇女ではなく、自ら兵を募り、軍律を定め、城を攻略し、他勢力を降伏させるなど、
実際の軍事行動を指揮していたためである。

隋唐期は比較的女性の社会活動が活発だった時代とされるが、
それでも政治や軍事は基本的に男性中心社会であり、
有力貴族の女性が自ら軍勢を率いて戦功を挙げる例は極めて少なかった。

しかも平陽公主は一時的象徴ではなく、成立過程そのものへ深く関与している。

後世、中国では女性武将伝説が数多く生まれることになるが、その多くは創作色が強い。
一方、平陽公主については『旧唐書』『新唐書』など正史自体が軍事行動を明確に記録しており、
中国史上でも数少ない「史実として確認できる女性軍事指導者」の一人として高く評価されている。

そのため後世には、「巾幗英雄(女性英雄)」の代表的人物として広く知られるようになった。

平陽公主と李世民

平陽公主と特に近かった兄弟が、李世民だったと考えられている。
李世民は建国最大の功臣であり、後に玄武門の変を経て太宗として即位する人物である。

史書には平陽公主と李世民の詳細な交流記録は多く残されていないが、
李淵勢力が関中を平定していく過程で、両者が軍事的連携を取っていたことは確かである。

後世の演義小説では、この関係がさらに強調される。
『大唐秦王詞話』では、平陽公主は李世民を強く支持し、
李建成・李元吉への警戒を訴える存在として描かれている。

物語中では、病床の平陽公主が柴紹へ命じ、
李世民へ宝物や権威の象徴を託す場面まで描かれる。

もっとも、これは史実ではなく、
明清期における「李世民英雄化」の一環として作られた物語要素である。

平陽公主の死

623年、平陽公主は死去した。年齢は不詳である。

彼女の死後、高祖李淵は極めて異例の待遇を与えた。
葬儀には羽林軍・鼓吹・大路・麾幢・虎賁・甲卒・班剣など、
通常は将軍級人物へ用いられる軍礼が加えられたのである。

これに対し、礼制を司る太常は反対した。
「女性の葬儀に鼓吹を用いた前例はない」というのがその理由だった。
しかし李淵はこれを退けた。

そして、「鼓吹は軍楽である。公主はかつて自ら金鼓を執り、天下平定の功績を立てた。
どうして鼓吹を用いてはならないことがあろうか」
と述べたという。

これは平陽公主が、単なる皇女ではなく、「建国功臣」として扱われていたことを示している。
中国皇帝が、自らの娘をここまで軍功によって評価した例は非常に珍しい。

李淵による評価

李淵は平陽公主について極めて高く評価していた。

史書では、「公主は司竹で兵を挙げて義旗に呼応し、自ら金鼓を執り、天下平定の勲功を立てた」
と語っている。

さらに、「周の文母が十乱の臣に列せられたように、公主の功績も建国を助けた」とも述べている。
これは単なる親としての感情ではなく、建国への実際の貢献を認めた発言として重要視されている。

つまり李淵自身が、平陽公主を「女性でありながら軍功を立てた存在」として
明確に位置づけていたのである。

娘子関伝説

現在の山西省には「娘子関」という関所が存在する。
伝承によれば、もともとは「葦沢関」と呼ばれていたが、
平陽公主が駐屯したことにちなみ「娘子関」へ改名されたという。

もっとも、この伝承については後世付会の可能性もある。
しかし平陽公主と娘子軍の名声が非常に大きかったため、
こうした地名伝説が生まれたこと自体は興味深い。

現在でも娘子関は、平陽公主ゆかりの地として知られている。

粥の逸話と劉黒闥

後世には、平陽公主に関する様々な逸話が伝えられている。
特に有名なのが、「粥の逸話」である。

伝承によれば、平陽公主が娘子関を守っていた時、劉黒闥軍が攻め寄せたという。
兵力不足に陥った平陽公主は、民と共に新米で粥を作り、それを夜間に谷へ流した。

翌朝、敵軍はこれを大量の馬尿と誤認し、「援軍が到着した」と錯覚した。
さらに関上の旗や鬨の声によって伏兵を恐れ、撤退したという。

もっとも、この逸話は正史には見えず、後世伝承色が強い。
また、時代関係にも疑問があり、史実として断定はできない。
しかし平陽公主が知略型女性英雄として語られていたことを示す逸話としては重要である。

王世貞による評価

代の文人王世貞も、平陽公主を高く評価している。

彼は詩の中で、「巾幗を男児に譲る必要はない」という趣旨の称賛を行った。
つまり平陽公主は、「女性でありながら男性英雄に匹敵する存在」として評価されていたのである。

中国では古来、女性英雄はしばしば伝説化されたが、
平陽公主はその中でも比較的史実性が強い存在だったため、後世知識人からも高く評価された。

『隋史遺文』における平陽公主

代小説『隋史遺文』では、平陽公主は非常に武人的な女性として描かれる。

作中では、「針仕事より弓馬を好み、
『烈女伝』『女孝経』よりも『六韜』『三略』『孫子』を愛読した」と記される。

また、三国時代の孫夫人になぞらえられている。
これは、平陽公主が「女性でありながら兵法を愛し、武芸を好む人物」
として後世でイメージ化されていたことを示している。

もちろん、これらは後世文学による脚色である。
しかし、平陽公主が単なる皇女ではなく、
「武を備えた女性」として長く記憶されていた点は重要である。

『隋唐演義』と柴紹

『隋唐演義』では、平陽公主と柴紹の結婚にも創作的逸話が加えられている。

物語では、李淵が柴紹を娘婿に迎えようとした際、
平陽公主は配下女性たちへ命じて陣形を敷かせ、柴紹へ破陣を挑ませたという。
長蛇陣・五花陣・六花陣などを柴紹が突破したことで、二人は正式に夫婦となったと描かれる。

当然ながら、これは史実ではない。
しかし後世では、平陽公主は「武芸・軍略に優れた姫君」として人気が高く、
多くの演義作品で活躍することになった。

まとめ

平陽公主は、高祖李淵の三女であり、建国期に娘子軍を率いて活躍した女性である。
617年、李淵が挙兵すると、自ら兵を募って軍勢を形成し、関中各地を攻略した。
彼女の軍は「娘子軍」と呼ばれ、厳格な軍律によって民衆支持を集めたとされる。

平陽公主は単なる皇族女性ではなく、実際に軍事指導を行った存在として史書に記録されている。
その功績は父李淵からも高く評価され、死後には女性として異例の軍礼葬が行われた。

また後世においても、彼女は「巾幗英雄」の代表的人物として語られ、
『隋唐演義』『隋史遺文』など多くの文学作品で活躍することになる。

史実と伝説が重なり合いながらも、平陽公主が建国へ大きく貢献した女性だったことは疑いない。
中国史において、彼女は最も有名な女性軍事指導者の一人として現在まで記憶され続けている。

史書・参考文献

  • 『旧唐書』巻五十八「平陽公主伝」
  • 『新唐書』巻八十三「諸帝公主伝」
  • 『資治通鑑』
  • 『隋唐演義』
  • 『隋史遺文』
  • 『大唐秦王詞話』
  • 王世貞『弇州山人四部稿』
  • 宮崎市定『中国史』
  • 川勝義雄『隋唐帝国形成史論』
  • 愛宕松男『中国史概説』

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