高湛は北斉第四代皇帝・武成帝である。
父は東魏の実権を握った高歓、兄には東魏の後継者だった高澄、北斉建国者の高洋、
そして二代後の実力皇帝・高演がいる。
高氏一門の中でも、美少年として知られた皇族でありながら、
即位後は贅沢・酒色・寵臣政治で悪名を残した人物として語られることが多い。
高湛の治世は北斉の最盛がまだ完全には崩れていない時期にあたるが、
同時にその内部腐敗が目に見える形で進んだ時期でもある。
後主・高緯の代で北斉が決定的に傾くため、
武成帝高湛はしばしば北斉衰退の下地を作った皇帝として評価される。
高歓の子として生まれた高湛
高氏政権の中の高湛
高湛は高歓の九男で、母は正妻の婁昭君である。
つまり庶流ではなく、高氏政権の中でも血筋の強い中核皇族だった。
兄弟には高澄・高洋・高演ら、北斉政権そのものを作った人物が並んでいる。
高歓の死後、高氏政権はまず高澄が継ぎ、その高澄が暗殺されると高洋が北斉を建てた。
さらに高洋の死後はその子の高殷が即位したが、
すぐに高演・高湛兄弟のクーデターで退けられる。
高湛は生まれながらの皇族というより、
高氏一門の権力闘争の渦中で成長した皇帝候補だったのである。
少年期から「美少年」と称された
高湛は「少年期から気高く優雅な美少年と称えられた」とされる。
当時から容姿で目立つ皇族だった。
高氏の皇族は粗暴・豪放な人物も多いが、高湛にはそこに優雅さと色気が加わっていた。
この「美貌」は後の逸話とも結びつく。高湛は好色な皇帝として語られるが、
本人自身も見栄えの良い人物として宮廷内外に印象を残していた。
高澄や蘭陵王と同じく、高氏一門には「容貌」で目立つ人物が多く、
その一人が高湛だったと言える。
文宣帝・高洋の時代
兄・高洋の建国
550年、高洋は東魏を滅ぼして北斉を建国し、文宣帝として即位した。
高湛はこの時、長広王に進み、尚書令・司徒などを兼ねるようになる。
高洋の時代、北斉は軍事的には強く、北周と並ぶ北方の大国として存在感を示した。
ただし宮廷内部はすでに安定していたわけではない。
文宣帝高洋の晩年は猜疑心と狂気じみた行動で知られ、
一族も臣下も常に不安定な立場に置かれていた。
高湛はその宮廷の中で生き残り、兄の死後に大きな役割を果たすことになる。
高殷即位と楊愔への反発
559年に文宣帝が死ぬと、子の高殷が即位した。
だが実権は外戚・重臣の楊愔らが握り、高氏の諸王、特に高演・高湛兄弟を警戒した。
高湛は楊愔らに忌まれて大司馬・并州刺史に出されたとある。
これは栄転というより、中央から遠ざける意味合いの強い人事だった。
高演と高湛はこれを見て黙ってはいなかった。
彼らは高氏一門の権威を背景に、高殷政権を支える楊愔らを排除する方向へ動く。
高湛にとってこの局面は、ただの脇役ではなく、
兄・高演と組んで政変を成功させる共同当事者としての登場場面だった。
高演との関係
兄弟で起こした政変
560年、高演・高湛兄弟は楊愔らを討ち、
高殷を廃して高演が即位した。これが孝昭帝である。
高湛はこのクーデター成功に大きく貢献し、太傅・録尚書事などの重職に就いた。
つまり高湛は、兄に従っただけの弟ではなく、政変の成功に欠かせない共同権力者だった。
約束と不信
高演と高湛の関係は単純な兄弟愛ではない。
政変の際、高演は高湛に対し、事成れば皇太弟に立てると約したが、
即位後は自分の子の高百年を太子に立てようとしたため、高湛が不満を深めたとされる。
つまり高湛は孝昭帝の即位を支えたが、兄に裏切られたと感じる余地があった。
孝昭帝の死と帝位継承
561年、孝昭帝高演は死の床で帝位を高湛に譲った。
結果として高湛は晋陽南宮で即位し、北斉第四代皇帝となる。
ここには「兄終弟及」の形があるが、その裏には高湛がすでに十分な権力基盤を持ち、
しかも高演系統の継承を自分に有利な形へ転換できる立場にあったことが見て取れる。
孝昭帝の死と帝位継承
高湛が即位した時点で、北斉はまだ国家としての体裁を保っていた。
北周との対抗力も残っており、すぐに滅亡が見える段階ではない。
しかし、高湛の即位は同時に、高氏内部の抑制が効かなくなる転換点でもあった。
文宣帝の暴威、孝昭帝の強権の後で、武成帝は別方向の問題、
つまり退廃と私生活の放縦で国家を崩していく。
帝位に就いた後の高湛について
「贅沢の限りを尽くし、民をひたすらに賦役に駆り立てた」とある。
つまり単に宮中で遊んだだけではなく、
その放縦のコストを民衆が負担させられたということだ。
高湛の暴君性は、残虐な殺戮一辺倒というより、
国家財政と民力を食い潰す享楽型、国家を内部から腐らせる退廃型の暴政にあった。
高百年事件
高演の子である高百年は、本来なら孝昭帝系統の後継者として一定の意味を持つ存在だった。
高湛にとっては即位の正統性を揺るがしかねない「危険な甥」である。
高湛は564年に高百年を殺したとされる。
彼は高演の力を借りて皇位へ近づきながら、即位後には高演の系統を容赦なく潰した。
高百年殺害は、皇統の分岐を断ち切るための恐怖政治でもあった。
高氏一族の中で帝位をめぐる血縁闘争が、どれほど熾烈だったかを示す事件である。
宮廷政治の腐敗
寵臣・和士開の台頭
高湛の治世で大きな影響力を持った人物が 和士開 である。
和士開はもともと近侍として仕えた人物で、
高湛の信任を受けて急速に宮廷内で出世した。
彼は皇帝の側近として政治決定にも関与し、
やがて北斉政治の中枢にまで影響力を持つようになる。
しかし史書では和士開は政治能力よりも、
阿諛(ご機嫌取り、こびへつらうこと)によって権力を得た人物とされ、
彼の台頭は北斉政治の腐敗の象徴とされている。
高湛が酒色を好んだため、政務はしばしば和士開のような近臣に任されることになった。
胡皇后と宮廷の退廃
高湛の皇后は 胡皇后 である。
胡皇后は高湛の寵愛を受け、宮廷内で大きな影響力を持った女性だった。
彼女は後に皇帝となる 高緯 の母でもある。
武成帝期の宮廷では宴楽や奢侈な生活が盛んになり、
皇帝・皇后・側近たちが中心となって華美な宮廷文化が広がっていった。
こうした宮廷環境は政治の緊張感を失わせ、北斉政治の腐敗を進める一因となったとされる。
退位と太上皇
565年、高湛は長男の高緯に皇位を譲って太上皇となった。
当時まだ高湛自身は若く、完全に引退したというより、
上皇としてなお政務に影響力を持つ形だった。
これは北斉政治の不安定さを強めた。
皇帝と太上皇が並び立つことで責任の所在が曖昧になり、
寵臣政治がいっそう進みやすくなるからである。
高湛の退位は、享楽生活への傾斜とも結びつけて語られる。
実権を保持したまま皇位だけを息子に譲る形は、高湛にとって都合が良かった。
だが結果として、高緯は若くして皇帝となり、
しかも父の悪い政治文化をそのまま引き継ぐことになった。
高湛の死
高湛は569年、鄴宮の乾寿堂で死去した。享年32とされる。
即位中も退位後も長くなかったが、その短い時期に北斉の政治風土は大きく損なわれた。
高湛の死後、北斉は高緯のもとでさらに弱体化していく。
高湛自身が国を滅ぼしたわけではないが、滅亡に向かう仕組みを濃くした皇帝ではあった。
北斉が577年に北周へ滅ぼされる流れは、高湛と高緯の父子二代で決定的になったといえる。
まとめ
高湛は高歓の子、高澄・高洋・高演の弟として北斉皇室の中心に生まれ、
若いころから、気高く優雅な美少年と称えられた。
高演の政変を支え、皇位継承の争いを勝ち抜き、
北斉の最高権力者として国家を動かした。
その意味では有能さも持っていた。
だが、その有能さを国家建て直しではなく、
贅沢と酒色、寵臣政治、甥の粛清で特徴づけられ、
国家を弱らせていく方向に働いた。
史書・参考文献
・『北斉書』巻七「武成帝紀」
・『北史』巻八「斉本紀下」
・『資治通鑑』北斉関係記事
・高緯関係記事(蘭陵王誅殺・北斉滅亡との関係確認用)

