【東魏】高澄|東魏を支配した若き実力者・孝静帝との対立と侯景離反、北斉建国直前の暗殺

東魏の武将・高澄 032.権臣

高澄(521~549年)は、東魏の実権を握った高歓の長男であり、
北斉を建国した高洋の兄にあたる。字は子恵。

父の存命中から若くして朝政に参加し、官僚人事の改革や綱紀粛正を進め、
高歓の旧臣や有力者を抑えながら東魏朝廷における高氏の支配を強化した。

547年に高歓が死去すると、その権力を継承した高澄は、直後に河南で離反した侯景と対決した。
侯景は西魏の宇文泰、さらに南朝梁の武帝へ接近したが、
高澄は軍事力だけでなく、書簡、外交、離間工作を用いて侯景を追い詰め、
慕容紹宗を起用してその軍を破った。
さらに西魏の王思政が守る潁川を攻略し、高歓死後に動揺した河南支配を立て直している。

一方、東魏の孝静帝に対しては父の高歓以上に強圧的だった。
皇帝の側近に腹心を送り込んで動静を監視し、
孝静帝が高澄排除を企てると計画を鎮圧して皇帝を含章堂へ幽閉した。
549年には東魏から高氏への王朝交代を現実に進め、禅譲後の官僚人事まで協議していた。

政治的能力を示す一方、私生活には放縦な記録も多い。
父・高歓の側室だった鄭大車との私通によって後継者の地位を失いかけ、
高慎の妻・李昌儀、薛寘の妻・元氏、元玉儀・元静儀姉妹などにも関係を求めたと史書に記録される。
高歓の死後には、父の妻だった柔然公主も柔然の婚姻慣習に従って迎えている。

しかし高澄自身が皇帝となることはなかった。
549年8月、梁将・蘭欽の子で捕虜となり、高澄のもとで使役されていた蘭京らに襲撃され、
29歳で死亡した。
高澄の死後は弟の高洋が政権を継承し、翌550年、孝静帝から禅譲を受けて北斉を建国した。

高歓の長男として生まれた高澄

高澄は521年、高歓と婁昭君の長男として生まれた。
高歓と婁昭君の間には高澄のほか、高洋・高演・高湛らがおり、
のちに高洋・高演・高湛はいずれも北斉皇帝となっている。

『北斉書』は高澄について、幼少期から聡明だったと記す。
杜詢から学問を受けると理解が早く、師を感嘆させたという。
531年には渤海王世子となり、翌532年には侍中・開府儀同三司となった。

高澄は十二歳ほどで孝静帝の妹・馮翊長公主を妻に迎えた。
まだ少年だったが、高歓が政治上の問題について意見を尋ねると、
物事の得失を的確に分析したため、高歓は高澄を軍事・政治上の計画にも参加させるようになった。

534年、北魏の孝武帝が高歓と対立して洛陽から関中へ逃れ、宇文泰のもとへ入った。
高歓は元善見を孝静帝として擁立し、鄴を都とする東魏を成立させた。
一方、宇文泰は535年に元宝炬を西魏皇帝として擁立し、北魏は東西に分裂した。

高澄はこの時期に使持節・尚書令・大行台・并州刺史などを務め、
536年には朝政を補佐するため鄴へ入り、領左右・京畿大都督を加えられた。

高歓が晋陽を拠点として軍事を統轄することが多かったのに対し、
高澄は東魏朝廷の行政実務を担い、後継者として経験を積んでいった。

父・高歓の側室だった鄭大車との私通

高澄は順調に後継者として成長したわけではない。
若年期には、世子の地位そのものを失いかける事件を起こしている。

高歓が劉蠡升討伐に出ていた間、高澄は父の側室・鄭大車と私通した。
鄭大車はもとは北魏宗室・広平王元悌の妃だった女性で、
のちに高歓の側室となり、高歓との間に高潤をもうけている。

私通は侍女によって高歓に告げられた。
当初、高歓は高澄がまだ若いこともあって信じなかったが、
別の証言も出たため事実と判断し、激怒した。

高澄は杖打ちを受けて幽閉され、母の婁昭君まで高歓から遠ざけられた。
高歓は高澄を後継者から外すことまで考えたとされる。

窮地に陥った高澄を助けたのが、高歓の旧友・司馬子如だった。
司馬子如が高歓との間を取り持った結果、父子関係は修復され、高澄は世子の地位を維持した。

鄭大車との一件は単なる艶聞ではない。
高氏政権の後継者そのものが変更される可能性まで生じた、高澄の前半生における重要な事件だった。

↓↓父・高歓、母・婁昭君についての個別記事は、こちら

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人事改革と高歓旧臣の抑制

年功中心の人事制度を改める

538年、高澄は吏部尚書の職務を代行し、人事制度の改革に着手した。

北魏では崔亮が吏部尚書となって以後、官僚の選任に勤務年数を重視する方式が定着していた。
官歴の長さを基準とすることで人事処理を容易にする反面、
人物の能力そのものが十分に考慮されないという問題があった。

高澄はこの方式を改め、年功だけではなく人物の能力を見て官職へ配置する方針を打ち出した。
尚書郎についても人員を整理し、才能や家柄などを考慮して選び直した。

また才能や名声がありながら高位に就いていない人物を自らの門下へ招き、賓客として遇した。
宴席では射術や詩文など、それぞれの得意分野を披露させたという。

さらに政治上の意見を街路に掲示して直言を求め、
厳しい内容の上書についても受け入れたと『北斉書』は記している。

朝臣や地方官に賢良な人物、武勇や胆略を備えた人物を推薦させ、
辺境守備にも官歴だけでなく能力を見て人材を配置しようとした。

高歓の権力は軍事力と北鎮系武人を大きな基盤としていたが、
高澄は官僚人事そのものを掌握することで、高氏の支配を東魏の行政機構へ深く浸透させていった。

崔暹を登用して綱紀粛正を進める

北魏末以来の混乱によって、東魏では官僚の腐敗や有力者による請託も問題となっていた。

高澄は崔暹を御史中尉に抜擢し、有力者に対する弾劾を進めさせた。
崔暹は高歓の旧臣や皇族であっても容赦せず、司馬子如らも処分の対象となった。
『北斉書』は、この綱紀粛正によって官界の風紀が改まり、不正な請託が減ったと記している。

高澄は自らに従う人物だけを求めたわけでもない。
後年、王思政を批判した盧潜から厳しい諫言を受けた際には、その直言を評価している。
強権的な面と同時に、能力や率直な意見を評価する面も史書には残されている。

「四貴」の権力を削る

高歓が晋陽にいることが多かったため、
東魏の都・鄴では孫騰・司馬子如・高岳・高隆之が大きな権力を持ち、「四貴」と呼ばれていた。

しかし四貴の権勢は次第に強まり、高歓自身もその専横を問題視するようになった。

高歓は高澄を大将軍・領中書監とし、それまで門下省が扱っていた機密を中書省へ移した。
さらに文武官の賞罰を高澄の決裁下に置き、高澄へ権力を集中させた。

孫騰が高澄に十分な礼を取らなかった際、高澄は激怒し、
左右の者に孫騰を座から引きずり下ろさせた。
弟の高洋が高隆之を「叔父」と呼んで敬意を示すと、高澄は高洋を叱責した。

父の旧友である司馬子如も例外ではなかった。
高澄は司馬子如を投獄し、高歓から「私の古い友人なのだから寛大に扱え」
と命じられてようやく釈放している。

高歓自身も群臣に対し、高澄が成長した以上は彼を憚るよう求めたと『資治通鑑』は記す。

高澄は高歓の死後に突然権力者となったのではない。
父の存命中から高歓旧臣の上に立ち、東魏朝廷の人事・賞罰・行政を掌握する体制を築いていた。

高澄の女性関係と家族

高澄の女性関係については、鄭大車以外にも複数の記録が残る。
『北史』系統の史料は高澄を「甚だ女色を好んだ」と記し、その具体例を伝えている。
薛寘妻元氏、高慎妻李昌儀、元玉儀・元静儀、鄭大車、柔然公主などへの関係は史料上確認できる。

高慎の妻・李昌儀

高慎は高歓政権に仕えた有力者で、高仲密とも呼ばれる。
その妻・李昌儀は才色を備えた女性として知られていた。

高澄は李昌儀に関係を迫った。
しかし李昌儀は激しく抵抗し、衣服が破れるほどだったという。
李昌儀は夫の高慎のもとへ逃れて事情を訴えた。

高慎は以前から高氏政権に不満を抱えていたが、
妻への高澄の行為も両者の関係悪化を深める要因となった。
544年、高慎は虎牢を西魏へ明け渡して離反する。

高慎の離反には政治的事情も存在するため、妻への高澄の行為だけを原因とすることはできない。
しかし史料が両者の対立の一因としてこの事件を記していることは重要である。

高慎が西魏へ逃れた際、李昌儀は東魏側に取り残された。
その後、高澄は盛装して李昌儀に会い、最終的に彼女を自らのもとへ入れたと記録されている。

薛寘の妻・元氏

高澄は薛寘の妻である元氏が美しいと聞き、彼女を呼び寄せて関係を求めた。
元氏は泣いて拒絶した。

すると高澄は怒り、崔季舒に命じて元氏を廷尉へ送って罪に問わせようとした。
しかし廷尉卿の陸操は
「廷尉は天子の法を守るところであり、処罰するなら罪状を知らなければならない」と拒否した。

高澄は陸操にも怒り、刀の環で打たせて罪を科すよう迫ったが、
陸操は屈しなかったと『北史』に記録されている。

この事件は高澄の女性関係だけでなく、
権力者である高澄の要求に対して法を理由に抵抗した官僚が存在したことも伝えている。

元玉儀と元静儀

高澄は元玉儀という女性も寵愛した。

元玉儀は北魏宗室につながる女性だったが、家族から重んじられず、孫騰のもとにいたとされる。
高澄は元玉儀を迎え入れ、琅邪公主に封じた。

さらに元玉儀の姉・元静儀は黄門郎・崔括の妻だったが、
高澄は元静儀とも関係を持ち、こちらも公主としたと記録される。

元玉儀は高澄暗殺事件にも間接的に関係する。
高澄は彼女を自由に出入りさせるため、自らの居所の警備を緩めることがあり、
それが蘭京らの接近を容易にする一因となった。

高歓の死後に柔然公主を迎える

高歓は柔然との同盟を維持するため、柔然の君主・阿那瓌の娘である柔然公主を妻としていた。
高歓の死後、高澄は柔然側の婚姻慣習に従い、この柔然公主を自らの妻として迎えた。
二人の間には一女が生まれた。

父の側室との私通や他人の妻への強引な接近とは事情が異なり、
柔然公主との関係には外交関係を維持するという政治的背景があった。
そのため、高澄の女性関係をすべて同じ性質のものとして扱うことはできない。

妻妾と六人の男子

高澄の正妻は孝静帝の妹・馮翊長公主で、北斉成立後に文襄敬皇后と追尊された。

高澄には高孝瑜・高孝珩・高長恭・高孝琬・高延宗・高紹信の六人の男子がいた。
後世もっともよく知られるのが、北斉の名将として知られる蘭陵王高長恭である。
六人が高澄の子であることは史料系統でも確認できる。

長男の高孝瑜は河南王、次男の高孝珩は広寧王、高長恭は蘭陵王、高孝琬は河間王、高延宗は安徳王、
高紹信は漁陽王となった。

高孝瑜の母は宋氏、高孝珩の母は王氏、高孝琬は馮翊長公主、高延宗は陳氏、高紹信は燕氏とされる。一方、高長恭の母については史書に明確な記録が残されていない。

娘には馮翊長公主との間の楽安公主らがおり、柔然公主との間にも一女が生まれている。

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高歓の死と侯景の離反

高歓がもっとも警戒した侯景

高歓晩年の大きな懸念の一つが侯景だった。

侯景は高歓のもとで軍功を重ね、河南方面の広大な地域と多数の兵を掌握していた。
高歓個人には従っていたが、その後継者である高澄の支配を受け入れる保証はなかった。

高歓自身もこの危険を理解していた。
侯景は高歓が死ねば高澄には従わない可能性が高く、高氏政権にとって潜在的な脅威だった。

546年、高歓は西魏との戦いから帰還した後に病状が悪化した。
高澄は父のもとへ急行し、晋陽へ付き添った。
547年1月、高歓が死去した。

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高歓の死を秘して政権を継承

高澄は父の死をただちには公表しなかった。
陳元康ら限られた側近だけに知らせ、政権の動揺を抑えようとした。

しかし侯景は高歓の死を察知した。

侯景は高澄の支配下に入ることを拒否し、
司馬世雲を味方につけ、高元成・李密・暴顕ら東魏側の地方官を拘束した。
河南の東魏支配機構を切り崩したうえで、西魏の宇文泰へ帰順を申し入れたのである。

高澄は韓軌らを侯景討伐へ派遣するとともに、高歓の死を正式に発表した。

孝静帝は高澄を大丞相・都督中外諸軍・録尚書事・大行台・渤海王などに任じ、
高歓が握っていた軍事・政治上の権限を高澄へ移した。

しかし高澄は王爵や丞相職をいったん辞退した。
また高歓の遺命として、自らの封邑を減らし、その分を功績のある諸将へ分けるよう求めた。

形式上は孝静帝の臣下だったが、東魏の軍事・行政の実権は高澄へ継承された。

侯景と宇文泰の間に生じた警戒

西魏にとって侯景の離反は東魏を弱体化させる好機だった。
しかし河南の大軍を率いる侯景をそのまま受け入れれば、
西魏内部に独立性の高い軍事勢力を抱えることになる。

宇文泰は侯景を受け入れながらも、その軍事力を西魏の統制下へ置こうとした。
西魏側にも侯景を信用すべきではないという意見があり、侯景と宇文泰の関係は安定しなかった。

高澄も、この相互不信を利用した。

侯景配下の蔡遵道が東魏へ戻り、侯景に後悔の意があると伝えると、
高澄は侯景へ長文の書簡を送った。
帰順すれば豫州を与え、配下の罪を問わず、東魏に残された妻子も返すと持ちかけた。

侯景も長文の返書を送り、高歓との関係や離反の事情を述べ、高澄に反論した。

この往復書簡からは、両者の対立が単なる軍事反乱ではなく、
高歓死後の高氏政権に侯景が服属するかどうかをめぐる政治的対立だったことが分かる。

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【西魏】宇文泰|西魏を支配し隋唐の基礎を築いた軍事政治家
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高澄による離間工作

高澄は軍事討伐だけに頼らず、侯景とその支援者の間に疑念を生じさせることも狙った。

侯景への書簡や情報を利用し、
侯景が東魏と内通しているのではないかと疑わせようとする工作を行ったと『北斉書』は記している。

宇文泰自身も侯景を全面的には信用していなかったため、
高澄の工作だけで両者が決裂したわけではない。
しかし高澄が侯景の孤立を狙って外交・情報戦を行っていたことは重要である。

西魏から十分な後ろ盾を得られなくなった侯景は、南朝梁へ接近した。

慕容紹宗を起用して侯景を破る

梁の武帝は侯景を受け入れ、東魏領への進出を図った。

高澄が侯景討伐の中心に起用したのが慕容紹宗だった。
高歓は生前、侯景に対抗できる将として慕容紹宗を評価していたとされる。

548年、慕容紹宗は渦陽で侯景軍と戦った。

侯景は兵士に対し、東魏に残された家族は高澄によって殺されたと告げて戦意を維持しようとした。
これに対して慕容紹宗は、家族は無事であり、帰順すれば従来の官位を保障すると呼びかけた。

侯景軍から離反者が相次ぎ、侯景は大敗した。

侯景は淮河を渡り、梁領の寿陽へ逃れた。
河南を支配していた有力軍閥としての侯景の基盤は、ここでほぼ失われた。

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【東魏】慕容紹宗|侯景を破った東魏の知将
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梁との講和を侯景への圧力に利用

侯景が梁へ逃れた後も、高澄は追及を続けた。

東魏は梁との戦いで貞陽侯蕭淵明を捕虜としていた。
高澄はその返還を材料として梁との国交回復を求めた。

梁臣の傅岐は、高澄が和平を求める目的について、
梁と東魏を接近させて侯景を不安にさせるためではないかと見抜いた。
梁と東魏が和解すれば、侯景には東魏へ引き渡される危険が生じる。

侯景は東魏から送られたように偽装した書簡を作り、蕭淵明と侯景を交換する案を梁へ示した。
梁の武帝が応じる趣旨の返答をすると、
侯景は梁朝廷が自分を切り捨てる可能性を強く警戒するようになった。

その後、侯景は梁に対して反乱を起こし、建康を陥落させる侯景の乱へ進んでいく。

侯景の乱には梁国内の政治状況など複数の要因があり、
高澄の外交工作だけを原因とすることはできない。
しかし高澄が侯景と梁の関係を揺さぶり、侯景を政治的に孤立させようとしていたことは、
対侯景政策の重要な部分だった。

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蕭衍(しょう えん/武帝)の生涯を詳説。南朝梁の建国、制度改革と仏教傾倒、陳慶之の北伐、そして侯景の乱による崩壊までを史実ベースで解説する。

孝静帝との対立と皇帝の幽閉

高澄が警戒した孝静帝

東魏の孝静帝は、単なる無力な傀儡として記録されているわけではない。
史書では容姿が整い、力が強く、石獅子を抱えて城壁を越えることができたとされる。
弓術にも優れ、文学を好み、北魏孝文帝を思わせるところがあったとも記されている。

高歓は孝武帝と決裂した過去を意識し、孝静帝に対して表面上は非常に恭しく振る舞っていた。
これに対し、高澄は孝静帝の能力と自負を警戒し、父ほど形式的な君臣関係を尊重しなかった。

崔季舒を皇帝のそばへ置く

高澄は腹心の崔季舒を孝静帝の近くに置いた。

崔季舒は高澄と孝静帝の間の文書を扱い、皇帝の動静を高澄側へ伝える役割も果たした。
高澄の意向は皇帝の側近にまで及んでいた。
崔季舒が孝静帝を監視していたことは関連伝にも確認できる。

孝静帝が狩猟に出た際には、
監衛都督から「天子、馬を走らせるな。大将軍が怒る」と制止されたという記録もある。

皇帝の日常行動にまで高澄の意向が及ぶ状態だった。

「朕、朕、狗脚朕」

両者の関係悪化を象徴する逸話が史書に残る。

高澄が孝静帝と酒を飲んでいた際、孝静帝が、古来滅びない国はなく、
自分もこのように生きて何になるのかという趣旨の言葉を口にした。

高澄は激怒し、「朕、朕、狗脚朕」と皇帝を罵り、崔季舒に命じて孝静帝を殴らせたという。
その後、高澄は崔季舒を孝静帝のもとへ送って謝罪させた。

孝静帝が崔季舒に絹を与えようとすると、崔季舒は高澄の許可を得るまで受け取ろうとしなかった。
高澄が「一段取れ」と許可すると、孝静帝は四百匹を与え、「これも一段だ」と応じたとされる。

史書に残された逸話であることには注意が必要だが、
皇帝の側近さえ高澄の命令を優先する状況を象徴する記録ではある。

孝静帝による高澄排除計画

孝静帝は高澄から屈辱を受けた後、謝霊運の詩にある張良や魯仲連をたたえる句を詠み、涙を流した。
これを受け、荀済・元瑾・劉思逸・元大器・元宣洪・元徽らが高澄排除を計画した。

宮中で土山を築く工事を装い、北城へ向かって地道を掘った。
高澄のいる側へ秘密裏に接近し、排除することを狙ったのである。

しかし地道が千秋門付近まで達したところで、門兵が地下から聞こえる音に気づいた。
計画は高澄へ報告され、発覚した。

高澄は兵を率いて宮中へ入り、孝静帝に反逆を企てたと迫った。
孝静帝は、君主が臣下に反逆するということがあるのか、
高澄こそ反逆を企てているのではないか、自分を殺すなら早く殺せという趣旨で反論した。

高澄はいったん床を下りて叩頭し、泣いて謝罪した。二人はその場で酒を飲んだとされる。

しかし三日後、高澄は孝静帝を含章堂に幽閉し、外部との接触を制限した。
荀済ら計画の参加者も処刑された。

これ以後、孝静帝が高氏の支配から自立する余地はさらに狭まり、
東魏皇帝の政治的権威は大きく後退した。

潁川攻略と王朝交代への準備

王思政が守る潁川を包囲

侯景が東魏から離反すると、西魏も河南へ進出した。

西魏の王思政は潁川の長社に入り、防備を固めた。
潁川は洛陽方面に近く、東魏と西魏の勢力圏をめぐる重要拠点だった。

548年、高岳・慕容紹宗・劉豊らが潁川を攻撃した。

王思政は頑強に抵抗した。
東魏軍が土山を築いて攻撃すると、守備側もこれに対抗したため、
東魏軍は洧水を堰き止めて水攻めを始めた。

包囲戦の途中、慕容紹宗と劉豊は水上から城を視察した。
しかし突風によって船が城側へ流され、慕容紹宗は水へ飛び込んで死亡し、劉豊も戦死した。

指揮官を失った高岳は攻撃に消極的となった。

陳元康が高澄自身の出陣を勧める

陳元康は高澄に対し、自ら潁川攻略を完成させるよう勧めた。

高澄が政権を継承して以来、侯景を破ったとはいえ、
それはもともと高氏陣営に属していた者の反乱を鎮圧したものであり、
外敵に対する明確な戦功とは言いにくい。
西魏の王思政を破れば、高澄自身の軍事的威信を示すことができるという考えだった。

549年、高澄は十万の兵を率いて長社へ向かった。

水攻めで潁川を攻略

高澄は水攻めを継続した。
堰が三度決壊すると、高澄は決壊箇所を強引に塞がせ、包囲を続行した。
城内では水害と物資不足によって死者が増え、城壁も崩壊した。

高澄は王思政を生け捕りにした者には侯爵を与える一方、
王思政を傷つければ周囲の者まで処罰すると命じた。

敗北を悟った王思政は自害しようとしたが、部下に止められ、高澄のもとへ送られた。
高澄は王思政に降伏の礼を取らせず、その忠節を評価して厚遇した。
王思政を批判した盧潜が高澄に諫言すると、高澄は怒るのではなくその直言を評価し、
「もう一人の王思政を得た」という趣旨で喜んだとされる。

549年、潁川は陥落した。

西魏が侯景の離反に乗じて河南へ築いた重要拠点を失ったことで、
高歓死後に生じた河南方面の軍事的危機はほぼ収束した。

相国・斉王への進位

潁川攻略の前後、高澄には相国・斉王などの地位と特別な礼遇が加えられた。
高澄はいったん辞退した。
側近に意見を求めると、多くは受けるべきだと答えたが、陳元康は時期尚早と主張した。
このため高澄は陳元康を疎んじ、崔暹は陸元規を登用して陳元康の権限を分けようとしたとされる。

その後、高澄は孝静帝に皇太子を立てるよう求め、孝静帝の子・元長仁が皇太子となった。

一方、高澄自身は陳元康・楊愔・崔季舒らと、
東魏から禅譲を受けた後の官僚人事まで協議する段階に入っていた。

高氏への王朝交代は、構想ではなく具体的な政治日程として進み始めていた。

弟・高洋を軽視しながら警戒する

弟の高洋は、高澄の次に年長の男子だった。

高洋は高澄の前では口数を少なくし、兄に従順な姿勢を見せていた。
高澄は高洋を軽く見ることがあり、
人相を見る者が高洋の将来の富貴を予言しても理解できないという趣旨の言葉を残したとされる。

一方、高澄が高洋を内心では警戒していたという記録もある。

高洋の妻・李祖娥のために用意された物を高澄が取り上げても、高洋は表立って反発しなかった。
後世の記録には、高澄が李祖娥にまで関係を持ったとするものもあるが、
この点は高洋による後年の発言をもとにする記録であり、
高澄の他の女性関係と同じ確実性で扱うべきではない。

高洋は表面上は兄に逆らわず、自らの能力を目立たせなかった。

高澄の突然死によって、この弟が予想より早く高氏政権を継承することになる。

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【北斉】高洋(文宣帝)|天才と狂気の二面性を持つ北斉初代皇帝
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蘭京による高澄暗殺

蘭京が高澄のもとにいた経緯

高澄を殺害した蘭京は蘭固成ともいい、南朝梁の武将・蘭欽の子だった。
東魏軍の捕虜となった後、高澄のもとへ送られ、膳奴として食事を扱う仕事に従事させられていた。

父の蘭欽は金銭を支払って息子を取り戻そうとした。しかし高澄は返還を認めなかった。
蘭京自身も帰還を求めて繰り返し訴えた。
高澄はこれを拒否し、蘭京を罰したうえ、再び帰還を求めれば殺すと告げたとされる。

追い詰められた蘭京は仲間を集め、高澄殺害を計画した。

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高洋も同時に殺害する計画だった

蘭京一党の計画は高澄だけを対象としていたわけではない。

関連列伝には、蘭京の弟・阿改が高洋の近くに仕えており、
高澄襲撃の合図を受けた後、高洋も同時に殺害する計画だったとする記録がある。

しかし事件当日、高洋が予定された場所へ戻らなかったため、高洋への襲撃は実行されなかった。

もし高澄と高洋が同時に殺害されていれば、高氏政権の継承そのものが大きく揺らいだ可能性がある。

東柏堂で禅譲後の人事を協議

549年8月、高澄は鄴の北城にある東柏堂にいた。

高澄は琅邪公主・元玉儀を寵愛しており、
彼女が自由に出入りできるよう、普段から侍衛を遠ざけることがあった。
さらに事件当日、高澄は陳元康・楊愔・崔季舒らと秘密の協議を行うため、人払いをしていた。

議題は東魏から禅譲を受けた後の百官人事だった。

高澄の王朝交代準備が、皇帝位を奪うかどうかという段階を越え、
新王朝成立後に誰をどの官職へ配置するかという段階まで進んでいたことを示している。

『北斉書』などには事件前、太史が宰輔を象徴する星の異変を報告したこと、
高澄が前夜に蘭京に斬られる夢を見て、蘭京を殺すべきだと話したことも記されている。

こうした夢や天文現象は正史に人物の死の前兆として記されることが多く、
暗殺の実際の原因とは分けて見る必要がある。

食事の盤の下に刀を隠す

蘭京は刀を食事の盤の下に隠し、食事を運ぶふりをして東柏堂へ入った。
高澄は食事を求めていなかったため、蘭京を退けた。
ところが蘭京は再び食事を運んで入ってきた。

高澄が、食事を求めていないのになぜ来たのかと叱責すると、
蘭京は隠していた刀を取り出して襲いかかった。

高澄は逃れようとしたが足を負傷し、寝台の下へ潜り込んだ。
しかし蘭京の仲間が到着し、寝台を動かしたため隠れることができなくなった。

高澄はその場で殺害された。549年8月のことで、享年29だった。

陳元康も高澄を守って死亡

東柏堂には陳元康・楊愔・崔季舒らが同席していた。

陳元康は高澄を守ろうとして襲撃者と戦い、重傷を負った。
楊愔は逃れ、崔季舒は便所に隠れて難を逃れた。
王紘も負傷し、紇奚舎楽は戦死した。
陳元康もその日のうちに死亡した。

高澄一人が暗殺されたというだけではなく、
高氏政権中枢の側近たちが同時に襲撃された事件だった。

高洋が直ちに政権を掌握

高澄の突然の死によって城内は混乱した。
しかし弟の高洋は動揺を表に出さず、兵を指揮して蘭京らを討った。

さらに高洋は高澄の死をすぐには公表せず、
「奴僕が反乱を起こし、大将軍は負傷したが重傷ではない」という趣旨の情報を流し、
政権内部の動揺を抑えた。

高澄の暗殺と同時に高洋まで殺害する計画は失敗し、結果として高氏政権には後継者が残った。

高澄の死後と北斉建国

高澄の死を知った孝静帝は、高氏の権力が弱まり、
皇帝へ実権が戻る可能性を期待したと『資治通鑑』は記している。

しかし高洋は甲士を率いて孝静帝に謁見し、そのまま晋陽へ向かった。
孝静帝は高洋の様子を見て、この人物も自分を容認する存在ではないと悟ったとされる。

晋陽にいた高歓以来の旧臣たちは、当初、高洋を軽視していた。
しかし高洋が軍政を明快に処理する姿を見て態度を改め、高氏政権は急速に高洋のもとへまとまった。

550年、高洋は孝静帝から禅譲を受けた。
東魏は滅亡し、北斉が成立した。
高澄が生前に進めていた王朝交代は、弟の高洋によって完成された。

北斉成立後、高澄は文襄皇帝と追尊され、廟号を世宗とされた。

高澄の子供たちと蘭陵王高長恭

高澄の六人の男子は、北斉成立後にそれぞれ王に封じられた。
高孝瑜は河南王、高孝珩は広寧王、高長恭は蘭陵王、高孝琬は河間王、高延宗は安徳王、
高紹信は漁陽王となった。

なかでも高長恭は北周との戦いで軍功を挙げ、北斉を代表する武将として知られる。
高延宗も北斉末期、北周軍が晋陽へ迫った際に皇帝へ推戴され、北斉再興を図った。

高澄自身は29歳で死去したが、その子供たちは北斉の政治・軍事に引き続き大きく関わっていった。

高澄はどのような人物だったのか

高澄は若くして東魏の実権を握っただけでなく、
その容姿や振る舞いについても史書に特徴的な記述を残す人物である。

『北史』は高澄を「美姿容」と記し、容姿が美しく、話術に長け、
談笑するときにも落ち着いた雅やかさがあった
と評している。

少年時代にも「神情俊爽、便若成人」と評されており、
幼いころから聡明で、大人びた風采を備えていたという。

こうした華やかな外見とは別に、性格にはかなり激しいところがあった。
自尊心が強く、自らへの礼を欠いた孫騰を引きずり下ろさせ、
父・高歓の旧友である司馬子如にも容赦しなかった。
孝静帝に対する態度にもそれは現れており、
若い高澄が自らの権威を強く意識していたことがうかがえる。

一方で、敵将だった王思政の忠節を認め、盧潜の厳しい諫言を評価するなど、
能力や節義を認めた相手には立場を越えて敬意を示す一面もあった。

女性関係については、史書が高澄を「甚だ女色を好んだ」と評するほど多くの記録を残している。
父の側室・鄭大車との私通で後継者の地位を危うくしたにもかかわらず、
その後も他人の妻を含む複数の女性との問題を起こしている。
これらは、高澄の衝動的で欲望を抑えにくい性格を伝える史料の一部として見る必要がある。

その一方、高澄は父の威光だけで地位を保った二世権力者でもなかった。
少年のころから政務の利害を論じる能力を高歓に認められ、人を見る目や行政能力も備えていた。
高歓が死んだとき高澄はまだ二十六歳だったが、
侯景の離反や西魏の河南進出が続くなかで政権を維持し、29歳で死ぬまで高氏の支配を崩さなかった。

史書から浮かぶ高澄は、
美しい容姿と洗練された話術を持ち、若くして政務を処理する才気を示す一方、
自尊心が強く、怒りや女色に対する抑制を欠くこともあった人物
である。

人材の能力や忠節を評価する冷静さと、
皇帝にまで強圧的に振る舞う苛烈さが同じ人物の中に共存していた。

まとめ

高澄は、父・高歓が築いた政権を受け継いだだけの後継者ではなかった。
若くから朝廷の人事や賞罰を掌握し、高歓の旧臣たちを抑えながら、
高氏の支配を軍事だけでなく東魏の官僚機構にまで浸透させていった。

高歓の死後に侯景が離反し、西魏が河南へ進出しても政権を維持できたことは、
高澄がすでに父から独立した政治的力量を備えていたことを示している。

『北史』が「美姿容」と記す美しい容姿と、
談笑の際にも落ち着いた雅やかさを見せる洗練された振る舞いを持つ一方、
性格には激しい部分があった。

能力や忠節を認めた人物を評価する度量を見せながら、
孝静帝に対しては強圧的に振る舞い、私生活でも鄭大車をはじめ女性をめぐる問題を繰り返した。

才気、人を見る目、傲慢さ、苛烈さ、放縦さが同居していたところに、
高澄という人物の複雑さがある。

549年には孝静帝から高氏への王朝交代が具体化し、高澄は禅譲後の官僚人事まで協議していた。
しかし29歳で蘭京らに殺害され、自ら皇帝となることはなかった。
翌550年に弟の高洋が北斉を建国したが、
その直前まで高氏政権を支え、王朝交代を実行段階まで進めたのが高澄だった。

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・李百薬『北斉書』巻2「神武帝紀下」
・李百薬『北斉書』巻3「文襄帝紀」
・李百薬『北斉書』巻9「文襄敬皇后伝」
・李百薬『北斉書』崔暹・陳元康・慕容紹宗・高慎らの関連列伝
・李延寿『北史』巻5「魏本紀第五」
・李延寿『北史』巻6「斉本紀上」
・李延寿『北史』巻14「后妃伝」
・李延寿『北史』巻28「陸操伝」
・李延寿『北史』高孝瑜・高孝珩・高長恭・高孝琬・高延宗・高紹信らの関連列伝
・魏収『魏書』「孝静帝紀」
・令狐徳棻ほか『周書』「王思政伝」
・司馬光『資治通鑑』巻158~162

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