劉楚玉(りゅう そぎょく)は、南朝宋第六代皇帝・孝武帝劉駿の長女であり、
後に山陰公主・会稽長公主となった皇族女性である。
弟には南朝宋を代表する暴君として知られる前廃帝劉子業がおり、
劉楚玉自身もまた中国史上屈指のスキャンダラスな公主として後世に名を残した。
特に「三十人の美男子を与えられた公主」という逸話は極めて有名であり、
しばしば中国史上有数の淫乱な女性として語られる。
しかし現在伝わる劉楚玉像の多くは、弟の劉子業や叔父の明帝劉彧による皇位簒奪と
密接に関係しており、史実と後世の脚色を慎重に区別する必要がある。
本記事では『宋書』『南史』『資治通鑑』などの史料をもとに、
劉楚玉の生涯と実像を詳しく解説する。
孝武帝と王皇后の長女として生まれる
劉楚玉が生まれた時期は明確ではないが、
南朝宋の皇帝である孝武帝劉駿と王皇后の間に生まれた第一子であった。
父の孝武帝劉駿は南朝宋中期を代表する皇帝であり、
皇族同士の内乱である元嘉末の混乱を乗り越えて即位した人物である。
一方で後世の史書では奢侈や女性関係の乱れも記録されており、
宮廷の風紀は必ずしも健全だったとは言い難い。
劉楚玉はその嫡出長女であったため幼い頃から特別な待遇を受けた。
『南史』などには美貌で知られたという記述も見られるが、
これについては後世の脚色が混じっている可能性もある。
ただ少なくとも皇帝と皇后の間に生まれた嫡出長女として
宮廷内で極めて高い地位を持っていたことは確かである。
やがて山陰公主に封じられ、名門出身の何戢へ降嫁する。
何戢は何偃の子であり、当時の南朝貴族社会でも有力な家柄に属していた。
孝武帝の死と劉子業の即位
464年、孝武帝劉駿が死去すると皇太子であった劉子業が即位した。
後に前廃帝と呼ばれる劉子業である。
劉子業は即位時まだ十代半ばの少年だったが、
その治世は南朝宋史上でも屈指の混乱期として知られる。
叔父や従兄弟たちを疑って次々と粛清し、宮廷には恐怖政治が広がった。
後世の史書は劉子業を典型的な暴君として描いているが、
皇族内部の権力闘争が激しかった当時の政治状況も考慮する必要がある。
劉楚玉は皇帝の同母姉として大きな権勢を持つようになった。
そして後世まで語り継がれる有名な逸話が、この時期に生まれることになる。


「私だけ夫が一人なのは不公平です」
『宋書』や『南史』に記された最も有名な逸話によれば、
ある日、劉楚玉は弟の劉子業へ
「私と陛下は男女の違いはあっても同じ先帝の子です。
それなのに陛下には何千何万という後宮の女性がいるのに、私には夫が一人しかいません。
これは不公平ではありませんか」と語ったという。
この発言を聞いた劉子業は、姉へ三十人の美男子を与えたとされる。
史料では彼らを「面首」と呼んでいる。
面首とは本来、「美しい顔立ちの男性」を意味する言葉であり、
後に「女性の男性愛人」を指す表現として用いられるようになった。
そのため劉楚玉は後世に「三十面首を持った公主」として広く知られることになる。
もっとも、この逸話をそのまま事実とみなすことには慎重であるべきだろう。
まず「三十人」という数字自体が誇張である可能性があり、
面首たちの実態についても愛人であったのか、近侍として仕えていたのかは明確ではない。
また現存する記録はいずれも劉子業政権崩壊後に編纂された史料によるものであり、
新たに即位した劉彧政権には前政権を暴君政治として描く政治的動機も存在した。
ただし完全な創作とも言い切れず、劉楚玉が宮廷内で特別な待遇を受けていたことや、
劉子業が姉を厚遇していたこと自体は複数の史料からうかがえる。
褚淵事件
劉楚玉に関する逸話の中でも特に有名なのが、後に南斉の重臣となる褚淵との一件である。
褚淵は名門の出身であり、その容貌の美しさでも知られていた。
『宋書』や『南史』によれば、劉楚玉は褚淵に強い関心を示し、
劉子業は褚淵を劉楚玉のもとへ送ったという。
しかし褚淵は劉楚玉の誘惑に応じなかったとされる。
史書には、十日間にわたって宮中に留め置かれながらも節度を失うことなく過ごし、
その後退出を許されたと記されている。
この逸話は後世になると「淫乱な公主に屈しなかった名臣」の物語として広く知られるようになった。
ただし史料を書いた側が褚淵を高く評価していたことも考慮する必要がある。
実際にはどこまでが事実でどこからが脚色なのか断定は難しい。
しかし少なくとも、この頃の劉楚玉が宮廷内で極めて強い影響力を持っていたことは間違いない。
皇帝である劉子業自身が姉の意向を汲み、有力貴族さえ巻き込むことができたのである。
劉子業政権の崩壊と劉楚玉の最期
しかし、その権勢は長く続かなかった。
劉子業は即位後、皇族や重臣への粛清を繰り返し、宮廷内には強い不満と恐怖が広がっていた。
とりわけ宗室の諸王は常に命の危険にさらされており、その中には叔父の湘東王劉彧も含まれていた。
465年11月、劉彧は側近や禁軍と結んでクーデターを決行する。
前廃帝劉子業は殺害され、その治世はわずか一年余りで終焉を迎えた。
劉彧は新たな皇帝として即位し、後世に明帝と呼ばれることになる。
劉楚玉もまた、この政変によって運命を絶たれた。
彼女は劉子業の同母姉として宮廷内で特別な地位と影響力を持っていたが、
政変後まもなく殺害されたのである。
史書によれば、劉楚玉は淫乱をほしいままにした罪によって死を命じられたとされる。
しかし、この記述をそのまま事実とみなすことには慎重であるべきだろう。
古代中国では政敵や失脚した権力者を断罪する際、
「淫乱」「不道徳」「礼法に反する」といった罪名がしばしば用いられた。
特に女性の場合、政治的理由による粛清であっても性的逸脱が強調されて記録される例は少なくない。
また、劉楚玉に関する逸話の多くは、
『宋書』や『南史』など劉子業政権崩壊後に編纂された史書によって伝えられたものである。
そのため、彼女が実際に奔放な生活を送っていた可能性を否定することはできない一方、
どこまでが事実でどこからが後世の脚色や政治的評価なのかを厳密に区別することも難しい。
ただし、劉楚玉が劉子業時代に大きな権勢を持っていたこと、
そしてその地位が政権崩壊とともに失われ、自らも粛清の対象となったことは確かな史実である。
彼女の実像は今なお不明な部分が多いが、
その生涯は南朝宋末期の激しい権力闘争を象徴するものとして語り継がれている。
↓↓クーデターを決行した叔父・明帝劉彧ついての個別記事は、こちら

賜死
明帝即位直後の465年11月30日、劉楚玉は賜死となった。享年は不明である。
弟の劉子業が殺害されてからわずかな期間での処刑であり、
新政権が前政権関係者の排除を急いでいたことがうかがえる。
彼女の死によって、前廃帝劉子業を中心とする旧政権の勢力は事実上消滅した。
何氏一族と娘・何婧英
劉楚玉の死後も、その血統と婚姻関係は南朝貴族社会の中に残り続けた。
夫の何戢は政変後も生き延びている。
何氏は南朝屈指の名門であり、皇族との婚姻関係を持つ有力貴族だった。
劉子業政権の崩壊後も何氏一族が完全に没落しなかった背景には、
何戢自身が政権中枢の人物とは見なされていなかったことに加え、
南朝において皇族と名門貴族の結び付きが政治的に重要だったことも関係していたと考えられる。
また、何戢と側室の間に生まれた娘・何婧英は、後に南斉の皇族である蕭昭業へ嫁いだ。
蕭昭業は後に皇帝となり、何婧英も皇后となっている。
また、何婧英の立后によって、劉楚玉も後に皇后の嫡母として追封されており、
その血統は南朝後期の皇室と貴族社会の中へ受け継がれていったのである。
後世の文学と創作における劉楚玉
後世になると劉楚玉は正史以上に劇的な人物として描かれるようになった。
明代以降の小説や逸聞集では、三十人の面首を従えた絶世の美女として語られることが多く、
実在の人物というより伝説的存在に近い扱いを受けている。
また『百美新詠図伝』では歴代百美人の一人にも選ばれた。
しかしこれらはあくまで後世の文学的評価であり、南朝当時の史実を直接示すものではない。
劉楚玉の実像を考える上では、『宋書』『南史』など比較的早い時期の史料を基礎としながら、
後世の脚色と切り分けて理解することが重要である。
まとめ
劉楚玉は南朝宋の孝武帝劉駿と王皇后の長女として生まれ、
山陰公主・会稽長公主として高い地位を与えられた皇族女性であった。
弟の前廃帝劉子業が即位すると大きな権勢を持ち、
「三十人の面首」や褚淵との逸話によって後世に名を残した。
しかし現在伝わる人物像の多くは、劉子業政権崩壊後に形成された側面も強く、
史実と政治的宣伝が混在している可能性が高い。
465年、叔父の劉彧がクーデターによって即位すると、劉楚玉は前政権の象徴として賜死となった。
短い生涯であったが、「面首」という言葉を歴史に残し、
中国史上最も有名な公主の一人として今日まで語り継がれている。
史書・参考文献
・『宋書』巻七 前廃帝紀
・『宋書』巻四十一 后妃伝
・『南史』巻十三 宋宗室及諸王伝
・『資治通鑑』巻一三〇~巻一三二
・李延寿『南史』
・沈約『宋書』
・司馬光『資治通鑑』
・『百美新詠図伝』
・川本芳昭『中国南北朝史研究』
・気賀澤保規『中国の歴史 南北朝』
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