韓全誨|昭宗を鳳翔へ連行した唐末の宦官と朱全忠との対立

唐の宦官 韓全誨 037.宦官

韓全誨(かんぜんかい、?〜903年)は、
唐末の昭宗に仕え、神策軍護軍中尉として宮廷の軍事権を握った宦官である。

鳳翔節度使の李茂貞と結び、劉季述による昭宗廃位事件の後に台頭したが、
宰相崔胤が朱全忠の軍事力を利用して宦官排除を進めると、
901年に昭宗と皇族を長安から鳳翔へ強制的に連行した。

昭宗が剣を持って乞巧楼に立てこもって抵抗したにもかかわらず、
韓全誨らは宮殿に火を放って出発を強行した。

これを機に朱全忠と李茂貞の戦争が激化し、鳳翔は深刻な飢餓に陥った。
903年、李茂貞は朱全忠との和解を選び、韓全誨らを処刑した。
その死後、唐後期の宦官勢力は大規模な粛清を受け、昭宗も朱全忠の支配下に置かれることになった。

出自と宦官としての出世

韓文約の養子となり、李茂貞との関係を築く

韓全誨(かんぜんかい、?〜903年)は唐末の宦官で、
神策軍護軍中尉として禁軍を掌握し、昭宗を鳳翔へ連行した人物である。
生年や出身地は明らかではなく、宦官の韓文約の養子となったことが伝えられている。

韓全誨は鳳翔軍の監軍を務め、鳳翔節度使の李茂貞と関係を築いた。
監軍は皇帝に代わって地方軍を監督する役職だったが、
唐末には地方の節度使が強大な軍事力を持ち、
監軍を務める宦官も任地の軍事勢力と独自の関係を形成していた。

その後、韓全誨は長安へ戻り、内枢密使に任命された。
内枢密使は皇帝への奏事や命令の伝達に関与する重要な役職であり、
韓全誨は宮廷の機密政務を扱う立場となった。

劉季述の失脚と神策軍の掌握

光化3年(900)、左神策軍護軍中尉の劉季述は王仲先らと結んで昭宗を廃位し、
皇太子李裕を皇帝に擁立した。
昭宗と何皇后は少陽院に幽閉されたが、翌901年正月、
宰相崔胤と結んだ神策軍将校の孫徳昭らが反乱を起こし、劉季述らを殺害して昭宗を復位させた。

この事件を受け、崔胤は宦官から神策軍の指揮権を取り上げようとした。
『新唐書』によれば、崔胤は自ら左神策軍を、陸扆が右神策軍を統率することを提案したが、
昭宗は決断できなかった。

李茂貞は、崔胤が軍権を奪えば次には地方の節度使を滅ぼすだろうと警戒した。
昭宗が神策軍将校の李継昭らに意見を求めると、
彼らも文官が禁軍を指揮することに反対したため、崔胤の提案は退けられた。

こうして韓全誨が左神策軍護軍中尉、張彦弘が右神策軍護軍中尉となり、
ともに驃騎大将軍を授けられた。
また、袁易簡と周敬容が枢密使に任命された。
韓全誨ら四人は後に「四貴」と呼ばれる有力宦官となった。

崔胤との対立と長安の軍事的混乱

宦官暗殺計画と李茂貞への接近

崔胤は神策軍の指揮権を得られなかったことに不満を抱き、
京兆尹の鄭元規と結んで韓全誨らの暗殺を企てた。
しかし計画は失敗し、韓全誨らは崔胤が自分たちを排除しようとしていることを知った。

韓全誨は李茂貞に働きかけ、精兵四千人を長安の警備に残させ、李継筠・李継徽らに指揮させた。
一方、崔胤も朱全忠の兵三千人を宮廷南側に駐屯させ、婁敬恩に統率させた。

こうして宮廷内には李茂貞側と朱全忠側の兵が入り込み、
宦官と宰相の争いは両節度使の軍事対立へと発展した。

翰林学士の韓偓は、両軍の駐屯が危険であるとして崔胤を繰り返し諫めたが、
崔胤は兵が撤退しようとしないと答えた。
朝廷の内部対立を解決するために呼び込まれた軍隊が、
もはや宮廷の意思だけでは動かせない状況となっていた。

昭宗への監視と政治権限の回復

韓全誨らは、崔胤が朱全忠の軍事力を利用して宦官を排除することを恐れ、昭宗への監視を強めた。

朱全忠が長安へ向かっていると知ると、韓全誨は李継誨・李彦弼らに兵を率いさせ、
昭宗に鳳翔への移動を求めた。
宮城の門には兵を増員し、人や文書の出入りを厳しく調べた。

昭宗は崔胤に密書を送り、自分が西へ向かわざるを得ないことを悲しんだ。
また、趙国夫人を通じて韓偓に宮中の状況を知らせ、
李彦弼らの無礼な振る舞いと、皇后とともに涙を流していることを伝えた。
これ以降、翰林学士は昭宗に直接面会できなくなった。

さらに韓全誨らは昭宗に迫り、901年正月に出された宦官の権限を制限する勅書を撤回させた。
延英殿での政務にも宦官が侍立し、議論に参加するようになった。

神策軍都指揮使の李継筠は宮廷の倉庫から財宝や儀礼用品を略奪し、
韓全誨は諸王や宮女を密かに鳳翔へ先行させた。
長安では軍隊による略奪が広がり、住民は避難を始めた。

昭宗の鳳翔連行(901年)

乞巧楼に立てこもった昭宗

天復元年(901)11月、朱全忠の軍勢が長安へ迫ると、
韓全誨らは宮殿の前に兵を並べ、昭宗に鳳翔への移動を迫った。

韓全誨らは、朱全忠が皇帝を洛陽へ連行して禅譲を強要しようとしていると訴え、
鳳翔へ移って兵を集め、朱全忠に対抗するよう求めた。

しかし昭宗はこれを拒否し、剣を手にして乞巧楼へ登った。
韓全誨らは昭宗を楼から降ろし、移動を強制した。

昭宗が寿春殿まで進んだころ、李彦弼はすでに皇帝の居所である御院に火を放っていた。
宮廷内での抵抗や帰還を困難にするための放火だった。

この日は冬至だった。
昭宗は思政殿に一人で座り、片足を欄干に掛けていた。
庭には群臣の姿がなく、傍らに仕える者もいなかった。

やがて昭宗は抵抗を断念し、何皇后、妃嬪、諸王ら百余人とともに馬に乗って宮城を離れた。
一行は泣きながら出発し、振り返ると宮殿は激しく燃えていた。

その夜は鄠県に宿泊した。

この連行は皇帝が自発的に行った遷都ではなく、
韓全誨らが神策軍の兵力を利用して昭宗の身柄を確保した事件だった。
『資治通鑑』巻二百六十二には、
昭宗の抵抗から宮殿への放火、皇族を伴う出発までが詳しく記されている。

李茂貞の保護下に置かれた皇帝

鳳翔へ到着した昭宗は李茂貞の支配下に置かれた。
韓全誨は李茂貞の軍事力を頼り、朱全忠と崔胤による宦官排除を阻止しようとした。

一方、長安では崔胤が朱全忠側の軍勢と結び、韓全誨らに対抗していた。
李継昭は韓全誨に従わず、兵を率いて崔胤の邸宅を守った。
避難してきた官僚や住民も崔胤のもとに集まり、朝廷の官僚機構は分裂状態に陥った。

朱全忠は昭宗を取り戻すことを名目に進軍し、李茂貞との戦いを始めた。
昭宗を掌握した韓全誨は宮廷での地位を守ったものの、
皇帝を鳳翔へ移したことで朱全忠に軍事介入の口実を与えることになった。

鳳翔包囲戦と韓全誨の失脚

朱全忠による包囲

天復2年(902)、朱全忠は李茂貞の軍勢を破り、鳳翔への包囲を強めた。
李茂貞は城を守って抵抗したが、補給路を断たれ、外部から食糧や援軍を得ることが難しくなった。

包囲が長期化すると城内では食糧が尽き、兵士や住民が飢えに苦しんだ。
『資治通鑑』には、飢えた人々が人肉を食べ、
市場でも売買されるほど悲惨な状況になったことが記されている。

冬には大雪が降り、城内の困窮はさらに深刻化した。
皇帝や皇族も飢餓に苦しみ、昭宗は皇族の窮状を訴えて和解を求めた。
兵士たちの間では、皇帝を鳳翔へ連行して戦争を招いた韓全誨への不満が高まり、
韓全誨を罵倒する者も現れた。

李茂貞は皇帝を保護することで朱全忠に対抗しようとしたが、
包囲を突破できず、軍隊を維持することも困難になった。

四貴の処刑

天復3年(903)正月、李茂貞は朱全忠との和解を決断した。
その条件として、昭宗を鳳翔へ連行した韓全誨ら有力宦官を排除することになった。

処刑された中心人物は、
左神策軍護軍中尉の韓全誨、右神策軍護軍中尉の張彦弘、枢密使の袁易簡・周敬容の四人だった。

李茂貞は四人を殺害し、その首を朱全忠の軍へ送った。
さらに韓全誨らと関係の深い神策軍将校や宦官も処刑された。

韓全誨は李茂貞との関係を頼って昭宗を鳳翔へ連行したが、
最後には李茂貞自身によって殺害された。
李茂貞にとって、韓全誨らを守り続けることよりも、
朱全忠との戦争を終結させることが優先されたのである。

宦官粛清と唐王朝の滅亡

昭宗の長安帰還と宮廷の粛清

韓全誨らの処刑後、昭宗は鳳翔を離れて長安へ帰還した。
しかし、宮廷の軍事権を取り戻すことはできず、朱全忠の影響下に置かれた。

崔胤は宦官勢力の徹底的な排除を進め、鳳翔へ従っていた宦官七十二人を処刑した。
韓全誨が昭宗に献じた宮女の宋柔ら十一人も処刑され、
宦官と親しかった僧侶や道士ら二十余人も殺害された。

韓全誨が献じた宮女たちについては、宮廷内の情報を探らせるためだったという逸話も伝わる。
宮女を通じて昭宗の周囲を監視しようとしたという話は、
宦官と皇帝の関係が深刻に悪化していたことを物語るが、
個々の諜報活動については史料の記述を区別する必要がある。

朱全忠も宦官の粛清を進め、長安に残っていた退官済みの老宦官九十人を密かに殺害した。
さらに地方の監軍にも処刑命令が及んだ。

ただし、地方の監軍が全員殺害されたわけではない。
河東の張承業、幽州の張居翰、清海の程匡柔、西川の魚全禋らは、
それぞれの節度使に保護されて生き延びた。
彼らを守った節度使は、別の囚人を処刑して命令に従ったように装ったと伝えられる。

崔胤の死と昭宗の殺害

韓全誨の死によって、唐後期に神策軍を掌握していた有力宦官たちは排除された。
しかし、その軍事権力を皇帝が取り戻したわけではなかった。

宦官排除を進めた崔胤も朱全忠の勢力拡大を止めることができず、
904年には朱全忠によって殺害された。
同年、朱全忠は昭宗を洛陽へ移し、さらに昭宗を殺害した。

昭宗の死後には哀帝が即位したが、朝廷の実権は朱全忠が握り続けた。
907年、朱全忠は哀帝から禅譲を受けて後梁を建国し、唐王朝は滅亡した。

まとめ

韓全誨は、韓文約の養子として宮廷で出世し、
鳳翔の李茂貞との関係を背景に神策軍護軍中尉となった。
昭宗と崔胤が宦官の軍事権力を排除しようとすると、
李茂貞と結んで対抗し、901年には昭宗を長安から鳳翔へ連行した。

昭宗は剣を持って乞巧楼に立てこもって抵抗したが、
韓全誨らによって連れ出され、宮殿に火を放たれる中、皇族とともに長安を離れた。
その後、朱全忠による鳳翔包囲戦が長期化し、城内では人肉が食べられるほどの飢餓が発生した。

903年、李茂貞は朱全忠との和解を選び、韓全誨・張彦弘・袁易簡・周敬容らを処刑した。
韓全誨の死後には大規模な宦官粛清が行われ、神策軍を基盤とした宦官政治は終わったものの、
皇帝の権力は回復せず、唐王朝は朱全忠の支配下で滅亡へ向かった。

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史書・参考文献

・『旧唐書』巻二十上「本紀第二十上 昭宗」
・『新唐書』巻十「本紀第十 昭宗・哀帝」
・『新唐書』巻二百八「列伝第一百三十三 宦者下」
・『資治通鑑』巻二百六十二「唐紀第七十八」
・『資治通鑑』巻二百六十三「唐紀第七十九」
・『資治通鑑』巻二百六十四「唐紀第八十」
・『北夢瑣言』巻十五

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