韓全誨は、唐王朝末期の宦官であり、皇帝 唐昭宗 を都から連れ去り、
鳳翔へ移動させた「天復の乱」の中心人物である。
神策軍を掌握して宮廷政治に深く関与し、宰相 崔胤 と激しく対立した。
鳳翔節度使 李茂貞 と結んで権力を維持しようとしたが、
最終的には包囲戦の末に味方であった李茂貞によって処刑される。
韓全誨の事件は、唐末の宦官政治が完全に崩壊するきっかけとなった出来事の一つである。
出自と宦官としての出世
宦官・韓文約の養子
韓全誨は宦官 韓文約 の養子として宮廷に入り、幼いころから宮中で育てられた。
唐末の宦官社会では養子制度が広く行われており、
有力宦官が養子をとって勢力を継承することが多かった。
韓全誨もこの制度によって出世した典型的な人物である。
神策軍中尉として権力の中枢へ
やがて韓全誨は 右神策軍中尉 に任命される。
神策軍は皇帝の近衛軍であったが、唐後期には宦官が実権を握る軍隊となっていた。
そのため神策軍を掌握することは、宮廷政治の実権を握ることを意味していた。
この時点で韓全誨は、唐末の権力闘争の中心人物となったのである。
李茂貞との結びつき
韓全誨は、鳳翔節度使 李茂貞 と深く結びついていた。
李茂貞は関中地方を支配する有力軍閥であり、宦官勢力にとって重要な後ろ盾であった。
この関係が、後の「昭宗連行事件」の背景となる。
昭宗政権と宦官勢力の対立
昭宗と崔胤の反宦官政策
昭宗は宦官の専横を嫌っており、宰相崔胤はさらに強硬な反宦官派であった。
崔胤は宦官の軍事力を取り上げることを目標とし、宮廷の宦官勢力を排除しようとした。
当然ながら、この動きは宦官たちの激しい反発を招いた。
朱全忠との連携
崔胤は当時最強の軍閥であった朱全忠と結び、宦官勢力を一掃する計画を進めていた。
この「宦官殲滅計画」を察知した韓全誨は、先手を打つことを決断する。
天復元年(901)昭宗連行事件
皇帝を鳳翔へ移す計画
901年、韓全誨は神策軍を動員し、宮廷でクーデターを起こした。
彼らの目的は、皇帝を宦官の影響下に置き、反宦官派の崔胤を排除することであった。
昭宗を鳳翔へ“動座”
韓全誨は昭宗を宮中から連れ出し、鳳翔へ移動させる。
この出来事は史書で 「動座」 と表現されるが、実態はほぼ皇帝の拉致であった。
皇帝は李茂貞の支配する鳳翔に移され、韓全誨はその背後で宮廷政治を操ることになる。
鳳翔包囲戦(901〜903)
崔胤と朱全忠の反撃
昭宗を奪われた崔胤は、朱全忠に援軍を求めた。
朱全忠は大軍を率いて関中へ進軍し、鳳翔を完全に包囲する。
こうして唐王朝は、「宦官+李茂貞 VS 崔胤+朱全忠」という大規模な内戦状態に突入した。
鳳翔の飢餓と大雪
包囲戦は長期化し、鳳翔の城内では食糧が完全に不足した。
史書には
・多くの餓死者が出た
・食糧は枯渇した
・城内の秩序が崩壊した
と記されている。
902年の冬には大雪が降り、城内の状況はさらに悪化した。
韓全誨は昭宗を守る立場にあったが、城内の混乱を収めることはできなかった。
天復三年(903)韓全誨の最期
李茂貞の決断
包囲戦が続く中、鳳翔の状況は完全に絶望的となった。
そこで李茂貞は生き残るため、朱全忠と和解する決断を下す。
その条件が宦官の処刑であった。
「四貴」の処刑
処刑の対象となったのは、宦官の中でも特に権力を持っていた四人である。
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韓全誨(右神策軍中尉)
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張彦弘(右神策軍中尉)
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袁易簡(枢密使)
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周敬容(枢密使)
この四人は史書で 「四貴」 と呼ばれている。
宦官22名の一斉処刑
903年、李茂貞の命令により宦官22名が一斉に処刑された。
韓全誨もこの処刑の中に含まれており、ここに唐末最大の宦官勢力は崩壊する。
処刑された宦官の首は朱全忠の軍へ送られ、これによって鳳翔包囲戦は終結した。
韓全誨の逸話
昭宗に美女を献じたという逸話
野史によれば、韓全誨は昭宗に美女を献じ、宮中の情報を探ろうとしたという。
これは宰相崔胤が密奏制度を利用して皇帝と直接連絡を取っていたため、
それを監視する目的だったとされる。
宦官大粛清の引き金
韓全誨の死後、宦官勢力は徹底的に粛清された。
崔胤は鳳翔に従っていた宦官72名を処刑し、
さらに朱全忠も多くの退官宦官を密かに殺害したと伝えられる。
韓全誨の事件は、唐王朝における宦官政治の完全な終焉をもたらした。
韓全誨の歴史的評価
韓全誨は、皇帝を連れて都を脱出するという
大胆な行動を取った宦官として知られている。
しかしその行動は結果的に
・宮廷政治の崩壊
・軍閥同士の大戦争
・宦官勢力の壊滅
を招くことになった。
そしてその後、朱全忠が宮廷を掌握し、907年には唐王朝は滅亡する。
韓全誨は「唐末の宦官政治の終焉を象徴する人物」として歴史に名を残している。

