【後漢】鄭衆|外戚竇憲を誅した“宦官政治の起点”となった後漢の宦官

後漢の宦官 鄭衆 037.宦官

鄭衆(ていしゅう、生年不詳-114年)は、
後漢の章帝・和帝・安帝期に仕えた宦官。字は季産。南陽郡犨県の人。

和帝の時代、皇太后の兄である竇憲を中心とする竇氏一族が朝廷で大きな権力を握るなか、
鄭衆は竇氏に迎合せず、和帝の信任を得た。
永元4年(92)、和帝が竇憲らの排除を決意すると密議に加わり、
その成功によって大長秋へ昇進した。

『後漢書』は鄭衆について「中官用権、自衆始焉」と記す。
後漢では鄭衆以前にも宦官が宮廷で活動していたが、皇帝の側近として政変に関与し、
その功績によって政治的地位を高めた鄭衆は、
後漢における宦官の政治進出を考えるうえで重要な人物となった。

明帝・章帝に仕える

南陽郡犨県の出身

鄭衆は南陽郡犨県の出身で、字を季産という。

家系や父母、生年、宦官となった経緯について『後漢書』は記していない。
そのため、幼少期や宮中へ入る以前の経歴は分からない。

『後漢書』は人物について「謹敏にして心幾あり」と評している。
慎重で機敏に振る舞い、物事の兆しを察する能力を持っていたという意味であり、
後に和帝が竇氏排除という極秘の計画を相談した理由にもつながる人物評となっている。

皇太子劉炟に仕える

鄭衆が史料に現れるのは明帝の永平年間(58~75)である。

この頃、鄭衆は皇太子の家に仕えるようになった。
皇太子は後の章帝・劉炟であり、鄭衆は章帝が即位する以前からその身近に仕えていたことになる。

永平18年(75)、明帝が死去して劉炟が章帝として即位すると、鄭衆は小黄門に任じられ、
その後、中常侍へ昇進した。

小黄門も中常侍も皇帝の近くに仕える宦官の官職であり、
とりわけ中常侍は宮中と皇帝を結ぶ重要な位置にあった。

ただし章帝時代の鄭衆について、『後漢書』は具体的な政治活動や逸話を残していない。
少なくとも皇太子時代から章帝に仕え、長期間にわたって宮廷内部で経験を積んだことが確認できる。

和帝即位と竇氏の専権

鈎盾令を兼ねる

章和2年(88)、章帝が死去し、劉肇が和帝として即位した。
和帝は幼少だったため、章帝の皇后だった竇太后が臨朝して政務を執った。


鄭衆は和帝の即位後、従来の中常侍に加えて鈎盾令となった。
鈎盾令は宮苑や池苑などを管轄する官で、宮廷内部に深く関わる職だった。

この時期、実際に朝廷で大きな勢力を築いたのが、竇太后の兄である竇憲とその一族だった。

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竇憲に従わなかった鄭衆

竇憲は妹が皇太后となったことで政治的地位を高め、北匈奴遠征に成功すると大将軍となった。
弟の竇篤・竇景・竇瓌らも高官となり、一族やその関係者が朝廷の内外に広がった。

『後漢書』は、朝廷の臣下が上から下まで竇憲に付き従うなか、
鄭衆だけは「一心王室」で、権勢を持つ一派に仕えなかったと記している。

鄭衆が公然と竇憲を批判したという記録ではない。
竇氏の門下や政治的な党派に加わらず、皇帝側に立ち続けたという意味である。

この態度によって鄭衆は和帝から信頼されるようになった。

当時の和帝にとって、竇氏と関係を持たない側近は貴重だった。
竇憲の権力は中央官僚にまで及び、和帝が朝臣と自由に接触することも難しくなっていたからである。

和帝と竇憲排除を計画する

竇憲の周辺で謀議が発覚する

永元4年(92)、竇氏の権力を揺るがす事件が起こった。

当時、竇憲と結びついていた穰侯鄧疊、その弟の鄧磊、鄧疊の母の元氏、
竇憲の女婿で射声校尉だった郭挙、その父で長楽少府だった郭璜らが互いに結びついていた。
郭挙と元氏は宮中にも出入りし、郭挙は竇太后から寵愛を受けていた。

『後漢書』や『資治通鑑』は、彼らが和帝を殺害しようと謀ったと記している。

和帝は密かにこの計画を知った。
しかし竇憲は大将軍として軍権を握っており、しかも当時は都の外にいた。
軽率に動けば軍事的な反乱へ発展する危険があったため、和帝はすぐには行動しなかった。

和帝が相談相手に選んだ鄭衆

竇氏を排除しようとしても、和帝には重大な問題があった。
『資治通鑑』によれば、竇憲兄弟が権力を独占していたため、
和帝は朝廷内外の臣下と自由に接触することができなかった。
朝臣の多くも竇氏に従っていた。

そのなかで和帝が頼ることのできた人物が、中常侍・鈎盾令の鄭衆だった。

鄭衆は慎重で機敏であり、竇氏の権勢にも迎合していなかった。
このため和帝は鄭衆と密かに相談し、竇憲を排除する方針を定めた。

『後漢書』鄭衆伝も、竇憲兄弟が不軌を企てると、
鄭衆がその誅殺の計画で中心的な役割を果たしたと記している。

清河王劉慶を通じて過去の事例を調べる

和帝は竇氏を処分するにあたり、過去に皇帝が外戚を処分した事例を調べようとした。
しかし宮中の側近まで竇氏とつながっている可能性があり、
通常の方法で史書を取り寄せることは危険だった。

そこで和帝は、異母兄である清河王劉慶を利用した。
劉慶はかつて皇太子だったが、竇太后によって母の宋貴人が失脚させられ、
自身も廃太子となった人物である。
和帝との関係は良好で、この頃もたびたび宮中に宿泊するほど信頼されていた。

和帝は劉慶に命じ、千乗王のもとから『漢書』の「外戚伝」をひそかに借りさせた。
さらに劉慶を通じて鄭衆へ言葉を伝え、外戚を処分した過去の故事を調べさせた。

こうして和帝・劉慶・鄭衆の間で、竇氏排除の準備が秘密裏に進められた。

竇憲の帰京を待つ

和帝は竇憲が軍を率いて都の外にいる間には動かなかった。
竇憲が外地で反乱を起こすことを警戒したためである。

同年4月、竇憲が洛陽へ帰還し、鄧疊も都へ戻ったが、
和帝はただちに竇憲を捕らえることはせず、
表面上は従来どおりの待遇を続けながら、行動の機会をうかがった。

永元4年の竇氏粛清

和帝が北宮へ入り宮城を封鎖する

永元4年(92)6月、和帝はついに行動を開始した。
北宮へ移ると、執金吾と五校尉に兵を率いて南宮・北宮を守備させ、
洛陽の城門を閉鎖したうえで、郭璜・郭挙・鄧疊・鄧磊らを一斉に逮捕した。
彼らは獄中で死亡し、続いて和帝は使者を派遣して竇憲から大将軍の印綬を取り上げた。

竇憲は冠軍侯、竇篤・竇景・竇瓌らもそれぞれの封国へ赴くよう命じられた。
和帝は養母である竇太后への配慮から、竇憲を洛陽で公開処刑することは避け、
厳格な地方官を付けて監視させた。

竇憲・竇篤・竇景は封国へ到着したのち自殺を命じられ、
これによって竇氏が朝廷で握っていた政治的・軍事的権力は失われ、和帝は親政の基盤を取り戻した。

鄭衆が大長秋となる

竇氏排除の後、鄭衆はその功績によって大長秋へ昇進した。
大長秋は皇后宮に関係する官職で、後漢では宦官が任じられる重要な官職となっていた。
和帝は竇氏と関係した官僚の処分を進める一方、鄭衆が竇氏排除の密議に加わった功績を評価した。

『後漢書』によれば、鄭衆は恩賞を与えられるたびに多くを辞退し、少なく受け取ったという。
和帝はこうした態度も評価し、竇氏排除後も鄭衆を側近として信任し、
政務について相談するようになった。

和帝の側近として政治に関与する

「中官用権、自衆始焉」

『後漢書』鄭衆伝には、鄭衆について後漢政治史上重要な一文がある。
「中官用権、自衆始焉」宦官が政治的な権力を用いるようになったのは鄭衆から始まった
という意味である。

これは鄭衆以前に宦官が政治に関与していなかったという意味ではない。
前漢以来、宦官や宮廷近侍が皇帝の側近として影響力を持つことはあった。

鄭衆の場合、外戚竇氏の排除という重大な政変に皇帝の密議相手として参加し、
その功績によって大長秋へ進み、
その後も皇帝から政務について意見を求められる立場になった点が重要だった。

皇帝が外朝の官僚ではなく、宮中に常時仕える宦官を外戚排除の協力者とし、
その後も政治的側近として用いるという形が明確になったのである。

恩賞をたびたび辞退する

後世の後漢では、宦官の封侯や財産蓄積が政治問題となる。

しかし鄭衆本人について、『後漢書』は貪欲な人物として描いていない。

竇氏排除後の論功行賞では、与えられるものが多ければ辞退し、少なく受け取ったという。
これによって和帝からさらに評価され、継続して政治上の相談を受けた。

鄭衆が和帝期に汚職や収奪を行ったという記録も、本伝には見えない。

鄛郷侯に封じられる

永元14年(102)、和帝は竇氏排除における鄭衆の功績を改めて評価し、鄛郷侯に封じた。
食邑は千五百戸だった。竇憲排除から十年後のことである。
鄭衆が和帝の信任を長期間維持していたことが分かる。

封侯によって鄭衆は単なる宮廷官僚ではなく、封邑を持つ列侯となった。
宦官が皇帝の政治的側近として功績を認められ、
爵位と封邑を与えられる先例として、後漢宦官政治史で重要な出来事となった。

和帝死後と周章の政変計画

鄧太后の臨朝下でも権勢を保つ

元興元年(105)、和帝が死去した。
生後間もない殤帝が即位し、和帝の皇后だった鄧太后が臨朝した。
殤帝も翌延平元年(106)に死去し、清河孝王劉慶の子である劉祜が安帝として即位した。
幼い安帝に代わって鄧太后が引き続き政治を行い、兄の鄧騭ら鄧氏一族が朝廷で重要な地位を占めた。

鄭衆は和帝の死後も失脚せず、宮中で政治に関与し続けた。
永初元年(107)には鄧太后によって食邑三百戸を加増され、
それまでの千五百戸と合わせて千八百戸となった。

司空周章が鄭衆の誅殺を計画する

同じ永初元年、鄭衆は別の政変計画の標的となった。

司空の周章は、安帝の即位に不満を持っていた。
和帝には平原王劉勝という皇子がいたが、
鄧太后は病気を理由として皇位につけず、殤帝の死後には清河王家から安帝を迎えた。
周章は人心が安帝に帰していないと考え、平原王劉勝を皇帝に立てようとした。

周章の計画は、宮門を閉鎖して車騎将軍鄧騭ら鄧氏兄弟を殺し、
同時に鄭衆と蔡倫も殺害し、尚書を制圧して鄧太后を南宮へ幽閉するというものだった。
さらに安帝を遠方の国の王へ降格し、劉勝を皇帝に立てようとしていた。

『後漢書』周章伝は、この頃の鄭衆と蔡倫について、
ともに権勢を握って政治に関与していたと記している。

しかし計画は実行前に発覚し、周章は罷免され、その後自殺した。

鄭衆はこの事件では処罰されず、その地位を維持した。

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鄭衆の死と子孫

元初元年に死去

元初元年(114)、鄭衆は死去した。生年が伝わっていないため、享年は不明である。
明帝の永平年間から宮廷に仕えていたため、少なくとも四十年近く宮中で活動したことになる。

明帝期には皇太子だった章帝に仕え、章帝期には小黄門から中常侍へ進み、
和帝期には竇氏排除の密議に加わって大長秋・鄛郷侯となり、
和帝死後も鄧太后の臨朝下で政治的地位を保った。

養子の鄭閎が爵位を継ぐ

鄭衆の死後、養子の鄭閎が鄛郷侯を継いだ。
鄭閎が死ぬと、その子の鄭安が継承したが、その後に侯国は断絶した。

鄭衆自身に実子はいなかったが、養子を通じて爵位が継承されたことになる
ただし、鄭衆の事例だけをもって
宦官の養子による爵位継承がここで制度化された」とするのは正確ではない。

後漢では宦官の養子による封爵継承が後に制度として認められていくが、
その展開と鄭衆個人の爵位継承は分けて考える必要がある。

曾孫が再び封じられる

鄭衆の家系は侯国の断絶によって完全に史料から消えたわけではなかった。

延熹2年(159)、桓帝は鄭衆の曾孫にあたる鄭石讎を関内侯に封じた。
鄭衆の死から四十五年後のことである。
この再封は、鄭衆が竇氏排除に貢献した功臣として後漢朝廷に記憶され続けていたことを示している。

鄭衆の人物像と歴史的評価

『後漢書』が高く評価した鄭衆

『後漢書』鄭衆伝は非常に短いが、鄭衆本人に対する評価は概して肯定的である。

慎重で機敏な人物として紹介し、
竇憲が絶大な権勢を持っていた時にも豪族・権臣の一派に加わらず、王室に忠実だったとする。
さらに論功行賞でも多くを求めず、恩賞を辞退したことを記している。

少なくとも本伝には、後漢後期の宦官列伝にしばしば現れる収賄、売官、私党形成、
地方への収奪といった行為は記録されていない。

鄭衆の政治的台頭は、竇氏の専権から皇帝権力を回復しようとした和帝への協力によって始まった。

「宦官政治の始まり」という評価

一方、『後漢書』は鄭衆を称賛するだけではなく、「中官用権、自衆始焉」と明記している。
鄭衆以後、宦官が皇帝の側近という立場を利用して朝政へ関与し、封侯される例が増えていく。
ただし、鄭衆から十常侍までを一直線につなぎ、
鄭衆が後漢末の宦官専横を作り出したと考えるのは単純化しすぎる。

鄭衆の時代と桓帝・霊帝期では政治状況が異なり、
鄭衆本人について大規模な汚職や派閥形成は伝えられていない。
『後漢書』が指摘しているのは、鄭衆個人の腐敗というより、
宦官が皇帝の政治的協力者として権力を持つようになった先例としての意味だった。

外戚と宦官の関係

鄭衆の生涯は、後漢政治を単純な「外戚対宦官」の対立として見ることの難しさも示している。

和帝期には竇氏外戚を排除するため鄭衆が皇帝に協力したが、
和帝の死後、鄭衆は鄧太后の臨朝下でも地位を維持し、鄧太后から食邑を加増されている。

永初元年の周章の計画では、鄧氏兄弟と鄭衆・蔡倫がまとめて誅殺対象とされた。

つまり鄭衆は外戚一般と対立した人物ではない。
和帝の皇帝権を圧迫した竇氏には対抗したが、その後の鄧氏政権とは共存していた。

後漢の宮廷政治では、皇帝・皇太后・外戚・宦官・外朝官僚が
常に二つの陣営に分かれていたわけではなく、
その時々の皇位継承や政治状況によって関係を変えていた。
鄭衆はその初期の具体例として見ることができる。

まとめ

鄭衆は南陽郡犨県の出身で、明帝の永平年間に皇太子劉炟の家に仕え始めた。
劉炟が章帝として即位すると小黄門、のち中常侍となり、和帝即位後には鈎盾令を兼ねた。

竇太后が臨朝し、兄の竇憲らが朝廷で大きな権力を握るなかでも竇氏に迎合せず、
和帝から信頼された。
永元4年、和帝が竇憲排除を決意すると鄭衆を密議の相手とし、
清河王劉慶を介して過去の外戚処分の事例を調査した。

竇氏粛清後、鄭衆は大長秋へ昇進し、その後も和帝から政務について相談を受けた。
永元14年には鄛郷侯に封じられ、食邑千五百戸を与えられた。

和帝の死後も鄭衆は鄧太后のもとで地位を維持し、永初元年には三百戸を加増された。
同年には司空周章が鄧氏兄弟・鄭衆・蔡倫を殺害して皇帝を交代させようとしたが、
計画は発覚し、鄭衆は難を逃れた。

元初元年に死去すると養子鄭閎が爵位を継ぎ、その後は鄭閎の子鄭安へ伝えられた。
侯国はいったん断絶したものの、延熹2年には桓帝が曾孫の鄭石讎を関内侯に封じている。

『後漢書』が「中官用権、自衆始焉」と評したように、
鄭衆は後漢において宦官が皇帝の政治的側近として
本格的に権力を持つようになる過程を象徴する人物だった。

ただし鄭衆本人を後漢末の腐敗した宦官像と同一視することはできず、
史料上では竇氏の権勢に迎合せず、和帝の親政回復に協力し、
恩賞にも節度を示した人物として記録されている。

史書・参考文献

『後漢書』巻4「孝和孝殤帝紀」
『後漢書』巻23「竇融列伝・竇憲」
『後漢書』巻33「朱馮虞鄭周列伝・周章」
『後漢書』巻55「章帝八王列伝・清河孝王慶」
『後漢書』巻78「宦者列伝・鄭衆」
『資治通鑑』漢紀(和帝・殤帝・安帝期)

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