鄭衆|外戚竇憲を誅した“宦官政治の起点”となった後漢の宦官

後漢の宦官 鄭衆 024.宦官

鄭衆は後漢の章帝・和帝・安帝期に活躍した宦官で、
幼帝・和帝を支え、外戚・竇憲を誅殺した功臣として知られる。

その行動は後漢の政治構造を大きく変え、
「外戚と宦官の対立」という後漢末まで続く国家的病理の起点となった。

鄭衆とは

  • 章帝期に中常侍となる

  • 和帝(劉肇)の側近として外戚・竇憲を誅殺

  • 大長秋に昇進、のち鄛郷侯に封じられる(宦官初の侯

  • 養子・鄭閎が後を継ぐ(宦官の養子継承の先例

幼帝・和帝の側近として台頭

竇太后と竇憲が権力を独占

章和2年(88年)、和帝は数え10歳で即位。

実権は、竇太后とその兄・竇憲 が完全に掌握し、
和帝は
傀儡状態だった。

鄭衆は竇憲に媚びず、和帝の信任を得る

竇憲は匈奴討伐で名声を高め、朝廷で絶大な権勢を誇ったが、
鄭衆はへつらわず、むしろ距離を置いた。

この姿勢が幼い和帝の信頼を勝ち取ることになる。

竇憲誅殺のクーデター

和帝、密かに鄭衆へ「竇憲を討て」と命じる

永元4年(92年)、和帝は兄・清河王劉慶を介して、
「薄昭・竇嬰の故事にならって竇憲を討て」 と鄭衆に密命を下す。

鄭衆が主導して竇氏一族を誅殺

鄭衆は密命を受け、

 ・宮中の掌握
 ・竇憲の帰京を封鎖
 ・竇氏一族の逮捕・誅殺

を主導し、クーデターを成功させた。この功績により、鄭衆は

 ・大長秋(後宮の長官)に昇進
 ・永元14年(102年)に鄛郷侯に封じられる

という破格の待遇を受けた。

宦官として初めて「侯」に封じられる

宦官が侯になる前例を作る

鄭衆の封侯は、 宦官が政治権力を持つことを制度的に認めた最初の例 とされる。

これにより、

 ・宦官が皇帝の側近として政治に深く関与
 ・宦官の地位向上
 ・宦官の養子継承の制度化

が進むことになる。

養子・鄭閎が後を継ぐ

鄭衆の死後、養子の鄭閎が爵位を継いだ。

この「宦官の養子継承」は後に制度化され、
後漢後期の宦官集団の巨大化につながる。

安帝期:宦官勢力の中心へ

鄧氏外戚との対立

安帝即位後(107年)、司空・周章が
「鄧氏外戚と鄭衆・蔡倫を一掃しよう」 と画策するが、露見して周章は自殺。

鄭衆は難を逃れ、宦官勢力の中心として存続した。

鄭衆の死とその後の影響

鄭衆は114年に死去し、鄭閎が後を継いだ。

彼が作った“構造”が後漢末の混乱を生む

鄭衆の行動は、「外戚の専横を抑え」「皇帝の権力を取り戻す」
という意味では功績だった。

しかし同時に、
「外戚 vs 宦官」の対立構造を固定化し、後漢末の政治腐敗の土台を作った
という評価もある。

歴史的評価

忠臣としての評価

後漢書は鄭衆を

 ・和帝を助けた功臣
 ・外戚の暴政を止めた人物

として肯定的に描く。

しかし“宦官政治の始まり”でもある

鄭衆の封侯と政治介入は、 後の

 ・桓帝・霊帝期の宦官専横
 ・十常侍の腐敗

へとつながる流れを作った。
つまり、 善悪どちらにも振れる、後漢政治のターニングポイントとなった宦官 と言える。

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