夏姫(かき)は、中国春秋時代に生きた女性で、鄭の穆公の娘とされる。
陳の大夫・夏御叔に嫁いだことから「夏姫」と呼ばれ、
その美貌をめぐって陳・楚の君主や大夫たちが次々と関わり、
最後には楚の重臣・巫臣が一族も地位も捨てて彼女とともに晋へ亡命した。
後世の『列女伝』では、「その容貌は美しく比類がなかった」と評され、
「三たび王后となり、七たび夫人となった」「老いてまた若返った」とまで語られる。
さらに、彼女を求めた公侯たちはみな惑わされて志を失ったとされ、
中国史を代表する「紅顔禍水」の一人に数えられるようになった。
しかし、夏姫の生涯を『春秋左氏伝』などに沿って追うと、
単に「美女が男を誘惑して国を乱した」という話ではないことが分かる。
陳霊公を殺したのは夏姫ではなく息子の夏徴舒であり、
夏姫を妻にしようとした楚荘王や子反を止めたのも、後に彼女を連れ去る巫臣だった。
そして巫臣の亡命をきっかけに楚国内で新たな報復事件が起こり、
巫臣はさらに晋から呉へ軍事技術を伝えて楚を苦しめることになる。
一人の女性をめぐる出来事が、陳の政変から楚の内紛、
さらには晋・楚・呉の国際関係へまでつながっていく。
夏姫は春秋時代の美女の中でも、とりわけ波乱に満ちた生涯を送った女性である。
夏姫とは?鄭の穆公の娘
夏姫は鄭の穆公の娘である。
したがって、単なる大夫家の女性ではなく、鄭の君主一族に生まれた公女だった。
「夏姫」という名は、生家の姓ではない。
「姫」は鄭の国君が属する姫姓を示し、「夏」は結婚した夫の氏に由来する。
夏姫は陳の大夫・夏御叔に嫁ぎ、夏徴舒を産んだ。
夫の夏御叔は早くに亡くなったとみられ、
その後、未亡人となった夏姫をめぐって陳の君主や有力大夫たちが関係を持つようになる。
ここから彼女の名は、春秋時代の政治史に大きく現れることになる。
陳霊公・孔寧・儀行父との関係
夏姫について『左伝』が詳しく記すのは、宣公九年(紀元前600年)頃からである。
当時の陳では、君主の陳霊公だけでなく、大夫の孔寧と儀行父も夏姫と関係を持っていた。
しかも三人は、その関係を隠そうともしなかった。
孔寧と儀行父は夏姫の肌着を身につけ、それを朝廷で見せ合ってふざけていたという。
これを見た大夫の泄冶は、
「君主が悪いことをしているなら、臣下はそれを隠すべきである。
それなのに、お前たちは自ら君主を率いて悪事を行い、朝廷で人々の前にさらしている」
と二人を諫めた。
しかし孔寧と儀行父は、その言葉を陳霊公に告げた。
陳霊公は反省するどころか、泄冶を殺してしまう。
『左伝』がここで批判している中心人物は、夏姫だけではない。
むしろ君主でありながら節度を失った陳霊公と、それに追随する孔寧・儀行父によって、
陳の政治そのものが乱れていたことが描かれている。
息子・夏徴舒の前で交わされた侮辱
宣公十年(紀元前599年)、陳霊公は孔寧・儀行父とともに夏姫の家を訪れ、酒宴を開いた。
その席には夏姫の息子・夏徴舒も同席していたが、
酒が進むにつれて陳霊公たちは節度を失っていった。
陳霊公は夏徴舒を見ながら儀行父に「徴舒はお前に似ている」と冗談を言い、
これに対して儀行父と孔寧も「あなたにも似ています」と応じた。
これは単なる酒席の冗談ではない。
夏徴舒の母である夏姫と陳霊公・孔寧・儀行父の三人が関係を持っていたことを踏まえれば、
「夏徴舒の父親が誰なのか分からない」と公然とからかう発言だった。
夏徴舒にとって、これは母と自分自身に対する耐え難い侮辱だった。
陳霊公が酒宴を終えて帰ろうとすると、夏徴舒は厩舎の門に待ち伏せし、弩を放った。
矢は陳霊公に命中し、陳の君主はその場で殺害された。
孔寧と儀行父は楚へ逃亡し、陳霊公の太子・午も晋へ亡命した。
夏姫をめぐる醜聞は、ついに君主殺害という重大な政変へ発展したのである。
夏徴舒が陳の実権を握る
陳霊公を殺害した夏徴舒は、その後、陳で大きな権力を握った。
『史記』陳杞世家では、夏徴舒が自ら陳侯を称したとされており、
君主を殺しただけではなく、陳の政権そのものを掌握しようとしたことがうかがえる。
しかし、こうした内乱は周辺諸国、とりわけ大国・楚に介入の口実を与えた。
翌年、楚荘王は「君主を弑した夏徴舒を討つ」ことを掲げて陳へ進軍し、
夏徴舒を捕らえると、『左伝』によれば栗門で車裂きの刑に処した。
楚荘王はそのまま陳を楚の一県として併合しようとしたが、これに異を唱えたのが申叔時である。
申叔時は、罪人を討つという大義を掲げて陳へ入りながら、最後にその国まで奪ってしまえば、
乱を討ったのではなく自ら利益を得ただけになってしまうと諫めた。
楚荘王はこの意見を受け入れ、陳を復国させた。
そして晋へ逃れていた陳霊公の太子・午を呼び戻し、陳成公として即位させる。
こうして夏徴舒による陳霊公殺害は、単なる一族間の復讐にとどまらず、
楚が陳の存亡に直接介入するほどの政治問題へ発展したのである。
夏姫を妻にしようとした楚荘王
夏徴舒を討って陳を平定した楚荘王は、夏姫を自らの妻にしようと考えた。
ところが、これに反対したのが楚の重臣で申公を務めていた屈巫、
すなわち後に夏姫とともに楚を出奔する巫臣である。
巫臣は、今回の出兵はあくまで君主を弑した夏徴舒の罪を討つためのものであり、
その母である夏姫を王が手に入れれば、
正義を掲げながら実際には女色を求めて陳を攻めたことになってしまうと諫めた。
楚荘王はこの意見をもっともだとして受け入れ、夏姫を娶ることを断念した。
すると今度は、楚の司馬を務める子反が夏姫を妻にしたいと望んだが、巫臣はこれにも強く反対した。
その際、巫臣が夏姫と関わった男たちの末路を次々と挙げて「不祥人」と評したことが、
後世における「男を破滅させる不吉な美女」という夏姫像につながっていく。
「これほど不吉な女はいない」巫臣が並べた夏姫の男たち
子反が夏姫を娶ろうとすると、巫臣は彼女を「不祥人」、
すなわち災いをもたらす不吉な女性だと評して思いとどまらせようとした。
その根拠として挙げたのが、これまで夏姫と関わった男たちの末路である。
巫臣によれば、夏姫の夫だった夏御叔はすでに亡くなり、
彼女と関係を持った陳霊公は夏徴舒に殺害され、その夏徴舒も楚荘王によって処刑された。
さらに孔寧と儀行父は陳を追われ、ついには陳という国そのものが滅亡しかけた。
これほど多くの災いが続いた以上、あえて夏姫を求めるべきではないとして、
「天下には美しい女性が大勢いるのに、なぜこの女性でなければならないのか」
と子反を説得したのである。
子反はこの言葉を受け入れ、夏姫を娶ることを断念した。
しかし皮肉なことに、巫臣が夏姫を遠ざけようとした本当の理由は、
彼女を恐れていたからではなかった。
楚荘王に続いて子反まで諦めさせた巫臣自身が、密かに夏姫を妻にしたいと考えていたのである。
連尹襄老の妻となる
楚荘王と子反が相次いで夏姫を娶ることを断念すると、
夏姫は楚の連尹・襄老に与えられ、その妻となった。
しかし紀元前597年、楚と晋が激突した邲の戦いで襄老は戦死し、
その遺体も回収されなかったため、夏姫は再び夫を失うことになる。
『左伝』によれば、その後、襄老の子である黒要が夏姫と関係を持ったという。
こうして夏姫が襄老の家にとどまっている間にも、
かつて「天下には美しい女性など大勢いる」と子反を諫めて彼女を諦めさせた巫臣は、
密かに夏姫への思いを抱き続けていた。
実は夏姫を欲していた巫臣
自ら彼女を妻にしたいと考えていた巫臣は密かに夏姫へ使者を送り、
いったん故国の鄭へ帰るよう勧めたうえで、自分が必ず迎えに行き、正式に妻にすは、ると約束した。
しかし、夏姫が何の理由もなく楚を離れて鄭へ戻れば、周囲から疑われるおそれがある。
そこで巫臣は、邲の戦いで戦死して回収されていなかった襄老の遺体を利用して、
夏姫を楚から出す計画を立てた。
鄭から「襄老の遺体を手に入れることができる」と知らせが届いたことにし、
亡夫の遺体を引き取るために実家へ戻りたいと夏姫から申し出させたのである。
巫臣は鄭側にもあらかじめ働きかけて話を整えていたため、
夏姫は不自然に疑われることなく楚を離れ、故国の鄭へ帰ることができた。
こうして夏姫を先に鄭へ移した巫臣は、後から自らも楚を離れ、
彼女を迎えに行く機会をうかがうことになる。
巫臣、一族と財産を捨てて夏姫のもとへ
その後、巫臣は斉への使者を命じられると、これを楚から脱出する機会として利用した。
一族を伴い、財産を携えて楚を出たものの、本来の目的地である斉へは向かわず、
夏姫が待つ鄭へ赴いたのである。
鄭で夏姫と合流した巫臣は、そのまま彼女を伴って晋へ亡命した。
楚で申公を務めるほどの地位にあった巫臣にとって、
この出奔はそれまで築いてきた立場を捨てる重大な決断だったが、
こうして以前から進めていた夏姫との結婚を実現させた。
巫臣の出奔は楚に大きな遺恨を残し、とりわけ子反と子重の怒りを招いた。
その報復はやがて楚に残された巫臣の一族へ向けられ、
さらに巫臣自身による楚への復讐へと発展していく。
晋へ亡命した巫臣と夏姫
晋へ亡命した巫臣は景公に迎えられ、
邢の地を与えられて大夫となったことから、「邢大夫」と呼ばれるようになった。
一方、夏姫については、
巫臣とともに晋へ入った後の具体的な動静を伝える記録はほとんど残されていない。
しかし、巫臣の出奔を許せなかった楚の子反と子重は、
楚に残された彼の一族に報復し、屈狐庸らを殺害してその財産を分けた。
これを知った巫臣は激怒し、子反と子重に対して
「必ずお前たちを各地への対応に奔走させ、疲弊させてやる」という趣旨の言葉を送り、
報復の意思を明らかにした。
この恨みから、巫臣は晋の立場を利用して楚に対抗する策を講じるようになった。
巫臣の復讐と呉への軍事支援
一族を殺された巫臣は、子反と子重への復讐として、楚の東方に位置する呉を利用することを考えた。晋から呉へ赴くと、呉人に戦車の運用や射法をはじめとする軍事技術を教え、
楚への攻撃方法を伝えたのである。
これによって呉は楚に対する攻勢を強め、
楚は東方から繰り返される侵攻への対応を迫られるようになった。
『左伝』は、呉が楚へ侵入するたびに子反や子重が軍を率いて奔走し、
一年のうち七度も出動するほど疲弊したと伝えている。
巫臣がかつて告げた「各地への対応に奔走させ、疲弊させてやる」という報復は、
こうして現実のものとなった。
もちろん、その後長く続く呉と楚の抗争を巫臣一人の行動だけで説明することはできない。
しかし『左伝』では、巫臣の出奔、それに対する子反・子重の報復、
巫臣による呉への軍事支援という一連の経緯が明確につながっている。
夏姫を伴って楚を去ったことから生じた個人的な遺恨が、
最終的には晋・呉・楚を巻き込む軍事関係にまで波及したのである。
「三為王后、七為夫人」後世に膨らんだ夏姫伝説
夏姫の伝説的な美貌をもっとも強烈に描くのが、前漢の劉向が編纂したとされる『列女伝』である。
『列女伝』は夏姫について、「其状美好無匹」と記す。
その容貌の美しさは比類がなかった、という意味である。
さらに「内挟伎術、蓋老而復壮者」と続き、
何らかの術を身につけ、老いても再び若返ることができたかのように描く。
そして有名なのが、「三為王后、七為夫人。公侯争之、莫不迷惑失意」という記述である。
三度王后となり、七度夫人となり、公侯たちは彼女を争い、惑わされなかった者はいなかったという。
これは『左伝』からそのまま確認できる経歴ではない。
『列女伝』は女性たちを徳や不徳の模範として分類した書物であり、
夏姫は「孽嬖伝」、すなわち寵愛によって災いをもたらした女性たちを扱う章に収められている。
そのため「三為王后、七為夫人」や若返りの術などは、
夏姫の実際の経歴をそのまま記録したものというより、
後世に形成された「男を惑わせ続ける妖艶な美女」という伝承を示すものとして扱う方がよい。
夏姫は本当に「悪女」だったのか
後世の夏姫は、妲己・褒姒・驪姫などとともに、
男を惑わせて災いを招く「紅顔禍水」の代表的な女性として語られてきた。
とりわけ『列女伝』では「孽嬖伝」に収められ、比類のない美貌を持ち、
多くの公侯を惑わせた女性として描かれている。
しかし、より古い『左伝』の記述からは、妲己や驪姫などとは異なる夏姫の姿が見えてくる。
たとえば驪姫には、
息子の奚斉を晋の後継者とするため太子申生らを排除したという明確な目的と行動が描かれているが、
夏姫には自ら政治権力を握ろうとしたり、
国家を混乱させるために策謀したりしたという記述はほとんどない。
陳霊公を殺害したのは息子の夏徴舒であり、
楚荘王や子反が夏姫を娶ろうとしたのも彼ら自身の意思だった。
巫臣もまた、自らの判断で夏姫との結婚を企て、楚を離れて晋へ亡命している。
『左伝』における夏姫は、事件を自ら動かす策謀家というより、
その美貌に惹かれた君主や大夫たちの行動によって、
次々と政変や対立の中心に置かれていった女性なのである。
その一方で、夏姫と関わった男たちが相次いで死や亡命に至ったことも事実として伝えられており、
巫臣自身も彼女を「不祥人」と呼んでいる。
こうした逸話が積み重なった結果、後世には「男を破滅させる美女」という性格が強調され、
『列女伝』では「三たび王后となり、七たび夫人となった」「老いてまた若返った」
といった伝説まで加えられた。
夏姫の「悪女」像は、史料に描かれた事件そのものと、
そこから後世に形成された女性像とを分けて考える必要がある。
『左伝』が詳しく語るのは夏姫自身の野心や陰謀ではなく、
むしろ彼女を求めた男たちが何を選択し、その結果として何が起きたのかなのである。
↓↓「中国三大悪女」とされる妲己・褒姒・驪姫についての個別記事は、こちら



まとめ
夏姫は鄭の公女として生まれ、陳の夏御叔に嫁いだのち、
陳霊公や楚の有力者たちとの関わりを通じて、春秋時代の史書にその名を残した。
やがて巫臣とともに晋へ亡命し、それ以後の具体的な生涯についてはほとんど記録が残されていない。
夏姫を特徴づけるのは、自ら王朝を滅ぼす陰謀を企てたというより、
一人の女性をめぐる人間関係が陳の政変から楚の内紛、
さらに晋・呉を巻き込む争いへと広がっていった点にある。
後世になると、そうした波乱に満ちた経歴と美貌が結びつけられ、
夏姫は「男を惑わせて災いを招く絶世の美女」へと伝説化された。
史書に残る夏姫と後世に作られた「紅顔禍水」の夏姫との間には隔たりがあり、
その変化そのものが、夏姫という人物が長く語り継がれてきた理由の一つといえる。
史書・参考文献
・『春秋左氏伝』宣公九年・十年・十一年、成公二年・七年
・『史記』巻36「陳杞世家」
・劉向『列女伝』巻7「孽嬖伝・陳女夏姫」
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