宋王朝の皇帝家系図と一覧|趙匡胤から滅亡まで

010.家系図

春秋時代の宋、南北朝時代のなどと区別するために、
帝室の姓を冠し趙宋(ちょうそう)とも呼ばれる。

金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。
北宋の都は開封、南宋の都は臨安。

北宋・南宋:略家系図

宋王朝皇帝一覧と家系図(北宋から南宋への流れ)
宋王朝皇帝一覧と家系図

血統はもとに戻った

①太祖(趙匡胤)から②太宗(趙光義)への継承は、中国史の永遠のミステリー
「千載不決の議(せんざいふけつのぎ)」といわれ、
「千年を経ても結論が出ない議論」という意味である。

こうして始まった宋王朝は、以後しばらく②趙光義の血統だったが、
南宋の成立とともに「①太祖(趙匡胤)の血統へリセット」されたのは感慨深い。

南宋➊高宗は、北宋⑧徽宗の子であり、形式上は②太宗(趙光義)だが、
南宋➊高宗には男子がいたが早世し、後継者を失う。
そこで選ばれたのが、①趙匡胤の子孫である、南宋❷孝宗である。

これは単なる偶然ではなく、「正統性を取り戻すための意図的な選択」だった。
 ①正統性の回復
   太祖こそ宋の創業者→ その血に戻すことで王朝の正統性を強化
 ②太宗系への不信感
   「簒奪」の疑いがつきまとう血統→ 長期的には正統性が弱い
 ③南宋の再出発
   北宋滅亡という国家崩壊後→ 新しい正統ラインの再構築が必要

北宋(960–1127):皇帝一覧

廟号諡号名前(諱)生年-没年
(没年齢)
在位ー退位
(年齢)
 在位期間 
 太祖 趙匡胤ちょう・きょういん927-976
(49歳)
960ー976
(33歳)ー(49歳)
16年
太宗趙匡義/趙光義ちょう・きょうぎ939-997
(58歳)
976ー997
(37歳)ー(58歳)
21年
真宗趙恒ちょう・こう968-1022
(54歳)
997ー1022
(29歳)ー(54歳)
25年
仁宗趙禎ちょう・てい1010-1063
(53歳)
1022ー1063
(12歳)ー(53歳)
41年
英宗趙曙ちょう・しょ1032-1067
(35歳)
1063ー1067
(31歳)ー(35歳)
4年
神宗趙頊ちょう・きょく1048-1085
(37歳)
1067ー1085
(19歳)ー(37歳)
18年
哲宗趙煦ちょう・く1077-1100
(23歳)
1085ー1100
(8歳)ー(23歳)
15年
徽宗趙佶ちょう・きつ1082-1135
(53歳)
1100ー1126
(18歳)ー(44歳)
26年
欽宗趙桓ちょう・かん1100-1156
(56歳)
1126ー1127
(26歳)ー(27歳)
約1年

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建国者

・ 朱全忠がの禅譲により「後梁」を建国。が、他にも王朝(国)が乱立している状態。
      <五代(王朝)>    後梁、後唐、後晋、後漢、後周
      <十国(諸地方政権)> 前蜀、後蜀、呉、南唐、荊南、
                  呉越、閩、楚、南漢、北漢

・この混乱の中、後周の名君 世宗の進めた中央集権化政策を受け継ぎ、
 960年 「陳橋の変」にて趙匡胤が後周から禅譲を受けて五代は滅亡。「宋」を建国。

■治世の特徴
 ・武力ではなく、外交や経済力を駆使
 ・乱世の再発を防ぐことに腐心
   ~藩鎮の兵権を奪う
   ~贓吏(賄賂を貪る官吏)を処刑
 ・刑罰の軽減
 ・農業と学問を奨励
   ~科挙を改善して殿試(皇帝臨席の下に受ける試験)の開始
   ~軍人の上に官僚が立つ「文治主義」を確立

陳橋の変とは
 960年に後周領内の陳橋で起こったクーデターである。
 これにより後周が滅び宋が建国された。
 後周の将軍・趙匡胤が出陣中に兵士たちから皇帝として擁立され、
 黄袍を着せられて即位した事件である。
 この「黄袍加身」は、皇帝の象徴を強制的に与えることで
 政権交代を既成事実化した象徴的な出来事として知られる。

②太宗|十国を平定して「中華再統一」

疑惑の即位
・非常に有能な実務家
  ~監察制度(通判)の整備など
・979年 :十国以来存続していた地方政権を滅ぼし、中華統一

③真宗|宋の安定を固めた「守りの皇帝」

澶淵の盟(せんえんのめい)
  ~北方の強国・遼と戦ったが決着がつかず、最終的に「お金で平和を買う」政策をとる
   ・毎年銀と絹を支払う
   ・代わりに和平維持
道教・神秘思想に傾倒
  ~天書降臨(てんしょこうりん)が有名。
   泰山での「封禅の儀」の執行や宮殿造営など、国威発揚を目的とする各事業を行い、
   国費を著しく消耗させた。
・占城稲を江南各地に広め、江南の高い農業生産の基礎を築いた。
・2人目の皇后は、章献明粛皇后(劉氏)。仁宗の嫡母。

④仁宗|「仁」の名にふさわしい穏やかな名君

・12歳で即位。嫡母であった章献明粛皇后のもと、1033年まで垂簾聴政が行われる。
  ~実母の存在を知らずに育ったが、事実を知った後、改めて実母として丁重に葬り直した。
慶暦の治(けいれきのち)と称される治世。宋の黄金期。
  ~社会が安定し、建国以来の文治主義の浸透によって
   見識の高い政治家・文人が続々と登場した。(范仲淹、欧陽脩、司馬光など)
・決断力に欠ける面もあり、范仲淹らによる「慶暦の改革」は挫折に終わった。
・2人目の皇后は、賢后で知られる曹皇后
・仁宗には複数の子がいたがほとんどが幼少期に死亡(夭折)、成人まで生きた男子がいない。
 嗣子がないまま病死し、従子にあたる英宗が帝位を継いだ。娘は、福康公主などがいる。 

⑤英宗|「養子」が継承、濮議(ぼくぎ)の争い

・④仁宗の従兄である濮王 趙允譲が実父。実父の扱いをめぐる「濮議」が有名。
 実父と先帝のどちらを父ととして祀るのか?という問題が、朝廷を二分する大論争となった。
 最終的には、濮安懿王を皇帝とすることは避けつつも、
 特別に尊重された皇親として遇することで妥協が図られた。
・在位中は病弱で実権を握れず、在位わずか4年にして病死(35歳)。

⑥神宗|王安石改革を断行した“改革皇帝”

王安石を登用して「新法」と呼ばれる大規模な改革を推進した。
 朝廷は賛否で激しく対立し、宋最大級の政治対立を引き起こした。
 改革派(王安石)vs 反対派(司馬光など)

 ■目的:富国強兵 
 ■内容:農民への融資(青苗法)、物価安定政策、軍事・財政の強化 など

⑦哲宗|翻弄された「党争の時代」の皇帝

・新法・旧法の争いが続いた時代であり、前期と後期に分けられる。
 政策転換により党争はさらに激化し、宋の政治的分裂は決定的なものとなった。

<前期>
・宣仁太后高氏の垂簾政治。
 皇太后の影響で旧法(保守派)が復活、王安石の改革は一時停止。

<後期>
・哲宗親政後。
 改革派(新法)を再び採用。(旧法派を排除、政策を再転換)

⑧徽宗|芸術の天才であり、国を滅ぼした皇帝

・兄 哲宗が嗣子のないまま崩御したため、弟である⑧徽宗が即位した。
・書画の才に優れ、北宋最高の芸術家の一人と言われる。
  ~痩金体(「痩金」は徽宗の号)と称される独特の書体を創出し、
   絵画では写実的な院体画を完成。日本にある『桃鳩図』は国宝である。
蔡京宦官童貫らを登用して民衆に重税を課し、
 国家財政を芸術や自らのしゃのために用いた。
  ~庭園造営に用いる大岩(花石綱)や木を遠く南方より運河を使って運ばせた。
   花石綱の労働に苦しむ民衆が立ち上がった方臘の乱を初めとした民衆反乱が続発。
・「海上の盟」から「靖康の変」へ。

海上の盟とは
宋と金が遼を挟撃するために結んだ軍事同盟である。
宋は長年の悲願であった燕雲十六州の回復を目指し、新興勢力である金と連携して遼を滅ぼすことに成功し、その一部の奪還を果たした。
しかし宋はなおも残る州の回復を狙い、今度は遼の敗残軍と密かに結んで金への攻撃を画策する。この動きは金側に露見し、阿骨打の後を継いだ太宗の激怒を招いた。
これを契機に金は宋へと侵攻し、両国関係は決定的に破綻、最終的には「靖康の変」へと至り北宋滅亡の大きな要因となった。

⑨欽宗|国難の中で即位し、滅亡を迎えた最後の皇帝

・金軍の侵攻が迫る中、父・徽宗が退位し、欽宗が即位(事実上の“押し付け”)。
・戦うか講和かの判断を一貫して下すことができず、対応は混乱した。
 最終的に首都開封は陥落し、1127年「靖康の変」で北宋滅亡。
 ⑧徽宗・⑨欽宗は金に連行され、幽閉生活の中で異国の地で亡くなった。
 皇帝としては極めて異例で屈辱的な最期であった。

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南宋(1127–1279)皇帝一覧

廟号諡号名前(諱)生年-没年
(没年齢)
在位ー退位
(年齢)
在位期間
 ❶   高宗   ー 趙構ちょう・こう1107-1187
(80歳)
1127ー1162
(20歳)ー(55歳)
 35年 
孝宗趙昚ちょう・しん1127-1194
(67歳)
1162ー1189
(35歳)ー(62歳)
27年
光宗趙惇ちょう・とん1147-1200
(53歳)
1189ー1194
(42歳)ー(47歳)
5年
寧宗趙擴ちょう・かく1168-1224
(56歳)
1194ー1224
(26歳)ー(56歳)
30年
理宗趙昀ちょう・いん1205-1264
(59歳)
1224ー1264
(19歳)ー(59歳)
40年
度宗趙禥ちょう・き1240-1274
(34歳)
1264ー1274
(24歳)ー(34歳)
10年
恭帝趙㬎ちょう・けん1271-1323
(52歳)
1274ー1276
(3歳)ー(5歳)
2年
端宗趙昰ちょう・ぜ1269-1278
(9歳)
1276ー1278
(7歳)ー(9歳)
2年
祥興帝
(帝昺)
趙昺ちょう・へい1272-1279
(7歳)
1278ー1279
(6歳)ー(7歳)
1年

補足ポイント

※1279年、崖山の戦いで南宋滅亡(❾帝昺が海に身投げ)。

北宋末の「靖康の変」で王朝は分裂。
南宋は臨安(杭州)を都とし、約150年存続。
南宋末は幼帝が続き、元(モンゴル)に滅ぼされる。

建国者

靖康の変での唯一生き残った皇族。金の追撃を受けながら南へ移動して国家再建。
 ただし、この
即位は正統性に課題を抱えており、地位の不安定さを抱えていた。
  ~金側が兄である⑨欽宗の送還を申し出た際にも、帝位が動揺することを恐れて
   これを認めなかったとされる。
・金に対しては徹底した和平路線を取り、和平派の中心人物である秦檜を宰相に任用し、
 同年に金と和約を締結するに至る。この方針は主戦派の岳飛との深刻な対立を生み、
 秦檜の主導によって岳飛が処刑される結果となった。
・統治後半には金と再度和睦条約を締結し、外敵の侵入を防ぐ一方で、
 江南の開発が進められた。
・一人息子の皇太子は3歳で夭折、兄弟など近縁の男子はことごとく金に連行されていたため、
 太祖の系統の族子である❷孝宗(趙眘)を立てた。

❷孝宗|衰退しかけた国を立て直そうとした“復興型の皇帝”

南宋の全盛期を現出し、皇帝の力が強い時代
・❷孝宗は対金強硬路線を取り、戦闘と交渉を通じて和議を成立させた。
  →歳幣負担の軽減という一定の成果を挙げるも、北方の回復には至らず
・内政では様々な国内改革に取り組み、安定と回復をはかる。
  ~余剰な官吏の削減、宗室や武官でも有能な人物を抜擢
    ~当時乱発されていた会子(紙幣)の発行抑制
      ~農村の生産力回復
      ~江南経済の活性化  など
・❶高宗時代に処刑された対金強硬派の代表人物岳飛の名誉回復。
・子の❸趙惇に譲位して太上皇となるが、なおも実権は掌握。

❸光宗|「皇后に支配された」不安定な皇帝

・皇后・李鳳娘は、「極端な嫉妬」「暴力的な行動」「宮廷支配」で知られ、
 実質的に❸光宗は彼女にコントロールされていた。
・李鳳娘の讒言により、父・孝宗との関係が悪化し、政治にも悪影響を及ぼした。
・父・孝宗の葬儀に出席しなかった。儒教社会でこれは致命的である。
・大臣らは太皇太后呉氏と協力して❸光宗を退位させ、➍寧宗が擁立された。
・隠居したのち53歳で崩御したが、2カ月先に死亡した李皇后とは合葬されなかった。

➍寧宗|長期安定の裏で“政治が停滞した”皇帝

・韓侂冑の専横(皇帝の外戚的立場で強い権力を握った)。
・韓侂冑は対金強硬路線(開禧の北伐)を実行するが失敗し、最終的に失脚・殺害された。
・この時代、朱子学(理学)が広まった。
  ~人間の道徳性や天と人を貫くことわり(理)を追求することこそ学問であるとされた。
・9人の息子がいたが、いずれも夭逝。
 ➍寧宗の崩御に際して遺詔を偽造した宰相・史弥遠の工作により❺理宗が擁立された。

❺理宗|「宰相に担がれて即位」した長期安定期の皇帝

・治世の初期は、宰相・史弥遠の専権が行われていたが、史弥遠死去後に親政開始。
・❺理宗自身が朱子学に傾倒していたことから真徳秀ら学者を登用して政治改革を図ったが、
 モンゴルの侵攻という国家危機に対応できず失敗に終わった。
・改革失敗の反動によって、政治に対する関心を失い遊蕩に耽るようになる。
 政治腐敗や派閥対立が発生。
・治世後期は寵妃の弟である宰相・賈似道の専横が行なわれ、❺理宗は実権を喪失した。
・宮殿造営などの浪費も重なり、財政は悪化し、国家の統治基盤は大きく揺らいだ。
・嗣子が無かったため、養子として迎えていた❻度宗(弟の栄王の子)が即位した。

❻度宗|無気力と放縦で末期を加速させた皇帝

・幼少期には節度ある言動と聡明さを評価され、
 ❺理宗のもとで朱子学に基づく厳格な教育を受けた。
・実権は❺理宗の治世からの外戚である宰相・賈似道が掌握。
・政治に無関心で、宰相・賈似道に実権を委ねたまま、自らは後宮における享楽生活に傾いた。
・北方ではモンゴル帝国の全方位的な攻勢に直面し、国勢が危急な状況に追い込まれた。
 ついに南宋の重要な防衛拠点であった襄陽が元軍に陥落された。
・34歳で崩御。死因は酒色による脳溢血とされる。

❼恭宗|3歳で即位、元に降伏し南宋滅亡を決定づけた皇帝

・生母の全皇太后・祖母の謝太皇太后・当時の宰相・賈似道が摂政となり、
 これら三人によって政務を補佐された。
1276年、モンゴル軍の攻撃により首都・臨安が陥落
 籠城の末に開城したことにより、母と共にモンゴルに投降。帝位を失った。
・降伏後、元へ連行され大都や上都に住んでいたが、
 その後モンゴル帝国の皇帝に即位したクビライは、宋皇室の血筋を残すべきと考え、
 彼をチベットへ追放した。彼はそこで出家し、チベット仏教の仏典を学んだとされている。
 法名は合尊(または合尊法宝)。
・後に元の英宗シデバラの命によって自害させられたとされる。
 その理由については、定説はない。
 ❼恭宗の言動が皇帝の怒りを買ったためとする説のほか、
 旧王朝の皇帝として反乱の象徴となることを恐れられたために処分されたとする見方もある。

❽端宗|逃亡の中で即位した「流亡皇帝」

・宋の一部勢力は降伏を認めず、南方で❽端宗を擁立した。
・元軍は南宋残党を追撃。
・各地を転々とする逃亡中、乗船した船が転覆する事故が発生し、
 ❽端宗は海中より救助されたものの、これが原因で病となり、病死した。

❾祥興帝|海に消えた“宋最後の皇帝”

※「衛王(即位前の称号)」「祥興帝(年号からの呼称)」「趙昺(本名)」

・❾端宗の死後に擁立された幼帝。
・元軍の追撃により宋は海上へと追い詰められ、1279年の崖山の戦いで壊滅した。
 敗北の中、宰相・陸秀夫が幼帝を抱いて海に身を投じ、これにより南宋は完全に滅亡した。

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王朝らしさ:

「軍より文を重んじた文化国家」

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  • 科挙全盛
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  • 経済大発展
  • 軍事的弱体

北宋

  • 文化最高潮
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  • 靖康の変で崩壊

南宋

物語性

崩壊パターン

「文治偏重 → モンゴルに敗北」

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関連リンク

中国王朝の皇帝家系図まとめ(完全版)

前漢
後漢
隋・唐


(その他)
南朝宋
北斉

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