春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するために、
帝室の姓を冠し趙宋(ちょうそう)とも呼ばれる。
金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。
北宋の都は開封、南宋の都は臨安。
北宋・南宋:略家系図

血統はもとに戻った
・宋王朝の皇位継承には、北宋の建国者である①太祖(趙匡胤)の系統から
弟の②太宗(趙光義)の系統へ移り、南宋では再び①太祖(趙匡胤)の子孫へ戻った
という特徴がある。
・976年、①太祖(趙匡胤)が急死すると、息子ではなく弟の趙光義が即位した。
この継承には「燭影斧声」と呼ばれる疑惑が伝わり、
①太祖(趙匡胤)の死因と②太宗(趙光義)即位の経緯は、
宋初の皇位継承をめぐる議論となった。
「千載不決の議」とも呼ばれる問題であり、現在も確実な結論は出ていない。
・②太宗(趙光義)以降、北宋の皇位は太宗の子孫によって継承された。
南宋の初代皇帝❶高宗(趙構)も太宗の系統で、⑧徽宗(趙佶)の皇子にあたる。
しかし、❶高宗(趙構)の唯一の実子である趙旉は幼くして死去し、
金軍による北宋皇族の連行もあって、後継者の選定が大きな問題となった。
・そこで❶高宗(趙構)が養子として迎えたのが、
①太祖(趙匡胤)の子・趙徳芳の子孫にあたる趙伯琮、後の❷孝宗(趙昚)である。
❷孝宗(趙昚)は1162年に❶高宗(趙構)から帝位を譲られ、
①太祖(趙匡胤)の子孫として約186年ぶりに皇位に就いた。
・②太宗(趙光義)の即位をめぐる疑惑が存在したことは確かだが、
①太祖(趙匡胤)系への皇統の移行については、建国者の子孫を後継者とすることへの期待や、
当時の宗室の状況などが関係していた。
北宋(960–1127):皇帝一覧
| 代 | 廟号 | 諡号 | 名前(諱) | 生年-没年 (没年齢) | 在位ー退位 (年齢) | 在位期間 |
| ① | 太祖 | ー | 趙匡胤 | 927-976 (49歳) | 960ー976 (33歳)ー(49歳) | 16年 |
| ② | 太宗 | ー | 趙匡義/趙光義 | 939-997 (58歳) | 976ー997 (37歳)ー(58歳) | 21年 |
| ③ | 真宗 | ー | 趙恒 | 968-1022 (54歳) | 997ー1022 (29歳)ー(54歳) | 25年 |
| ④ | 仁宗 | ー | 趙禎 | 1010-1063 (53歳) | 1022ー1063 (12歳)ー(53歳) | 41年 |
| ⑤ | 英宗 | ー | 趙曙 | 1032-1067 (35歳) | 1063ー1067 (31歳)ー(35歳) | 4年 |
| ⑥ | 神宗 | ー | 趙頊 | 1048-1085 (37歳) | 1067ー1085 (19歳)ー(37歳) | 18年 |
| ⑦ | 哲宗 | ー | 趙煦 | 1077-1100 (23歳) | 1085ー1100 (8歳)ー(23歳) | 15年 |
| ⑧ | 徽宗 | ー | 趙佶 | 1082-1135 (53歳) | 1100ー1126 (18歳)ー(44歳) | 26年 |
| ⑨ | 欽宗 | ー | 趙桓 | 1100-1156 (56歳) | 1126ー1127 (26歳)ー(27歳) | 約1年 |
①太祖|陳橋の変で建国し、南方統一と中央集権化を進めた皇帝
※ 朱全忠が唐の禅譲により「後梁」を建国。が、他にも王朝(国)が乱立している状態。
<五代(王朝)> 後梁、後唐、後晋、後漢、後周
<十国(諸地方政権)> 前蜀、後蜀、呉、南唐、荊南、
呉越、閩、楚、南漢、北漢
・太祖(趙匡胤)は後周の禁軍を率いた武将で、
960年、幼い恭帝の即位後に起きた「陳橋の変」で皇帝に擁立された。
将兵が黄色い袍を着せて即位を求めたことから「黄袍加身」と呼ばれ、
趙匡胤は開封へ戻って恭帝から禅譲を受け、宋を建国した。
■主な事績
・960年:宋の建国 — 陳橋の変で後周から帝位を奪い、李筠・李重進らの反乱を鎮圧。
・961年頃:杯酒釈兵権 — 石守信ら有力武将に兵権を返上させ、軍事権力を皇帝のもとへ集中。
酒宴で兵権を手放させたという逸話が伝わる。
・963~975年:南方統一 — 荊南・湖南(963年)、後蜀(965年)、南漢(971年)、
南唐(975年)を相次いで平定。南唐最後の君主・李煜も降伏した。
・中央集権化 — 節度使の軍事・財政権を削減し、地方に文官を配置。
禁軍を強化して五代以来の武将による政権交替を防ごうとした。
・科挙制度の整備 — 文官登用を重視し、973年には皇帝自らが試験を行う殿試を実施した。
陳橋の変とは
960年に後周領内の陳橋で起こったクーデターである。
これにより後周が滅び宋が建国された。
後周の将軍・趙匡胤が出陣中に兵士たちから皇帝として擁立され、
黄袍を着せられて即位した事件である。
この「黄袍加身」は、皇帝の象徴を強制的に与えることで
政権交代を既成事実化した象徴的な出来事として知られる。
②太宗|北漢を滅ぼし、遼との戦争に敗れた皇帝
・太宗(趙光義)は太祖の弟で、976年に兄の死を受けて即位した。
もとの名は趙匡義で、兄の即位後に趙光義と改め、後に趙炅と改名している。
太祖の死をめぐる疑惑に加え、太祖の子である趙徳昭・趙徳芳、弟の趙廷美をめぐる問題もあり、
その皇位継承は宋初の大きな争点となった。
・太宗は兄の統一事業を引き継ぎ、978年には呉越の銭俶が領土を献じて帰順し、
979年には北漢を滅ぼした。これによって五代十国以来の主要な地方政権の分立はほぼ終結したが、
遼が支配する燕雲十六州は宋の領土に含まれていなかった。
・太宗は北漢滅亡の勢いに乗って燕京へ進軍したものの、979年の高梁河の戦いで遼軍に大敗した。
986年にも雍熙北伐を実施したが、再び敗北し、将軍の楊業が捕らえられて死亡した。
北方の要地を回復できなかったことは、その後の宋と遼の関係に長く影響した。
・内政では、太祖以来の文官統治をさらに拡充し、地方行政を監督する通判制度の整備、
科挙による官僚登用の拡大を進めた。
また、『太平御覧』『太平広記』『文苑英華』などの大規模な編纂事業を行い、
学術・文化事業を保護した。
・太宗は997年に死去し、皇太子の趙恒が真宗として即位した。
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③真宗|澶淵の盟で遼と和平を結び、天書と封禅を行った皇帝
・真宗(趙恒)は997年に即位した。治世初期には北方の遼との軍事的緊張が続き、
1004年には遼の聖宗と承天太后が大軍を率いて南下した。
真宗は宰相・寇準の進言を受けて澶州へ親征し、宋軍の士気を高めた。
・1005年、宋と遼は澶淵の盟を結び、国境の維持と和平を取り決めた。
宋は遼へ毎年銀10万両と絹20万匹を贈ることになったが、両国は対等な外交関係を確認し、
その後およそ一世紀にわたって大規模な戦争を避けた。歳幣の支払いは宋の財政負担となった一方、
戦争の継続に必要な巨額の軍事費を抑える効果もあった。
・真宗は道教や祥瑞思想にも傾倒し、
1008年には天から神聖な文書が降ったとする「天書降臨」を宣言した。
同年には泰山で封禅の儀を行い、1011年には汾陰で祭祀を実施した。
これらの事業には王欽若らが関与し、皇帝の権威を高める一方で、
儀式や造営に多額の費用が投じられた。
・農業政策では、福建方面で栽培されていた占城稲の種籾を江淮・両浙などへ配布し、
稲作の普及を奨励した。
占城稲は早生で比較的乾燥に強く、その後の江南農業の発展に関係したが、
宋代の農業生産力の向上は灌漑や耕作技術の発達など複数の要因によるものだった。
・晩年には病気によって政務を十分に執れなくなり、
皇后の章献明粛皇后(劉娥)が政治に関与するようになった。
1022年に真宗が死去すると、幼い仁宗が即位し、劉太后による垂簾聴政が始まった。
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④仁宗|慶暦の改革と文治の繁栄を経験した皇帝
・仁宗(趙禎)は1022年、12歳で即位した。実母は李宸妃だったが、
真宗の皇后である章献明粛皇后(劉娥)を母として育てられた。
劉太后は1033年に死去するまで垂簾聴政を行い、仁宗はその後に親政を開始した。
仁宗は実母の事情を知ると、李宸妃の葬礼と待遇を改め、皇太后として追尊した。
・仁宗の治世には経済・文化が発展し、范仲淹、欧陽脩、司馬光、包拯、狄青らが活躍した。
学問や文学が盛んになり、宋代の文治政治が成熟した時期として知られる。
ただし、政治が常に安定していたわけではなく、軍事費の増大、官僚機構の肥大化、
財政負担などの問題も深刻になっていた。
・1038年、西夏の李元昊が皇帝を称すると宋と西夏の戦争が激化し、
宋軍は三川口・好水川・定川寨などで敗北した。
1044年には慶暦の和議が成立し、宋が西夏に歳賜を与えることで和平を図った。
・内政では1043年、范仲淹・富弼らが官僚登用や地方行政、財政などの改革を進めた。
これが「慶暦の改革」である。しかし、既得権益を持つ官僚層の反発を受け、
1045年には改革派が失脚し、改革は短期間で挫折した。
・仁宗の二人目の皇后は、賢后として知られる曹皇后である。
曹皇后は仁宗の死後も皇太后として宮廷に影響力を持ち、
神宗時代の1079年に起きた烏台詩案では蘇軾の処罰を軽くするよう働きかけたと伝えられる。
仁宗の娘には福康公主などがいた。
・仁宗には複数の子供が生まれたが、男子はいずれも幼くして死亡した。
そのため宗室から趙宗実を後継者に迎え、1063年に仁宗が死去すると、
趙宗実が英宗として即位した。
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⑤英宗|濮議で朝廷が対立した短命の皇帝
・英宗(趙曙)は仁宗の従兄である濮王・趙允譲の子として生まれ、もとの名を趙宗実といった。
仁宗に成人した男子がいなかったため、宗室から後継者として選ばれ、1063年に即位した。
・即位直後、英宗は病気によって政務を執ることが難しくなり、
仁宗の皇后だった曹太后が一時的に垂簾聴政を行った。
病状が回復すると英宗は親政を開始しており、在位中ずっと実権を持たなかったわけではない。
・英宗の治世で最大の政治問題となったのが、実父・趙允譲の尊称をめぐる「濮議」である。
仁宗の後継者となった英宗が実父をどのような称号で遇するべきかについて、
韓琦・欧陽脩らと司馬光らが対立した。
議論は宗法上の父子関係と皇位継承の正統性に関わり、朝廷を二分する争いとなった。
最終的には実父を「皇考」と称することが認められたが、皇帝の位を追贈することはなかった。
・英宗は司馬光による歴史編纂事業も支援した。
後に神宗から『資治通鑑』の書名を与えられる大規模な編年史の編纂は、
英宗の時代に始まっている。
・1067年、英宗は35歳で死去し、長男の趙頊が神宗として即位した。
⑥神宗|王安石の新法を推進し、富国強兵を目指した皇帝
・神宗(趙頊)は1067年に即位し、宋が抱えていた財政難と軍事力の問題を解決するため、
大規模な改革を進めた。1069年に王安石を登用し、「富国強兵」を目標とする新法を実施した。
・新法には、農民へ資金を貸し付ける青苗法、徭役を金銭納付へ切り替える募役法、
商業流通を調整する市易法・均輸法、土地調査と税負担の適正化を目指す方田均税法、
地域住民を軍事組織に編成する保甲法、民間で軍馬を飼育させる保馬法などがあった。
国家財政の改善と軍事力の強化を目指したが、
地方官による強引な運用や住民への負担増加も問題となった。
・改革に対しては司馬光・蘇軾・欧陽脩らが批判を行い、朝廷は新法派と旧法派に分かれて対立した。
王安石は1074年に宰相を辞任し、翌年に復帰したが、1076年には再び辞任した。
神宗は王安石の退任後も新法を全面的に放棄せず、改革を継続した。
・軍事面では西夏に対して積極的な攻勢を取り、北西方面で領土の拡大を図った。
しかし、1082年の永楽城の戦いでは宋軍が西夏に大敗し、多くの将兵を失った。
富国強兵を目指した改革は一定の財政的成果を挙げた一方、軍事的成功には結びつかなかった。
・1085年、神宗は37歳で死去し、幼い哲宗が即位した。
新法をめぐる政治対立は、その後の宋朝にも引き継がれた。
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⑦哲宗|元祐更化と紹聖紹述で政策が逆転した皇帝
・哲宗(趙煦)は1085年、8歳で即位した。
幼少だったため祖母の宣仁太后高氏が垂簾聴政を行い、司馬光ら旧法派が政権を掌握した。
神宗時代の新法の多くが廃止・変更され、旧法派による政策転換は「元祐更化」と呼ばれる。
・司馬光は新法の廃止を急いだが、すべての政策が無条件に廃止されたわけではなく、
財政や軍事上の必要から一部の制度は残された。
旧法派の内部でも改革の扱いをめぐって意見が分かれ、朝廷の政治対立は続いた。
・1093年に宣仁太后が死去すると、哲宗は親政を開始した。
哲宗は父・神宗の政策を継承する方針を示し、章惇ら新法派を登用して旧法派を排除した。
この政策転換は「紹聖紹述」と呼ばれ、司馬光らの政治が批判され、
元祐年間に活動した官僚への処罰も進められた。
・哲宗の治世には、新法と旧法の争いが政策論争だけでなく、
官僚の登用や追放を伴う党争へと発展した。
哲宗は皇子の趙茂を幼くして失い、成人した男子の後継者を残さず1100年に死去したため、
弟の趙佶が徽宗として即位した。
⑧徽宗|書画に優れながら金の侵攻を招いた皇帝
・徽宗(趙佶)は1100年、兄の哲宗が後継者を残さず死去したため即位した。
書画に優れた皇帝として知られ、細く鋭い線を特徴とする痩金体を創始したほか、
宮廷画院を保護して院体画の発展に寄与した。
徽宗の作と伝わる『桃鳩図』は日本の国宝に指定されている。
・一方、政治では蔡京を重用し、旧法派の官僚を弾圧した。
元祐党籍碑には旧法派の人物名が刻まれ、政治的な排除が制度化された。
また、宦官の童貫に軍事指揮を任せ、梁師成らも宮廷で強い影響力を持った。
・徽宗は道教に傾倒し、「教主道君皇帝」の尊号を用いた。
宮殿や庭園の造営にも巨費を投じ、
珍しい岩石や樹木を各地から運ばせる花石綱が民衆の負担となった。
1120年には方臘の乱が起こり、童貫らによって鎮圧されたが、
重税や地方官の収奪など、反乱の背景には複数の要因があった。
・外交では、1115年に建国された金と結び、遼を挟撃する「海上の盟」を成立させた。
宋は燕雲十六州の回復を目指したが、宋軍は遼軍との戦闘で苦戦し、
金軍の進撃によって遼の支配が崩れた。
1125年に遼が滅亡すると、宋と金は燕雲地域の帰属や盟約の履行、
金への支払いなどをめぐって対立を深めた。
宋が遼の旧勢力と接触したことも両国関係を悪化させ、金は宋への侵攻を開始した。
・金軍が南下すると徽宗は皇太子の趙桓に譲位し、太上皇となった。
しかし、1127年の靖康の変で欽宗とともに捕らえられ、北方へ連行された。
徽宗は金の支配下で幽閉生活を送り、1135年に五国城で死去した。
海上の盟とは
宋と金が遼を挟撃するために結んだ軍事同盟である。
宋は長年の悲願であった燕雲十六州の回復を目指し、新興勢力である金と連携して遼を滅ぼすことに成功し、その一部の奪還を果たした。
しかし宋はなおも残る州の回復を狙い、今度は遼の敗残軍と密かに結んで金への攻撃を画策する。この動きは金側に露見し、阿骨打の後を継いだ太宗の激怒を招いた。
これを契機に金は宋へと侵攻し、両国関係は決定的に破綻、最終的には「靖康の変」へと至り北宋滅亡の大きな要因となった。
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⑨欽宗|靖康の変で北宋最後の皇帝となった人物
・欽宗(趙桓)は1125年末、金軍の侵攻が迫るなかで父・徽宗から帝位を譲られ、
翌1126年に改元した。父の退位は国難への対応を新皇帝に委ねるものであり、
欽宗は即位直後から金軍による開封包囲に直面した。
・欽宗は李綱ら主戦派を登用して開封の防衛を進める一方、金との講和交渉も行った。
1126年の第一次開封包囲では金軍がいったん撤退したものの、
宋朝内部では主戦派と講和派の対立が続き、金への割譲地や賠償金をめぐる問題も解決しなかった。
・金軍は同年中に再び南下し、開封を包囲した。宋軍は防衛を維持できず、開封は金軍に占領された。
1127年、皇帝⑨欽宗と太上皇⑧徽宗をはじめ、多数の皇族・后妃・官僚らが金へ連行された。
これが「靖康の変」であり、北宋は滅亡した。
・欽宗は金の支配下で長く幽閉され、1156年に死去した。
父の徽宗もすでに1135年に五国城で死去していた。
皇帝と太上皇がともに敵国へ連行されたことは、宋王朝にとって前例のない事態だった。
・一方、徽宗の皇子で欽宗の弟にあたる趙構は金軍による拘束を免れ、1127年に高宗として即位した。
これによって宋の皇統は南方で存続し、南宋の時代が始まった。
靖康の変とは、1126年から1127年にかけて金軍が北宋の首都・開封を攻略し、
北宋が滅亡した事件である。
遼の滅亡後、宋と金は燕雲地域の帰属や盟約の履行などをめぐって対立を深めた。
1125年に金軍が宋へ侵攻すると、徽宗は皇太子の趙桓に譲位し、趙桓が欽宗として即位した。
金軍はいったん撤退したものの再び南下し、1126年に開封を包囲。
翌1127年、開封は金軍の支配下に置かれ、太上皇の徽宗と皇帝の欽宗をはじめ、
多数の皇族・后妃・官僚らが北方へ連行された。
これによって北宋は滅亡したが、徽宗の子・趙構は金軍による拘束を免れており、
同年に高宗として即位した。以後の宋を南宋と呼ぶ。
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南宋(1127–1279):皇帝一覧
| 代 | 廟号 | 諡号 | 名前(諱) | 生年-没年 (没年齢) | 在位ー退位 (年齢) | 在位期間 |
| ❶ | 高宗 | ー | 趙構 | 1107-1187 (80歳) | 1127ー1162 (20歳)ー(55歳) | 35年 |
| ❷ | 孝宗 | ー | 趙昚 | 1127-1194 (67歳) | 1162ー1189 (35歳)ー(62歳) | 27年 |
| ❸ | 光宗 | ー | 趙惇 | 1147-1200 (53歳) | 1189ー1194 (42歳)ー(47歳) | 5年 |
| ➍ | 寧宗 | ー | 趙擴 | 1168-1224 (56歳) | 1194ー1224 (26歳)ー(56歳) | 30年 |
| ❺ | 理宗 | ー | 趙昀 | 1205-1264 (59歳) | 1224ー1264 (19歳)ー(59歳) | 40年 |
| ❻ | 度宗 | ー | 趙禥 | 1240-1274 (34歳) | 1264ー1274 (24歳)ー(34歳) | 10年 |
| ❼ | 恭帝 | ー | 趙㬎 | 1271-1323 (52歳) | 1274ー1276 (3歳)ー(5歳) | 2年 |
| ❽ | 端宗 | ー | 趙昰 | 1269-1278 (9歳) | 1276ー1278 (7歳)ー(9歳) | 2年 |
| ❾ | 祥興帝 (帝昺) | ー | 趙昺 | 1272-1279 (7歳) | 1278ー1279 (6歳)ー(7歳) | 1年 |
補足ポイント
・1127年の靖康の変によって北宋は滅亡したが、
徽宗の皇子・趙構が高宗として即位し、宋王朝は南方で再建された。
南宋は臨安(現在の杭州)を事実上の首都とし、江南の経済力を基盤に約150年間存続した。
・南宋末期にはモンゴル帝国、続いて元の侵攻が激化し、1276年に臨安が降伏した。
しかし、端宗と帝昺を擁立した勢力は抗戦を続け、
1279年の崖山の戦いで陸秀夫が幼帝を背負って入水したことにより、宋王朝は完全に滅亡した。
❶高宗|金の侵攻を逃れて南宋を再建した皇帝
・高宗(趙構)は⑧徽宗の皇子で、⑨欽宗の弟にあたる。
1127年の靖康の変で父と兄が金に連行されるなか、
拘束を免れて南京応天府で即位し、南宋を建国した。
・ただし、父の徽宗と兄の欽宗が存命のまま金に捕らわれていたため、
高宗の皇位には正統性をめぐる問題が残った。
とくに兄の欽宗が帰還した場合、皇帝としての地位が揺らぐ可能性があった。
金側が欽宗の送還を外交上の材料としたことも伝えられ、
高宗が兄の帰還に積極的ではなかった背景には、こうした皇位継承上の事情があったとされる。
・高宗は金軍の追撃を受けて揚州・杭州方面へ逃れ、海上に避難することもあった。
1129年には苗劉の変で一時退位させられたが、韓世忠らの働きによって復位した。
その後、岳飛・韓世忠・張俊らが金軍に抵抗する一方、高宗は秦檜を重用して和平を進めた。
・1141年には岳飛が投獄され、翌1142年初頭に処刑された。
同年に成立した紹興の和議では、南宋は金への臣属と歳貢の支払いを受け入れた。
・1161年には金の海陵王が南侵したが、虞允文らが采石磯の戦いで金軍を撃退した。
翌1162年、高宗は実子の趙旉が早世していたため、
太祖の子孫から養子に迎えた趙昚(孝宗)へ譲位した。1187年に死去した。
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❷孝宗|隆興北伐と内政改革を進めた南宋の名君
・孝宗(趙昚)は北宋①太祖の子・趙徳芳の子孫で、高宗の養子となって1162年に即位した。
太宗の系統が長く皇位を継承してきた宋王朝において、太祖の子孫が再び皇帝となった人物である。
・孝宗は高宗時代の対金和平政策を見直し、失われた北方領土の回復を目指した。
岳飛の名誉を回復し、主戦派の官僚や武将を登用したうえで、1163年に隆興北伐を実施した。
しかし、宋軍は符離の戦いで敗北し、北方の回復には失敗した。
・その後は金との交渉に転じ、1165年に隆興和議を成立させた。
これによって宋と金の関係は君臣から叔父・甥の関係に改められ、
南宋が金へ支払う歳幣も銀20万両・絹20万匹へ減額された。
領土回復は実現しなかったが、高宗時代の和議よりも外交上の地位と財政負担が改善された。
・内政では官僚機構の整理、余剰な官吏の削減、宗室や武官からの人材登用などを進めた。
また、会子と呼ばれる紙幣の発行を抑制し、財政の安定を図った。
農業生産の回復や江南経済の発展も進み、
孝宗の治世は南宋の政治が比較的安定した時期として評価されている。
宰相には虞允文らを登用し、対金政策と内政改革の両立を図った。
・1189年、孝宗は皇太子の趙惇に譲位して太上皇となった。
高宗とは異なり、退位後の孝宗が一貫して政治の実権を掌握していたわけではない。
晩年には息子の光宗との関係が悪化し、1194年に死去した。
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❸光宗|父・孝宗との対立と宮廷政変で退位した皇帝
・光宗(趙惇)は1189年、父の孝宗から譲位を受けて即位した。
即位後は病状が悪化し、精神的な不安定さも伝えられている。
政務や宮廷内の人間関係に支障が生じ、父である孝宗との対立が深まった。
・皇后の李鳳娘は、激しい嫉妬や宮廷内での強引な行動によって知られる女性である。
『宋史』には、光宗の寵愛を受けた女性に対する残酷な処遇や、
皇帝と孝宗の関係を悪化させたという逸話が記されている。
ただし、光宗の病状や父子関係の悪化を、すべて李鳳娘の讒言によるものとすることはできない。
・光宗は孝宗のもとへ参内することを避けるようになり、
1194年に孝宗が死去した際にも、喪礼を十分に執り行うことができなかった。
皇帝が父である太上皇の葬儀を主宰しない事態は、
儒教的な礼制を重視する宋朝にとって重大な政治問題となった。
・このため趙汝愚・韓侂冑らの重臣は、太皇太后の呉氏の支持を得て皇位継承を進めた。
光宗は1194年に退位させられ、皇子の趙擴が寧宗として即位した。
退位後の光宗は太上皇として暮らし、1200年に53歳で死去した。
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➍寧宗|慶元の党禁と開禧北伐を経験した皇帝
・寧宗(趙擴)は1194年、父の光宗が退位させられたことにより即位した。
即位に関与した趙汝愚と韓侂冑は当初協力関係にあったが、
やがて対立し、韓侂冑が政治の実権を掌握した。
・韓侂冑は趙汝愚を失脚させ、朱熹らの学問を「偽学」として批判した。
1196年以降の慶元の党禁では、朱子学に関係する学者や官僚が政治的弾圧を受けた。
朱子学は人間の道徳性や万物を貫く理を重視する学問であり、
後世の宋代思想に大きな影響を与えたが、寧宗の治世では一時的に政治的な攻撃の対象となった。
・韓侂冑はその後、対金強硬路線を進め、1206年に開禧北伐を実施した。
しかし、宋軍は十分な戦果を挙げられず、金軍の反撃を受けた。
1207年、韓侂冑は史弥遠らの工作によって殺害され、翌1208年には嘉定和議が成立した。
南宋は金に対する歳幣の増額などを受け入れ、戦争を終結させた。
・韓侂冑の失脚後は史弥遠が長期にわたって政治の実権を掌握した。
寧宗には九人の男子が生まれたと伝えられるが、
いずれも幼くして死亡し、 皇位継承が問題となった。
寧宗は宗室から趙竑を後継者として迎えていたものの、1224年に寧宗が死去すると、
史弥遠は楊皇后と協力して趙竑を排除し、趙昀を理宗として擁立した。
❺理宗|金の滅亡とモンゴル戦争に直面した皇帝
・理宗(趙昀)は1224年、宰相・史弥遠の工作によって皇帝に擁立された。
寧宗の後継者とされていた趙竑に代わって即位したため、
治世初期には史弥遠が政治の実権を握り、理宗自身の政治的な影響力は限られていた。
・1233年に史弥遠が死去すると、理宗は親政を開始した。
朱子学を重視し、真徳秀・魏了翁らの学者を登用して政治改革を進めた。
朱子学は南宋の政治思想や官僚教育に強い影響を与え、
理宗の治世には国家の正統的な学問として重視されるようになった。
・対外関係では、モンゴル帝国の勢力拡大によって東アジアの情勢が大きく変化した。
南宋はモンゴルと協力して金を攻撃し、1234年に金を滅ぼした。
しかし、その後、南宋が旧金領の河南方面へ進出したことなどをきっかけに、
モンゴルとの戦争が始まった。
・モンゴル軍は四川・襄陽・長江流域など各方面から南宋を攻撃し、戦争は長期化した。
理宗は軍事費の増大と財政難に直面しながらも、十分な対応を取ることができなかった。
治世後半には宮廷での遊興や造営が批判され、官僚の派閥対立や政治腐敗も深刻になった。
・1259年にはモンゴル軍が鄂州を攻撃し、宰相の賈似道が講和交渉に関与した。
賈似道は理宗の寵妃・賈貴妃の弟であり、宮廷との関係を背景に昇進していた。
モンゴルのモンケが同年に死去すると、後継者争いが起こり、
南宋への大規模な攻勢はいったん緩和された。
・理宗には成人した男子の後継者がなく、
弟の栄王・趙与芮の子である趙禥を養子として皇太子に立てた。
1264年に理宗が死去すると、趙禥が度宗として即位した。
❻度宗|賈似道の専権と襄陽陥落を招いた皇帝
・度宗(趙禥)は理宗の弟・趙与芮の子として生まれ、理宗の養子となって皇太子に立てられた。
皇太子時代には朱子学に基づく教育を受けたが、
政治的な能力については否定的な評価も伝わっている。
1264年に理宗が死去すると、度宗が即位した。
・度宗の治世では宰相・賈似道が政治の実権を掌握した。
賈似道は理宗の寵妃・賈貴妃の弟であり、理宗時代から重用されていた。
度宗は政務を賈似道に委ね、後宮での遊興に傾いたと『宋史』に記されている。
・賈似道は財政再建のため公田法を推進し、
一定規模以上の土地を持つ地主から土地を買い上げて公田とする政策を進めた。
しかし、土地の買い上げ価格や地方官の運用をめぐって反発が生じ、
財政難の解決には至らなかった。
・軍事面では、モンゴル帝国を継承した元の攻勢が激化した。
1267年から元軍は襄陽・樊城を包囲し、南宋の長江防衛線を脅かした。
襄陽は漢水流域の要衝であり、ここを失えば元軍が長江流域へ進出しやすくなるため、
南宋にとって重要な防衛拠点だった。
・元軍は長期間にわたって包囲を続け、1273年には樊城が陥落した。
続いて襄陽を守っていた呂文煥が降伏し、南宋は北方防衛の重要拠点を失った。
この敗北によって元軍の長江流域への進軍が容易になり、南宋滅亡への流れが加速した。
・1274年、度宗は34歳で死去した。
史書では酒色への耽溺が批判されているが、現代医学的な死因を脳溢血と断定することはできない。
皇位は幼い皇子の趙㬎に継承された。
❼恭宗|臨安の降伏によって帝位を失った幼帝
・恭帝(趙㬎)は1274年、父の度宗が死去したため、3歳で即位した。
幼少だったため祖母の謝太皇太后が垂簾聴政を行い、生母の全皇太后も宮廷にあった。
政務は宰相の賈似道らが担当したが、元軍の侵攻によって南宋の支配地域は急速に縮小していた。
・1275年、賈似道は元軍を迎撃するため出陣したものの、丁家洲の戦いで敗北した。
この敗戦によって南宋の防衛線は崩壊し、賈似道は失脚した。
賈似道は流刑に処される途中で殺害され、朝廷では降伏か抗戦かをめぐって混乱が続いた。
・元軍が臨安へ迫ると、南宋朝廷は抗戦を断念した。
1276年、謝太皇太后らは元への降伏を決定し、恭帝は帝位を失った。
臨安は大規模な市街戦を経ずに元軍へ明け渡され、南宋の中央政府は崩壊した。
・降伏後、恭帝は母らとともに元へ連行され、瀛国公に封じられた。
大都や上都で暮らした後、チベット仏教の僧侶となり、仏典の研究や翻訳に従事したと伝えられる。
法名は合尊、または合尊法宝とされる。
・1323年には元の英宗シデバラの命令によって殺害されたとする記録があるが、
その理由については諸説あり、確定していない。
旧王朝の皇帝として政治的に警戒された可能性も指摘されるものの、
具体的な事情は明らかではない。
・なお、恭帝の降伏によって南宋の中央政府は消滅したが、
宋王朝そのものが直ちに滅亡したわけではない。
南方へ逃れた皇族と重臣たちは、端宗を擁立して抗戦を続けた。
❽端宗|元軍の追撃を逃れながら抗戦を続けた皇帝
・端宗(趙昰)は度宗の皇子で、恭帝の異母兄にあたる。
1276年、臨安が元軍に降伏すると、降伏を認めない南宋の重臣たちは趙昰を擁立し、
福州で皇帝として即位させた。
・端宗を支えたのは陳宜中・張世傑・陸秀夫らであり、
彼らは福建から広東沿岸へ移動しながら元軍への抵抗を続けた。
しかし、元軍の追撃は激しく、安定した拠点を確保することができなかった。
端宗の政権は船を利用して各地を移動し、海上での避難生活を余儀なくされた。
・逃亡中には船が転覆する事故が起こり、端宗は海中から救出されたと伝えられる。
その後、病状が悪化し、1278年に9歳で死去した。
転覆事故と病死との関係については、事故後の衰弱が影響したとする記述があるものの、
直接の死因を断定することはできない。
・端宗の死後、重臣たちは弟の趙昺を擁立し、宋王朝の抗戦を継続した。
❾祥興帝|崖山の戦いで南宋最後の皇帝となった幼帝
・祥興帝(趙昺)は南宋最後の皇帝で、度宗の皇子、端宗の弟にあたる。
即位前には衛王に封じられており、1278年に端宗が死去すると、6歳で皇帝に擁立された。
「祥興帝」は即位後の年号に由来する呼称で、廟号ではない。
・幼い祥興帝のもとで、張世傑・陸秀夫らが抗戦を続けた。
しかし、南宋の支配地域はほとんど失われ、朝廷は広東沿岸の海上へ追い詰められていた。
元軍は張弘範らを派遣して南宋の残存勢力を攻撃し、1279年に崖山で決戦となった。
・崖山の戦いでは、南宋軍は多数の船を連結して防衛陣地を築いたが、元軍の攻撃によって敗北した。
敗戦が決定的になると、宰相の陸秀夫は幼帝・趙昺を背負って海へ身を投じた。
趙昺は7歳で死亡し、宋王朝は完全に滅亡した。
・張世傑は残存艦隊を率いて脱出したものの、その後、海上で暴風に遭って死亡した。
文天祥はすでに元軍に捕らえられており、後に元への仕官を拒んで処刑された。
陸秀夫・張世傑・文天祥は、南宋末の抵抗を象徴する人物として「亡宋三傑」と呼ばれている。
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亡宋三傑とは誰か|南宋滅亡における三つの滅び方(文天祥・陸秀夫・張世傑)
王朝らしさ:
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