秦朗(しんろう)、字は元明、小字は阿穌。
并州新興郡の人で、後漢末から三国時代の魏に仕えた人物である。
実父は呂布の配下だった秦宜禄、母は杜氏。
幼少期に曹操が杜氏を側室としたため、秦朗も母に伴われて曹操の家に入り、そのもとで養育された。
曹操は秦朗を実子に近い待遇でかわいがり、
のちには曹操の孫にあたる明帝曹叡からも厚い寵愛を受けている。
秦朗自身の本伝は『三国志』に立てられていない。
そのため生涯をたどるには、『三国志』明帝紀や劉放伝、烏丸鮮卑東夷伝のほか、
裴松之注に引用された『献帝伝』『魏略』『漢晋春秋』『世語』などの記事を
組み合わせる必要がある。
『魏略』は秦朗を、
皇帝に諫言せず、人材を推薦することもなく、寵愛によって富を得た人物として厳しく評している。
一方で、正史本文では驍騎将軍として中軍を率いて鮮卑を討ち、
曹叡の晩年には次代の皇帝を補佐する候補にも選ばれている。
曹操の「連れ子」として育った少年が、なぜ魏の皇帝の側近となり、輔政候補にまで名を連ねたのか。断片的な史料をもとに、その生涯を時系列に沿って見ていく。
呂布の部将・秦宜禄の子として生まれる
秦朗の父秦宜禄は、并州雲中郡の人物で、呂布に仕えていた。
秦宜禄には杜氏という妻がおり、二人の間に生まれたのが秦朗である。
秦朗の生年は史料に記されておらず、後漢末の動乱期にどの程度の年齢だったのかは明らかでない。
秦宜禄は呂布の命を受け、使者として袁術のもとへ赴いたことがあった。
このとき袁術は秦宜禄に漢の宗室の女性を妻として与えたため、
もとの妻である杜氏は下邳に残された。
その後、秦宜禄は呂布のもとへ戻らず、曹操の勢力下に入ったとみられるが、
建安三年(198)、曹操が劉備らとともに呂布を攻めたことで、
秦朗の家族をめぐる状況は大きく変化した。
下邳の戦いと関羽が求めた杜氏
建安三年(198)、曹操は呂布が拠点とする下邳を包囲した。
裴松之が『三国志』関羽伝の注に引用する『蜀記』や、
秦朗に関する記事として引用する『献帝伝』には、
この戦いの際に関羽が杜氏を妻に望んだという逸話が残されている。
秦宜禄が袁術のもとへ赴いていたため、杜氏は下邳に残されていた。
関羽は曹操に対し、城が陥落した後には杜氏を自分の妻として与えてほしいと願い出た。
曹操はいったんこれを許したが、関羽は下邳陥落が近づくと、同じ願いを何度も繰り返した。
そのため曹操は、関羽がこれほど執着するのであれば杜氏は美しい女性なのだろうと考え、
下邳を陥落させると、まず自ら杜氏を確認した。
実際に美しかったため、曹操は関羽との約束を守らず、自分の側室としたという。
この逸話は曹操と関羽の関係を語る話として知られるが、秦朗の生涯にとっても重要である。
母が曹操の側室となったことで、秦朗も曹操の家族のなかへ入ることになったからである。
父・秦宜禄の死
下邳陥落後、秦宜禄は曹操に降伏し、銍県の県長に任じられた。
しかし、その後まもなく命を落としている。
裴松之注に引用された『魏氏春秋』によれば、劉備が小沛へ向かった際、
張飛は秦宜禄に対し、妻を曹操に奪われながら、
その曹操から県長に任じられて仕えていることを嘲り、「
私について来ないか」という趣旨で誘った。
秦宜禄はいったんこれに応じ、張飛に従って数里進んだが、
途中で後悔して引き返そうとしたため、張飛に殺されたという。
こうして秦朗は実父を失った。
母の杜氏はそのまま曹操のもとにあり、秦朗も曹操の家で養育されることになった。
曹操の家で育てられた「假子」
『献帝伝』は、秦朗について「朗随母氏畜於公宮」と記している。
秦朗は母に従い、曹操の公宮で養育されたという意味である。
曹操は秦朗を非常にかわいがった。
同書によれば、曹操は宴席で賓客に向かい、
「世の中に、私ほど人の子をかわいがる者がいるだろうか」という趣旨の言葉を語ったという。
秦朗は史料上「假子」とも表現される。「
假子」は実子ではないものの、養子的な立場に置かれた子を指す言葉である。
秦朗の場合、曹氏の家を継承する正式な養子になったというより、
母杜氏が曹操の側室となったことに伴って曹操の家庭に入り、
その庇護下で実子に近い待遇を受けた人物とみるのが適切である。
杜氏は曹操との間にも子をもうけた。
『三国志』武文世王公伝によれば、杜氏は曹操の子である沛穆王曹林、中山恭王曹袞を生んでいる。
また金郷公主も杜氏の娘とする記録があり、
この場合、彼らは秦朗にとって母を同じくする異父弟妹にあたる。
秦朗は曹操の実子ではなかったが、曹氏一族ときわめて近い環境で成長したことになる。
何晏とともに「公子」として寵愛される
曹操の家で養育された他家の子は秦朗だけではなかった。
裴松之注に引用された『魏略』によれば、
何進の孫にあたる何晏も、母尹氏が曹操の側室となったため、幼少期を曹操の家で過ごしていた。
『魏略』は、秦宜禄の子で小字を阿穌といった人物も、母に従って曹操のもとにあり、
何晏とともに「公子の如く」寵愛されたと記す。この阿穌が秦朗である。
ただし、同じ境遇にあった二人の性格は対照的に描かれている。
何晏は自分が曹操から特別にかわいがられていることを頼みとし、
服装まで太子になぞらえるなど、遠慮のない振る舞いをしたという。
これに対して秦朗は「性謹慎」、すなわち慎み深い性格だったとされる。
曹操の後継者となる曹丕は何晏を好まず、
「假子」と呼んで正式な名を呼ばなかったと『魏略』は伝える。
一方、秦朗について曹丕との間に同様の軋轢があったという記事は残されていない。
↓↓曹操の養子・何晏についての個別記事は、こちら

曹操・曹丕の時代
成長した秦朗は「諸侯の間を遊遨した」と『魏略』に記される。
この「遊遨」が具体的にどのような生活を指しているのかは明らかでないが、
曹氏の諸侯たちと交わりながら過ごしていたとみられる。
建安二十五年(220)に曹操が死去すると、曹丕が魏王を継承し、
同年に後漢から禅譲を受けて皇帝となった。
『魏略』は秦朗について、曹操・曹丕の時代には「無尤」であったと記している。
特に咎められることなく過ごしたという意味であり、
この時期の秦朗について大きな政治的失敗や処罰の記事はない。
その一方で、曹操存命中や曹丕の治世に秦朗が重要な官職を占めたことを示す記録も見えない。
秦朗が政治の表舞台に現れるのは、曹丕の死後である。
↓↓魏の初代皇帝・曹丕についての個別記事は、こちら

曹叡の側近となる
黄初七年(226)、文帝曹丕が死去し、その子曹叡が皇帝に即位した。
明帝曹叡の時代になると、秦朗は「内官」を授けられ、皇帝の側近として仕えるようになった。
官職は驍騎将軍・給事中にまで進んだ。
驍騎将軍は禁軍に関係する将軍号であり、給事中は皇帝の側近として宮中に出入りする官である。
『魏略』によれば、曹叡の車駕が出入りするときには、秦朗が常に随従していた。
曹叡は秦朗を正式な名ではなく、小字の「阿穌」で呼ぶことが多かったという。
秦朗は曹操の実子ではない。
しかし曹叡にとって秦朗は、祖父曹操の家で育ち、
父曹丕の時代を通じて曹氏の一族に近い位置にいた人物だった。
曹叡が小字で呼んでいたという記録からも、
通常の君臣関係とは異なる親しさがあったことがうかがえる。
↓↓魏の第二代皇帝・曹叡についての個別記事は、こちら

曹叡の寵愛と莫大な財産
曹叡は秦朗を厚く寵愛し、たびたび賞賜を与えたほか、京師には秦朗のために大邸宅まで建てさせた。
しかし『魏略』は、曹叡の側近としての秦朗を厳しく評価している。
当時、曹叡は人の過失を取り上げて処罰することが多く、
軽い罪から死刑に至る者も少なくなかったという。
それにもかかわらず、常に皇帝のそばにいた秦朗は一度も諫言せず、
また一人の善人すら推薦しなかったとされる。
それでも曹叡からの信任は厚く、秦朗が皇帝の寵臣であることは広く知られていた。
そのため各方面から多くの贈り物が集まり、秦朗の財産は公侯にも匹敵するほどになったという。
『魏略』の著者魚豢は、秦朗を孔桂とともに「佞幸篇」に収録している。
少なくとも『魏略』では、秦朗は政治上の功績によって重用された人物ではなく、
皇帝の寵愛を背景に高い地位と富を得た側近として描かれている。
青龍元年、鮮卑の反乱
青龍元年(233)、北方では鮮卑の有力者である軻比能が勢力を拡大し、
并州方面の歩度根にも接近していた。
歩度根はそれまで魏に従っていたが、軻比能から誘いを受けると、次第にこれと結ぶようになった。
并州刺史の畢軌は両者の動きを警戒し、将軍の蘇尚・董弼に軍を与えて討伐に向かわせた。
しかし曹叡は、この出兵がかえって歩度根を軻比能の側へ追いやることを懸念していた。
そのため畢軌に対し、深入りして戦わないよう命じたが、命令が届く前に戦闘が起こった。
蘇尚と董弼は楼煩で軻比能の子が率いる軍勢と戦い、ともに戦死した。
この敗北を受け、歩度根は部衆を率いて塞外へ逃れ、軻比能と合流した。
さらに両者の勢力が并州へ侵入して略奪を行ったため、魏は北方への対応を迫られることになった。
中軍を率いて鮮卑を討つ
曹叡は驍騎将軍秦朗に討伐を命じた。
『三国志』明帝紀は、「驍騎将軍秦朗を遣わし、中軍を将いて之を討たしむ」と記している。
秦朗は皇帝に随従するだけの宮廷側近ではなく、
このときは中央軍を率いて北方へ出征したことになる。
秦朗の軍が進出すると、軻比能らは漠北へ退いた。
『三国志』烏丸鮮卑東夷伝によれば、
この討伐の過程で、軻比能に従っていた泄帰泥が部衆を率いて魏に降伏した。
魏は泄帰泥を帰義王に封じている。
一方、歩度根は最終的に軻比能によって殺害された。
同年十月には、歩度根の部落大人である戴胡・阿狼泥らが并州へ赴いて魏に降伏した。
これを受けて秦朗は軍を引き揚げた。
この遠征で軻比能そのものを滅ぼしたわけではない。
軻比能はその後も鮮卑の有力者として活動を続けている。
しかし魏から離反した勢力を塞外へ後退させ、
鮮卑内部から降伏者を出した点では一定の成果を挙げている。
曹叡の重病と後継体制
景初二年(238)末、曹叡は重い病に倒れた。
曹叡には成人した実子がおらず、養子である斉王曹芳が後継者となる予定だった。
曹芳はまだ幼かったため、誰が幼帝を補佐するかが重要な問題となった。
曹叡が当初構想した輔政体制の中心人物は、叔父にあたる燕王曹宇だった。
『三国志』劉放伝によれば、
曹叡は曹宇を大将軍とし、夏侯献・曹爽・曹肇・秦朗らとともに後事を託そうとした。
夏侯献は領軍将軍、曹肇は屯騎校尉、秦朗は驍騎将軍であり、
いずれも皇帝の近くに位置する人物だった。
この人選に秦朗が含まれていたことは、その政治的地位を考えるうえで重要である。
『魏略』は秦朗を諫言も人材推薦もしない寵臣として描いているが、
曹叡自身は最晩年に至るまで秦朗を信任し、幼帝を支える側に置こうとしていた。
↓↓幼帝の補佐を託されたが固辞した曹宇についての個別記事は、こちら

劉放・孫資と輔政をめぐる対立
しかし、曹宇らに後事を託すという曹叡の構想に、中書監の劉放と中書令の孫資が反対した。
劉放・孫資は長く曹叡の側近として機密を扱っていたが、夏侯献や曹肇らとは関係が悪かった。
『三国志』劉放伝によれば、曹宇を中心とする輔政体制が成立すれば、
自分たちが不利な立場に置かれることを恐れていたという。
裴松之注に引用された『漢晋春秋』には、
このとき劉放・孫資が曹宇らを排除しようとした経緯が、より詳しく記されている。
劉放・孫資は病床の曹叡に対し、曹宇らが自分たちを皇帝に近づけないようにしていると訴えた。
また、曹肇や秦朗らが宮中の才人たちと戯れているとも述べ、
彼らに後事を託すべきではないと主張した。
さらに曹宇らを、君主に取り入って国政を乱した豎刁や趙高になぞらえて非難したという。
ただし、これらは輔政をめぐって対立していた劉放・孫資側の主張として記されたものである。
秦朗らが実際にそのような振る舞いをしていたかは確認できず、
そのまま事実とみなすことはできない。
輔政候補からの失脚
曹叡は当初、曹宇らに後事を託す意思を示していたが、その判断は病床で揺れ動いた。
劉放・孫資は曹宇を退け、代わって曹爽と司馬懿に幼帝を補佐させるよう進言した。
曹叡は最終的にこの案を受け入れた。
曹宇・夏侯献・曹肇・秦朗らは官を免じられた。
『漢晋春秋』によれば、免官の詔が出されると、
曹宇・曹肇・夏侯献・秦朗らは互いに涙を流しながら、それぞれの邸宅へ帰ったという。
景初三年(239)正月、曹叡は死去し、曹芳が皇帝に即位した。
政権は曹爽と司馬懿が共同で補佐する体制となり、秦朗はその成立直前に政治中枢から排除された。
秦朗が輔政に加わっていれば、その後の魏の政治にどのような位置を占めたかは分からない。
史料から確認できるのは、曹叡が一度は秦朗を後事を託す人物の一人に選びながら、
最終段階でその人選を撤回したという事実までである。
史料から姿を消す
景初三年(239)に免官された後、秦朗の動向は史料に見えなくなる。
曹芳の時代に復職した記録はなく、曹爽と司馬懿の政争や高平陵の変、
その後の司馬氏による権力掌握に関与した形跡も確認できない。
没年・享年も不明であり、秦朗本人についてたどれる生涯は、
曹叡の死の直前に輔政候補から外されたところで途切れている。
子・秦秀
秦朗の子には秦秀がおり、西晋の時代に仕えたことが伝わっている。
裴松之注に引用された『世語』は、秦秀を「勁厲にして能く直言す」と評しており、
気性が強く、相手の立場にかかわらず率直に意見を述べる人物だったという。
西晋の武帝司馬炎の時代には博士となり、
『晋書』にも賈充ら当時の権力者を厳しく批判した人物として、その言動が記録されている。
皇帝の側近でありながら諫言せず、
「一善人」すら推薦しなかったと『魏略』に評された秦朗とは対照的に、
秦秀は直言をはばからない人物として史書に名を残した。
人物評・評価
秦朗は曹操の血を引く人物ではないが、その生涯は曹氏政権と密接に結びついている。
幼少期に母杜氏が曹操の側室となったことで曹操の家に入り、何晏とともに公子のように養育された。
『魏略』が秦朗を「性謹慎」と記していることからは、
同じく他家から曹操の家庭へ入った何晏とは異なり、
自らの立場を意識して慎重に振る舞っていた様子がうかがえる。
秦朗に対する最もまとまった人物評を残す『魏略』の評価は厳しい。
曹叡が刑罰を濫用しても諫めず、人材を推薦することもなく、それでいて皇帝の寵愛を受け、
各地から贈答を集めて公侯に匹敵する財産を築いたとする。
魚豢が秦朗を孔桂とともに「佞幸篇」に収めたことも、その評価を端的に示している。
ただし、『魏略』の人物評だけで秦朗の経歴すべてを説明することはできない。
青龍元年(233)には驍騎将軍として中軍を率い、鮮卑討伐を担当している。
軻比能を滅ぼすには至らなかったものの、
鮮卑勢力を漠北へ退かせ、泄帰泥や歩度根配下の部落大人らの降伏につながった。
さらに曹叡の臨終時には、曹宇・夏侯献・曹爽・曹肇と並んで幼帝曹芳を補佐する候補に選ばれた。
最終的には劉放・孫資の働きかけによって排除されたが、
曹叡が秦朗を単なる身辺の寵臣としてではなく、
死後の政権運営に関与させる人物として考えていたことは確かである。
秦朗には、曹操の家で育った「假子」、曹叡から小字の「阿穌」で呼ばれた側近、
莫大な財産を得た寵臣、北方へ出征した驍騎将軍、そして幼帝の輔政候補という複数の側面があった。
その一方で、独立した伝が残されなかったため、景初三年(239)の失脚以後の人生は分からない。
曹操の連れ子として曹氏一族のなかで育ち、明帝の治世に政治的地位の頂点へ達しながら、
明帝の死とほぼ同時に魏の政治中枢から姿を消した人物である。
まとめ
秦朗は呂布配下の秦宜禄と杜氏の間に生まれ、
下邳陥落後に母が曹操の側室となったことで、曹操の家で養育された。
曹操からは実子に近い待遇でかわいがられ、何晏とともに公子のように育てられたという。
曹叡の時代になると驍騎将軍・給事中となり、皇帝に常に随従する側近として厚い寵愛を受けた。
『魏略』は、秦朗が曹叡を諫めることも人材を推薦することもなく、
皇帝への近さによって莫大な財産を築いたとして厳しく評価している。
一方、青龍元年(233)には中軍を率いて鮮卑を討伐し、
景初二年(238)末には曹宇・夏侯献・曹爽・曹肇らとともに、
幼い曹芳を支える輔政候補に選ばれた。
しかし曹叡の死の直前、劉放・孫資の進言によって輔政の構想が変更され、秦朗も免官された。
その後の動向は史料に見えず、没年・享年も不明である。
子の秦秀は西晋に仕え、直言をはばからない人物として史書に名を残した。
史書・参考文献
『三国志』魏書・明帝紀
『三国志』魏書・劉放伝
『三国志』魏書・烏丸鮮卑東夷伝
『三国志』蜀書・関羽伝 裴松之注
裴松之注所引『献帝伝』
裴松之注所引『魏略』
裴松之注所引『漢晋春秋』
裴松之注所引『世語』
『資治通鑑』
『晋書』

