【南宋】韓世忠|梁紅玉と金軍に抗した名将「万人敵」の生涯

韓世忠(南宋・武将) 033.武将

韓世忠(かんせいちゅう、1089〜1151年)は、北宋末から南宋初期に活躍した武将で、字は良臣。

陝西の延州綏徳城に生まれ、西夏との戦争や方臘の乱で武功を挙げた後、
金軍の侵攻によって北宋が滅亡すると、高宗に仕えて南宋の再建を支えた。
岳飛・張俊・劉光世と並ぶ南宋四大将軍の一人として知られ、勇猛さから「万人敵」と称された。

1129年の苗劉の兵変では、高宗を復位させるために軍を率いて行動し、
翌1130年には妻の梁紅玉とともに黄天蕩で金軍を迎撃した。

黄天蕩では完顔宗弼の軍を長期間足止めしたものの、最終的には脱出を許している。
その後も大儀鎮で金軍を破り、淮東の防衛を担うなど、
南宋が長江以南の支配を固める過程で重要な役割を果たした。

一方、金との講和を進める高宗・秦檜の政権下では、岳飛らとともに軍権を取り上げられた。
岳飛の処刑をめぐって秦檜を問い詰めた「莫須有」の逸話は、韓世忠の生涯を語るうえで欠かせない。
晩年は軍務から離れ、「清涼居士」と号して暮らした。

貧しい辺境の青年から宋軍の猛将へ

綏徳城での生い立ちと西夏戦線

韓世忠は元祐4年(1089年)、延州綏徳城に生まれた。
現在の陝西省北部にあたり、宋と西夏が長く争った西北辺境の地域である。

『宋史』韓世忠伝によれば、家は貧しく、若い頃の韓世忠は生業に励むことを好まず、
豪放な性格だったという。体格がよく、騎馬や弓術に優れ、強い腕力を持つ青年として知られた。

北宋末期は徽宗のもとで蔡京や宦官の童貫らが権勢を振るい、対外的には西夏との戦争が続いていた。宋は文官を軍人より上位に置く統治体制を築いていたが、
西北辺境には長年の戦争を経験した将兵が集まっていた。
韓世忠も十八歳で軍に入り、実戦を通じて武功を重ねた。

西夏との戦闘では敵陣に突入して将兵を討ち、城壁を越えて戦うなど、
勇敢な行動を繰り返したと伝えられる。


『宋史』には、敵の首級を挙げた功績を童貫が十分に評価しなかったという記録もある。
童貫は徽宗の信任を受けて軍事を統轄していたが、韓世忠はその庇護によって出世したわけではなく、辺境での戦闘経験を積みながら地位を上げていった。

韓世忠の軍歴は、後に金軍との戦争で必要となる騎兵への対処、野戦での機動、兵士の統率などを、西夏戦線で身につけたことから始まっている。

↓↓北宋末期に権勢を振るった宰相・蔡京や宦官・童貫についての個別記事は、こちら

【北宋】童貫|北宋末期に軍権を握った最強の宦官
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【北宋】蔡京|六賊筆頭の実像と北宋滅亡の原因
蔡京(さいけい)は北宋徽宗期に長く宰相を務め、後世「六賊の筆頭」とされた政治家である。王安石の新法を継承して元祐党人を排斥し、元祐党籍碑を建立。童貫らと権力を握り、花石綱などで民衆の負担を増大させた。方臘の乱、度重なる失脚と復帰、靖康前夜の流刑と死まで、北宋末の政治と滅亡との関係を史料から詳しく解説する。

方臘の乱と「万人敵」の名声

宣和2年(1120年)、江南で方臘の乱が発生した。
方臘は宗教的な結社を背景に挙兵し、睦州などを中心に勢力を拡大した。
徽宗の朝廷は童貫らに討伐を命じ、韓世忠も王淵の配下として反乱鎮圧に参加した。

韓世忠は反乱軍との戦闘で先頭に立ち、敵陣へ突入して戦果を挙げた。
『宋史』韓世忠伝では、方臘が逃れた洞窟を突き止め、
韓世忠が内部へ入り込んで方臘を捕らえたと記されている。
しかし、その功績は辛興宗によって奪われ、韓世忠には十分な恩賞が与えられなかったという。

方臘の捕縛については史料によって記述に違いがあり、功績の帰属をめぐる問題も残る。
それでも、韓世忠が討伐戦で顕著な働きを見せたことは、その後の軍歴につながった。
王淵は韓世忠の武勇を高く評価し、「万人敵」と称したと伝えられる。

後世の小説『水滸伝』では、方臘討伐は梁山泊の英雄たちの最後の戦いとして描かれ、
方臘を捕らえる人物も韓世忠とは異なる。
小説の物語と、韓世忠の伝記に記された討伐戦の経緯は区別する必要がある。

北宋滅亡と高宗を支えた戦い

金軍の侵攻と靖康の変

12世紀初頭、女真族の完顔阿骨打は金を建国し、遼を圧迫した。
北宋は金と海上の盟を結び、遼を南北から攻撃したが、遼の滅亡後には金との関係が悪化した。
金軍は宋の軍事的な弱さを見抜き、宣和7年(1125年)から大規模な侵攻を開始した。

宋軍は各地で敗北し、徽宗は皇位を欽宗へ譲った。
韓世忠も金軍との戦いに従事したが、宋朝全体の戦況を覆すことはできなかった。
混乱の中で少数の兵を率いて敵軍を突破したという武勇譚も残されている。

ただし、欽宗を直接救出したという話については、
実際の軍事行動と後世の脚色を混同しないよう注意が必要である。

靖康2年(1127年)、
金軍は開封を攻略し、徽宗・欽宗の両皇帝をはじめ多数の皇族や官僚を北方へ連行した。
靖康の変によって北宋は滅亡したが、
金軍に捕らえられなかった康王趙構が南京応天府で即位し、高宗となった。

南宋成立と高宗の護衛

高宗の即位によって宋の皇統は維持されたものの、政権の基盤は不安定だった。
金軍はなお南下を続け、地方には敗残兵や盗賊が横行し、
朝廷の命令に従わない軍人も少なくなかった。
高宗自身も金軍を避けて各地を移動し、安定した都を確保できない状態が続いた。

韓世忠はこの時期、高宗の護衛や各地の軍事行動に従事した。
高宗が済州方面へ移動した際にも行動をともにしたと伝えられ、
南宋政権の成立初期から皇帝に仕えた武将の一人となった。

南宋初期には韓世忠のほか、岳飛、張俊、劉光世らが軍事力を拡大し、
それぞれ有力な部隊を率いるようになった。
彼らは後世「南宋四大将軍」と総称されるが、出身や軍歴、担当地域、朝廷との関係は同じではない。
韓世忠は西北辺境で鍛えられた古参の武将であり、
長江下流から淮東にかけての防衛を担うようになった。

↓↓「南宋四大将軍」の一人・岳飛についての個別記事は、こちら

【南宋】岳飛|抗金英雄と、郾城の戦いと北伐・秦檜による処刑の真相
岳飛(がくひ)は、北宋滅亡後の南宋で金軍と戦い続けた名将。厳格な軍律で岳家軍を育て、襄陽六郡の奪還、郾城・潁昌での勝利を重ね、1140年には開封近郊の朱仙鎮まで進軍した。しかし高宗の命令で撤退し、秦檜らによる謀反の嫌疑で投獄。息子の岳雲や部将の張憲とともに1142年、39歳で処刑された。「莫須有」の冤罪、孝宗による名誉回復、岳王廟に残る後世の評価まで、その生涯をたどる。

苗劉の兵変と高宗復位

建炎3年(1129年)、杭州で苗傅と劉正彦が兵変を起こした。
二人は宦官の専横などを批判し、高宗に退位を迫って、幼い皇子趙旉を皇帝に立てた。
高宗は皇位を奪われ、成立間もない南宋政権は内部から崩壊する危機に陥った。

このとき韓世忠は杭州の外におり、兵変を知ると高宗の復位を目指して軍を動かした。
張俊らも討伐に加わり、朝廷内では隆祐太后孟氏らが事態の収拾に動いた。

韓世忠の妻である梁氏も、この政変で重要な役割を果たした。
梁氏は杭州にいて反乱側の監視下に置かれていたが、
皇帝側の意向を韓世忠へ伝えるため、幼い子を連れて夫のもとへ向かったと記録されている。
苗傅らは韓世忠の妻子を利用してその行動を制約しようとしたものの、
韓世忠は反乱勢力への攻撃を続けた。

韓世忠らの軍が迫ると反乱勢力は崩れ、高宗は復位した。
苗傅と劉正彦は逃走後に捕らえられ、処刑された。
韓世忠は皇帝の復位に貢献したことで高宗の信任を強め、
梁氏もその働きを評価されて封号を与えられた。

苗劉の兵変は、韓世忠が単に金軍と戦った武将ではなく、
南宋皇帝の地位を守るために行動した人物でもあったことを示している。

↓↓韓世忠の妻・梁氏(梁紅玉)についての個別記事は、こちら

【南宋】梁紅玉|韓世忠とともに金軍に抗した南宋の女傑・黄天蕩の戦いと生涯
梁紅玉(りょうこうぎょく)は、南宋の名将・韓世忠の妻として金軍との戦いに関わった女性。高宗が皇位を奪われた苗劉の兵変では復位に貢献し、黄天蕩の戦いでは太鼓を打って宋軍を鼓舞したと伝わる。金軍の脱出を許した夫を弾劾した記録、安国夫人・護国夫人の封号、出自や戦死をめぐる伝承まで、その生涯と後世の女将軍像をたどる。

梁紅玉と黄天蕩の戦い

梁紅玉との結婚

韓世忠の妻として知られる梁紅玉は、史書では主に梁氏、梁夫人と記される。
「梁紅玉」という名前は後世に広まったもので、出生地や幼少期の経歴も明らかではない。

梁紅玉については、もともと妓女であり、韓世忠と宴席で出会ったという伝承がある。
韓世忠が彼女を見初めたという話もあれば、
梁紅玉がまだ無名だった韓世忠の武勇と将来性を見抜き、自ら結婚を望んだという話もある。
しかし、こうした出会いの詳細は後世の文学作品による部分が大きく、史実として確定していない。

二人がいつ結婚したのかも明確ではない。
韓世忠には梁氏以前の婚姻関係もあり、後世の物語で描かれるような、
若い頃から生涯をともにした一組の夫婦という説明には注意が必要である。

一方、梁氏が実際に韓世忠の軍事活動に関わり、朝廷から封号を与えられたことは史料で確認できる。
苗劉の兵変で皇帝の復位に関わった功績により安国夫人に封じられ、後には護国夫人の称号も受けた。
夫の軍事行動を支えながら、皇帝の命令を伝達する役割も担った女性だった。

韓世忠と梁紅玉は、後世には国難に立ち向かった武将夫婦として並び称されるようになった。
とりわけ二人の名声を結びつけたのが、1130年の黄天蕩の戦いである。

完顔宗弼の南下と長江での迎撃

建炎3年(1129年)、金の将軍・完顔宗弼(兀朮)は大軍を率いて江南へ侵攻した。
金軍は長江を越えて南下し、建康や杭州方面へ進出した。
高宗は追撃を避けて海上へ逃れ、南宋の朝廷は再び危機に陥った。

金軍は江南の各地を攻撃したものの、占領地を長期間維持することは難しく、
翌建炎4年(1130年)には北方への撤退を始めた。
韓世忠は金軍が長江を渡って帰還する機会を狙い、鎮江付近に水軍を配置した。

韓世忠軍の兵力は約八千と伝えられ、これに対する金軍は十万とも記される。
ただし、こうした兵数は史料によって違いがあり、正確な規模を確定することは難しい。
韓世忠は兵力の差を補うため、長江の水路と宋軍の船舶を利用して金軍の撤退路を遮断した。

金軍は陸上では騎兵を中心とする機動力に優れていたが、
長江下流の複雑な水路での戦闘には不慣れだった。
韓世忠軍はこの弱点を突き、完顔宗弼の軍を黄天蕩方面へ追い込んだ。

梁紅玉の鼓撃と金軍の包囲

黄天蕩の戦いで最もよく知られるのが、梁紅玉が太鼓を打って宋軍を指揮したという逸話である。
後世の物語では、梁紅玉は甲冑をまとって高所に立ち、
敵船の動きを見ながら鼓を鳴らして韓世忠軍に合図を送ったと描かれる。

当時の軍隊では、太鼓や銅鑼は進軍や攻撃、撤退などの命令を伝えるために用いられた。
船上での戦闘でも音による合図は重要だったが、
梁紅玉が実際にどの位置から、どのような指示を送ったのかについては、
後世の演劇的な描写と史料の記録を区別する必要がある。

韓世忠軍は金軍の船舶を封じ込め、完顔宗弼の撤退を妨害した。
包囲は四十八日間続いたと伝えられる。
金軍は長江の地形を十分に把握できず、宋軍の水軍を正面から突破することも容易ではなかった。

後世には韓世忠軍が金兵二万五千を討ち取ったという話も伝わるが、
この数字をそのまま実際の戦死者数とすることはできない。
黄天蕩の戦いは韓世忠の名声を高めたものの、戦闘の結果は金軍の壊滅ではなかった。

完顔宗弼の脱出と韓世忠の敗北

長期間の包囲を受けた完顔宗弼は、別の水路を利用して脱出する方法を探った。
金軍は水路を開削して船を移動させ、宋軍の封鎖を突破するための準備を進めた。

さらに金軍は、韓世忠軍の大型船に対抗するため、小舟や火を用いた攻撃を利用した。
宋軍の船は水上での戦闘に優れていたものの、
風や船の構造を利用した金軍の攻撃によって損害を受けた。

最終的に完顔宗弼は包囲を突破し、長江北岸へ撤退した。
韓世忠は金軍を長期間拘束したが、
その主力を殲滅することも、完顔宗弼を捕らえることもできなかった。

このため、黄天蕩の戦いを単純に韓世忠の大勝利とすることはできない。
南宋軍が金軍の撤退を妨害し、水上戦闘で抵抗できることを示した一方、
最後には敵軍の脱出を許した戦いだった。

梁氏は戦後、韓世忠が敵軍を取り逃がした責任を問題にし、
朝廷へ夫の失策を訴えたと記録されている。

後世には鼓を打って夫を助けた女性として知られる梁紅玉だが、
史料には韓世忠の軍事的な失敗を批判したという一面も残されている。

大儀鎮の戦いと淮東防衛

大儀鎮での金軍撃破

黄天蕩の戦いの後も、韓世忠は長江下流から淮河流域にかけて金軍との戦争を続けた。
南宋にとって、この地域は江南の中心部を守るための重要な防衛線だった。
金軍が淮河を越えて南下すれば、揚州や鎮江を経て長江へ迫ることができた。

紹興4年(1134年)、金とその支援を受けた劉豫の斉政権が南宋への攻勢を強めると、
韓世忠は淮東方面で迎撃の準備を進めた。
韓世忠は大儀鎮付近に兵を伏せ、敵軍を誘い込んで攻撃した。

韓世忠軍は地形を利用して敵軍の進路を制限し、伏兵によって金・斉軍を破った。
黄天蕩の戦いが水軍を中心とする戦闘だったのに対し、
大儀鎮では陸上での伏兵と機動を生かした戦術が用いられた。

この勝利によって韓世忠は、長江の水軍戦だけでなく、
淮河流域の陸上戦闘でも金軍に対抗できる指揮官であることを示した。

「中興の武功第一」と高宗の評価

紹興4年(1134年)、高宗は韓世忠の戦功を高く評価し、
「中興の武功第一」と称賛したと伝えられる。

「中興」とは衰えた王朝を再び盛り立てることを意味する。
北宋の滅亡後、南宋は金軍の侵攻と内部の反乱に苦しみながら政権を維持しており、
韓世忠の戦功は王朝の再建に直接関わるものだった。

韓世忠は高宗の復位に貢献し、長江で金軍を迎撃し、淮東でも勝利を収めた。
黄天蕩で金軍を取り逃がした失敗はあったものの、
南宋の防衛を支える武将としての評価は揺らがなかった。

ただし、皇帝からの称賛は韓世忠の政治的な安全を永続的に保証するものではなかった。
南宋の軍事体制が整うにつれ、有力武将がそれぞれ大軍を掌握していること自体が、
朝廷にとって新たな問題となっていった。

楚州を拠点とする淮東防衛

韓世忠は淮東の楚州を重要な拠点とし、金軍や斉政権の攻撃に備えた。
淮東は長江下流の北側に位置し、ここを守ることは江南への侵入を防ぐことにつながった。

韓世忠は軍営を整え、防御施設の整備や兵士の訓練を進めた。
長期にわたる戦争では、戦場で敵軍を撃破するだけでなく、
兵糧を確保し、兵士を維持し、住民の生活を安定させることも必要だった。

韓世忠は勇猛な武将として知られたが、
淮東防衛では拠点を維持するための継続的な軍事運営も担った。

西夏戦線での個人的な武勇から始まった軍歴は、南宋の一方面を守る大軍の統率へと変化していた。

岳飛・秦檜との関係と軍権剥奪

岳飛との関係

韓世忠と岳飛は、ともに南宋初期の抗金戦争で活躍した武将である。
韓世忠は岳飛より年長で、北宋時代から軍歴を重ねていた。
一方、岳飛は南宋成立後に急速に頭角を現し、岳家軍を率いて湖北・河南方面で金軍と戦った。

後世には、岳飛の出世が早かったため韓世忠が反感を抱いていたという話も伝わる。
しかし、両者の関係を一貫した対立として説明することはできない。
南宋の有力武将たちはそれぞれ軍を率い、朝廷の命令を受けながらも、
軍事上の利害や人事をめぐって競合することがあった。

岳飛は中原回復を強く志向した武将として知られ、韓世忠は長江下流と淮東の防衛を中心に活動した。担当地域や作戦上の役割は異なっていたが、金軍への対抗という点では共通していた。

秦檜の講和政策と三大将の軍権剥奪

南宋の朝廷では、金との戦争を継続して失地回復を目指すか、
講和によって支配地域を安定させるかが重大な政治問題となった。
秦檜は講和を推進し、高宗も次第にその方針を支持するようになった。

ただし、朝廷の対立を武将全員が抗戦派、文官全員が講和派だったと単純化することはできない。
高宗には金との関係を安定させる必要がある一方、
軍隊を掌握する有力武将の力を抑え、皇帝の統制を回復するという課題もあった。

紹興11年(1141年)、韓世忠・岳飛・張俊の三大将は枢密使・枢密副使などの中央官職に任じられ、
それまで直接掌握していた軍隊の指揮権を失った。
形式上は高位への昇進であっても、実際には軍事指揮権を朝廷へ回収する措置だった。

韓世忠も長年率いてきた軍から切り離され、前線での活動を終えることになった。
黄天蕩や大儀鎮での戦功によって地位を築いた武将が、
講和と軍事統制の進展によって軍権を失ったのである。

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【南宋】秦檜|岳飛を処刑に追い込んだ宰相と紹興の和議、権力独占の生涯
南宋の政治家・秦檜(しんかい)は「奸臣」の代名詞とも言われる存在である。しかし史実や政策を見直すと評価は単純ではない。彼の実像と影響をわかりやすく解説する。

「莫須有」と岳飛の処刑

軍権を奪われた岳飛は、その後、謀反の嫌疑をかけられて投獄された。
岳飛の部将であった張憲らも事件に巻き込まれ、秦檜のもとで処分が進められた。

『宋史』岳飛伝には、韓世忠が秦檜に対して岳飛の罪状を問いただしたという逸話が記されている。
韓世忠が謀反の証拠を尋ねると、秦檜は「莫須有」と答えたという。
韓世忠はこれに対し、「莫須有」の三文字で天下の人々を納得させられるのかと反論した。

「莫須有」は、この逸話では確かな証拠が示されないまま
罪が認められようとしていることを象徴する言葉となっている。
ただし、会話の細部が実際にそのまま交わされたかどうかは、
史書に記された逸話として扱う必要がある。

岳飛は紹興11年末、現在の西暦では1142年初めに処刑された。
韓世忠は岳飛の処刑を阻止できなかったが、秦檜に疑問を呈した人物として後世に名を残した。

韓世忠自身も軍権を失っていたものの、岳飛のように投獄・処刑されることはなかった。
朝廷から高い地位を与えられたまま軍務を離れ、その後は政治的な対立から距離を置くようになった。

晩年と死後の評価

清涼居士としての隠退生活

軍権を失った韓世忠は、晩年には軍務から離れて暮らした。
自ら「清涼居士」と号し、客を迎えて酒を飲み、日々を過ごしたという。

『宋史』韓世忠伝には、軍務を退いた後は二度と兵事を語らなかったという記録がある。
長年にわたって戦場に立ち続けた武将が、
軍権を失った後は戦争について口にしなくなったという逸話は、
韓世忠の晩年を象徴するものとして広く知られている。

この沈黙については、秦檜の講和政策への失望や、
軍権を奪われたことへの不満と結びつけて語られることが多い。
ただし、本人がその理由を明確に説明した記録があるわけではなく、
政治的な失望だけを唯一の理由とすることはできない。

韓世忠は紹興21年(1151年)に死去した。数え年63歳である。
死後には通義郡王に追封され、孝宗の時代には蘄王に追封された。
諡号は忠武とされ、南宋を支えた功臣として顕彰された。

韓世忠の武勇と人物像

韓世忠は『宋史』で勇猛な武将として描かれている。
若い頃から強い腕力と騎射の技術を持ち、西夏との戦争では敵陣に突入して武功を立てた。
方臘の乱では反乱軍の首領を捕らえた功績が記録され、後に「万人敵」と呼ばれるようになった。

一方、韓世忠の軍事的な能力は個人の武勇だけではなかった。
黄天蕩では水軍を用いて金軍の撤退路を封じ、
大儀鎮では伏兵を配置して敵軍を破り、淮東では防衛拠点を維持した。
戦場の状況に応じて異なる戦術を用い、大軍を統率したことも重要な事績である。

韓世忠には豪放で激しい気性を持つ武将という人物像も伝えられる。
権力者に迎合することを好まず、方臘討伐で功績を奪われたという記録や、
岳飛の処分をめぐって秦檜を問い詰めた逸話は、その性格を示すものとして語られてきた。

後世には岳飛ほど強く神格化されなかったものの、韓世忠も南宋の忠臣・名将として尊崇された。
京劇や講談、歴史小説などでは、金軍と戦う豪勇の将軍として登場し、
梁紅玉とともに国難に立ち向かった夫婦として描かれている。

韓世忠と梁紅玉の夫婦像は、黄天蕩での共同行動によって広く知られるようになった。
ただし、梁紅玉の出生や二人の出会い、戦場での具体的な行動には後世の脚色も含まれており、
史書で確認できる事績とは区別する必要がある。

岳飛との評価の違い

岳飛は金との講和が進む中で処刑され、
後世には冤罪によって命を奪われた忠臣として広く称えられた。
これに対して韓世忠は軍権を失いながらも生き残り、晩年を隠退生活の中で過ごした。

両者の違いは、武勇や忠義の優劣だけでは説明できない。
岳飛の処刑は高宗・秦檜政権による軍事統制と講和政策の中で起きた政治事件であり、
韓世忠も同じ時期に軍事指揮権を奪われていた。

韓世忠は皇帝の復位に貢献し、金軍と戦って南宋の防衛を支えた一方、
皇帝が軍権を回収する段階ではその方針に抗しきれなかった。
南宋成立期の功臣が、政権の安定とともに軍事的な権限を失っていく過程を、
その生涯から確認できる。

まとめ

韓世忠は、西夏戦線で軍人としての経験を積み、方臘の乱で武功を挙げた後、
北宋滅亡と南宋成立という激動の時代を生き抜いた武将である。

苗劉の兵変では高宗の復位に貢献し、黄天蕩では完顔宗弼の軍を長期間拘束した。
金軍を取り逃がした失敗もあったが、大儀鎮での勝利や淮東防衛によって、
南宋の重要な軍事指揮官としての地位を確立した。

その後、南宋の朝廷が金との講和を進めると、韓世忠も岳飛・張俊とともに軍権を奪われた。
岳飛の処刑をめぐって秦檜に疑問を呈したという記録は、武将としての功績だけでなく、
朝廷の政治判断に対しても発言した人物であったことを伝えている。

韓世忠の生涯は、個人の武勇によって名を上げた下級兵士が、王朝の存亡を担う大将軍となり、
最後には皇帝の軍事統制によって前線を去るまでの過程でもあった。

梁紅玉との夫婦像や「万人敵」の名声は後世に広く伝えられたが、
その軍歴には勝利だけでなく、黄天蕩での失敗や講和政策のもとでの失権も刻まれている。

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史書・参考文献

『宋史』
『建炎以来繋年要録』
『三朝北盟会編』
『金史』
『岳飛伝』
宮崎市定『宋代中国の国家と経済』
井上進『中国史 上』
氣賀澤保規『中国の歴史 宋王朝とモンゴル』

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