司馬相如(しばそうじょ)は、前漢の景帝・武帝期に活動した文人・官僚であり、
漢代の「賦」を代表する人物である。字は長卿。
『子虚賦』『上林賦』などの華麗な辞賦によって武帝に認められた一方、
文章だけを作る宮廷文人ではなく、西南夷政策では中郎将として蜀へ派遣され、
皇帝の狩猟を諫める上書や地方の人々に朝廷の意図を伝える檄文も残した。
また、富豪の娘で未亡人だった卓文君を琴で誘い、
駆け落ちしたという『史記』以来の逸話でも名高い。
貧窮した二人が臨邛で酒屋を営み、司馬相如自身が働いたという話は、
後世に数多くの文学作品を生み出した。
しかし司馬相如の重要性は、卓文君との恋愛譚だけでは捉えられない。
彼の文章は武帝の宮廷文化と密接に結びつき、皇帝の遊猟、天下観、西南地域への進出、
さらには封禅までを題材とした。司馬遷が『史記』に長大な「司馬相如列伝」を設け、
その作品を大量に収録したことからも、
前漢の政治と文学を考えるうえで無視できない人物だったことが分かる。
蜀郡成都に生まれ、景帝に仕える
司馬相如は蜀郡成都の出身である。
『史記』によれば、若いころから読書を好むとともに撃剣を学んだ。
幼名は「犬子」といい、成長すると戦国時代に秦の昭襄王を相手に活躍した趙の藺相如を慕い、
自ら「相如」と名乗るようになった。字の長卿とあわせて、後世には司馬長卿とも呼ばれる。
若い司馬相如は財産を納めて郎となる制度によって官界へ入り、景帝に仕えて武騎常侍となった。
ただし景帝は辞賦を好まなかったため、文学に強い関心を持っていた司馬相如にとって、
この宮廷は自らの才能を十分に発揮できる場所ではなかった。
梁孝王のもとで『子虚賦』を書く
転機となったのが、景帝の弟である梁孝王劉武との出会いだった。
梁孝王が入朝した際、その周囲には鄒陽・枚乗・荘忌ら著名な文人や遊説の士が集まっていた。
司馬相如は彼らとの交流を望み、病気を理由に官を辞して梁へ赴いた。
梁孝王は司馬相如を文人たちとともに住まわせ、司馬相如は数年間にわたって彼らと交流した。
この時期に書かれたのが、後に彼の名を武帝へ知らしめる『子虚賦』である。
景帝の宮廷では評価される機会を得られなかった文学的才能が、梁孝王のもとで開花したのである。
卓文君との出会いと駆け落ち
梁孝王が死去すると、司馬相如は梁を離れて蜀へ戻った。
しかし家は貧しく、生活にも困る状態だった。
そこで臨邛県令の王吉が司馬相如を招き、当地の富豪たちとの宴席を設けた。
臨邛には卓王孫という富豪がおり、その娘が卓文君だった。
卓文君は夫を亡くして実家へ戻っていたが、音楽を好む女性だった。
司馬相如が臨邛へやって来ると、王吉は彼をことさらに丁重に扱い、
地元の有力者たちに司馬相如が特別な人物であることを印象づけた。
卓王孫らが王吉と司馬相如を宴席へ招いた際、
司馬相如は初め病気を理由に断ったため、王吉自ら迎えに行ったという。
宴が盛り上がると王吉は司馬相如に琴を弾くよう求めた。
琴で卓文君の心を動かす
卓文君は別室から司馬相如の姿をのぞき見て、その人物に心を惹かれた。
司馬相如も卓文君が音楽を好むことを知っており、
琴に思いを託して彼女の心を誘ったと『史記』は記している。
さらに司馬相如は卓文君の侍者へ贈り物をし、自分の気持ちを伝えさせた。
その夜、卓文君は家を抜け出して司馬相如のもとへ走り、二人は成都へ駆け落ちした。
ところが司馬相如の家にはほとんど何もなく、
『史記』は「家居徒四壁立」、家には四方の壁しかなかったと表現している。
娘の駆け落ちを知った卓王孫は激怒し、
娘を殺すことまではしないが財産は一銭も与えないと言い放った。
卓文君が酒を売り、司馬相如が皿を洗う
貧しい生活に耐えかねた卓文君は、
臨邛へ戻れば親族から金を借りることもできると司馬相如に提案した。
二人は臨邛へ移り、司馬相如は残っていた車馬をすべて売って酒屋を購入した。
そこで卓文君は店先に立って酒を売り、司馬相如は労働者たちに交じって働き、自ら酒器を洗った。
大富豪の娘が酒を売り、その夫が人前で働く姿は卓王孫にとって耐え難いものだった。
卓王孫は恥じて門を閉ざしたという。
やがて親族たちが、司馬相如には頼るだけの才能があり、
卓王孫には十分な財産もあるのだから二人をいつまでも辱める必要はないと説得した。
卓王孫はついに折れ、卓文君へ奴婢百人、銭百万、嫁入りの際の衣服や財物を与えた。
二人は成都へ戻り、田宅を購入して富裕な生活を送るようになった。
この一連の出来事は後世に大きく脚色されたが、
司馬相如が琴で卓文君を誘い、卓文君が夜に家を抜け出し、
二人が酒屋を営んだという骨格そのものは『史記』「司馬相如列伝」に記されている。
↓↓妻・卓文君についての個別記事は、こちら

武帝に見いだされ「辞賦の王」へ
司馬相如が成都で暮らしていたころ、蜀出身の楊得意が武帝のもとで狗監を務めていた。
あるとき武帝が『子虚賦』を読んで感嘆し、
このような文章を書いた人物と同時代に生まれられなかったことを残念がった。
すると楊得意は、その作者は自分と同郷の司馬相如であると告げた。
武帝は驚き、司馬相如を召し出した。
司馬相如は『子虚賦』を自分が書いたことを認めたうえで、
これは諸侯について書いたもので天子に見せるには十分ではないとして、
天子の遊猟を題材とする賦を書くことを申し出た。
武帝はこれを許し、筆札を与えた。
『子虚賦』『上林賦』――漢賦を代表する作品
『子虚賦』では楚の使者である子虚、斉の烏有先生、
天子側を代表する亡是公という架空の人物が登場し、それぞれの遊猟や苑囿について議論する。
「子虚」は虚言、「烏有」は「そんなことがあるだろうか」、
「亡是」は「そのような人はいない」という意味を持ち、
実在しない人物たちの対話を借りて諸侯と天子の世界を描く構成となっている。
これに続く『上林賦』では、武帝の上林苑を舞台に、
山川、草木、鳥獣、宮殿、狩猟などが膨大な語彙を用いて描写される。
漢帝国が包摂する広大な世界を文章の中に再現するような作品であり、
漢代の大賦を代表する作品となった。
ただし、司馬相如の賦を単純な皇帝賛美と見ることはできない。
『史記』は、最後には節倹へ帰着させ、それによって皇帝を諷諫したと説明している。
豪華な遊猟を極限まで描いたうえで、その過剰さを戒めるという構造を持っていたのである。
武帝はこの作品を非常に喜び、司馬相如を郎に任じた。
辞賦とは何か
賦は韻文と散文の性格をあわせ持ち、物事を詳細に列挙し、誇張や対句、
華麗な語彙を駆使して対象を描き出す文学形式である。
特に漢代には宮廷文学として発達し、
皇帝の苑囿や狩猟、都市、宮殿などを壮大な規模で描く「大賦」が盛んになった。
司馬相如はこの漢賦を代表する作家であり、
『子虚賦』『上林賦』によって後世の賦文学に大きな影響を与えた。
そのため文学史上では、前漢を代表する辞賦家として位置づけられている。
武帝に仕えた宮廷文人
司馬相如は武帝のもとで高位の政治家として政務全般を担った人物ではない。
『史記』には、口吃、すなわち言葉を滑らかに話すことが不得手だった一方、
文章を書くことには非常に優れていたと記されている。
また消渇の病を患い、卓氏との婚姻によって財産を得た後は、
官位を求めて公卿と国政を論じることを好まず、病気を理由に閑居することも多かった。
その一方で、武帝の政治と無関係だったわけでもない。
必要に応じて文章を作り、皇帝の行動を諫め、辺境政策では使者として現地へ赴いた。
司馬相如の官僚としての特徴は、行政機構の中心で政策を立案することより、
文章によって皇帝の意思を表現し、政策を説明し、ときには皇帝自身を諫めるところにあった。
「諫猟書」――武帝の危険な狩猟を諫める
司馬相如はしばしば武帝の狩猟に随行した。
武帝は自ら熊や猪を撃ち、野獣を追い回すことを好んだため、
司馬相如は皇帝自身が危険に身をさらすことを問題視し、上書して諫めた。
どれほど警備を整えても予想外の事故を完全に防ぐことはできず、
万乗の君主が自ら危険を冒すべきではないという趣旨の文章である。
武帝はこれを評価した。
『子虚賦』『上林賦』で壮大な狩猟を描いた司馬相如が、
現実の皇帝の危険な狩猟には歯止めをかけようとした点は、
その作品を単なる宮廷賛美として理解できないことを示している。
また宜春宮を通過した際には、秦の二世皇帝胡亥の失政を哀れむ「哀二世賦」を奏した。
司馬相如は過去の亡国の君主を題材として、皇帝に政治的な教訓を示すこともあった。
西南夷政策と司馬相如
司馬相如の官僚としての活動でもっとも重要なのが、武帝の西南夷政策への関与である。
武帝は西南方面への進出を進め、唐蒙を夜郎などへ派遣した。
唐蒙は巴蜀から多数の人員や物資を徴発し、軍法によって現地の有力者を処刑したため、
巴蜀の人々は大きな不安に陥った。
そこで武帝は司馬相如を派遣し、唐蒙らを責めるとともに、
こうした苛酷な措置は皇帝の本意ではないと巴蜀の人々へ説明させた。
司馬相如はこのとき「喩巴蜀檄」を作り、朝廷の意図を伝えている。
中郎将として蜀へ赴く
その後、西南地域の邛・莋・冉・駹などの君長が漢との関係を求めると、
武帝は司馬相如に意見を求めた。
司馬相如はこれらの地域は蜀に近く、交通路を開きやすいうえ、
以前にも中国王朝との関係があったとして、郡県を設置することを支持した。
武帝はその意見を採用し、司馬相如を中郎将に任じて節を持たせ、西南へ派遣した。
王然于・壺充国・呂越人らが副使となり、
司馬相如は巴蜀の官吏を通じて西南諸勢力との交渉を進めた。
蜀へ到着すると太守以下が郊外まで迎え、県令が弩矢を背負って先導したという。
かつて貧しい文人にすぎなかった司馬相如が、皇帝の使者として故郷へ戻ってきたのである。
この姿を見た卓王孫は、娘を司馬相如へ正式に嫁がせるのが遅すぎたと嘆き、
卓文君に息子と同等の財産を分け与えたと伝えられている。
卓文君との駆け落ちの逸話と司馬相如の官僚としての成功は、
『史記』『漢書』の中でもここで再び結びついている。
「難蜀父老」――西南進出への反発に答える
西南夷との交通路建設は、巴蜀・広漢から多数の人々を動員し、莫大な費用を必要とした。
工事が長期化して死者も出たため、蜀の人々だけでなく朝廷内からも政策に対する批判が出た。
司馬相如自身も諫めたいと考えたが、すでに政策が開始されていたため正面から反対せず、
蜀の父老が政策を批判し、それに自ら答える形式の「難蜀父老」を作った。
これは西南政策の意義を説明する文章であると同時に、
政策に伴う負担を文章の中へ取り込んで皇帝に示すものでもあった。
司馬相如は単に「文章と説得によって辺境を統治した」のではなく、
実際に皇帝の節を持つ使者として現地へ赴き、
朝廷と巴蜀、西南諸勢力の間を調整した官僚だったのである。
収賄を告発されて官を失う
西南夷への使者を務めた後、司馬相如は任務中に金銭を受け取ったと告発され、官職を失った。
『史記』は告発の事実を記すものの、実際にどのような金銭を受け取り、
それがどこまで事実だったのかまでは詳しく記していない。
一年余りすると再び召されて郎となったが、
司馬相如はもともと官位への執着が強い人物ではなく、病気を理由に閑居することも多かった。
華やかな辞賦によって武帝に寵遇された人物でありながら、
その官僚人生は一直線の出世ではなかった。
司馬相如の文章と武帝の権威
司馬相如の作品には、武帝期の政治と宮廷文化が色濃く反映されている。
『子虚賦』『上林賦』では遊猟と苑囿を通して天子の支配する世界を描き、
「喩巴蜀檄」「難蜀父老」では西南政策を説明し、「諫猟書」では皇帝の行動を戒めた。
その文章は皇帝の威信を飾るだけではなく、
皇帝と臣下、中央と地方の間を結ぶ政治的な役割を持っていた。
司馬相如が武帝期を代表する宮廷文人となった理由は、美しい文章を書いたからだけではない。
皇帝の権威や政策を、その時代にふさわしい言葉へ変換する能力を持っていたからである。
『大人賦』と神仙への憧れ
武帝が神仙に関心を強めると、司馬相如は「大人賦」を奏した。
そこでは俗世を超越して天上を遊行する「大人」の姿が壮麗に描かれている。
『史記』によれば、武帝はこの賦を読んで大いに喜び、
自らも天地の間を漂うような感覚を抱いたという。
皇帝を諫める文章を残す一方、武帝の神仙への憧れを刺激する作品も書いており、
司馬相如と武帝の関係には称揚と諷諫の双方が存在した。
晩年と「封禅文」
司馬相如は孝文園令となった後、病気のため官を退き、茂陵で暮らした。
『史記』には口吃に加えて「消渇」の病を常に患っていたと記されている。
消渇は激しい口渇などを特徴とする病名で、現代の糖尿病に相当する場合があると考えられているが、
史料から現代医学上の診断を確定することはできない。
病状が重くなると、武帝は司馬相如の文章が失われることを心配し、
使者の所忠を派遣して著作を集めさせようとした。
しかし所忠が到着したときには司馬相如はすでに死去していた。
妻に著作について尋ねると、司馬相如は文章を書くたびに人が持っていったため、
家にはほとんど残っていないと答えた。
ただし死の前に一巻の文章を書き、使者が来たら皇帝へ献上するよう言い残していた。
それが封禅について論じた文章だった。武帝はこれを読んで特別な関心を示したという。
武帝の封禅を見ることなく死去
封禅は皇帝が泰山などで天地を祭り、自らの徳と天下統治を天に示す国家儀礼である。
司馬相如は遺稿の中で、古代の帝王や天命を論じながら封禅の意義を説いた。
司馬相如自身は武帝が実際に封禅を行う前に死去した。
一般には元狩6年(前117)に没したとされる。
その後、武帝は元封元年(前110)に泰山で封禅を行うことになる。
『子虚賦』『上林賦』で天子の壮大な世界を描き、
西南政策では皇帝の使者として活動した司馬相如が、
最後に残した文章もまた皇帝と天下秩序を扱うものだった。
司馬相如と卓文君をめぐる後世の伝説
司馬相如と卓文君の恋愛は、後世になるとさらに多くの逸話を生み出した。
「鳳求凰」の琴歌や、司馬相如が別の女性を迎えようとしたため
卓文君が「白頭吟」を作ったという話などが有名である。
ただし、これらをすべて『史記』に記された事実と同列に扱うことはできない。
『史記』が具体的に記しているのは、司馬相如が琴で卓文君を誘ったこと、
卓文君が夜に駆け落ちしたこと、二人が臨邛で酒屋を営んだことなどである。
後世の文学によって付け加えられた物語と、早い時期の史料に確認できる逸話は区別する必要がある。
それでも、卓文君との物語が司馬相如の知名度を大きく高めたことは確かである。
漢代を代表する文人が、自ら琴を奏でて富豪の娘を誘い、
駆け落ちした末に酒器を洗って暮らしたという物語は、
宮廷で武帝に仕えた後半生との落差も大きく、後世の人々を惹きつけ続けた。
司馬相如の文学史上の評価
司馬相如の最大の文学的功績は、漢代の大賦を代表する表現を確立したことにある。
『子虚賦』『上林賦』では、膨大な事物を列挙し、珍しい文字や語彙を駆使しながら、
自然・都市・宮殿・鳥獣・遊猟を一つの巨大な世界として描いた。
その作品は後世の辞賦家に大きな影響を与え、『文選』にも収録された。
単に美文の名手だったのではなく、
漢帝国の広大さと皇帝権力を表現するための文体を発展させた人物として、
中国文学史上に位置づけられる。
一方で、その華麗な文章が皇帝の奢侈や神仙思想をむしろ助長したのではないか
という批判も後世には存在した。
司馬相如自身は作品の末尾に諷諫を込めたが、豪華な描写そのものが読者を魅了するため、
称揚と批判のどちらが中心なのかという問題は古くから議論の対象となった。
『史記』が司馬相如に長大な列伝を設けた理由
司馬相如についてもっとも詳しい史料は、司馬遷の『史記』巻117「司馬相如列伝」である。
この列伝は伝記的事実だけを簡潔に並べたものではなく、
『子虚賦』『上林賦』をはじめ、「喩巴蜀檄」「難蜀父老」や封禅に関する文章など、
司馬相如の作品を大量に収録している。
そのため「司馬相如列伝」は、一人の文人の生涯を伝える列伝であると同時に、
武帝期の文学と政治を文章そのものによって残した資料でもある。
『漢書』巻57上・下「司馬相如伝」もその伝記と作品を詳しく収録し、
司馬相如は後世に漢賦を代表する作家として位置づけられていった。
司馬相如は宰相でも将軍でもなく、大規模な政治改革を主導した人物でもない。
それにもかかわらず長大な伝記が残された背景には、
武帝の時代に「文章」が政治や皇帝権力と深く結びついていたことがある。
司馬相如の生涯は、文学が単なる個人的な創作ではなく、
王朝が自らの天下を表現する手段にもなり得た時代を象徴している。
まとめ
司馬相如は蜀郡成都に生まれ、読書と撃剣を好んだ青年から景帝の郎となり、
梁孝王のもとで鄒陽・枚乗らと交流して『子虚賦』を著した。
梁孝王の死後には蜀へ戻り、臨邛で卓文君と出会って駆け落ちし、一時は酒屋を営むほど困窮したが、やがて武帝が『子虚賦』を読んだことをきっかけに宮廷へ召し出された。
武帝のもとでは『上林賦』を奏して漢賦を代表する文人となる一方、
「諫猟書」で皇帝の危険な狩猟を戒め、西南夷政策では中郎将として蜀へ赴き、
「喩巴蜀檄」「難蜀父老」などによって朝廷の政策と現地社会を結ぶ役割を担った。
晩年は病のため茂陵に退き、武帝の封禅に関する文章を遺して世を去った。
卓文君との恋愛譚によって後世まで広く知られているが、
司馬相如の歴史的な重要性はそれだけではない。
辞賦によって漢帝国の世界を描き、
諷諫・外交・辺境政策・国家儀礼にまで文章を用いた司馬相如は、
武帝期における文学と政治の結びつきを代表する文人官僚だった。
史書・参考文献
・『史記』巻117「司馬相如列伝」
・『漢書』巻57上・下「司馬相如伝」
・蕭統編『文選』司馬相如賦
・『文選』司馬相如賦
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