李輔国|唐王朝で初めて皇帝を操った宦官

唐の宦官 李輔国 024.宦官

李輔国(704–762)は、玄宗末期〜粛宗・代宗期に権勢をふるった宦官で、
粛宗を霊武で即位させた立役者であり、唐代で初めて宰相級の権力を持った宦官である。
 ※李輔国任じられ中書令 は本来、宰相職の一つであるが、
  宦官は原則として正式な宰相になれないという慣例があったため、 
  制度上の正式宰相ではない。

その一方で、玄宗(太上皇)を圧迫し、皇太子派を排除し、
最終的には代宗により暗殺されるという劇的な生涯を送った。

出自と宦官入り

高力士の下働きとして宮中入り

もともと身分の低い家の出身であった。
若い頃に去勢され、高力士の僕役として宮中に入った。

李輔国は、頭の回転が速く、人の心を読むのがうまい、
といった能力を持っていたとされている。

40歳を過ぎて太子・李亨(後の粛宗)に仕える

閑厩(皇室の馬を管理する部署)を掌握し、
太子・李亨の側近として仕えるようになる。

この人事が後の大出世の基盤となった。

安史の乱:太子を霊武で即位させた“影の立役者”

馬嵬坡で太子に「楊国忠の排除」を進言

755年、安史の乱が勃発し、玄宗は蜀へ逃亡。
李輔国は太子に随行し、馬嵬駅で太子に 「楊国忠を排除すべき」と進言した。

これは太子の独自行動を後押しする重要な助言だった。

霊武での即位を強く推す

李輔国は玄宗と別行動を取っていた太子に対し、
「民心を安定させるため、霊武で即位すべき」 と強く主張した。
756年、太子は霊武で即位し粛宗となる。

李輔国はこの功績により、元帥府行軍司馬に任命され、兵権を掌握した。

粛宗期:権力の絶頂と玄宗への圧迫

粛宗は李輔国を深く信頼し、 開府儀同三司に任じ、郕国公に封じた。

「宮廷政治」「人事」などに大きな影響力を持つだけでなく、
「軍政」の多くも李輔国の手に委ねられた。

玄宗と楊貴妃の時代の終わり

安史の乱終結後、蜀へ逃れていた玄宗が長安に戻ると、
李輔国は玄宗の復権を恐れ、玄宗を西内太極宮へ移動させるよう強要した。
さらに玄宗の側近であった高力士らを免官し、 太上皇の影響力を徹底的に削いだ。

粛宗末期:張皇后との権力闘争と“宮廷クーデター”

皇后殺害事件

粛宗の皇后・張皇后は宮廷で大きな権力を持っていたが、李輔国と対立するようになる。

粛宗が病に倒れると、張皇后は太子・李豫(後の代宗)を排除し、
越王・李係を皇位につけようと画策した。
李輔国はこの陰謀を察知し、太子・李豫を即位させ、張皇后と越王を殺害した。

これにより、李輔国は皇位継承を左右する絶対的権力者となった。

皇帝をも恐れぬ権力

762年、粛宗が死去すると、代宗が即位した。

代宗は李輔国の功績を認め、 司空兼中書令(宰相)に任じ、
さらに“尚父”(父のように尊ぶ存在)とまで呼んだ。

李輔国は宦官でありながら
 ・宰相以上の影響力
 ・皇帝への直接発言権

を持つようになり、宮廷では「宦官が国を動かしている」と言われるほどであった。

李輔国の最期

しかし専横が極まり、代宗の不興を買うことになる。

李輔国は官僚を監視する部署「察事庁子」を設置し、 政務を完全に掌握した。
代宗は李輔国の権力を警戒し、次第に彼を遠ざけた。

その後、李輔国は自宅で刺客に襲われて殺害された。
死後、太傅を追贈されたが、権勢は完全に消えた。

史書は犯人を明記していないが、多くの歴史家は、
皇帝側の命令だった可能性が高いと考えている。
当時禁軍を掌握していた宦官・程元振の関与が指摘されている。

まとめ

李輔国の権力は非常に強く、
 ・皇帝粛宗を補佐
 ・玄宗を幽閉
 ・張皇后を処刑
 ・軍の指揮に関与

などを行い、当時の人々は

「天下の事、皆決於輔国」
(天下の政務はすべて輔国が決める)

とまで言っている。

史書・参考文献

・『旧唐書』宦官伝
・『新唐書』宦官伝
・『資治通鑑』
・氣賀澤保規『隋唐帝国史』
・宮崎市定『中国史』

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