卞夫人(べんふじん、武宣皇后)は、
後漢末から三国時代初頭に生きた曹操の妻であり、魏の初代皇帝・曹丕の母である。
もとは「倡家」と呼ばれる歌舞・音楽を生業とする家の出身だったが、
若くして曹操の妾となり、丁夫人が曹操と別れた後には継室として後宮を統率した。
曹丕・曹彰・曹植・曹熊を生んだだけでなく、母を失った曹操の子供たちも養育している。
『三国志』「武宣卞皇后伝」と裴松之注には、董卓の乱で動揺する曹操の側近を引き止めた話、
丁夫人に対して旧怨を抱かなかった話、華美を嫌った生活、
曹丕が太子となっても喜びすぎなかった態度、外戚への厳しい姿勢など、多くの逸話が残されている。
一方、曹洪が曹丕によって処刑されそうになると、郭皇后を通じて強く助命を迫るなど、
必要な場面では決して受動的な女性ではなかった。
曹操の妾から継室、魏王后となり、曹丕の即位後には皇太后、
曹叡の即位後には太皇太后となった卞夫人は、
曹操の勢力形成から魏王朝成立後まで四十年以上にわたって曹氏一族の中心にいた女性だった。
卞夫人の出自と曹操の妻となるまで
卞氏は琅邪郡開陽県の出身で、『三国志』は「本倡家」と記している。
「倡家」は歌舞や音楽などを生業とする家を意味し、
後世の皇后伝に多い名門豪族出身の女性とは異なる経歴を持っていた。
裴松之注が引用する『魏書』によれば、卞氏は延熹3年(160)12月に斉郡白亭で生まれた。
このとき黄色い気が長時間にわたって部屋に満ちたため、
父が占者の王旦に尋ねると、「これは吉祥である」と答えたという。
皇后となる人物の出生に瑞祥を結びつけた説話であり、
そのまま史実とみなすことはできないが、卞夫人について早くから伝えられていた逸話の一つである。
なお、父について『魏書』は後世の追諡によって「敬侯」と記しており、
卞氏が最初から地方の有力豪族の娘だったと断定できる史料はない。
むしろ『三国志』がわざわざ「本倡家」と記していることが、その出自を考えるうえでは重要である。
20歳になると、卞氏は譙にいた曹操に迎えられて妾となった。
曹操はまだ後に魏王となるほどの権力を持っておらず、
後漢王朝の官僚として活動していた時期である。卞氏はその後、曹操とともに洛陽へ移った。
董卓の乱で曹操の側近を引き止める
中平6年(189)、董卓が洛陽で実権を握ると、曹操は身分を隠して東方へ脱出した。
このとき袁術が曹操は死んだという情報を流したため、洛陽に残っていた曹操の側近たちは動揺し、
それぞれ故郷へ帰ろうとした。
卞氏は彼らを引き止め、
「曹君の生死はまだ分からない。今日帰郷して、明日になって曹君が生きていると分かったなら、
どのような顔で再び会えるのか。たとえ災難が本当に起こったとしても、
ともに死ぬことがどうして苦しいのか」という趣旨の言葉を述べた。
側近たちは卞氏の言葉に従って離散せず、後にこのことを知った曹操も彼女を高く評価したという。
後世の物語では曹操による董卓暗殺未遂と逃亡が有名だが、
「武宣卞皇后伝」がこの逸話で記しているのは、
曹操が董卓の乱を避けて微服で東方へ出たことと、死亡説によって側近が動揺したことである。
卞氏の冷静さを示す逸話として重要なのは、曹操の生死が不明な状況でも周囲をまとめた点にある。
丁夫人との関係と曹操後宮の中心へ
卞氏が曹操の後宮で中心的な立場となるきっかけになったのが、正妻だった丁夫人との別離である。
曹操には劉夫人との間に長男の曹昂と清河長公主がいたが、
劉夫人は早くに亡くなったため、曹昂は丁夫人に育てられた。
建安2年(197)、曹操が張繡の降伏を受け入れて宛に入った後、
張繡が反乱を起こし、曹昂は戦死した。
実子同然に育てていた曹昂を失った丁夫人は深く悲しみ、曹操を繰り返し非難した。
曹操は怒って丁夫人を実家へ帰し、しばらくして自ら迎えに行った。
丁夫人は機織りを続けたまま曹操に応じず、
曹操が「一緒に帰ろう」と声をかけても振り向かなかった。
曹操は戸口でもう一度復縁を求めたが、丁夫人は答えず、二人の関係は完全に終わった。
建安年間の初め、丁夫人が去った後に卞氏が継室となった。
曹操は母を失った自分の子供たちを卞氏に養育させている。
卞氏自身も曹丕・曹彰・曹植・曹熊を生んでおり、
実子だけでなく曹操の後宮に生まれた子供たちを育てる立場となった。
↓↓曹操の長男・曹昂についての個別記事は、こちら

自分を軽く見ていた丁夫人にも礼を尽くす
裴松之注所引『魏略』によれば、
丁夫人は正妻であり、曹操の長男曹昂を養育していたことから、卞氏母子を軽く見ていた。
しかし卞氏は自分が継室となって立場が逆転してからも、過去の扱いを恨まなかった。
曹操が遠征に出ると、卞氏は季節ごとに丁夫人へ贈り物を届け、
自ら丁夫人を迎えては正座に座らせ、自分はその下座についた。
迎えるときも送り出すときも、丁夫人が曹操の正妻だったころと変わらない礼を尽くしたという。
丁夫人はついに、
「私は捨てられた人間なのに、どうしていつまでもこのようにしてくれるのか」と卞氏に感謝した。
丁夫人が亡くなると、卞氏は曹操に願い出て葬儀を行う許可を得て、許昌の南に葬った。
曹操自身も晩年、曹昂の死について後悔を残していた。
病が重くなったとき、
「もし死後に曹昂から『私の母はどこにいるのか』と尋ねられたら、何と答えればよいのか」
と嘆いたと『魏略』は伝えている。
卞氏と丁夫人の関係は、
曹昂の死によって分裂した曹操の家族関係を考えるうえでも重要な記録である。
曹操を支えた卞夫人の人物像
卞夫人について史料が繰り返し強調するのが、感情を抑える節度と質素な生活である。
『魏書』は、彼女が倹約を好み、華美なものを身につけず、刺繍を施した衣服や珠玉を用いず、
器物も黒漆のものを使用していたと記している。
有名なのが耳飾りの逸話である。曹操が複数の立派な耳飾りを手に入れ、卞氏に一つ選ばせたところ、
彼女は最上等でも最下等でもない中程度の品を選んだ。
曹操が理由を尋ねると、
「最上のものを取れば貪欲になり、最下のものを取れば偽っていることになるので、
中ほどのものを選びました」と答えたという。
単純に最も安価な品を選んで倹約を演出したのではなく、
過度な欲と過度な自己演出の双方を避けようとしたところに、この逸話の特徴がある。
曹丕が太子になっても財物を配らなかった
建安22年(217)、曹丕は曹植との後継者争いを経て魏王太子となった。
卞氏の周囲にいた女性たちはこれを喜び、
「曹丕様が太子となり、天下で喜ばない者はいません。財物を出して皆に褒美を与えるべきです」
と勧めた。
しかし卞氏は、曹操が曹丕を年長であるため後継者にしたのであり、
自分としては「教育を誤ったという責任を免れたことを幸いとするだけだ」という趣旨を答え、
大規模な褒賞を行わなかった。
この話を聞いた曹操は、怒っても顔色を変えず、
喜んでも節度を失わないことは最も難しいとして卞氏を評価した。
曹丕と曹植の後継者争いは曹操晩年の大きな問題だったが、少なくともこの史料で卞氏は、
実子曹丕の勝利を利用して自分や一族の勢力を拡大しようとする母としては描かれていない。
↓↓卞夫人の息子・曹丕、曹彰、曹植についての個別記事はこちら



遠征に同行し、老人を見ると涙を流す
『魏書』によれば、卞夫人は曹操の遠征に同行することがあり、
その途中で白髪の老人に出会うと車を止めて話を聞き、絹帛を与えたという。
老人たちを見た卞夫人は、自分の父母がすでに亡くなり、
現在の自分の境遇を見ることができなかったことを思って涙を流したと伝えられている。
この逸話は、後に魏王后、皇太后へと上った卞夫人が、
身分の上昇後も亡き父母への思いを抱き続けていたことを伝える記録である。
楊修の母へ送った手紙
建安24年(219)、曹操は楊修を処刑した。
『古文苑』には、卞夫人が楊修の母である袁氏に送ったとされる書簡が残されている。
卞夫人はその中で楊修の文才を称え、曹操が軍法によって彼を処刑したことを自分は知らず、
知らせを聞いて大きな衝撃を受けたと述べている。
そして袁氏に許しを求め、衣服、絹、錦、香車、牛などを贈った。
この書簡をそのまま卞夫人本人の文章としてどこまで扱えるかには伝承上の問題があるものの、
後世に伝えられた卞夫人像を知る史料としては興味深い。
丁夫人への対応と同様、
曹操によって傷つけられた側の女性に対して卞夫人が配慮を示すという人物像がここにも現れている。
魏王后から皇太后・太皇太后へ
建安21年(216)、曹操は魏王となったが、卞氏が王后に冊立されたのは建安24年(219)である。
冊命では、卞氏が諸子を養育し、「母儀の徳」があることを理由として王后に進めるとされた。
太子や諸侯、群臣が列席して祝賀し、国内の死罪を一等減刑する措置も取られている。
翌建安25年(220)に曹操が死去すると、曹丕が魏王を継承し、卞氏は王太后となった。
同年、曹丕が献帝から禅譲を受けて魏の皇帝に即位すると皇太后となり、永寿宮と称された。
皇太后となってからも倹約は変わらなかった。
『魏書』によれば、国費が不足していることを理由に自らの食事を減らし、
金銀の器物も取り除かせたという。
曹植が罪を犯しても国法を曲げさせない
卞太后は末子の曹植を特にかわいがっていたとされる。
しかし曹植が罪を犯して担当官から奏上された際、曹丕は卞太后の親族を通じてそのことを知らせた。
『魏書』によれば、
卞太后は「この子がこのようなことをするとは思わなかった。私のために国法を曲げてはならない」
と答え、曹丕に直接会ったときにも曹植のために口を出さなかったという。
ただし裴松之は、この『魏書』の記事に疑問を呈している。
曹丕が見た夢を周宣が占った別の逸話では、
曹丕が曹植に何かしようとしても太后が許さないことを示す内容になっており、
裴松之は『魏書』が描くほど卞太后が曹植の問題に無関与だったとは考えにくいとしている。
卞夫人に関する『魏書』は彼女を理想的な皇太后として描く傾向が強いため、
こうした記述は裴松之の批判も含めて読む必要がある。
曹洪助命事件と外戚への姿勢
皇太后となった卞夫人が政治的に強い態度を見せた代表例が、曹洪の助命である。
曹洪は曹操の従弟にあたり、曹操の挙兵以来活躍した功臣だった。
しかし非常に裕福でありながら吝嗇だったとされ、
曹丕が若いころに財物を借りようとして満足な対応を受けられなかったため、
曹丕はこれを恨んでいた。
曹丕の即位後、曹洪の食客が罪を犯すと、曹洪自身も投獄され、死刑に処されようとした。
群臣が助命を求めても曹丕は聞き入れなかった。
そこで卞太后は郭皇后に対し、
「今日曹洪を死なせるなら、明日には皇帝に命じてあなたを廃后させる」とまで言った。
郭皇后は泣いて曹丕に繰り返し助命を求め、曹洪は死刑を免れた。
裴松之注所引『魏略』では、卞太后自身も曹丕を叱責し、
曹洪の字である子廉を用いて「梁・沛の間で子廉がいなければ、今日のお前はなかった」
と述べたとされる。
曹洪は釈放されたものの財産を没収されたため、
卞太后はこれについても口を出し、最終的に財産は返還された。
曹洪が曹操を救った過去を卞太后が持ち出していることから、
単に親族だから助命したというだけではない。
曹操以来の功臣に対して、
曹丕が個人的な遺恨を背景に死刑を科そうとすることを止めた事件として見ることができる。

弟・卞秉を厚遇させようとしたのか
卞夫人には卞秉という弟がいた。
曹操時代、卞秉の官位や財産は他の功臣と比べても大きなものではなかった。
卞夫人が弟への処遇について曹操に働きかけた話も伝えられているが、
曹操は外戚であることを理由に高い爵位を与えることに慎重だった。
一方、卞夫人自身も皇太后となってから外戚を甘やかしたわけではない。
『魏書』によれば、親族に会っても特別な愛想を見せず、
「生活は倹約に努め、賞賜を期待して安楽に暮らそうとしてはならない」と戒めた。
さらに法を犯した者がいれば、自分はむしろ罪を一等重くすることさえできるので、
金銭や米の援助を期待してはならないと語ったという。
曹丕が卞秉のために邸宅を建てた際、卞太后はそこへ親族を集めたが、料理は通常のものと変わらず、
自分の側近たちにも野菜と粟飯だけを与え、魚や肉を出さなかったとされる。
曹丕と曹叡による卞氏一族の処遇
曹丕は黄初年間、母方の祖父母を追封しようとした。
しかし尚書の陳羣は、古い礼制には女性の親族に領地と爵位を与える制度はなく、
後世の先例に従うべきではないと反対した。
曹丕はその意見を認め、追封を取りやめている。
ところが曹叡の時代になると状況が変わった。
太和4年(230)、卞太后の祖父・卞広は開陽恭侯、父・卞遠は敬侯と追諡され、
祖母周氏や母にも称号と印綬が与えられた。
弟の卞秉も曹丕時代の黄初7年(226)に開陽侯となり、その子孫にも爵位が継承された。
さらに後世には卞氏一族から曹髦の皇后、曹奐の皇后も出ており、
卞氏と魏皇室の婚姻関係は魏末まで続いている。
卞夫人自身が外戚の増長を戒めたことと、
皇帝側が国母の一族として卞氏を次第に顕彰していったことは分けて考える必要がある。
↓↓孫・曹叡についての個別記事は、こちら

卞夫人の死と後世の評価
曹丕が黄初7年(226)に死去し、曹叡が即位すると、卞氏は太皇太后となった。
曹操の妾としてその家に入った女性が、息子の皇帝即位を経て、
孫の代には魏皇室最高位の女性となったことになる。
太和4年(230)5月、卞太皇太后は死去し、7月に曹操の高陵へ合葬された。
『魏書』が伝える延熹3年(160)生まれを採用すれば、数え年71歳となる。
ただし、生年については裴松之注所引史料に依拠するため、
「享年70歳前後」とだけ断定するより、史料上の根拠を示しておく方がよい。
曹操の高陵から見つかった女性の遺骨
2009年、河南省安陽市で曹操の墓とされる高陵の発掘が公表され、
墓内から男性と女性の人骨が発見された。
これを曹操と卞夫人らに結びつける見解も示され、卞夫人の墓葬をめぐる議論として注目された。
ただし、『三国志』では卞夫人が曹操の高陵へ合葬されたことは確認できても、
出土した女性遺骨を卞夫人本人と確定できるわけではない。
推定年齢をはじめ考古学的な検討も残されているため、
「卞夫人の遺骨が発見された」と断定するのではなく、
候補として論じられている段階として扱う必要がある。
「賢后」だけでは捉えきれない卞夫人
卞夫人には、丁夫人への配慮、質素な生活、曹丕が太子となった際にも浮かれなかった態度、
外戚への厳しい戒めなど、後世の「賢后」像につながる逸話が数多く残されている。
その一方で、曹洪の処刑問題では郭皇后の廃位まで持ち出して曹丕に圧力をかけるなど、
必要と判断した場面では非常に強い態度を取っている。
また、卞夫人の美徳を詳しく伝える記事の多くは
裴松之注所引『魏書』に依存していることにも注意が必要である。
裴松之自身、『魏書』が曹魏の后妃を美化している可能性を指摘しており、
そこに記された逸話をすべて無批判に人物評価へ結びつけることはできない。
それでも、董卓の乱から曹操の死、曹丕による魏建国、曹叡の即位までを経験し、
妾・継室・魏王后・皇太后・太皇太后と立場を変えながら
曹氏一族の中心に居続けたことは確かである。
卞夫人の生涯は、曹操個人の妻という枠を超え、
後漢末の軍閥的な家族集団が魏の皇室へ変化していく過程そのものと重なっている。
まとめ
卞夫人の特徴は、低い出自から皇太后へ上りつめたという身分上昇だけにあるのではない。
曹操の勢力がまだ不安定だった時期からその家に入り、曹操の子供たちを養育し、
丁夫人との関係を保ち、曹丕・曹植らが後継者を争う時期を経て、
最終的には魏皇室の最長老となった。
その立場は、曹操の家族が魏王家、さらに皇帝家へ変化するのに伴って形成されたものだった。
史料に残る卞夫人は、常に夫や息子へ従うだけの女性でもなければ、
後宮から積極的に政権を動かした権力者でもない。
普段は倹約と節度を守り、一族にも同じ態度を求めながら、
曹洪の処刑のように曹氏政権の人間関係を揺るがしかねない問題では皇太后として強く介入した。
この抑制と介入の使い分けこそ、
後世に「賢后」と評価された卞夫人の人物像を考えるうえで重要な点である。
お薦め商品
史書・参考文献
・『三国志』魏書巻5「武宣卞皇后伝」
・『三国志』魏書巻9「曹洪伝」
・『三国志』裴松之注
・『古文苑』「卞夫人与楊太尉夫人袁氏書」
・盧弼『三国志集解』
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