藍玉(らんぎょく)は、朱元璋のもとで明朝建国後の対外戦争を支えた武将である。
常遇春の妻の弟としてその軍に入り、四川・北元・西蕃・雲南など各地を転戦した。
とりわけ洪武21年(1388年)の捕魚児海の戦いでは十五万の大軍を率いて
北元皇帝トグス・テムルの本営を急襲し、皇族・官僚・兵民と膨大な家畜を捕らえる大勝を収めた。
この軍功によって永昌侯から涼国公へ昇り、
徐達・常遇春ら建国期の名将が死去した後には明軍を代表する大将となった。
しかし軍功とともに権勢も拡大し、民田の占有、御史の追放、喜峰関の破壊、
軍中での独断的な人事などを朱元璋から問題視されるようになる。
洪武26年(1393年)には謀反を計画したとして処刑され、
追及は多数の侯・伯・武官・文官へ拡大した。これが「藍玉の獄」である。
藍玉は本当に反乱を計画していたのか。
なぜ北元を破った大将軍が処刑され、その事件が一万五千人に及ぶ大粛清へ発展したのか。
藍玉の軍歴、朱元璋との関係、皇太子朱標や燕王朱棣との関係、
藍玉の獄の実態まで史料から見ていく。
常遇春の配下から大将軍へ|藍玉の前半生
藍玉は定遠の出身で、生年は史書に明記されていない。
『明史』では「開平王常遇春婦弟」と記されており、
姉が常遇春の妻だったことから、その縁で常遇春の軍に入った。
常遇春の麾下では戦場で勇敢に戦い、「所向皆捷」と記されるほど軍功を重ねた。
常遇春も藍玉の能力を朱元璋へたびたび推薦し、昇進する。
『国朝献徴録』によれば、藍玉は管軍鎮撫から武徳衛千戸、親軍千戸、武徳衛指揮僉事、
指揮使へと昇進し、洪武元年(1368年)冬には大都督府僉事となった。
常遇春との姻戚関係は軍歴の入口となったが、その後は実戦で地位を上げていった。
洪武4年(1371年)には傅友徳に従って四川へ遠征し、明夏政権との戦いで綿州を攻略した。
翌洪武5年(1372年)には徐達の北伐に参加し、
雁門から北へ進んで乱山で元軍を破り、さらに土剌河でも勝利する。
洪武7年(1374年)には自ら軍を率いて興和を攻略し、元の国公・帖里密赤ら五十九人を捕らえた。
洪武11年(1378年)には西平侯・沐英とともに西蕃へ遠征し、三副使らを捕らえて多数を斬獲した。
翌年に帰還すると、それまでの軍功によって永昌侯に封じられ、
食禄二千五百石と世券を与えられている。
↓↓猛将・常遇春、名将・徐達についての個別記事は、こちら


雲南遠征|梁王政権を滅ぼす
洪武14年(1381年)、朱元璋は元朝の勢力が残っていた雲南を平定するため、
傅友徳を征南将軍として大軍を派遣した。
藍玉は征南副将軍としてこれに加わり、沐英らとともに雲南へ進軍する。
明軍は曲靖で元の平章・達里麻を破って捕らえ、
雲南を支配していた梁王バツァラワルミは逃亡した末に死亡した。
その後も火理・鶴慶・麗江・建昌・金歯などへ軍を進め、雲南各地の元朝勢力を平定し、
『明史』はこの遠征について「玉功為多」と藍玉の軍功が大きかったことを明記している。
帰還後には食禄を五百石加増された。
また藍玉の娘は朱元璋の第十一子・蜀王朱椿の妃となっている。
藍玉は有力武将であるだけでなく、皇族と婚姻関係を持つ功臣となった。
ナガチュ討伐|馮勝から大将軍の地位を引き継ぐ
洪武20年(1387年)、藍玉は征虜左副将軍として大将軍・馮勝の北方遠征に参加した。
標的となったのは、遼東方面に大きな勢力を維持していた北元の有力者ナガチュである。
通州へ進んだ藍玉は、元軍が慶州に駐屯しているとの情報を得ると、
大雪の中で軽騎兵を率いて急襲した。
元軍を破って平章・果来を殺し、その子・不蘭溪を捕らえて帰還している。
明軍がさらに金山へ進むと、ナガチュは降伏を申し出た。
藍玉が降伏を受け入れる役を務め、ナガチュが数百騎を率いて現れると酒宴が開かれたが、
その席で事件が起こる。
藍玉は自分の衣服をナガチュに着せて酒を飲ませようとしたものの、ナガチュはこれを拒否した。
互いに譲らないうちにナガチュが酒を地面へこぼし、
部下へ何事かを話すと、同席していた鄭国公・常茂が逃亡を疑って斬りつけ、ナガチュを負傷させた。
降伏のために現れたナガチュが傷つけられたことで配下は動揺したが、
明軍は降将を使って説得し、残存勢力も降伏させた。
ナガチュ勢力の帰順によって北元の東方勢力は大きく後退する。
遠征後、馮勝が罪を問われて大将軍の印を取り上げられると、
藍玉が総兵官の職務を代行し、ほどなく軍中で正式に大将軍へ任命された。
かつて常遇春の配下として軍歴を始めた藍玉は、
ここで明軍そのものを率いる立場へ上り詰めたのである。
捕魚児海の戦い|十五万の明軍が北元皇帝を急襲
藍玉最大の軍功となったのが、洪武21年(1388年)の捕魚児海の戦いである。
当時、元順帝トゴン・テムルの孫トグス・テムルが北元皇帝となり、塞外で勢力を維持していた。
朱元璋は藍玉を大将軍として十五万の兵を与え、北元への大規模遠征を命じた。
藍玉は大寧から慶州へ進み、北元皇帝が捕魚児海付近にいるとの情報を得ると、
間道を使って昼夜兼行で北上した。
しかし百眼井まで進んでも敵を発見できず、一時は撤退を考える。
ここで定遠侯・王弼が、十数万の大軍を率いて漠北深くまで進みながら
何の戦果もなく帰れば復命できないと進言し、藍玉は進軍を続けることを決断した。
敵に明軍の接近を悟られないよう、藍玉は兵士に地面を掘って炊事させ、
煙を外へ出さないよう命じた。
さらに夜間に移動し、王弼を先鋒として北元軍の本営へ急進する。
北元側は水草の乏しい地域まで明軍が深入りできるとは考えず、十分な警戒をしていなかった。
そこへ強風による砂塵が発生して昼間でも暗くなり、明軍は発見されないまま敵陣へ接近した。
突然現れた明軍に北元軍は驚いて迎撃したが敗れ、太尉・蛮子らが戦死した。
トグス・テムルは皇太子天保奴ら数十騎とともに逃亡し、
藍玉は精鋭騎兵を追撃させたものの皇帝本人を捕らえることはできなかった。
それでも戦果は巨大だった。
明軍は皇帝の次男・地保奴、妃・公主ら百人余り、呉王・朵児只、代王・達里麻、平章以下の官僚三千人を捕らえ、さらに男女七万七千余人を捕虜とした。
宝璽・符敕・金牌・金銀印など北元政権の文物を奪い、
馬・駱駝・牛・羊十五万余を獲得し、武器や物資も焼却した。
その後も哈剌章の陣営を破り、さらに人畜六万を獲得している。
勝報を受けた朱元璋は大いに喜び、藍玉を前漢の衛青、唐の李靖に比べて称賛した。
帰還後、藍玉は永昌侯から涼国公へ昇進する。北元皇帝本人こそ逃したものの、
皇族・官僚・兵民・家畜・政権の文物を一挙に失わせた捕魚児海の敗北は北元に大きな打撃を与え、
トグス・テムル自身も逃亡後にモンゴル内部の争いで殺害された。
↓↓前漢の名将・衛青についての個別記事は、こちら

捕魚児海後も続いた遠征|西南・西北の反乱を鎮圧
捕魚児海の勝利は藍玉の最後の軍功ではなかった。
洪武22年(1389年)には四川の城郭整備を監督し、
翌洪武23年(1390年)には施南・忠建の二宣撫司で起きた反乱を鎮圧した。
さらに都勻安撫司や散毛諸洞も平定し、その功績によって食禄を五百石加増されている。
洪武24年(1391年)には蘭州・荘浪など七衛の兵を統率して逃亡した祁者孫を追撃し、
そのまま西蕃の罕東方面へ進出した。
土酋・哈昝らを敗走させた後、建昌指揮使・月魯帖木児が反乱を起こすと、その討伐へ転じる。
藍玉が到着した時点では都指揮・瞿能らがすでに反乱軍を大破していたが、
月魯帖木児は柏興州へ逃れていた。
藍玉は百戸・毛海を使って月魯帖木児父子を誘い出して捕縛し、南京へ送って処刑させると、
残存勢力をすべて降伏させた。
さらに現地の軍事支配を固めるため屯衛の増設を提案し、朱元璋もこれを認めている。
一方で藍玉が民を軍籍へ編入し、朶甘・百夷まで討伐することを求めると、朱元璋は許可しなかった。
大将軍となった藍玉は各地の軍事政策について積極的に意見するようになっていたが、
その構想がすべて皇帝から受け入れられたわけではなかった。
軍功の頂点から朱元璋との対立へ
『明史』は藍玉を、背が高く赤ら顔で勇略に富み、「大将の才」があった人物と評している。
徐達と常遇春が死去した後には何度も大軍を率いて戦功を挙げ、朱元璋から厚遇された。
しかし同じ藍玉伝は、地位が高くなるにつれて驕慢となり、
専横な行動を取るようになったとも記している。
藍玉は多数の荘奴や養子を抱え、その勢力を背景に横暴な行動を取ったとされた。
東昌では民田を占有し、御史が調査すると怒って追い払った。
北方遠征から帰還した際には夜間に喜峰関へ到着したものの、
関吏がすぐに門を開かなかったため、兵を使って関門を破壊して入った。
朱元璋はこれを聞いて不快感を示した。
軍中でも将校の昇進・降格を独断で行い、軍の進退を自ら決定することがあり、
朱元璋から繰り返し叱責されている。
藍玉の軍事能力そのものは高く評価されていたが、
大軍を率いる権限と多数の部下を持つ功臣が皇帝の統制を越えて行動することは、
皇帝権力との衝突を生むことになった。
北元皇帝の妃との関係を告発される
捕魚児海の戦いの後には、
藍玉が捕虜となった北元皇帝の妃と私通したという話が朱元璋へ伝えられた。
『明史』では「人言其私元主妃」と記され、その話を知った妃が恥じて自害し、
朱元璋が藍玉を厳しく叱責したとしている。
ただし『明史』自身が「人言」、すなわち人々がそのように言ったという形で記しており、
私通そのものが確認された事実だったとは断定できない。
史料から確認できるのは、その告発が朱元璋の耳に入り、藍玉が叱責されたという経過である。
朱元璋は当初、藍玉を「梁国公」に封じることを考えていたが、
藍玉の過失を理由として「涼国公」に変更し、その過失を世券に刻ませたという。
北元に大勝して最高級の恩賞を受けながら、
その時点ですでに問題行動まで公式に記録されていたことになる。
「私は太師にもなれないのか」
藍玉の不満も次第に表面化した。
宴席では傲慢な言動を見せ、臣下としての礼を欠いたとされる。
西方遠征から帰還した後には太子太傅に任命されたが、
宋国公・馮勝と潁国公・傅友徳より下位に置かれたことに不満を持ち、
「我不堪太師耶」、すなわち「私は太師にもなれないのか」と口にした。
奏上した意見が朱元璋に採用されないことも増え、藍玉はさらに不満を募らせた。
捕魚児海で北元に大勝し、徐達・常遇春亡き後の大軍を任されていた藍玉にとって、
自らの軍功に対する自負は大きかった。
一方の朱元璋にとっては、将校の人事を独断で行い、多数の荘奴や養子を抱え、
皇帝の統制を越える行動を取る大将軍を放置することもできなかった。
皇太子朱標との関係|燕王朱棣への警戒を進言したという記録
藍玉は皇太子朱標とも近い関係にあった。
常遇春の娘・常氏は朱標の正妃であり、藍玉から見れば常氏は姪にあたる。
藍玉自身の娘も蜀王朱椿の妃となっていたため、
藍玉は朱元璋の皇族と複数の婚姻関係で結ばれていた。
後世の『明通鑑』には、
ナガチュ遠征から帰還した藍玉が朱標に対し、燕王朱棣には臣下に甘んじない様子があり、
さらに「燕に天子の気がある」と聞くため注意するよう進言したという記録がある。
しかし朱標は特に行動を起こさず、この話が朱棣の耳に入ったため、
朱棣が藍玉を恨むようになったとされる。
この話は藍玉と朱棣の対立を説明する重要な逸話だが、
『明史』藍玉伝には見えず、後世に編纂された『明通鑑』などに記されたものである。
そのため、藍玉が朱棣の反乱を正確に予見していたと断定することはできない。
ただし藍玉が常氏を通じて皇太子家と近い立場にあり、
朱標の死によってその政治的位置が変化したことは重要である。
洪武25年(1392年)、朱標が朱元璋に先立って死去した。
皇太子の死後、皇位継承者となったのは朱標の子・朱允炆、後の建文帝だった。
朱標の死から一年も経たない洪武26年(1393年)2月、藍玉の獄が起きることになる。
後世には朱標を支える有力武将だった藍玉が皇太孫政権の軍事的支柱になり得たため
粛清されたとする解釈もあるが、朱元璋がその目的で藍玉を処刑したと直接示す史料はない。
↓↓建文帝(朱標の子・朱允炆)についての個別記事は、こちら

藍玉の獄|謀反の告発から一万五千人の粛清へ
洪武26年(1393年)2月、錦衣衛指揮・蔣瓛が藍玉の謀反を告発した。
藍玉は直ちに逮捕され、取り調べを受ける。
『明史』に記された獄辞によれば、
藍玉は景川侯・曹震、鶴慶侯・張翼、舳艫侯・朱寿、東莞伯・何栄、
吏部尚書・詹徽、戸部侍郎・傅友文らとともに反乱を計画し、
朱元璋が耤田へ出る機会を狙って挙兵しようとしていたとされた。
罪状が確定すると藍玉は一族とともに処刑された。
処刑は藍玉本人と共謀者とされた数人だけでは終わらなかった。
景川侯・曹震、鶴慶侯・張翼、普定侯・陳桓、舳艫侯・朱寿らの侯爵をはじめ、
多数の都督・将校・官僚が藍玉党として処刑された。
藍玉の部下として各地を転戦した武将も多数含まれ、
『明史』は勇猛な武人がほとんど刈り尽くされたと記している。
朱元璋は事件の罪状をまとめた『逆臣録』を天下へ頒布した。
『明史』によれば、そこに名を連ねた有力者だけでも一公・十三侯・二伯に及ぶ。
同年9月には朱元璋自身が詔を出し、藍玉の謀反に関連して族誅された者を一万五千人としたうえで、
以後は胡惟庸・藍玉の党について一律に赦し、これ以上追及しないと宣言した。
後世には犠牲者を二万人、三万人などとする記述もあるが、
『明史』が朱元璋の詔として伝える数字は一万五千人である。
藍玉一人の処刑から始まった事件が、
明建国を支えてきた功臣・武官層そのものを大きく削る粛清へ拡大したことは間違いない。
藍玉は皮を剥がれて各地を回されたのか
藍玉の最期には、謀反の罪で処刑された後に皮を剥がされ、
その中に藁を詰める「剥皮実草」にされ、見せしめとして各地へ回されたという有名な伝承がある。
ただし、『明史』の藍玉伝は洪武26年(1393年)2月に錦衣衛指揮・蔣瓛が謀反を告発し、
取り調べの後に「獄具、族誅之」と記すだけで、藍玉が剥皮されたとは記していない。
そのため、剥皮実草を藍玉の確定した処刑方法として扱うことはできない。
この話を具体的に伝えるのが、清代の欧陽直『蜀警録』である。
同書によれば、明末に張献忠が成都の蜀王府へ入った際、
端礼門楼に公侯の服を着た像が安置されていた。
像は人皮で作られ、頭部と手足は肉身のままだったという。
張献忠が蜀王府の宦官に尋ねると、それは明初の涼国公・藍玉であり、
朱元璋から謀反の罪に問われて皮を剥がされ、その皮が各省へ回されたものだと答えたとされる。
藍玉の娘は朱元璋の第十一子・蜀王朱椿の妃だった。
『蜀警録』では、藍玉の皮が雲南を経て四川へ回ってくると、
朱椿が朱元璋に願い出てこれを成都に残し、蜀王府の端礼門楼に安置したという。
藍玉が1393年に処刑されてから張献忠が成都へ入るまで二百五十年ほど経過しており、
その間も藍玉の人皮が蜀王府に保存されていたという異様な伝承である。
この逸話から、藍玉が生きたまま皮を剥がされ、
藁を詰められて全国を引き回されたかのように語られることもある。
しかし『蜀警録』が記しているのは、
藍玉が謀反によって処刑されて皮を剥がされ、その皮が各省へ「伝示」されたという話であり、
生きたまま剥皮されたことまで確認できるわけではない。
また『明史』『明太祖実録』など藍玉の処刑に近い基本史料から、
この処置を裏付ける記録も確認できない。
したがって、藍玉の「剥皮実草」は史実として断定するのではなく、
後世に伝えられた処刑伝承として扱う必要がある。
ただし、藍玉の娘が実際に蜀王朱椿の妃だったことから、
藍玉の人皮が最後に蜀王府へ残されたという話には具体的な人物関係が組み込まれており、
後世の藍玉像を形成した代表的な逸話となった。
藍玉は本当に謀反を計画していたのか
藍玉の獄で最も難しいのが、謀反計画そのものをどこまで事実とみなせるのかという問題である。
『明史』には耤田の機会を狙った挙兵計画が具体的に記されている。
また藍玉がそれ以前から多数の荘奴や養子を抱え、民田を占有し、御史を追放し、
軍中の人事を独断で行うなど、朱元璋から繰り返し問題視されていたことも同じ史料から確認できる。
しかし、謀反の具体的な内容は逮捕後の取り調べによって作られた獄辞と、
それをもとに編纂された『逆臣録』に依存している。
追及は藍玉本人から多数の侯・伯・武官・文官へ急速に拡大し、
藍玉との関係そのものが処刑につながった例もあった。
後世の記録には、
取り調べの最中に吏部尚書・詹徽が藍玉へ他人をむやみに巻き込まず事実を述べるよう迫ると、
藍玉が「詹徽も私の仲間だ」と叫んだため詹徽まで逮捕されたという話もある。
しかし清初の銭謙益は『逆臣録』に残された供述と照合し、この逸話の時系列に疑問を呈している。
藍玉の獄については、後世に広まった劇的な逸話と、
当時の獄辞に由来する記録を分けて扱う必要がある。
一方で、藍玉が完全な冤罪だったと証明する史料もない。
確認できるのは、軍事的な権力を持った藍玉と朱元璋の間に処刑以前から緊張が存在したこと、
1393年に具体的な謀反計画を含む罪状で処刑されたこと、
そして事件が本人の処罰をはるかに超える大規模な粛清へ拡大したことである。
胡惟庸の獄と藍玉の獄|朱元璋の功臣粛清
藍玉の獄は、洪武年間に続いていた功臣・官僚への大規模な粛清の中に位置づける必要がある。
洪武13年(1380年)には丞相・胡惟庸が謀反の疑いで処刑され、
その後も胡惟庸との関係を理由とする追及は長期間続いた。
洪武23年(1390年)には明建国を支えた李善長まで胡惟庸との関係を問われ、
一族とともに処刑されている。
藍玉の獄では、今度は軍部の有力者が大量に処刑された。
『明史』は事件後について「元功宿将相継ぎて尽く」と記し、
朱元璋の建国戦争を支えた旧功臣・宿将が相次いで姿を消したことを指摘している。
ただし、胡惟庸の獄から藍玉の獄までを最初から朱元璋が計画した
「功臣一掃計画」と断定することはできない。
朱元璋が有力功臣を強く警戒していたこと、
大規模な連座によって功臣層が著しく減少したことは確認できるが、
個々の事件の発端となった罪状まで最初から捏造されたと証明できる史料はない。
藍玉の獄がもたらした結果は、その後の靖難の変を考えるうえでも無視できない。
1398年に朱元璋が死去し、翌年に燕王朱棣が挙兵した時点では、
徐達・常遇春・李文忠らはすでに死去し、
藍玉をはじめとする多数の有力武将も粛清によって失われていた。
建文政権が朱棣と戦う際、大軍を任せられる建国期の宿将が少なくなっていた背景には、
洪武年間の功臣粛清もあった。
↓↓粛清された文官、胡惟庸・李善長についての個別記事は、こちら


藍玉の実像|北元を破った名将と「逆臣」の間
藍玉の軍歴を見ると、捕魚児海だけで突然現れた武将ではないことが分かる。
常遇春の配下から始まり、四川、北元、西蕃、雲南、ナガチュ討伐を経験し、
さらに西南・西北の反乱鎮圧を重ねた末に明軍最高位の大将へ上り詰めた。
『明史』が「饒勇略、有大将才」と記し、朱元璋が衛青・李靖に比べたのも、
こうした長い軍歴を背景としている。
特に捕魚児海では、敵を発見できず撤退を考えた後に王弼の進言を受け入れ、
煙を隠して夜間に進軍し、北元側の油断と砂嵐を利用して本営への奇襲を成功させた。
単に自ら先頭で戦う猛将ではなく、
大軍を漠北深くまで動かして敵政権の中枢を急襲できる指揮官だった。
その一方、軍功が大きくなるにつれて権勢を拡大し、民田占有、御史追放、喜峰関破壊、
軍中での独断的な人事などを朱元璋から問題視されたことも史料に残っている。
太子太傅への任命に「私は太師にもなれないのか」と不満を示した記録まで含めれば、
藍玉と皇帝の関係が処刑直前に突然悪化したわけではない。
藍玉を「朱元璋に恐れられて殺された悲劇の名将」とだけ描けば、こうした問題行動が消えてしまう。
反対に『逆臣録』の罪状だけから「当然処刑されるべき反逆者」とすれば、
謀反事件の史料が取り調べと大規模粛清の中で成立したという問題を見落とす。
軍功によって明軍の頂点へ達した大将軍であり、
その巨大な軍事的権威と専横によって皇帝との緊張を深め、
最後には謀反事件の中心人物として処刑された。
さらにその死が一万五千人規模の連座へ拡大し、
明初の功臣・武将層そのものを大きく変えたところに、藍玉という人物の歴史的な重要性がある。
まとめ
藍玉は常遇春との姻戚関係をきっかけに軍歴を始めたが、
その後の地位を親族関係だけで得た武将ではない。
四川・北元・西蕃・雲南を転戦し、ナガチュ討伐を経て大将軍となり、
捕魚児海では十五万の兵を率いて北元皇帝の本営を急襲した。
朱元璋が衛青・李靖に比べたほどの軍功を持ち、徐達・常遇春亡き後の明軍を代表する将軍となった。
しかし、その軍功によって得た権勢は朱元璋との衝突も生んだ。
民田占有や喜峰関破壊、軍中人事への介入などを叱責されながらも態度を改めなかったとされ、
1393年には謀反を計画したとして一族とともに処刑された。
謀反の具体的な罪状をどこまで事実とみなせるかには史料上の問題が残るが、
事件が藍玉本人だけで終わらず、
一公・十三侯・二伯を含む多数の功臣・武官へ拡大したことは確認できる。
朱元璋自身の詔では、藍玉の獄による族誅は一万五千人に達した。
藍玉の死は一人の大将軍の失脚ではなく、
明建国を支えた功臣・宿将が急速に姿を消していく洪武後期の政治を象徴する事件となった。
その数年後、明朝は建国期の名将たちの多くを失った状態で靖難の変を迎えることになる。

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史書・参考文献
・『明史』巻一三二「列伝第二十 藍玉」
・『明史』巻三「本紀第三 太祖三」
・『明太祖実録』
・『逆臣録』
・『明通鑑』
・談遷『国榷』
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