陳覇先(ちん はせん、503~559年)は、
南北朝時代末期に南朝陳を建国した初代皇帝である。廟号は高祖、諡号は武皇帝。
もともとは呉興郡長城県出身の地方武将で、南朝を代表する名門貴族の出身ではなかった。
若い頃から軍務に携わり、交州で李賁の反乱と戦ったことで頭角を現す。
その後、侯景の乱によって南朝梁が崩壊すると、
嶺南から兵を率いて北上し、王僧弁とともに侯景を滅ぼした。
ここから陳覇先の立場は大きく変わる。
地方の一武将だった人物が、南朝梁再建を担う軍事的実力者の一人となったのである。
しかし梁元帝が西魏に殺害されると、王僧弁との協力関係も崩れた。
北斉の圧力を受けて蕭淵明を皇帝に迎えた王僧弁に対し、
陳覇先は555年に政変を起こして王僧弁を殺害する。
その後は王僧弁派や北斉の反撃を退け、南朝梁の実権を掌握した。
そして557年、敬帝蕭方智から禅譲を受けて皇帝に即位し、南朝陳を建国した。
陳覇先の生涯には数多くの戦いが登場するが、それぞれが別々の戦争だったわけではない。
前半は「地方武将としての台頭」、侯景の乱以降は「梁再建」、
王僧弁殺害以降は「梁の実権をめぐる争い」としてつながっている。
その流れを追うと、陳覇先がどのように南方の地方武将から皇帝にまで上り詰めたのかが見えてくる。
呉興の地方武将から交州へ
名門貴族ではなかった陳覇先
陳覇先は梁の天監2年(503年)、呉興郡長城県下若里に生まれた。字は興国、小字は法生。
『陳書』はその祖先を後漢の太丘長陳寔につなげているが、
陳覇先の家が当時の南朝政界を動かしていた王氏・謝氏のような門閥貴族だったわけではない。
父の陳文讃についても詳しい事績はほとんど伝わっておらず、
陳覇先自身も若い頃から高い官位を約束された人物ではなかった。
若い頃の陳覇先は読書を好み、兵法にも通じ、体格がよく、騎射にも優れていたと『陳書』は伝える。長城県の里司を経て建康へ出ると、油庫吏として働き、その後、新喻侯蕭暎に仕えた。
蕭暎が広州刺史になると陳覇先も広州へ赴き、中直兵参軍となった。
広州で軍務に携わったことが、その後の陳覇先の人生を大きく変えることになる。
広州の反乱を鎮圧して高要太守となる
大同年間、広州で兵士の反乱が起こり、刺史蕭暎が包囲された。
陳覇先は三千人ほどの精鋭を率いて救援し、反乱軍を破った。
この功績によって梁武帝蕭衍から評価され、直閤将軍に任じられる。
その後、交州で李賁が反乱を起こした。
李賁は交州刺史蕭諮を追放し、梁の支配から離脱した。
梁は広州刺史蕭暎の後任となった新州刺史盧子雄らに討伐を命じたが、遠征は失敗する。
梁朝は盧子雄らを処刑したため、その部下だった杜天合・杜僧明らが反乱を起こし、広州へ迫った。
陳覇先はこれを迎撃して杜天合を破り、杜僧明らを降伏させた。
この功績によって交州司馬となり、武平・西江二郡太守を兼ね、さらに高要太守へ転じる。
ここから陳覇先は、単なる軍属ではなく自ら兵を率いる地方軍事指導者として成長していった。
↓↓梁武帝蕭衍についての個別記事は、こちら

李賁との戦いで頭角を現す
交州を占拠した李賁は544年に皇帝を称し、万春国を建てた。
梁は陳覇先らを交州へ派遣した。
陳覇先は蘇歴江口で李賁軍と戦い、さらに嘉寧城へ追撃する。
李賁は屈獠洞へ逃れた。
その後、李賁は二万人ほどを集め、典澈湖周辺に陣を構えた。
湖沼と河川に囲まれた地形だったため梁軍は攻めあぐねたが、
夜間に水位が急上昇して李賁軍が混乱すると、陳覇先はこれを好機と見て攻撃し、大勝した。
李賁はさらに奥地へ逃れ、のちに殺害された。
一方、李賁の兄李天宝や李紹隆らは抵抗を続けたため、交州がただちに完全平定されたわけではない。
それでも、この遠征によって陳覇先は南方で豊富な実戦経験と軍事基盤を得た。
後に建康の政局へ進出する陳覇先にとって、交州戦役は単なる地方反乱の討伐ではない。
兵を集め、長距離を移動し、複雑な地形で軍を指揮する経験を積み、
自らに従う武将や兵士を形成していく時期だった。
侯景の乱|嶺南から梁再建の中心へ
元景仲の反乱を抑え、広州を掌握する
548年、東魏から梁へ降った侯景が反乱を起こした。
侯景軍は建康を包囲し、梁武帝蕭衍の王朝は存亡の危機に陥った。
しかし陳覇先はすぐに建康へ向かえたわけではない。
嶺南でも政情が不安定になっていたからである。
広州刺史元景仲が侯景に呼応しようとすると、陳覇先は兵を集めて広州へ向かった。
元景仲は自殺し、陳覇先は広州を掌握する。
陳覇先は西江督護・高要太守などに任じられ、侯景討伐のため北上する準備を始めた。
ところが、ここから建康へ向かうまでにも地方勢力との戦いが続いた。
蔡路養・李遷仕を破って北上する
陳覇先が侯景討伐のため北上すると、高州刺史蘭裕や高要の豪族蔡路養らがその進路を妨げた。
陳覇先はこれらを破りながら北へ進んだが、南康では高州刺史李遷仕が勢力を持っていた。
李遷仕は侯景と結び、大皋に城を築いていた。
この李遷仕との戦いには、高涼太守馮宝の妻である冼夫人も関わっている。
李遷仕が馮宝を呼び出そうとすると、
冼夫人は反乱の意図を見抜いて夫を止め、自ら兵を率いて李遷仕を攻撃した。
その後、冼夫人は陳覇先と合流し、陳覇先の力量を高く評価したと『隋書』は伝える。
陳覇先は李遷仕を破り、南康を確保した。
元景仲、蘭裕、蔡路養、李遷仕との戦いは、それぞれ無関係な地方戦ではない。
侯景を討つため嶺南から北上しようとする陳覇先が、
その背後や進路を脅かす勢力を順番に排除していった過程である。
↓↓嶺南で大きな勢力を持った女性首長・冼夫人についての個別記事は、こちら

王僧弁と合流して侯景を滅ぼす
その頃、建康ではすでに梁武帝が死去し、侯景が都を支配していた。
荊州にいた湘東王蕭繹、後の梁元帝は、王僧弁を東征軍の総大将として侯景討伐へ向かわせた。
陳覇先は西昌で兵三万人、武器や船舶を整え、王僧弁軍と合流した。
552年、王僧弁・陳覇先らの軍は長江を東へ進み、蕪湖・姑孰を攻略して建康へ迫った。
侯景は迎撃したものの敗北し、建康を捨てて逃走する。
その後、侯景は逃亡中に部下によって殺された。
侯景を倒したことで、王僧弁と陳覇先は梁再建を担う二大軍事勢力となった。
ただし、この時点では王僧弁の方が上位にいた。
王僧弁は蕭繹の腹心として討伐軍全体を率いた人物であり、陳覇先はその有力な部将の一人だった。
侯景討伐後、蕭繹は江陵で即位して梁元帝となる。
陳覇先は征北大将軍・南徐州刺史などに任じられ、京口に駐屯した。
こうして嶺南の地方武将だった陳覇先は、
侯景の乱を経て長江下流域を守る梁の有力将軍へと変わったのである。
梁元帝の死と王僧弁との決裂
江陵陥落で梁の中央政府が再び崩れる
侯景を倒しても、梁の混乱は終わらなかった。
梁元帝は建康へ戻らず、江陵を都とした。
その一方で梁の皇族同士の争いが続き、益州は西魏に奪われ、
南方では各地の軍事勢力が独自の基盤を持っていた。
554年、西魏軍が江陵を攻撃し、江陵は陥落した。
梁元帝は捕らえられて殺害され、西魏は梁の皇族蕭詧を皇帝として江陵に立てた。これが後梁である。
一方、建康を押さえていた王僧弁と陳覇先は、
西魏の支配下に置かれた蕭詧を皇帝として認めなかった。
二人は梁元帝の子である晋安王蕭方智を建康へ迎え、梁王として政務を行わせた。
この時点では王僧弁と陳覇先はまだ協力していたが、
北斉の介入によって両者の関係は決定的に崩れる。
北斉が蕭淵明を送り込む
北斉は梁の皇族である貞陽侯蕭淵明を自国に拘束していた。
梁元帝の死を知ると、北斉は蕭淵明を梁の皇帝として送り込もうとする。
王僧弁は当初これに抵抗したが、北斉軍との戦いで圧力を受け、
最終的には蕭淵明を皇帝として受け入れ、蕭方智は皇太子とされた。
これに陳覇先は強く反対した。
西魏が江陵に蕭詧を立て、さらに北斉が蕭淵明を送り込んだことで、
梁の皇位は北朝の軍事介入によって左右される状態になっていた。
陳覇先は王僧弁に使者を送り、蕭淵明擁立をやめるよう求めたが、王僧弁は応じなかった。
ここで侯景討伐以来続いてきた両者の協力関係が終わった。
王僧弁を急襲して殺害する
555年9月、陳覇先は王僧弁を排除することを決断し、石頭城へ急行して王僧弁を急襲した。
突然の攻撃に十分な対応ができなかった王僧弁は、
息子の王頠とともに捕らえられ、陳覇先によって殺害された。
その後、陳覇先は王僧弁の罪状を内外へ布告し、蕭淵明を退位させると、
蕭方智を皇帝として即位させた。これが梁最後の皇帝となる敬帝である。
陳覇先自身は尚書令・都督中外諸軍事・車騎将軍などに就き、梁の軍事と政治の実権を握った。
ただし、王僧弁を殺しただけで陳覇先の支配が確立したわけではない。
王僧弁には各地に多くの部下や同盟者が存在し、
さらに北斉も蕭淵明を通じて梁への影響力を維持しようとしていた。
陳覇先はここから、自らが引き起こした政変に対する大規模な反撃と戦うことになる。
王僧弁派と北斉の反撃
杜龕ら王僧弁派が一斉に反発する
王僧弁が殺害されると、その一派は陳覇先に従わなかった。
呉興では杜龕が挙兵し、義興では韋載が抵抗し、呉郡では王僧弁の弟・王僧智も陳覇先に反抗した。
杜龕はもともと王僧弁の勢力を背景に陳覇先一族を軽視しており、両者には以前から対立があった。
陳覇先は甥の陳蒨、後の文帝を長城へ送り、自らも東方の鎮圧へ向かった。
杜龕・韋載らの抵抗は激しかったが、陳覇先側は各地を順次攻略し、最終的に杜龕を降伏させた。
同じ頃、会稽方面では張彪も抵抗を続けており、
この戦いには後に陳文帝の側近となる韓子高も参加している。
陳蒨の軍に従った韓子高は、張彪との戦いで軍功を挙げた。
王僧弁殺害後に続いたこれらの戦いは、単なる地方反乱ではない。
王僧弁を倒して梁政権を奪った陳覇先が、その旧勢力から政権を守るための戦争だった。
↓↓陳文帝の側近・韓子高についての個別記事は、こちら

徐嗣徽・任約が北斉を引き入れる
さらに深刻だったのが北斉の介入である。
王僧弁の旧将だった徐嗣徽・任約らは陳覇先に反旗を翻し、北斉へ援軍を求めた。
北斉軍は長江を渡って南下し、徐嗣徽らとともに建康へ迫った。
陳覇先は一時、北斉と和議を結び、人質を差し出して危機をしのいだ。
しかし対立は解消されず、翌556年には北斉軍が再び大規模に建康へ侵攻した。
もし建康を奪われれば、王僧弁を殺して成立させた陳覇先政権そのものが崩壊するため、
この戦いは政権の存亡を左右するものとなった。
建康を守り、北斉軍を破る
北斉軍は建康周辺へ進出し、陳覇先軍と激戦を繰り広げた。
陳軍は食糧不足にも苦しんだが、陳覇先は侯安都・周文育らとともに防衛を続けた。
やがて北斉軍が長雨と補給難によって疲弊すると、陳覇先は反撃に転じてこれを大破し、
徐嗣徽・任約らの勢力も崩れた。北斉による建康攻略は失敗に終わった。
この勝利によって陳覇先の立場は大きく変わった。
侯景を倒したときには王僧弁の下にいたが、
王僧弁を殺害した後は、自らの軍事力によって王僧弁派と北斉の攻撃を退けた。
これによって陳覇先は、
建康を中心とする梁政権を支配する最大の軍事勢力としての地位を確立したのである。
梁の実権を握り、陳を建国する
蕭勃ら地方勢力との対立
北斉を退けても、梁全土が陳覇先に従ったわけではない。
広州には蕭勃、長江中流域には王琳など、有力な軍事勢力が残っていた。
特に王琳は梁元帝の旧臣として強大な水軍を持ち、陳覇先による政権掌握を認めなかった。
広州の蕭勃も陳覇先に反発して軍を北上させたため、
陳覇先は周文育・侯安都らを派遣してこれと戦わせた。
蕭勃は部下によって殺され、その勢力は崩壊する。
さらに余孝頃らの抵抗も鎮圧され、陳覇先の支配地域は拡大していった。
一方、王琳はなお長江中流域に勢力を保っていた。
つまり557年の段階でも、陳覇先が旧梁領全体を完全に統一したわけではなかった。
陳王から皇帝へ
軍事的優位を確立した陳覇先は、梁朝廷の中でも段階的に地位を高めていった。
太平2年(557年)には相国となって陳公に封じられ、さらに陳王へ進み、九錫を受けた。
そして同年10月、敬帝蕭方智から禅譲を受けて皇帝に即位し、国号を「陳」とした。
ここに南朝陳が成立し、陳覇先は武帝、退位した敬帝は江陰王となった。
形式上は梁皇帝からの禅譲による王朝交代だったが、
その前提には王僧弁の殺害、王僧弁派の鎮圧、北斉軍の撃退という軍事的過程があった。
陳覇先は単に「梁から帝位を譲られた」のではなく、
侯景の乱後に分裂した南朝で軍事的競争を勝ち抜き、
建康と朝廷を掌握した結果として禅譲を実現したのである。
退位した敬帝は翌558年に殺害された。
陳の初代皇帝となった後
建国しても戦乱は終わらなかった
陳覇先が皇帝となっても、新王朝の支配領域は安定していなかった。
長江中流域には王琳が依然として強大な勢力を保っていた。
王琳は陳の成立を認めず、梁の皇族永嘉王蕭荘を皇帝として擁立した。
これによって南方には、
建康の陳覇先政権、江陵の後梁、王琳が擁立した蕭荘政権が並び立つことになった。
陳覇先は周文育・侯安都らを派遣して王琳を討たせたが、
沌口の戦いで陳軍は大敗し、周文育・侯安都らが捕虜となった。
南朝陳を建国したからといって、陳覇先が南朝全域を統一したわけではなかったのである。
その後、周文育・侯安都は王琳のもとから脱出して南朝陳へ戻ったが、
王琳との決着がつく前に陳覇先は死去する。
即位後の政治
陳覇先の皇帝在位は約2年と短かった。
しかも各地に敵対勢力が残っていたため、
治世の多くは新王朝の存続を確保するための軍事対応に費やされた。
それでも、即位後には梁末の混乱で乱れた政治秩序の回復を進め、
大赦や人事を行い、地方統治の再編を図っている。
陳覇先自身は長年の軍人だったが、国家を単なる軍閥として運営しようとしたわけではない。
梁の官僚制度や儀礼を基本的に引き継ぎ、既存の南朝国家の枠組みの上に新王朝を作った。
一方で、南朝陳が支配できた領域は梁の最盛期と比べて大幅に縮小していた。
四川方面は西魏・北周に奪われ、江陵には後梁が存在し、淮南方面でも北朝との境界が迫っていた。
陳覇先が建てた南朝陳は、南朝宋・南朝斉・南朝梁と比べても狭い領域から出発した王朝だった。
559年に死去
永定3年(559年)6月、陳覇先は病に倒れ、建康の璿璣殿で死去した。
57歳だった。在位はわずか2年余りである。
諡号は武皇帝、廟号は高祖。万安陵に葬られた。
陳覇先の息子・陳昌は当時、北周に抑留されていた。
そのため帝位は陳覇先の甥である臨川王陳蒨が継いだ。
これが陳の第2代皇帝・文帝である。
文帝は王琳との戦いを引き継ぎ、560年に王琳を破った。
陳覇先が生涯の最後まで解決できなかった長江中流域の争いは、次代になってようやく決着した。
陳覇先は何を成し遂げたのか
陳覇先の生涯には、
李賁、元景仲、蔡路養、李遷仕、侯景、王僧弁、杜龕、徐嗣徽、任約、蕭勃、王琳と、
多くの敵が登場する。
しかし、これを「生涯戦争ばかりしていた人物」として並べるだけでは、
陳覇先が皇帝になった過程は見えにくい。
最初の転機は交州だった。
南方の地方軍人として反乱鎮圧を経験し、自ら兵を率いる力を身につけた。
次の転機が侯景の乱である。
梁の中央政府が崩壊すると、陳覇先は嶺南の兵力を背景に北上し、王僧弁とともに侯景を倒した。
ここで地方武将から梁再建を担う有力将軍へ変わった。
三つ目の転機が梁元帝の死である。
梁の中央に絶対的な権威を持つ皇帝がいなくなり、西魏と北斉がそれぞれ梁の皇位に介入した。
王僧弁が北斉の推す蕭淵明を受け入れると、陳覇先は王僧弁を殺害し、自ら政権を握った。
そして最後の転機が北斉との戦いだった。
王僧弁を殺しただけなら、陳覇先は単なる政変の勝者にすぎない。
王僧弁派と北斉軍の反撃から建康を守り切ったことで、
初めて自らの政権を軍事的に成立させることができた。
557年の南朝陳建国は、その結果だった。
一方で、陳覇先が梁末の混乱を完全に収拾したわけでもない。
江陵には後梁が残り、王琳との戦争も決着せず、北朝に奪われた領土を回復することもできなかった。
陳覇先が成し遂げたのは「南朝を再統一したこと」ではなく、
侯景の乱と梁皇族の内紛、北朝の介入によって崩壊しかけた江南で、
建康を中心とする新しい王朝を成立させたことだった。
その意味で陳覇先は、梁を倒すために最初から皇帝を目指した反乱者ではない。
梁の地方武将として出発し、梁を救うため侯景と戦い、梁再建の中心となり、
その再建された梁の内部で王僧弁を倒し、最終的に自ら梁に代わる王朝を建てた。
この段階的な立場の変化こそが、陳覇先の生涯を理解するうえで最も重要な点である。
まとめ
陳覇先は、名門貴族の地位を背景に皇帝となった人物ではない。
呉興郡長城県から出て、広州・交州で軍事経験を積み、
南朝梁の崩壊という大混乱のなかで中央政界へ進出した軍人だった。
交州の李賁討伐で頭角を現し、侯景の乱では嶺南から北上して王僧弁と合流し、建康を奪回する。
ここまでは梁を救う側にいた。
しかし梁元帝が西魏に殺害されると状況が変わる。
王僧弁が北斉の推す蕭淵明を皇帝として受け入れたことに反発し、555年に王僧弁を殺害した。
さらに王僧弁派の杜龕・徐嗣徽・任約らと戦い、
彼らを支援した北斉軍を建康から撃退することで、梁政権の実権を握った。
557年には敬帝蕭方智から禅譲を受け、南朝陳を建国する。
ただし、新王朝の支配は盤石ではなかった。
王琳は陳に従わず、江陵には後梁が存在し、北朝も南方への圧力を強めていた。
陳覇先は王琳との決着を見ることなく、559年に57歳で死去した。
地方武将から出発し、崩壊した梁を救い、その梁の実権を奪い、最後には自ら新王朝を建てる。
陳覇先の生涯は、侯景の乱によって従来の南朝政治が崩れ、
軍事力を持つ人物が新しい政治秩序を形成していった南北朝末期の変化そのものを示している。
史書・参考文献
・『陳書』巻一「高祖紀上」
・『陳書』巻二「高祖紀下」
・『南史』巻九「陳本紀上」
・『梁書』巻五十六「侯景伝」
・『資治通鑑』巻一六〇~一六七
・川本芳昭『中国の歴史05 中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』
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