【前漢】戚夫人|劉邦に寵愛され呂后によって「人彘」とされた漢の夫人

戚夫人(漢・劉邦の妃) 02.妃賓

戚夫人は、前漢の高祖・劉邦に寵愛された女性で、趙王劉如意の母である。
『漢書』では「戚姫」とも記される。

劉邦は皇太子劉盈を自分に似ていないと考え、
戚夫人との子である劉如意を「我に類す」として皇太子に替えようとしたため、
戚夫人母子は呂后と皇位継承をめぐって対立する立場となった。

皇太子の交代は実現せず、劉邦が死去すると戚夫人は永巷に幽閉された。
呂后はさらに劉如意を長安へ召し、恵帝が弟を守ろうとしたものの、最終的に毒殺している。
その後、戚夫人は『史記』が「人彘」と記す苛烈な処置を受けた。

後世には呂后の残酷さを象徴する人物として語られることが多いが、
戚夫人の生涯について史書が伝える内容は多くない。
確認できる記録の大部分は、劉邦晩年の皇太子交代問題と、
その死後に起きた一連の事件に集中している。

戚夫人の出自と劉邦の寵愛

戚夫人の生年や家系、劉邦に仕える以前の経歴は、『史記』『漢書』にはほとんど記録されていない。

『漢書』「外戚伝上」は、
劉邦が漢王となった後に定陶で「戚姫」を得て寵愛し、その間に劉如意が生まれたと記している。
定陶は現在の山東省菏沢市定陶区にあたる。

史料から確認できるのは、戚夫人が劉邦から強い寵愛を受けていたこと、
しばしば劉邦に従って関東へ赴いていたことである。

一方、正妻である呂后は年長となり、長安に留まることが多かったため、
劉邦と会う機会が減り、次第に疎遠になったと『漢書』は記している。

戚夫人が劉邦の近くにいる機会が多かったことは、
後に息子劉如意の皇太子擁立を直接働きかけるうえでも重要な意味を持った。

↓↓前漢の高祖・劉邦の皇后であり、恵帝の母・呂后についての個別記事は、こちら

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趙王劉如意を産む

戚夫人と劉邦の間に生まれた男子が劉如意である。

劉如意の正確な生年は史料によって明らかではない。
後に趙王となり、死後には「趙隠王」と諡された。

劉邦には呂后との間に劉盈がおり、すでに皇太子に立てられていた。
しかし劉邦は劉盈の性格を「仁弱」とみなし、自分に似ていないと考えていた。

これに対して劉如意については「如意類我」、すなわち「如意は私に似ている」と語り、
劉盈を廃して劉如意を皇太子に立てようとするようになった。

劉如意を皇太子に――劉邦晩年の後継者問題

皇太子交代を望んだのは、戚夫人だけではなかった。

『漢書』「外戚伝上」は、劉邦自身がたびたび劉盈を廃して劉如意を立てようとしたと明記している。そのうえで戚夫人も劉邦に従って関東へ赴き、
「日夜啼泣」して息子を皇太子にするよう求めたという。

劉如意は趙王に封じられた後も長安に留まることがあり、何度も劉盈に代わって皇太子になりかけた。
しかし皇太子交代には公卿・大臣の多くが反対した。
叔孫通も強く諫め、皇太子を替えるのであれば自分は死をもって争うという態度を示したとされる。

呂后と張良、商山四皓

息子の地位が危うくなった呂后も対策に動いた。

『史記』「留侯世家」によれば、
呂后は張良が劉邦から信頼されていることを知り、兄の呂沢を通じて策を求めた。

張良は、すでに天下が定まった以上、
劉邦が寵愛によって皇太子を替えようとしている問題を言葉だけで止めるのは難しいと考えた。
そこで、劉邦が以前から招こうとしても応じなかった四人の老人を
皇太子の賓客として迎えるよう助言した。

この四人が、後に商山四皓と呼ばれる東園公・甪里先生・綺里季・夏黄公である。
呂后側は礼を尽くして四人を迎え、劉盈に従わせた。

ある宴席で、劉邦は皇太子の後ろに四人の老人がいることに気づいた。
自分が何度招いても来なかった彼らが皇太子に仕えている理由を尋ねると、
四人は皇太子が仁孝で士を敬うため、そのもとに来たという趣旨を答えた。

四人が去った後、劉邦は戚夫人を呼び、彼らを指して、
皇太子にはすでに彼らがついて「羽翼已成」、
羽翼が整ったため、もはや動かすことは難しいと語った。

皇太子交代は断念された。

劉邦の楚歌と戚夫人の舞

『史記』「留侯世家」には、このときの劉邦と戚夫人の様子も記されている。
皇太子交代が困難になったことを告げられると、戚夫人は泣いた。

劉邦は戚夫人に楚の舞を舞わせ、自ら楚の歌を歌った。
その内容は、高く飛び立った鴻雁の羽がすでに完成し、四海を横切るほどになれば、
もはや矢を射かけることもできない、というものである。

皇太子劉盈の勢力がすでに固まり、劉邦自身にも覆すことができなくなった状況を表した歌だった。『史記』は、戚夫人がすすり泣いて涙を流し、劉邦が席を立って宴を終えたと記している。

劉邦の死と永巷に幽閉された戚夫人

高祖12年(紀元前195)、劉邦が死去すると、皇太子劉盈が即位した。恵帝である。
劉盈の母である呂后は皇太后となった。

劉邦という最大の後ろ盾を失った戚夫人の立場は一変した。
『史記』は、呂后が最も恨んでいたのが戚夫人とその子の趙王劉如意だったと記している。

戚夫人は宮中の永巷に幽閉された。
『漢書』「外戚伝上」によれば、髪を剃られ、首枷をつけられ、
囚人の衣服を着せられて、米を搗く労役を課された。

「子は王、母は虜」――戚夫人の歌

労役を課された戚夫人は、米を搗きながら歌を歌った。

その内容は、息子は王であるのに母である自分は囚人となり、二人は三千里も離されている、
誰が息子にこのことを知らせてくれるのか、というものだった。

この歌を聞いた呂太后は、戚夫人が息子の力を頼ろうとしていると受け取り、
趙王劉如意を長安へ召すことにした。

戚夫人の歌は単なる悲嘆として記録されているのではなく、
『漢書』では劉如意召還の直接の契機として描かれている。

劉如意の召還と死

呂太后は趙国へ使者を送り、劉如意を長安へ来させようとした。
しかし趙国の相を務めていた周昌がこれを拒んだ。

周昌は劉邦から幼い劉如意を託されていた。
『史記』によれば、周昌は使者に対し、高帝から趙王を託されており、太后が戚夫人を恨み、
趙王も呼び寄せて殺そうとしていると聞いているため、王を送り出すことはできないと答えた。

使者は三度往復したが、周昌は劉如意を長安へ送らなかった。
呂太后は怒り、今度は周昌自身を長安へ召還した。

周昌が趙国を離れて長安へ到着すると、呂太后は改めて劉如意を召した。
守る者を失った劉如意は長安へ向かうことになった。

恵帝が異母弟を守る

恵帝劉盈は仁慈な性格で、母が劉如意を憎んでいることも理解していた。

そこで劉如意が長安へ到着すると、自ら霸上まで出迎え、そのまま一緒に宮中へ入った。
その後も劉如意を自分のそばに置き、起居や食事をともにした。

呂太后は劉如意を殺そうとしていたが、恵帝が常にそばにいるため機会を得られなかった。

恵帝が狩猟に出た朝

恵帝元年(紀元前194)12月、恵帝が早朝から狩猟に出かけることになった。
劉如意はまだ幼く、早く起きることができなかったため、宮中に残った。

呂太后は劉如意が一人でいることを知ると、人を遣わして鴆毒を飲ませた。
夜が明けて恵帝が戻ったとき、劉如意はすでに死んでいた。

戚夫人が皇太子にしようと願った息子は、劉邦の死から一年ほどで命を失った。

「人彘」とされた戚夫人

劉如意の死後、呂太后は戚夫人にもさらに苛烈な処置を加えた。

『史記』「呂太后本紀」は、戚夫人の手足を断ち、目を潰し、耳を損ない、
声を出せなくする薬を飲ませ、厠に置いて「人彘」と呼んだと記している。「彘」は豚を意味する。

『漢書』「外戚伝上」にもほぼ同様の記録があるが、
置かれた場所については「鞠域中」と記しており、『史記』とは表現に違いがある。

いずれにしても、「人彘」の逸話そのものは後世に作られた物語ではなく、
『史記』『漢書』という前漢史の基本史料に記録されている。

ただし、戚夫人がこの処置を受けた直後に死亡したとは両書とも明記しておらず、
正確な死亡日は分からない。

恵帝に戚夫人の姿を見せる

『史記』によれば、数日後、呂太后は恵帝を呼び、「人彘」を見せた。

恵帝は最初それが誰なのか分からず、尋ねて戚夫人だと知ると大声で泣いた。
その後病気となり、一年以上起き上がることができなかったという。

恵帝は人を介して母に、このようなことは人間のすることではなく、自分は太后の子である以上、
天下を治めることはできないという趣旨の言葉を伝えた。

『史記』は、この事件を契機として恵帝が酒色にふけり、政治を顧みなくなったと記している。

『漢書』にもほぼ同じ話が収められており、「人彘」の逸話は戚夫人の最期だけでなく、
恵帝の政治姿勢が変化した理由を説明する出来事としても記録されている。

戚夫人の人物像と史料に残された最期

戚夫人について、『史記』『漢書』から確認できる人物像は限定されている。

劉邦から寵愛され、劉邦に従って関東へ赴くことが多かったこと、
息子劉如意を皇太子にするよう日夜泣いて求めたこと、
皇太子交代が不可能になった際には劉邦の前で涙を流したこと、
劉邦の死後には永巷で労役を課され、息子を思う歌を歌ったことなどが主要な記録である。

後世に語られる容貌や性格については、
少なくとも『史記』『漢書』の記述だけから具体的に復元することは難しい。

また、劉如意への皇太子交代を戚夫人だけの野心として理解するのも適切ではない。
『漢書』は、劉邦自身が劉盈を「仁弱」で自分に似ていないと考え、
劉如意を「如意類我」と評価して、たびたび皇太子を替えようとしたことを明記している。

戚夫人はその意向に沿って息子の立太子を求めたが、
皇太子劉盈には呂后だけでなく、公卿・大臣や叔孫通らがつき、
最終的には張良の策によって商山四皓まで皇太子を支持する形となった。

皇太子交代問題は、戚夫人と呂后という二人の女性だけの対立ではなく、
劉邦の後継者選択と前漢初期の政治勢力が絡んだ問題だった。

劉邦の死後には、その力関係が完全に逆転した。

呂太后は戚夫人を幽閉し、周昌を趙国から引き離したうえで劉如意を長安へ召した。
恵帝が異母弟を守ろうとしたものの劉如意は毒殺され、戚夫人も「人彘」と呼ばれる状態にされた。

その後の戚夫人について史書は具体的に記していない。
死亡した年月や埋葬地も明確ではなく、
史料上で確認できる彼女の生涯は「人彘」とされた記録を最後に途切れている。

まとめ

戚夫人は定陶で劉邦に仕え、その寵愛を受けて劉如意を産んだ。
劉邦は皇太子劉盈よりも劉如意が自分に似ていると考え、
たびたび皇太子交代を望み、戚夫人も息子を立てるよう求めた。

しかし公卿・大臣の反対や叔孫通の諫言、張良の策によって劉盈の地位は維持され、
商山四皓を見た劉邦も最終的に皇太子交代を断念した。

劉邦の死後、戚夫人は永巷に幽閉され、米を搗く労役を課された。
そこで歌った息子を思う歌を契機として呂太后は劉如意の召還に動き、
趙相周昌を長安へ呼び戻した後に劉如意を召した。
恵帝は異母弟を守ろうとしたが、劉如意は恵帝が狩猟に出た朝に毒殺された。

その後、戚夫人は『史記』が「人彘」と記す処置を受けた。
正確な死亡時期は記録されておらず、史料上の戚夫人の生涯はここで途切れる。

戚夫人の生涯は、劉邦の寵愛を受けた后妃の転落というだけではなく、
前漢成立直後の皇位継承問題と密接に結びついている。

劉邦自身による劉如意への後継者変更の意向、呂后による劉盈の地位維持、重臣たちの反対、
劉邦死後の呂太后による権力掌握という流れのなかに置くことで、
史料に残された一連の事件の位置づけが明確になる。

史書・参考文献

・『史記』巻9「呂太后本紀」
・『史記』巻55「留侯世家」
・『漢書』巻97上「外戚伝上」

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