西太后(慈禧太后)|清朝末期の政治を動かした皇太后の生涯

西太后(清の同治帝の母・慈禧太后) 01.皇后

西太后、一般に慈禧太后と呼ばれる葉赫那拉氏は、
咸豊帝の妃として後宮に入り、皇子載淳を産んだことで地位を高め、
咸豊帝の死後には同治帝の生母として皇太后となった人物である。

日本では西太后の名で知られるが、
これは同じ皇太后であった慈安太后を東太后、
慈禧太后を西太后と呼び分けた通称であり、正式な称号ではない。

咸豊11年(1861年)の辛酉政変によって八大臣を排除すると、
慈安太后とともに垂簾聴政を開始した。
その後、同治帝、光緒帝の二代にわたり朝政治の中心にあり、
太平天国の鎮圧、洋務運動、清仏戦争、日清戦争、戊戌の変法、義和団事件、清末新政など、
朝末期を揺るがした重大事件のほとんどに関わった。

単純に「保守的な皇太后」とするだけでは捉えにくく、
必要と判断すれば洋務政策を支持し、戊戌政変では改革派を弾圧する一方、
義和団事件後には科挙廃止や新軍建設、官制改革、立憲準備へ踏み込むなど、
その政治姿勢は時期によって大きく変化している。

出自と咸豊帝の後宮

葉赫那拉氏の出自

慈禧太后は道光15年10月10日(1835年11月29日)に生まれた。
『清史稿』は「孝欽顕皇后、葉赫那拉氏、安徽徽寧池広太道恵徴女」と記しており、父は恵徴である。

葉赫那拉氏は満洲旗人の家に生まれたが、その出生地については後世さまざまな説が生まれた。
北京説のほか山西説なども唱えられているものの、
出生地をめぐる伝承には後世に形成されたものも多く、
確実な史料によって一つに断定することは難しい。

幼少期についても同様である。
幼いころから聡明で父の書類整理を手伝った、家計を支えたといった逸話が伝えられているが、
後年の回想や伝聞に依存する部分が大きい。

後の政治能力から幼少期の非凡さを逆算した逸話も含まれているため、
そのまま史実とはみなしにくい。

選秀を経て咸豊帝の後宮へ

咸豊2年(1852年)、葉赫那拉氏は朝の選秀によって宮中に入り、蘭貴人となった。
故宮博物院に残る宮廷档案にも、この年に選秀女として入宮したことが確認できる。

貴人は后妃のなかでは高い身分ではなかったが、葉赫那拉氏は咸豊4年(1854年)に懿嬪へ昇格した。
宮中では儲秀宮に住み、次第に咸豊帝の后妃のなかで地位を高めていった。

後世には、葉赫那拉氏が漢文を読み書きできたため、病弱な咸豊帝に代わって奏摺を読み、
朱批まで代筆するようになったという逸話が広く伝えられている。

彼女に一定の漢文能力があったことは否定しにくいが、
咸豊帝時代から恒常的に国政を代行していたとまで断定できる一次史料は乏しい。
後に示す高い政治能力を、入宮直後からすでに発揮していたとする説明には慎重さが必要である。

皇子載淳を出産

咸豊6年(1856年)3月23日、懿嬪は儲秀宮で男子を出産した。
これが咸豊帝の皇長子載淳、後の同治帝である。

この出産は葉赫那拉氏の運命を大きく変えた。
咸豊帝には男子が少なく、載淳は成長した唯一の皇子となったためである。
懿嬪は出産後に懿妃へ昇格し、翌咸豊7年(1857年)にはさらに懿貴妃へ進んだ。

当時の『懿貴妃遇喜档』には、妊娠中の脈診、医師の当番、出産後の食事や用品、
皇帝らからの下賜品、皇子の洗浴、満月や抓周に至るまで細かな記録が残されている。

後に朝最高権力者となる慈禧にとって、
載淳の誕生こそ宮廷内での地位を決定的に高めた出来事だった。

咸豊帝の死と辛酉政変

第二次アヘン戦争と熱河への避難

咸豊10年(1860年)、英仏連合軍が北京へ迫ると、
咸豊帝は北京を離れて熱河の避暑山荘へ向かった。
皇后鈕祜禄氏、懿貴妃葉赫那拉氏、皇子載淳らも同行した。

英仏連合軍は北京へ入り、円明園は略奪・焼却された。
朝にとって深刻な軍事的敗北であると同時に、皇帝が首都を離れるという異常事態となった。

咸豊帝はそのまま北京へ戻ることなく、翌咸豊11年(1861年)7月、避暑山荘で病状を悪化させた。

咸豊帝の死と八大臣

咸豊帝は死を前に、唯一成長していた皇子載淳を皇太子とし、
怡親王載垣、鄭親王端華、粛順、景寿、穆蔭、匡源、杜翰、焦祐瀛の八人に
幼帝の政務を補佐させることを決めた。
彼らは後に「賛襄政務王大臣」「八大臣」と呼ばれる。

同時に咸豊帝は「御賞」と「同道堂」という二つの印章を残した。
上諭を正式なものとするにはこれらの印が必要とされ、
「御賞」は皇后鈕祜禄氏、「同道堂」は幼い載淳に与えられた。
載淳は幼少だったため、実際には生母である葉赫那拉氏が「同道堂」を管理することになった。

咸豊11年7月17日、咸豊帝が崩御すると6歳の載淳が即位した。
皇后鈕祜禄氏は母后皇太后、載淳の生母である葉赫那拉氏は聖母皇太后となり、
のちにそれぞれ「慈安」「慈禧」の徽号を受けた。

辛酉政変

咸豊帝の死後、八大臣と二人の皇太后との対立が表面化した。
八大臣は咸豊帝の遺命によって政務を担当する立場にあり、
皇太后が直接政治に関与することには消極的だった。

これに対し、御史董元醇が二宮皇太后による朝政への関与を求める上奏を行い、
勝保らからも同様の意見が出された。
北京に残っていた咸豊帝の弟・恭親王奕訢も熱河へ赴き、二宮皇太后と接触した。

慈禧と慈安は奕訢らと連携し、咸豊帝の梓宮を北京へ戻す過程で八大臣の排除に動いた。
北京帰還後、載垣・端華・粛順らの罪を公表し、載垣と端華には自尽、粛順には斬首を命じ、
残る賛襄政務大臣も政権から排除した。

これが咸豊11年(1861年)の辛酉政変である。
当初予定されていた「祺祥」という年号も取り消され、翌年から「同治」と改元された。

同治帝時代の垂簾聴政

二宮皇太后の垂簾聴政

辛酉政変後、恭親王奕訢は議政王となり、軍機処を中心として政務を担当した。
咸豊11年11月1日、
慈安・慈禧両太后は幼い同治帝とともに養心殿で政務を聴く垂簾聴政を正式に開始した。

朝では皇太后による垂簾聴政の制度的な前例がなかったため、
朝廷は過去の王朝における皇太后の政治参加を調査し、『治平宝鑑』を編纂した。
また恭親王らによって「垂簾章程」が定められ、皇太后の政治関与を制度として整えた。

二宮太后は奏摺を閲覧した後、議政王や軍機大臣に意見を求め、
最終的な上諭は皇帝の名で発せられた。

慈禧一人による独裁がこの時点ですでに完成していたわけではなく、
慈安太后、恭親王奕訢、軍機大臣らとの共同統治に近い体制から始まった。

太平天国の鎮圧と漢人官僚の登用

垂簾聴政が始まった時点で、朝は太平天国をはじめとする大規模な反乱に直面していた。
従来の八旗・緑営だけでは対応できず、
地方で編成された湘軍・淮軍などの軍事力に依存する状況となっていた。

二宮太后と奕訢を中心とする政権は、曾国藩、左宗棠、李鴻章ら漢人官僚を積極的に登用した。
曾国藩の湘軍は太平天国の中心地南京を攻撃し、同治3年(1864年)に天京を陥落させた。

このほか捻軍などの反乱にも対応し、同治初年には長く続いた内乱が次第に収束していった。
慈禧の政治を満洲貴族だけに依存する排他的な統治とみなすことはできず、
必要に応じて漢人の地方官僚や軍事指導者に大きな権限を与えたことが、
朝の危機を一時的に乗り切る要因となった。

↓↓朝の統治システムについての個別記事は、こちら

八旗とは何か|清朝を支えた軍事・社会・統治の統合システム
八旗とはどのような制度だったのか。ヌルハチによる創設から、満洲・蒙古・漢軍の三グサ編成、禁旅八旗・駐防八旗、旗王と旗人の関係、衰退と形骸化、清末の崩壊までを詳しく解説。

勝保を処刑

辛酉政変で二宮太后側に立った人物の一人に、軍人の勝保がいた。
政変後も軍事上の重要人物として活動したが、
次第に軍紀の乱れや虚偽報告、部下の私物化などを問題視されるようになった。

同治2年(1863年)、勝保は逮捕され、最終的に自尽を命じられた。
政変への協力者であっても、その後の行動に問題があれば排除する姿勢を示した事件である。

恭親王奕訢を一時失脚させる

辛酉政変後の政権運営で大きな力を持った恭親王奕訢と慈禧の関係も、次第に緊張するようになった。

同治4年(1865年)、慈禧は奕訢について、皇太后に対して傲慢な態度を取ったことなどを問題視し、
議政王をはじめとする職務から罷免した。
朝廷内から復職を求める声が相次いだため、奕訢はまもなく軍機大臣などへ戻されたが、
「議政王」の地位は失われた。

この事件は、辛酉政変で協力した奕訢であっても、
二宮太后の権力から独立した政治的中心となることを許されなかったことを示している。

洋務運動を支える

同治年間には、外国の軍事技術や産業技術を導入して朝を立て直そうとする洋務運動が本格化した。

奕訢、曾国藩、李鴻章、左宗棠らが中心となり、
江南製造総局、福州船政局などの軍需工場や造船施設が整備され、
外国語教育や外交機構の整備も進められた。

慈禧は西洋化そのものを目的とする改革者ではなかったが、
王朝の維持に必要な軍事・外交上の改革については容認した。

総理各国事務衙門の活動や洋務官僚の事業が長期間継続できたことからも、
彼女を一貫して西洋技術を拒絶した人物とみなすことはできない。

同治帝の親政

同治帝が成長すると、二宮太后は同治12年(1873年)に垂簾聴政を終え、皇帝へ政務を返した。

同治帝は前年に阿魯特氏を皇后として迎えていた。
皇后選定をめぐって慈安太后と慈禧太后の意見が異なり、
同治帝が慈安側の推した阿魯特氏を選んだため慈禧との関係が悪化したという逸話が伝えられている。
ただし、後世に語られるような激しい嫁姑対立については、宮廷秘話として脚色された部分も多い。

親政開始後の同治帝は、円明園の再建を計画した。
工事費の負担を懸念した恭親王奕訢らが反対すると、
同治帝が奕訢らを罷免しようとする騒動も起きたが、二宮太后が介入して処分を撤回させている。

同治帝の死

同治13年(1874年)末、同治帝は病に倒れた。
公式記録では天然痘を患ったとされ、
治療が行われたものの回復せず、同年12月5日に19歳で崩御した。

後世には、同治帝が密かに遊郭へ通って梅毒に感染したという説も広く流布した。
しかし清宮の医案や公式記録は天然痘としており、
遊郭通いや梅毒説を確実な史実とすることはできない。

同治帝には皇子がいなかったため、朝は新たな皇位継承者を選ばなければならなくなった。

光緒帝の即位と慈禧太后

載湉を光緒帝として即位させる

同治帝の死後、皇族・大臣らが集められ、後継者が協議された。
選ばれたのは醇親王奕譞の子で、当時3歳だった載湉である。

載湉の父・奕譞は咸豊帝の弟であり、母は慈禧の妹だった。
そのため載湉は慈禧にとって甥にあたる。

本来、同治帝の後継者として次世代の「溥」字世代から皇帝を選べば、
同治帝の嗣子とすることができた。
しかし載湉は同治帝と同じ「載」字世代であったため、
同治帝の後継ではなく咸豊帝の後継として即位するという変則的な継承となった。

幼児である載湉が即位したことで、慈安・慈禧両太后は再び政務を聴くことになった。

光緒帝を養育

光緒帝は幼くして実家を離れ、紫禁城で皇帝として育てられた。
慈禧は実の叔母であると同時に、制度上は皇太后として光緒帝を養育する立場となった。

光緒帝の養育は厳格で、学問や礼儀について厳しい教育が行われた。
後年の回想には、幼い光緒帝が慈禧を恐れていたとする話もある一方、
病気の際には慈禧が世話をしたとする記録もあり、
二人の関係を最初から一貫した敵対関係として捉えることはできない。

慈安太后の死

光緒7年(1881年)3月、慈安太后が急死した。45歳だった。

慈安の死が突然だったため、後世には慈禧が毒殺したという説が生まれた。
咸豊帝が慈安に密詔を残しており、慈禧を処分できる権限を与えていたが、
慈安がその密詔を焼いた後に毒殺されたという有名な逸話もある。

しかし、この密詔そのものを裏付ける確実な一次史料は確認されておらず、
慈禧による毒殺を史実とすることはできない。

慈安の死によって、二宮皇太后による統治は終わり、
皇太后として政務を掌握する人物は慈禧一人となった。

清仏戦争と甲申易枢

光緒10年(1884年)、
ベトナムをめぐるとフランスの対立が激化するなか、軍は北寧で敗北した。

慈禧はこの軍事的失敗を背景に、恭親王奕訢をすべての職務から罷免し、
宝鋆、李鴻藻、景廉ら軍機大臣も一斉に交代させた。
軍機処の首脳部をほぼ全面的に入れ替えたこの政変は、干支から「甲申易枢」と呼ばれる。
辛酉政変以来、政権の中心にいた奕訢はここで政治の第一線から退き、
醇親王奕譞らが重用されるようになった。


慈安太后もすでに亡くなっていたため、慈禧の政治的優位はさらに明確になった。

光緒帝の親政と慈禧の「帰政」

光緒帝が成長すると、光緒13年(1887年)に親政が始まった。
ただし慈禧はただちに完全引退したわけではなく、
重要政務について引き続き指導する体制が取られた。

光緒14年(1888年)には慈禧の姪にあたる葉赫那拉氏が光緒帝の皇后に選ばれた。
これが後の隆裕皇太后である。同時に他他拉氏姉妹が瑾嬪・珍嬪として後宮に入った。

翌光緒15年(1889年)、光緒帝の大婚を経て慈禧は正式に帰政した。
以後は頤和園を主要な居所とするようになるが、
軍機大臣や皇族は重要問題について引き続き慈禧の意向を無視できなかった。

日清戦争と清朝の危機

頤和園の再建と海軍経費

慈禧をめぐる逸話のなかでも特に有名なのが、
「北洋海軍の軍費をすべて頤和園の建設に使ったため、日清戦争に敗れた」という話である。

頤和園の前身である清漪園は、第二次アヘン戦争で英仏連合軍によって破壊されていた。
光緒14年(1888年)に頤和園と改称され、慈禧の居所として大規模な再建が進められた。

この工事に海軍衙門が管理する資金の一部が使われたこと自体は史料から確認できる。
海軍関係の資金が園林工事へ「騰挪」された例もあり、
海防強化が必要な時期に宮廷建設へ資金を回したことは批判を免れない。

一方、「北洋海軍の予算を慈禧が全額奪って頤和園を造った」という単純な説明も正確ではない。
海軍衙門が扱った資金には海防専款のほか、
地方から集めた資金や利息など性格の異なるものが含まれ、
頤和園へ投入された金額についても研究者の推計は一致していない。

日清戦争の敗因も、艦隊整備の停滞だけでなく、
軍制、訓練、指揮系統、財政、補給など複数の問題が重なった結果だった。

日清戦争

光緒20年(1894年)、朝鮮をめぐる対立からと日本の戦争が始まった。
この年は慈禧の還暦にあたり、大規模な祝賀行事が計画されていた。

戦局が悪化すると祝賀行事は縮小され、恭親王奕訢が再び政務に起用された。
しかし北洋艦隊は黄海海戦で大きな損害を受け、翌1895年には威海衛が陥落しては敗北した。

下関条約によっては朝鮮の独立を認め、
台湾・澎湖諸島・遼東半島を割譲し、多額の賠償金を支払うことになった。
遼東半島はその後の三国干渉で返還されたが、
敗戦によって朝の軍事的弱体化が明白となり、政治改革を求める動きが急速に強まった。

戊戌の変法と光緒帝の幽閉

戊戌の変法

日清戦争後、康有為、梁啓超らは制度の抜本的改革を主張し、光緒帝もこれを支持するようになった。

光緒24年(1898年)、光緒帝は一連の改革上諭を発し、
教育、官制、産業、軍事など広い分野の改革に着手した。
後に「戊戌の変法」「百日維新」と呼ばれる改革である。

慈禧も当初から改革そのものを全面否定していたわけではない。
問題となったのは改革の速度と人事、そして皇帝と慈禧を中心とする政治勢力の対立だった。
改革派が既存官僚を急速に排除しようとするにつれ、朝廷内の反発も強まっていった。

戊戌政変と光緒帝の幽閉

改革派の一部は、慈禧側による政変を警戒し、袁世凱の軍事力を利用しようとした。
譚嗣同が袁世凱に接触し、栄禄を排除して皇帝を守る計画を持ちかけたことが知られている。

同年8月、慈禧は政局を掌握し、光緒帝を瀛台に置いて政治的自由を奪った。
康有為と梁啓超は国外へ逃亡し、譚嗣同、楊鋭、林旭、劉光第、楊深秀、康広仁の六人は処刑された。
いわゆる「戊戌六君子」である。

改革措置の多くも停止されたが、すべてが完全に廃止されたわけではない。
京師大学堂など一部の事業は存続した。

光緒帝は以後も皇帝の地位にはあったが、実際の政治権力を大きく制限され、
慈禧が再び政務の最終決定権を握った。

光緒帝廃位の動き

戊戌政変後、光緒帝を正式に廃位する動きも起こった。

光緒25年(1899年)、端郡王載漪の子・溥儁が同治帝の後継者として「大阿哥」に立てられた。
光緒帝に代わる皇帝を準備する意図があったとみられている。

しかし外国公使らが光緒帝の廃位に警戒を示したことなどもあり、正式な廃帝には至らなかった。
皇帝は光緒帝のまま、慈禧が実権を握る状態が続いた。

義和団事件と北京脱出

義和団の拡大

19世紀末、山東・直隷を中心として義和団が勢力を拡大した。
キリスト教会や外国人、キリスト教徒となった中国人を攻撃し、「扶清滅洋」を掲げるようになった。

朝内部では義和団を鎮圧すべきか、外国勢力に対抗するため利用すべきか意見が分かれた。
袁昶、許景澄らは排外運動の危険性を訴えた一方、
端郡王載漪、剛毅らは義和団を利用して列強に対抗することを主張した。

慈禧は当初から一貫して義和団を支持していたわけではないが、
列強との対立が激化すると次第に主戦派へ傾いた。

列強への宣戦

光緒26年(1900年)、義和団が北京へ入り、外国公使館地区をめぐる緊張が急速に高まった。

朝では連日の御前会議が開かれ、列強と戦うかどうかが議論された。
許景澄、袁昶らは開戦に強く反対したが、慈禧は最終的に主戦派の意見を採用した。

6月、朝は各国に対する宣戦の上諭を発し、軍と義和団は北京の外国公使館区域を包囲した。

ただし地方では李鴻章、張之洞、劉坤一らが中央の方針に従わず、
列強と独自に交渉して戦闘を回避した。これが「東南互保」である。

慈禧の命令が朝全土で一律に実行されなくなっていたことは、中央政府の統制力低下を示している。

珍妃の死

八カ国連合軍が北京へ迫った光緒26年(1900年)8月、
光緒帝の妃である珍妃が宮中の井戸に投げ込まれて死亡した。

珍妃は戊戌政変以前から慈禧との関係を悪化させ、すでに宮中で処分を受けていた。
八カ国連合軍の北京侵攻に際し、慈禧が西安へ逃れる直前、
太監の崔玉貴らに命じて珍妃を井戸へ落とさせたと伝えられている。

後世には、珍妃が「皇帝は北京に残って外国と交渉すべきだ」
と主張したため殺されたという詳細な会話も伝えられるが、現場のやり取りには異説がある。

慈禧の命令によって珍妃が井戸で死亡したという事件そのものは、
宮関係の記録や後世の宮廷証言にも残されている。


↓↓光緒帝の妃・珍妃についての個別記事は、こちら

珍妃|光緒帝に愛され、井戸に投げ込まれた清朝最後の悲劇
珍妃(ちんぴ)とは清朝の光緒帝に寵愛された妃で、西太后との対立の中で命を落とした悲劇の女性である。義和団の乱期に井戸へ投げ込まれた最期や、その生涯と背景をわかりやすく解説する。

北京を脱出して西安へ

八カ国連合軍が北京へ侵入すると、慈禧は光緒帝、皇后、皇族らを伴って紫禁城を脱出した。

宮廷ではこれを「西狩」と呼んだが、実態は北京からの避難だった。
一行は山西を経て陝西へ向かい、最終的に西安へ入った。

急な脱出であったため、北京の宮廷生活とは比較にならない厳しい移動となった。
地方官が食事や宿泊場所を用意しながら一行を迎え、
慈禧は西安に滞在しながら李鴻章や奕劻らに列強との講和を進めさせた。

辛丑条約

光緒27年(1901年)、朝は列強との間で辛丑条約、いわゆる北京議定書を締結した。

朝は4億5000万両の賠償金を負担し、北京の外国公使館区域への外国軍駐留を認め、
大沽砲台を破壊するなど厳しい条件を受け入れた。
また義和団を支持した王公大臣らも処罰された。

慈禧が講和に際して「量中華之物力、結与国之歓心」と述べた言葉は、
しばしば「中国の物力をすべて外国に差し出して歓心を買う」という意味で引用される。

しかし文脈上は、賠償交渉で中国側の負担を可能な範囲に抑えつつ
各国との関係を収拾するという趣旨を含んでおり、
この一句だけを切り離して無条件降伏の宣言のように理解することには注意が必要である。

北京への帰還

講和成立後、慈禧と光緒帝らは西安を離れ、光緒28年(1902年)に北京へ戻った。

義和団事件は慈禧にとって大きな政治的失敗だった。
列強を排除するどころか北京を占領され、
巨額の賠償と外国軍の駐留を受け入れる結果となったからである。

一方、帰還後の慈禧は外国公使夫人らとの接触を増やし、外交姿勢を大きく転換した。
外国人女性を宮廷に招いて宴を開き、
自らの肖像画をアメリカ人女性画家キャサリン・カールに描かせるなど、
外国社会に対する自身のイメージ改善にも努めた。

清末新政と慈禧太后の最期

清末新政

義和団事件後、慈禧は大規模な制度改革を開始した。一般に「清末新政」「光緒新政」と呼ばれる。

改革は軍制、教育、官制、産業、警察、法制など広い分野に及んだ。
各地に新式学校が設立され、新軍の編成が進められ、商部や巡警部など新しい官庁も設置された。

特に大きな変化が科挙制度の廃止である。
光緒31年(1905年)、隋唐以来長く官僚登用の中心となってきた科挙が廃止された。

戊戌政変で改革派を弾圧した慈禧が、
その数年後に百日維新を上回る規模の制度改革を認めたことは、一見すると矛盾している。
しかし戊戌政変で争点となったのは改革の有無だけではなく、
改革を主導する政治勢力と皇帝権力の所在でもあった。

義和団事件によって朝そのものの存続が危機に陥ると、
慈禧も従来の制度を維持するだけでは王朝を守れないことを認めざるを得なくなった。

立憲準備

日露戦争で日本がロシアに勝利すると、
朝内部では日本の立憲体制を参考に政治制度を改革すべきだという議論が強まった。

光緒31年(1905年)、朝は載沢、端方ら五大臣を日本・欧米へ派遣して政治制度を調査させた。
翌年、慈禧は「予備立憲」を宣布し、将来的な憲政移行を公式方針とした。

その後、中央官制改革や地方諮議局の準備が進められ、
光緒34年(1908年)には憲法大綱にあたる「欽定憲法大綱」が公布された。

ただし皇帝に極めて強い権限を残した内容であり、立憲実施までの期間も長かったため、
改革を求める側の不満を解消することはできなかった。

光緒帝の死

光緒34年(1908年)10月、長く病気を患っていた光緒帝の容体が急速に悪化した。

慈禧自身もすでに重病だった。
後継者として選ばれたのは、醇親王載灃の幼い子・溥儀である。
載灃を摂政王とし、溥儀を光緒帝の後継者とすると同時に、
同治帝の祭祀も継承させることが決められた。

10月21日、光緒帝は瀛台で崩御した。

慈禧の死のわずか前日だったため、早くから毒殺説が生まれた。
2000年代に光緒帝の遺髪などを科学分析した研究では、
通常では説明できない高濃度の砒素が検出され、
光緒帝が急性の砒素中毒によって死亡したとする研究結果が発表されている。

ただし、砒素を誰が与えたのかを示す証拠は発見されていない。
慈禧が「自分の死後に光緒帝が復権することを恐れて毒殺した」という説は以前から存在するが、
科学分析によって毒殺の可能性が強まったことと、実行者・命令者が慈禧だったことは別問題である。

↓↓光緒帝の死の謎についての個別記事は、こちら

【ミステリ】光緒帝は毒殺されたのか?西太后死の前日に急死の謎
光緒帝の急死は毒殺だったのか?1908年、西太后の死の前日に起きた不可解な崩御について、ヒ素検出の科学的根拠、宮廷内部の関与説、袁世凱説、溥儀即位との関係まで史実ベースで検証する。

溥儀を後継者に選ぶ

光緒帝に子はなかったため、慈禧は醇親王載灃の長男で当時2歳の溥儀を後継者とした。

載灃は光緒帝の弟であり、溥儀は光緒帝の甥にあたる。
また溥儀の母・幼蘭は、慈禧の側近として大きな権力を持った栄禄の娘だった。

幼い溥儀を皇帝とし、父の載灃を摂政王とすることで次代の統治体制を整えたが、
慈禧自身にそれを指導する時間は残されていなかった。

慈禧太后の死

光緒帝の死から約一日後、
光緒34年10月22日(1908年11月15日)、慈禧は西苑の儀鸞殿で死去した。72歳だった。

死の直前まで後継皇帝の決定に関与しており、半世紀近く朝政治の中心にいた慈禧の死によって、
同治初年以来続いた皇太后を中心とする政治体制は終わった。

死後、「孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇熙配天興聖顕皇后」という長い諡号が贈られ、
孝欽顕皇后と呼ばれることになった。

慈禧太后の死後

菩陀峪定東陵への埋葬

慈禧の陵墓は、咸豊帝の定陵に近い菩陀峪定東陵に造営された。
慈安太后の普祥峪定東陵と並んで建設された皇后陵である。

建設は同治12年(1873年)に始まり、光緒5年(1879年)に一度完成したが、
慈禧は後に大規模な改修を命じた。
隆恩殿などには大量の金が使われ、龍と鳳の配置にも一般的な皇后陵とは異なる意匠が採用された。

宣統元年(1909年)、慈禧の梓宮は菩陀峪定東陵に正式に奉安された。

清朝の滅亡

慈禧が死去した後、幼い溥儀が宣統帝として即位し、父の載灃が摂政王となった。

しかし清末新政によって生まれた新軍、地方議会、留学生、知識人などの新しい政治勢力は、
必ずしも朝を支える存在にはならなかった。
立憲派からも改革の遅さへの不満が高まり、革命運動も拡大していった。

宣統3年(1911年)に辛亥革命が起こり、翌1912年、隆裕皇太后が宣統帝の退位詔書を発した。
慈禧の死からわずか三年余りで朝は滅亡した。

1928年の定東陵盗掘

慈禧の死後にも、その陵墓をめぐって大きな事件が起きた。

1928年、軍閥の孫殿英が率いる部隊が清東陵に入り、
乾隆帝の裕陵と慈禧の菩陀峪定東陵を大規模に盗掘した。
定東陵の地宮は爆薬などを用いて開かれ、棺も破壊され、多数の副葬品が持ち去られた。

慈禧の口中から巨大な夜明珠が発見された、棺の中に翡翠の白菜があったなど、
盗掘品をめぐって後に数多くの逸話が生まれた。
しかし副葬品の内容やその後の行方には伝聞が多く、
個々の宝物については史料的な裏付けを確認する必要がある。

盗掘そのものは大事件となったが、孫殿英は最終的に十分な処罰を受けなかった。
朝の遺族によって慈禧の遺骸は改めて収められた。

人物評・評価

慈禧は、後世に「朝を滅ぼした悪女」として強く記憶された人物である。
しかし、その評価には、末の敗戦や政治的混乱を
一人の権力者に集約して説明しようとする見方も少なからず含まれている。

実際の慈禧は、思想や政策に一貫した人物というより、
王朝の存続と自らの政治的主導権を基準に判断を変える現実的な権力者だった。
洋務政策を認める一方で急進的な改革勢力を抑え、
義和団事件後にはそれまで以上に大規模な制度改革へ踏み切ったことも、その姿勢をよく示している。

そのため、慈禧を単なる保守派とも改革者とも位置づけにくい。
長期にわたって政権を維持した政治的手腕は無視できないが、
改革を自らの権力を脅かさない範囲にとどめようとしたことが、
朝の制度的な立ち遅れを深めた面もあった。

慈禧の評価が今なお大きく分かれるのは、王朝を支えた政治能力と、
その王朝の限界を最後まで乗り越えられなかった責任の両方を持つ人物だからである。

まとめ

慈禧太后は、咸豊帝の后妃から同治帝の生母となり、辛酉政変を経て朝政治の中心に立った。
その後の生涯は、同治・光緒二代の皇帝とともに、朝が内乱の鎮圧から洋務運動、列強との戦争、
制度改革へと進んだ時代そのものと重なっている。

後世に形成された逸話には史料で確認できないものも多く、
その評価も「朝を滅ぼした悪女」と「王朝を延命させた有能な政治家」の
どちらか一方では捉えきれない。

慈禧の約半世紀にわたる政治は、朝を危機から何度も立て直す一方、
その統治構造を守ることを優先したために改革の機会を失うという、
末政治そのものの矛盾を抱えていた。

史書・参考文献

・『清史稿』巻214「后妃伝」
・『清史稿』巻23-25「徳宗本紀」
・『清文宗実録』
・『清穆宗実録』
・『清徳宗実録』
・『宣統政紀』
・『光緒朝東華録』
・『翁同龢日記』
・『崇陵伝信録』
・『懿貴妃遇喜档』
・中国第一歴史档案館編『光緒宣統両朝上諭档』
・中国第一歴史档案館編『光緒朝朱批奏折』
・中国第一歴史档案館編『義和団档案史料』

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