安徳公主(あんとくこうしゅ)は、北魏皇族の女性であり、
王朝が崩壊して東魏・北斉へと続く激動の時代を生きた公主である。
彼女は北魏の宗室・清河王 元懌 の娘として生まれ、皇族の女性として宮廷で育った。
しかし北魏末期になると、皇帝と宗族女性の関係が乱れるなど宮廷の秩序は崩れていく。
さらに北魏が崩壊し北斉の時代になると、
暴君として知られる皇帝の狂気に巻き込まれ、
公主でありながら宮廷で屈辱的な扱いを受けたという記録が残されている。
安徳公主の人生は、
北魏から北斉へと続く北朝王朝の混乱と退廃を象徴するものとして知られている。
北魏皇族として生まれる
安徳公主は、北魏皇族である清河王元懌の娘として生まれた。
(皇帝の娘ではないが、公主の号を与えられた皇族女性)
北魏の皇族は「元」姓を名乗り、彼女もまた皇帝一族に属する女性だった。
また彼女は、のちに東魏の皇帝となる元善見(孝静帝)の叔母にあたる人物でもある。
皇帝と宗族女性の乱れた関係
北魏末期、宮廷では皇族社会の秩序が大きく乱れていた。
皇帝・孝武帝(元脩)は、自分の従妹にあたる皇族女性たちを
愛妾として宮廷に置いたと記録されている。
その中にいたのが
・平原公主 元明月
・安徳公主
・元蒺藜
である。
彼女たちは宮廷で宴席に呼ばれ、詩を詠むなどして皇帝に近侍したと記録されている。
しかしこの関係は、皇族倫理から見ても非常に問題のあるものだった。
↓↓北魏皇族・元明月についての個別記事は、こちら

北魏の崩壊
534年、北魏の政治は完全に崩壊する。
孝武帝は権臣 高歓との対立に敗れ、洛陽を脱出して西へ逃亡した。
このとき皇帝は愛妾の中から元明月だけを連れて行き、他の女性たちは置き去りにした。
その結果、もう一人の従妹である元蒺藜は絶望して自殺したという。
安徳公主は生き延びたが、
北魏王朝はこの後「東魏」「西魏」へと分裂することになる。
↓↓南北朝後期の二大権力者の一人 高歓 についての個別記事は、こちら

北斉宮廷の狂気
文宣帝の暴政
その後、北魏の後継国家の一つである北斉では文宣帝(高洋)が皇帝となった。
文宣帝は次第に狂気じみた行動を取るようになり、
宮廷の女性たちにも残酷な扱いを行ったと史書に記されている。
↓↓初期は有能・晩年狂気の 高洋 についての個別記事は、こちら

公主への公開凌辱
史書によると、文宣帝は宮廷で高氏の女性、元氏の公主などを集め、
群臣の眼前で公開凌辱させたという。
このとき安徳公主も捕らえられ、胡人の兵士によって侮辱されるなど、
極めて屈辱的な扱いを受けたと記録されている。
この事件は、北斉宮廷の退廃と暴政を象徴するものとして知られている。
その後の記録
仏像造立の銘文
安徳公主の晩年について、史書の記録はほとんど残っていない。
しかし東魏の興和四年(542年)に、
安徳公主が亡くなった夫の妹のために、釈迦像を造立したという銘文が残されている。
この銘文によって、少なくともこの時期までは彼女が生きていたことが確認されている。
まとめ
安徳公主は、王朝崩壊という激動の時代に生き、
北魏皇族の公主でありながら、北斉宮廷の暴政の被害者となった公主である。
彼女の人生は、北魏から北斉へと続く北朝王朝の崩壊と退廃を映し出している。
史書・参考文献
・『北斉書』列伝
・『北史』列伝
・『資治通鑑』魏紀
・北朝史関連史料

