【唐】程元振|李輔国に代わって禁軍を掌握した唐代の宦官

唐の宦官 程元振 037.宦官

程元振(ていげんしん、生年不詳-764年頃)は、の粛宗・代宗の時代に活動した宦官である。
京兆府三原県の出身で、若くして内侍省に入り、内射生使や飛龍厩副使を務めた。

粛宗の最晩年、張皇后と皇太子・李豫の対立が表面化すると、
程元振は張皇后側の動きを李輔国に知らせ、皇太子を確保した。

粛宗の死後に李豫が代宗として即位すると、その功績によって重用され、
やがて李輔国に代わって元帥府行軍司馬を担当し、禁軍を統率する立場となった。

その後は李輔国を上回るほどの権勢を持つようになったが、来瑱を死に追いやり、裴冕を左遷し、
李懐譲や李光弼にも圧力を加えたため、有力な将軍や節度使と朝廷との関係は悪化した。

広徳元年(763)に吐蕃が侵攻した際には、その情報を代宗へ速やかに報告せず、
さらに諸将が程元振を警戒して援軍を送らなかったことも重なって、長安は一時吐蕃軍に占領された。

長安陥落後、太常博士の柳伉から厳しく弾劾され、程元振は官爵をすべて剥奪されて故郷へ帰された。
しかしその後、密かに長安へ入り、不穏な行動を企てたとして再び処罰され、
溱州への長流を命じられた。最終的には流刑地へ向かう途中の江陵で死去したと史書に記されている。

安史の乱後、では皇帝の身辺に仕える宦官が軍事や政治に深く関与するようになった。
程元振は李輔国とともに、その変化を示す人物の一人である。

程元振の出自と宮廷での経歴

京兆府三原県の出身

程元振は京兆府三原県の出身である。
生年や家族関係、宦官となった経緯については詳しい記録が残されていない。

『新唐書』によれば、若くして宦官として内侍省に勤務し、
その後、内射生使、飛龍厩副使へ昇進した。

内射生使は宮廷の射生軍に関係する職であり、飛龍厩は皇帝の馬を管理する機関である。
程元振はこうした宮廷内部の職務を経ながら、粛宗の治世末期までに禁中で一定の地位を得ていた。

張皇后との政変と代宗即位

張皇后と皇太子・李豫の対立

宝応元年(762)、粛宗の病状が悪化すると、
皇后の張氏と皇太子・李豫をめぐって宮廷内の緊張が高まった。

『旧唐書』は、張皇后が皇太子と不和であったため、自分に従わないことを恐れ、
越王・李係を宮中へ入れて監国させようとしたと記している。

一方、『資治通鑑』では、張皇后はまず皇太子に李輔国・程元振の排除を持ちかけ、
皇太子が病床の粛宗を驚かせることになるとして拒否したため、
その後に越王李係と結んだという経緯が記されている。

したがって、張皇后が当初から皇太子を廃して李係を皇帝にしようとしていた
と単純に説明するのは適切ではない。

李輔国に張皇后側の動きを知らせる

程元振は張皇后と越王李係の動きを察知すると、李輔国に密告した。

李輔国と程元振は皇太子・李豫を確保し、張皇后側が皇太子を掌握することを防いだ。
その後、李輔国らは宮中へ兵を入れ、越王李係とその一派を制圧した。

まもなく粛宗が崩御すると、皇太子・李豫が即位した。代宗である。
程元振はこの一連の事件で皇太子を保護した功績によって、代宗から重用されるようになった。


↓↓粛宗の時代に大きな権力を持った宦官李輔国についての個別記事は、こちら

【唐】李輔国|粛宗を支え大きな権力を握った唐代の宦官
李輔国(りほこく)は粛宗を霊武で即位させた立役者で、唐代で初めて宰相級の権力を握った宦官。玄宗を圧迫し、張皇后を排除して皇位継承を左右したが、専横が極まり代宗により暗殺された。中唐の宦官政治を象徴する人物である。

右監門衛将軍・知内侍省事となる

代宗即位後、程元振は右監門衛将軍、上柱国に任じられ、
内侍省の実務を統括する知内侍省事となった。

『新唐書』では、右監門衛将軍・知内侍省事に任じられたことが記され、
『旧唐書』ではこれに飛龍副使・上柱国が加えられている。

程元振は代宗の即位を支えた功臣として、宮廷内部で急速に地位を高めていった。

李輔国を失脚させて禁軍を掌握する

李輔国の権力を削るよう代宗に進言する

代宗が即位した時点では、宮廷で最大の権力を持っていた宦官李輔国だった。

李輔国は粛宗の時代から元帥府行軍司馬として禁軍に関与し、
代宗即位後には司空兼中書令となっていた。
さらに「尚父」と呼ばれ、政務にも大きな影響力を持っていた。

しかし程元振は、李輔国が握っていた権力を制限するよう代宗に進言した
『資治通鑑』は、飛龍副使であった程元振が「李輔国の権力を奪おうとし」、
密かに代宗へ進言して徐々に李輔国を抑えるよう求めたと記している。

代宗も李輔国の専横を警戒していたため、この進言を受け入れた。

元帥府行軍司馬を李輔国から引き継ぐ

宝応元年(762)六月、李輔国は元帥府行軍司馬と兵部尚書を解任され、
宮中から外の邸宅へ移された。

程元振は李輔国に代わって元帥府行軍司馬を担当した。

その後、鎮軍大将軍、右監門衛大将軍となり、保定県侯に封じられ、宝応軍使も兼ねた。
同年九月には驃騎大将軍へ進み、邠国公に封じられている。

父の程元貞には司空が追贈され、母の郤氏には趙国夫人の称号が与えられた。

「十郎」と呼ばれる

『旧唐書』は、この頃の程元振について、その権力は李輔国よりも強かったと記している。
『新唐書』も、禁軍を統率するようになって一年も経たないうちに
「権天下を震わせ、輔国の右に在り」と記しており、李輔国を上回る存在となったと評価している。

軍中では「十郎」と呼ばれた。

ただし、程元振がこの時点での軍事力全体を掌握したとするのは適切ではない。
程元振が直接統率したのは宮廷を守る禁軍であり、
地方にはそれぞれ節度使が率いる軍が存在していた。

『旧唐書』の「宦官伝」序文も、李輔国・程元振の時代について、
国政には関与したものの、宦官が「まだ兵権を完全には握っていなかった」としている。
後世の神策軍中尉のような制度的な宦官の軍事支配とは区別する必要がある。

有力な将軍や官僚を排除する

来瑱との対立

程元振が権力を握ると、有力な将軍や官僚との対立が相次いだ。
その代表が襄陽を拠点としていた来瑱である。
『旧唐書』によれば、程元振は以前から来瑱に私的な依頼をしていたが、来瑱はこれに応じなかった。このため程元振は来瑱に恨みを抱いた。

程元振が権力を握った後、来瑱には入朝命令が出されたが、来瑱はすぐには従わなかった。
広徳元年(763)、来瑱は入朝して兵部尚書となったものの、程元振は過去の恨みから来瑱を陥れた。
来瑱は罪に問われ、最終的に死を命じられた。

現在の記事では「流罪にさせられ、その途中で自殺した」としているが、
『旧唐書』程元振伝は「誣瑱之罪、竟坐誅」としており、
『新唐書』も程元振が王仲升とともに来瑱を誣告して殺したとしている。
単なる流刑途中の自殺とするより、程元振の讒言によって処刑されたとする方が史料に沿っている。

裴冕を施州へ左遷する

宰相経験者の裴冕も程元振と対立した。

裴冕は粛宗の陵墓造営を担当する山陵使となっていたが、程元振と意見が対立した。
程元振は裴冕の配下にいた小吏の収賄事件を利用して裴冕を攻撃し、施州刺史へ左遷させた。

裴冕は霊武で粛宗の即位を支えた功臣であり、来瑱も安史の乱で功績を挙げた将軍だった。

『旧唐書』は、
この二人が程元振によって陥れられたことで「天下の方鎮は皆解体した」と記している。
地方の節度使や将軍たちが、功績を挙げても宮廷の宦官に陥れられる可能性があるとして、
中央政府への不信を強めた
ことを示している。

李懐譲を自殺に追い込む

『新唐書』には、同華節度使の李懐譲も程元振によって陥れられたことが記されている。

李懐譲は程元振から罪を構えられ、強い不安に陥って自殺した。

来瑱は程元振らの誣告によって死を命じられ、
李懐譲は程元振に罪を構えられたことを恐れて自殺したとされている。

李光弼にも圧力を加える

程元振は、安史の乱で郭子儀と並ぶ功績を挙げた李光弼とも関係が悪かった。

『新唐書』は、程元振がもともと李光弼を嫌い、
たびたび讒言して代宗から疑われるよう仕向けたと記している。

来瑱が程元振の讒言によって死んだ後、李光弼は自分にも同じことが起こるのではないかと警戒した。代宗から軍を率いて入朝するよう命じられても、李光弼は容易には応じなくなった。

程元振による有力武将への圧力は、単に数人の官僚を失脚させただけではなく、
安史の乱を戦った将軍たちと朝廷との信頼関係にも影響を及ぼした。

吐蕃侵攻と長安陥落

吐蕃が唐の領内へ侵攻する

安史の乱によっての西方防衛が弱体化すると、吐蕃は河西・隴右方面へ勢力を拡大した。
広徳元年(763)には吐蕃・党項がの領内へ侵入し、関中へ迫った。

このとき程元振は、吐蕃侵攻に関する情報を速やかに代宗へ報告しなかった
『資治通鑑』は「吐蕃入寇、元振不以時奏」と明記しており、
そのため代宗が十分な準備を取れないまま長安を離れる事態になったとしている。

諸道へ援軍を求めても兵が集まらない

吐蕃軍が迫ると、朝廷は各地へ兵を出すよう命じたが、援軍はほとんど集まらなかった。
その背景として史書が指摘しているのが、程元振と有力将軍たちとの関係悪化である。

来瑱や裴冕が排除され、李光弼も程元振から讒言を受けていたため、
地方の将軍たちは程元振が中央にいることを警戒していた。
『資治通鑑』は、李光弼らが程元振を忌避したため誰も援軍に到着しなかったと記している。

程元振が単独で長安陥落を引き起こしたわけではないが、
侵攻情報を速やかに奏上しなかったことと、有力将軍との関係を悪化させていたことは、
当時の史書でも長安防衛失敗の重要な要因として扱われている。

代宗が陝州へ逃れる

吐蕃軍が長安へ迫ると、代宗は都を離れて陝州へ避難した。
長安は吐蕃軍によって占領され、
吐蕃は金城公主の兄・邠王李守礼の子である広武王李承宏を皇帝に立てた。

吐蕃による長安占領は長期間続いたわけではなく、
郭子儀が兵を集めて反撃の態勢を整えると、吐蕃軍は長安から撤退した。

しかし皇帝が首都を放棄しなければならなかった事態は、
安史の乱後の朝が抱えていた軍事的・政治的な弱体化を明らかにした。

↓↓名将・郭子儀についての個別記事は、こちら

【唐】郭子儀|安史の乱・吐蕃侵攻・僕固懐恩の反乱を支えた唐再建の名将
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柳伉の弾劾と失脚

長安陥落の責任を追及される

代宗が陝州へ避難した後、太常博士・翰林待詔の柳伉が上疏し、程元振を厳しく弾劾した。

柳伉は、吐蕃軍がほとんど抵抗を受けずに長安へ入り、
諸道へ援軍を命じても兵が集まらなかった状況について、
代宗が功臣を遠ざけて側近を重用した結果だと批判した。

そのうえで、程元振を処刑して天下に謝罪し、宦官を地方へ出し、神策軍を大臣に委ねるよう求めた。

代宗は程元振が自らの即位時に皇太子を保護した功績を持っていたため、
柳伉の要求どおり処刑することはしなかった。

しかし朝廷内外から程元振への批判が強まっていたことを受け、
官爵をすべて剥奪し、故郷の三原へ帰した。

密かに長安へ戻り再び処罰される

三原へ帰された後に長安へ入る

失脚した程元振は故郷の三原へ帰されたが、そのまま政治の世界から退いたわけではなかった。
代宗が長安へ帰還した後、程元振は密かに都へ入った。

このときの記述は『旧唐書』と『新唐書』で異なる。

『旧唐書』では、程元振は車中で縗麻、すなわち喪服を身につけて長安へ入り、
再び任用されることを期待していたとされる。

一方、『新唐書』では、女性の衣服を着て三原から密かに長安へ入り、
司農卿・陳景詮の家に滞在して「不軌」を企てたと記している。

溱州への長流を命じられる

程元振が密かに長安へ入ったことは発覚し、御史による取り調べを受けた。

『旧唐書』には、御史大夫の王昇と酒を飲んだことも記されており、その後に御史から弾劾された。

代宗が出した詔では、程元振はすでに一度処刑を免じられて故郷へ帰されたにもかかわらず、
なお野心を捨てず、人々を集め、武器を用意し、変装して密かに行動したと厳しく非難されている。

本来なら死刑に相当するとされたが、
代宗は以前の功績を考慮して再び死刑を免じ、溱州への長流を命じた。

程元振の最期

程元振は溱州へ送られる途中、江陵まで到達した。
『新唐書』は簡潔に「元振行至江陵死」と記しており、江陵で死去したとしている。

程元振の生年は正史に明記されておらず、没年についても一般には764年頃とされるが、
確実に記録されているのは広徳年間に江陵で死去したという点である。

程元振と唐代の宦官政治

程元振の政治的な地位は、粛宗末年から代宗初年という短い期間に急速に高まった。

張皇后をめぐる宮廷内の争いで皇太子・李豫を保護し、
代宗即位後には李輔国に代わって元帥府行軍司馬を担当した。
さらに鎮軍大将軍、右監門衛大将軍、驃騎大将軍へ進み、邠国公に封じられ、禁軍を統率した。

その一方で、来瑱、裴冕、李懐譲、李光弼といった将軍・官僚への介入によって、
朝廷と地方の軍事指導者との関係を悪化させた。
吐蕃侵攻時に諸道から援軍が集まらなかったことについて、
『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』はいずれも程元振の専横との関係を指摘している。

ただし、程元振を後世の神策軍中尉と同じ意味で「の全兵権を握った宦官」とすることはできない。

『旧唐書』は李輔国と程元振について、国政に関与したものの「亦未全握兵権」と記している。
『新唐書』も、粛宗・代宗期の李輔国、程元振、魚朝恩について、
後の時代の宦官のように恒常的に軍を統率する制度が成立していたわけではないとしている。

宦官が左右神策軍を制度的に掌握する体制が確立するのは、
徳宗期に竇文場・霍仙鳴らが護軍中尉となって以降である。

程元振はその完成された制度のもとで権力を持った人物ではなく、
安史の乱後に皇帝が身辺の安全を宦官に依存するようになり、
宦官が禁軍や皇位継承、中央政治へ深く介入していく過程に位置する人物だった。

程元振の人物評

程元振の経歴で重要なのは、代宗の即位を支えた功績によって皇帝の信任を得たことと、
その信任を背景として禁軍と宮廷政治に大きな影響力を持ったことである。

程元振は張皇后側の動きを察知して李輔国に知らせ、皇太子・李豫を確保した。
この功績は代宗にとって無視できないものであり、後に長安陥落の責任を問われた際にも、
代宗が柳伉の求めた死刑を採用しなかった理由の一つとなった。

一方、権力を握った後の程元振について、『旧唐書』『新唐書』はいずれも厳しい評価を下している。
とりわけ来瑱への私怨、裴冕の左遷、李懐譲への圧力、李光弼への讒言は、
有力な将軍や節度使に朝廷への不信を抱かせる結果となった。

広徳元年の吐蕃侵攻では、程元振が侵攻情報を速やかに奏上しなかったことに加え、
諸将が程元振を警戒して朝廷の召集に応じなかったため、代宗は長安を離れざるを得なくなった。

史書が程元振を強く批判する理由は、単に宦官として大きな権力を持ったからではなく、
その権力行使が朝廷と軍事指導者との関係を損なったとみなされたことにある。

ただし、後期に見られる宦官による禁軍支配や皇帝廃立の制度的な権力を、
そのまま程元振の時代まで遡らせるべきではない。
程元振は後期の宦官政治を完成させた人物ではなく、
その形成過程において大きな権力を持った宦官の一人と位置づけるのが適切である。

まとめ

程元振は京兆府三原県の出身で、若くして宦官となり、内侍省に仕えた。
粛宗末年には内射生使・飛龍厩副使となり、張皇后と皇太子・李豫をめぐる宮廷内の争いでは、
張皇后側の動きを李輔国に知らせて皇太子を保護した。

李豫が代宗として即位すると、その功績によって右監門衛将軍・知内侍省事などに任じられ、
さらに李輔国の権力を制限するよう代宗へ進言した。

李輔国が失脚すると元帥府行軍司馬を引き継ぎ、
鎮軍大将軍、右監門衛大将軍、驃騎大将軍へ進み、邠国公に封じられた。

しかし権力を握った後は、私的な恨みを理由に来瑱を陥れ、裴冕を左遷し、
李懐譲や李光弼にも圧力を加えた。
こうした行動によって有力な将軍や地方の節度使と朝廷との関係が悪化し、
広徳元年(763)の吐蕃侵攻では諸道から十分な援軍が集まらなかった。

程元振自身も吐蕃侵攻の情報を代宗へ速やかに報告しなかったとされ、
長安陥落後には柳伉から責任を追及された。
代宗は程元振の過去の功績を考慮して処刑せず、官爵を剥奪して三原へ帰した。

その後、程元振は密かに長安へ戻ったが、再び不穏な行動を企てたとして摘発され、
溱州への長流を命じられた。流刑地へ向かう途中、江陵で死去した。

程元振は後期の宦官による軍事支配を完成させた人物ではないが、
皇位継承への関与と禁軍の統率を背景に中央政治へ強い影響力を持った。
その活動は、安史の乱後に宦官の政治的・軍事的な役割が拡大していく過程を示している。

史書・参考文献

・『旧唐書』巻184「宦官伝・程元振」
・『新唐書』巻207「宦者上・程元振」
・『資治通鑑』巻222
・『資治通鑑』巻223

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