李猪児|安禄山を暗殺した宦官

唐の宦官 李豬児 024.宦官

李猪児(生没年不詳)は、契丹出身の宦官で、安禄山の側近として仕えた人物。

少年時代は悪賢く手に負えない悪童だったため、安禄山自身の手で去勢され、
瀕死の状態から生還したという経歴を持つ。

その後は安禄山の最側近として重用されるが、
晩年に凶暴化した安禄山から 最も激しい暴行を受け続け、
最終的には主人である安禄山を殺すという重大な事件を起こした。

この暗殺は安史の乱の流れを変える出来事の一つとなる。

出自と去勢:悪童から宦官へ

少年時代は、悪賢く一筋縄ではいかない悪童であったため、
その行状を怒った安禄山自身の手によって、去勢されたと伝わる。

その際瀕死となった李猪児は、
安禄山に灰を傷口に押し当てて止血され、
奇跡的に一命を取り留めたという。

安禄山の最側近としての台頭

瀕死から生還した李猪児は、それまでの悪童ぶりが嘘のように従順になり、
安禄山の側近宦官として重用されるようになった。

安禄山は極度の肥満で、衣服を着替える際には 三〜四人がかりで腹を持ち上げ、
李猪児が頭で腹を支えながら帯を結ぶという異様な光景が史書に残る。

玄宗が安禄山を寵愛していた時期には、
華清池での入浴に李猪児ら側近宦官が同行し、
衣服の脱ぎ着を手伝うことも許されていた。

晩年の安禄山:病と狂気、そして暴力

755年、安禄山は反乱を起こす。
洛陽を占領し、自ら皇帝を名乗って大燕という国を建てた。

安禄山は晩年、糖尿病とされる病で健康状態が非常に悪化した。
史書によると
 ・肥満で歩くことができない
 ・失明に近い状態
 ・背中には悪性の腫れ物
といった状態だったとされている。

このころの安禄山は非常に残酷になり、
理由もなく側近や宦官に対しても厳しく当たるようになった。

少しでも気に入らないことがあると
「鞭打ち」「処刑」「拷問」などを命じたと伝えられている。

李猪児もまた、安禄山から虐待を受けていたと記録される。

安禄山暗殺

安慶緒の陰謀

安禄山の息子・安慶緒は父を恐れていた。

安禄山は次第に息子を信用しなくなり、
別の人物を後継者にする可能性もあった。

そこで安慶緒は、側近たちとともに父の暗殺を計画した。
そして、この暗殺計画の実行役となったのが李猪児であった。

至徳2年(757)正月元日、寝所で刺殺

安禄山が眠っている隙に寝所へ忍び込み、
李猪児は刀で安禄山を刺殺した。

安禄山は佩刀を探したが見つからず、
「家賊(身内の裏切り者)!」と叫んで絶命したという。

「家賊難防」(身内の裏切りは防ぎにくい)という言葉は、
中国では現在でも、裏切りの例えとして使われることがある。

暗殺後の消息は不明

安禄山の死後、息子の安慶緒が後を継いで即位したが、
李猪児のその後については史書に記録がなく、消息不明である。

多くの史書では
 ・安慶緒の政権で処刑された
 ・あるいは粛清された
と考えられている。

歴史的評価:唐を救った“裏切り者”か?

・李猪児は安禄山の腹心でありながら、 最後には主君を刺殺した裏切り者である。

・しかし南宋の詩人・薛季宣は
 「頼有李猪児、発憤扶唐室(李猪児が奮起して唐を救った)」 と詠み、
 王朝を救った英雄として評価する声もある。

李猪児は、「安禄山の暴虐に耐えかねた復讐者」 「を救った暗殺者」
という二つの顔を持つ、唐代でも特異な宦官である。

安史の乱の流れを変えた人物の一人として歴史に名前が残っている。

史書・参考文献

・『旧唐書』安禄山伝
・『新唐書』安禄山伝
・『資治通鑑』巻219
・氣賀澤保規『隋唐帝国史』

関連リンク

隋王朝・唐王朝の皇帝家系図と一覧|楊堅から楊侑まで・李淵から哀帝まで

中国の宦官とは?歴史・制度・役割・有名宦官をわかりやすく解説【東廠/西廠/錦衣衛】