欒巴(らんは)は、後漢の順帝から霊帝の時代に仕えた官僚で、
宮廷の宦官から地方太守、尚書へと昇進した人物である。
若い頃から儒教の経典や道術を学び、黄門令となっても有力宦官たちとの交際を避けた。
桂陽太守として婚姻・葬礼の制度を整え、学校を設立して官吏の教育を進めたほか、
豫章太守として民衆の財産を費やす巫術や祭祀を取り締まった。
順帝の陵墓造営では民間の墓を守るために梁太后へ諫言し、二十年以上にわたって官職を禁じられた。霊帝の即位後に復帰したものの、竇武・陳蕃が宦官勢力によって殺害されると、
その冤罪を訴えて再び処罰を受け、自害した。
正史『後漢書』には政治家としての経歴が記される一方、
『神仙伝』には成都の火災を酒の雨で消したという奇異な逸話も伝わっている。
欒巴の出自と宦官としての経歴
欒巴は字を叔元といい、『後漢書』巻五十七「欒巴伝」では魏郡内黄県の出身とされる。
ただし、同書の李賢注が引用する『神仙伝』では蜀郡の出身とされており、
出身地について異なる伝承が存在する。生年は明らかではない。
若い頃から道術を好み、儒教の経典にも通じていた。
順帝の時代には宦官として掖庭に仕え、黄門令に任じられた。
掖庭は宮中の女性たちが暮らす区域に関係する官署であり、
黄門令は宮廷内の職務を担当する官職だった。
『後漢書』は欒巴について、
性格が質朴で正直であり、経典を広く学び、宦官でありながら諸常侍と交際しなかったと記している。
当時の宮廷では宦官が皇帝への近侍を通じて政治に影響力を持つことがあり、
順帝の擁立に功績を挙げた孫程らも宦官として封爵を受けていた。
しかし、欒巴はこうした宮廷内の交際によって地位を高める道を選ばなかった。
男性としての身体機能が回復したという記録
欒巴には、宦官としては珍しい身体に関する記録が残されている。
『後漢書』には「後陽気通暢、白上乞退」とあり、
後に男性としての身体機能が通じるようになったため、
皇帝に申し出て宦官の職務から退くことを願ったと記されている。
宦官は通常、去勢を受けて宮廷に仕える男性であったが、
欒巴については、その身体的状態が変化したことを理由に辞職を申し出たとされる。
ただし、具体的にどのような状態だったのか、
去勢の程度や医学的な事情について史書は説明していない。
順帝は欒巴の辞職願を受けて宮廷から退けるのではなく、郎中に抜擢した。
郎中は皇帝の近くで勤務する官職であり、欒巴はその後も官僚として仕え、
四度の昇進を経て桂陽太守となった。
『後漢書』の末尾には、欒巴の子である欒賀が雲中太守にまで昇進したことも記されている。
ただし、欒賀の母親や欒巴の婚姻について詳しい記録は残っていない。
桂陽太守としての善政
婚姻・葬礼の整備と学校の設立
欒巴が太守に任じられた桂陽郡は、荊州南部に位置する地域である。
『後漢書』によれば、桂陽は南方の辺境にあたり、
住民の間では儒教の経典に基づく礼制が十分に浸透していなかった。
欒巴は着任すると、婚姻や葬儀に関する礼儀を定め、住民が従うべき規範を整備した。
また、学校を設立して教育を奨励し、儒教の経典や礼制を学ぶ機会を広げた。
教育の対象は一般の住民だけではなかった。
欒巴は郡の役所に勤務する下級官吏にも学習を命じ、
読み書きや経典の理解を身につけさせたうえで、試験によって能力を評価した。
その成績や職務能力に応じて昇進や任用を決め、身分や官職の高低だけに頼らない人材登用を進めた。
『後漢書』は欒巴の行政について「政事明察」と評価している。
欒巴は郡内の風俗を改めるだけでなく、地方官吏の教育と勤務評価を制度化し、
行政の運営にも取り組んでいた。
七年間の治績と李固による推薦
欒巴は桂陽太守を七年間務めた後、病気を理由に辞職を願い出た。
このとき荊州刺史の李固が欒巴の治績を高く評価し、朝廷に推薦した。
李固は後漢中期の官僚で、外戚や宦官の政治介入に対してたびたび諫言した人物である。
李固の推薦によって欒巴は朝廷に召還され、議郎に任じられ、光禄大夫の職務を代行した。
さらに杜喬・周挙らとともに八人の使者の一人として各地の州郡を巡察する任務を与えられた。
巡察使は地方行政の状況を調べ、官吏の職務や民政上の問題を確認する役割を担った。
欒巴は徐州への派遣を終えて帰還し、その後、二度の昇進を経て豫章太守となった。
豫章太守・沛国相としての統治
巫術や鬼神信仰の取り締まり
豫章郡は現在の江西省を中心とする地域で、山地や河川が多く、さまざまな神霊信仰が存在していた。
『後漢書』によれば、当地では鬼神を恐れる住民が多く、
災厄を避けるために財産を費やして祈祷や祭祀を行う習慣があった。
巫者による祈祷が住民の生活に深く入り込み、祭祀のために家財を失う者もいたという。
欒巴はもともと道術に通じていたとされ、
着任すると各地に設けられた祭祀施設を破壊し、不正な巫術を行う者を取り締まった。
『後漢書』は、欒巴が鬼神を使役する能力を持ち、こうした措置によって怪異が消えたと記している。
当初、住民は欒巴の行動を恐れたが、やがて地域は安定したとされる。
祭祀施設の破壊は、従来の信仰を否定する強硬な措置でもあったが、
史書では住民の財産を浪費させる祈祷や不正な巫者を排除した治績として記録されている。
廬山の神と黄父鬼の伝承
『後漢書』李賢注が引用する『神仙伝』には、
豫章太守時代の欒巴に関する不思議な話が記されている。
当時、廬山の廟には神霊が現れ、
帳の中から人々と会話したり、酒を飲んで杯を投げたりすると信じられていた。
また、官亭湖では風を操り、湖上を進む船の航行に影響を与えるともいわれていた。
ところが欒巴が赴任する十数日前から、廟の神は声を発しなくなったという。
さらに郡内では黄父鬼と呼ばれる鬼が住民に害を与えていたが、
欒巴の着任後には姿を消し、疫病も発生しなくなったと伝えられる。
これらは『神仙伝』に由来する説話であり、実際に鬼神が存在したことを示す記録ではない。
正史本文に記された巫者の取り締まりと、注に引用された神仙説話とは区別する必要がある。
沛国相への転任と尚書への昇進
豫章郡での統治を終えた欒巴は、沛国相に転任した。
沛国は後漢の諸侯王国の一つであり、国相は王国の行政を担当する官職だった。
欒巴はここでも治績を挙げたとされるが、
具体的な政策や事件について『後漢書』は詳しく記していない。
その後、欒巴は朝廷に召還され、尚書に任じられた。
尚書は皇帝の詔令や上奏文の処理などに関わる中央官職であり、
欒巴は地方行政から中央の政務へと職務を移した。
順帝の陵墓造営をめぐる梁太后との対立
民間の墓を守るために繰り返し上奏
144年、順帝が死去すると、朝廷では憲陵の造営が進められた。
陵墓の周辺には庶民の墓があり、工事を担当する者たちはその一部を取り壊そうとしていた。
欒巴はこれを知ると、民間の墓を侵すべきではないとして繰り返し上奏した。
当時は幼い沖帝が即位し、順帝の皇后だった梁妠が皇太后として臨朝称制を行っていた。
梁氏一族は朝廷で大きな影響力を持ち、皇帝の外戚として政権を支えていた。
欒巴の上奏に対し、梁太后は詔を下して厳しく非難した。
その内容は、先帝の陵墓についてはすでに適切な場所を選び、
造営費を節約する方針を採っており、陵域も二十頃に抑えているというものだった。
梁太后は、工事担当者が民間の墓を破壊しているという欒巴の訴えを事実ではないと否定し、
以前の上奏を取り上げなかったにもかかわらず、なお朝廷を誹謗する文書を提出したと批判した。
『後漢書』は、墓の取り壊しを計画した者がいたことを記す一方、
梁太后の詔ではその事実が否定されたことも伝えている。
欒巴が問題にしたのは陵墓造営そのものではなく、造営に伴って庶民の墓が侵害されることだった。
投獄と二十年以上に及ぶ禁錮
欒巴は梁太后の命令によって投獄され、有罪とされた。
その後、官職に就くことを禁じられ、故郷へ帰された。
『後漢書』によれば、この禁錮は二十年以上に及んだ。
欒巴が処罰された144年から霊帝即位の168年までには約二十四年の隔たりがある。
欒巴は長年にわたって中央政界から排除され、梁太后の死後も直ちに復帰することはなかった。
梁太后は150年に死去し、梁氏の権勢も159年に桓帝が梁冀を排除したことで崩壊した。
しかし、欒巴が再び官職に就いたのは、さらに後の霊帝即位時だった。
霊帝の即位と竇武・陳蕃の政変
二十年以上の禁錮から復帰
168年、桓帝が死去すると、皇太后となった竇妙と、その父である大将軍の竇武、
太傅の陳蕃らが新たな皇帝の擁立を進めた。
皇族の劉宏が迎えられて即位し、霊帝となった。
竇武と陳蕃は、桓帝の治世に権力を強めた宦官勢力を抑え、朝廷の政治を立て直そうとしていた。
陳蕃は名望の高い官僚であり、竇武も清流派の士大夫と結びついていた。
新政権のもとで欒巴は朝廷に召還され、議郎に任じられた。
梁太后への諫言によって長く官職を禁じられていた欒巴は、
二十年以上を経て政治の場に戻ったのである。
竇武・陳蕃の敗北と宦官勢力の反撃
竇武と陳蕃は、宮廷内で権力を握る宦官を排除しようとした。
しかし、その計画が宦官側に知られると、曹節や王甫らが反撃に出た。
曹節らは皇帝の身柄を確保し、詔命を利用して竇武らを逆賊として追討した。
竇武は軍勢を率いて抵抗したものの敗北し、自害した。
陳蕃も捕らえられて殺害され、政変は宦官側の勝利に終わった。
この事件によって竇氏の権力は崩壊し、曹節や王甫らが朝廷で勢力を強めた。
竇武・陳蕃と関係の深かった官僚たちも処罰され、欒巴もその一人となった。
↓↓霊帝朝で権力を握った宦官・曹節についての個別記事は、こちら

永昌太守への左遷と最後の上奏
欒巴は竇武・陳蕃の一派とみなされ、永昌太守へ左遷された。
永昌郡は益州南西部に位置する辺境の郡であり、中央政界から遠く離れた任地だった。
欒巴は病気を理由に赴任を拒み、さらに上奏して竇武と陳蕃の冤罪を訴えた。
二人が朝廷のために行動したにもかかわらず、反逆者として殺害されたことを問題にしたのである。
しかし、霊帝は欒巴の上奏に激怒し、詔を下して厳しく叱責したうえで、廷尉に引き渡すよう命じた。廷尉は刑罰や重大な裁判を担当する中央官職であり、欒巴は再び罪を問われることになった。
欒巴は処罰を受ける前に自害した。
『後漢書』には自害の具体的な方法や場所は記されていないが、
竇武・陳蕃が殺害された168年の政変に続く事件として、その最期が伝えられている。
欒巴の子である欒賀は、後に雲中太守にまで昇進した。
父の死後に欒賀がどのような経歴をたどったのかについては、詳しい記録が残されていない。
欒巴の人物像と神仙伝説
成都の火災を酒の雨で消した逸話
欒巴には、官僚としての経歴とは別に、神仙のような能力を持つ人物としての逸話が伝わっている。
『後漢書』李賢注が引用する『神仙伝』によれば、
欒巴が尚書として朝廷に仕えていた頃、正月の朝賀の席で奇妙な事件が起きた。
朝廷の儀式に欒巴だけが遅れて現れ、酒を口に含むと、西南の方角へ吹きかけたのである。
これを見た役人は、宮廷の儀礼を軽んじる行為だとして欒巴を弾劾した。
皇帝から理由を尋ねられた欒巴は、
故郷の成都で火災が発生したため、酒を雨に変えて火を消したのだと答えた。
皇帝が駅伝を使って成都に問い合わせると、正月の朝に大火災が発生したものの、
食事時になると東北から雨が降り、火が消えたという報告が届いた。
しかも、その雨には酒の香りがあったとされる。
この話は、欒巴が遠く離れた成都の出来事を知り、道術によって火災を鎮めたという神仙説話である。
『後漢書』本文に記された官僚としての活動とは異なり、
李賢注が『神仙伝』から引用した伝承に属する。
大風と霧の中で姿を消した欒巴
『神仙伝』には、欒巴が突然姿を消したという逸話も残されている。
ある日、激しい風が吹き、濃い霧が立ち込めて、向かい合って座っている人の姿さえ見えなくなった。やがて風と霧が収まると、欒巴の姿が消えていた。
人々が行方を調べると、その日に欒巴は成都へ戻り、親族や旧知の人々に別れを告げていたという。
この逸話も、欒巴が道術によって遠隔地を自在に移動できたという伝承である。
『神仙伝』では、政治家や官僚として知られる人物が、
常人には不可能な能力を示す話が収録されており、欒巴もその一人として描かれた。
欒巴の歴史的評価
欒巴の経歴は、後漢の宦官が必ずしも宮廷内の職務にとどまっていたわけではないことを示している。
順帝の時代に黄門令となった欒巴は、宮廷での勤務を経て郎中に転じ、
桂陽太守、豫章太守、沛国相、尚書を歴任した。
桂陽では学校の設立や官吏の教育、能力に応じた人材登用を行い、
豫章では住民の財産を費やす祭祀や巫者の活動を取り締まった。
地方行政の実績によって中央に召還され、巡察使として州郡の監督にも携わっている。
一方、中央政界では皇太后や有力宦官との対立によって二度にわたり処罰された。
梁太后の時代には陵墓造営をめぐる上奏で二十年以上の禁錮を受け、
霊帝の時代には竇武・陳蕃の冤罪を訴えたことで自害に追い込まれた。
欒巴と同時代の宦官には、皇帝への近侍を通じて政治的な権力を握る者もいた。
曹節や王甫は竇武・陳蕃を倒した政変の中心人物となり、
後漢末期には十常侍と呼ばれる宦官集団が朝廷で大きな影響力を持った。
これに対して欒巴は、宦官として宮廷に仕えながらも諸常侍との交際を避け、
地方官としての実績によって昇進した人物だった。
ただし、欒巴が宦官制度そのものの廃止を唱えたという記録はない。
最後に処罰されたのも、宦官全体への批判ではなく、
竇武・陳蕃の処遇に対して異議を申し立てたためである。
『後漢書』が伝える欒巴の人物像には、経典を学んだ官僚としての側面と、
道術によって鬼神を制する神仙としての側面が併存している。
政治上の事績と神仙説話を区別することで、
後漢の地方行政を担った欒巴の経歴と、後世に形成された伝説の双方を確認できる。
まとめ
欒巴は宮廷の宦官から地方太守へ転じ、
桂陽での教育制度の整備や豫章での巫者の取り締まりによって治績を挙げた。
その一方で、皇帝陵の造営をめぐる諫言によって長期間の禁錮を受け、
復帰後も竇武・陳蕃の冤罪を訴えて処罰された。
『後漢書』巻五十七「欒巴伝」は、欒巴の地方官としての行政手腕だけでなく、
権力者の命令に異議を唱えた結果、官職と生命を失った経緯を伝えている。
また、同書の注に残る『神仙伝』の逸話からは、
政治家としての欒巴が道術に通じた神仙としても語り継がれたことがわかる。
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史書・参考文献
・『後漢書』巻五十七「杜欒劉李劉謝列伝第四十七・欒巴伝」
・『後漢書』巻五十七「欒巴伝」李賢注所引『神仙伝』
・葛洪『神仙伝』
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