欒巴は後漢の順帝〜桓帝〜霊帝期に生きた宦官で、
宦官でありながら儒学を好み、地方太守として善政を行い、
外戚の暴政を諫めた人物。
最終的には、外戚・梁氏の専横を諫めたことで投獄され、
霊帝期に復権しかけるも、竇武・陳蕃の誅殺後に連座して自殺した。
欒巴とは
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若い頃から道学(儒学・道術)を好む
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順帝期:黄門令に任じられるが宦官仲間と交わらず
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その後、桂陽太守・豫章太守・沛国相など地方官として善政
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洛陽に召還され尚書に昇進
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梁太后の暴政を諫めて投獄
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霊帝即位で復権するが、竇武・陳蕃の誅殺後に連座し自殺
若年期:儒学を好み、俗事を嫌った“異色の宦官”
宦官でありながら儒者の気質
欒巴は若い頃から道学(儒学・道術)を好み、俗事を嫌ったとされる。
政治においても正しい道を守ることを重視していたため、
宦官の政治介入に対して強い批判を持っていたとされている。
順帝期に黄門令となるが、宦官仲間と交わらず、実直で孤高の人物だった。
男性の特徴が現れたため辞職を願う
宦官でありながら、後年「男性的特徴が現れた」とされ、
辞職を願い出たが、逆に才能を買われて郎中に抜擢された。
桂陽太守としての善政:婚姻・葬礼の整備、学校設立、官吏教育
南方の未開地域で教化を進める
桂陽郡は南方で儒教的教化が弱かった。 欒巴はここで
・婚姻・葬儀の礼を整備
・学校を建てて教育を普及
・官吏に読み書きを教え、試験で昇進させる
という、儒者のような善政を行った。
7年間の太守任期で治績を挙げ、荊州刺史・李固が朝廷に推薦した。
洛陽での活躍:尚書として外戚の暴政を諫める
順帝の死後、陵墓造営で民墓が破壊される
順帝の陵墓(憲陵)造営の際、 周囲の民衆の墓が多数破壊された。
欒巴はこれを諫め、「民の墓を壊すのは不義である」 と上書した。
梁太后の怒りを買い、投獄される
当時、朝政を握っていたのは梁太后(梁妠)。
欒巴の諫言は「朝政批判」とされ、投獄・禁錮となった。
霊帝期:竇武・陳蕃の誅殺に連座し、自殺
霊帝即位で復権
168年、霊帝が即位すると、
大将軍・竇武、太傅・陳蕃が政権を握り、
欒巴は議郎として復帰した。
宦官側の反撃で竇武・陳蕃が誅殺
しかし、曹節・王甫ら宦官勢力が反撃し、
竇武・陳蕃は殺害される。
欒巴は“竇武派”として左遷される
欒巴は永昌太守に左遷されるが、病と称して赴任せず、
竇武・陳蕃の冤罪を訴える上書を行った。
霊帝は激怒し、廷尉に送致。 欒巴は自殺した。
人物像と逸話:神通力を持つ“仙人宦官”
後漢書には、欒巴の不思議な逸話が多数記録されている。
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成都の火災を“酒の雨”で消した
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大風の日に忽然と姿を消し、成都の親に別れを告げて戻った
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妖怪を鎮め、巫覡を裁いた
これらは「仙人伝」にも記録され、 “仙人のような宦官”として語られた。
歴史的評価
宦官としては極めて異例の“清廉・善政型”
欒巴は
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宦官でありながら儒者のような善政
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外戚の暴政を諫める勇気
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妖怪退治などの怪異鎮圧
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最後は正義を貫いて自死
という、後漢史でも稀有な人物。
宦官政治の腐敗とは無縁の存在
曹節・王甫・十常侍らとは全く異なり、
宦官政治の腐敗とは距離を置いた“異端の宦官”だった。

