侯覧(こうらん)は後漢末期の宦官で、
莫大な財産を築き、豪奢な生活と収奪で悪名を轟かせた人物である。
桓帝期に中常侍へ昇進し、賄賂・官職売買・私田経営・一族ぐるみの財産没収など、
後漢の腐敗を象徴する行動を繰り返した。
その富は「巨万を数えた」と史書に記され、
兄の侯参とともに “後漢最大級の富豪宦官” として知られる。
侯覧とは
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桓帝初年に中常侍へ昇進
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賄賂で巨万の富を築く
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段珪とともに済陰郡で巨大私田を経営
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兄・侯参は益州で富豪を冤罪にして財産没収
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豪邸・巨大墓を建てるほどの奢侈生活
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172年、専権を弾劾され自殺
宦官として台頭し、賄賂で巨万の富を築く
中常侍となり、賄賂が“巨万”に達する
桓帝の初年、侯覧は中常侍に昇進した。
この頃の宮廷は宦官と官僚の腐敗が極まっており、侯覧はその中心にいた。
後漢書は、 「受け取った賄賂は巨万を数えた」 と記す。
これは後漢の宦官の中でも突出した規模で、
侯覧が“金の宦官”と呼ばれる最大の理由である。
巨大私田経営:済陰郡に広がる“宦官の領地”
段珪と組んだ大規模農業ビジネス
侯覧は同僚の小黄門・段珪とともに、
済陰郡で大規模な私田(私有農地)を経営していた。
その規模は 「済北国との境界近くまで延びた」 と記録されており、
ほぼ“領地”に近い広さだった。
私兵まがいの従者が農民を暴行
侯覧・段珪の僕従や賓客は、 地元民に乱暴狼藉を繰り返していた。
済北国相の滕延はこれを取り締まり、 数十人を処刑して遺体を晒した。
しかし侯覧は逆に滕延を訴え、 滕延は免官されてしまう。
権力を使って暴力と収奪を正当化した典型例である。
兄・侯参と一族ぐるみの“財産没収ビジネス”
益州刺史・侯参の凶悪な収奪
侯覧の兄・侯参は益州刺史として、
富裕層を大逆罪で誣告し、一族皆殺しにして財産を没収する
という凶悪な収奪を行っていた。
京兆尹・袁逢が侯参の車300両を調べたところ、
金銀・錦帛・珍玩が山のように積まれていた と記録されている。
侯覧一族は、 冤罪 → 財産没収 → 富の蓄積 という仕組みで巨万の富を築いていた。
豪邸と巨大墓:奢侈の極み
豪邸・巨大墓を建て、張倹に告発される
169年、侯覧の母が死去すると、侯覧は故郷に戻り、巨大な墓を建てた。
その奢侈ぶりは目に余るもので、 督郵・張倹がこれを告発し、
侯覧の邸宅と墓を破却、財産を没収した。
張倹の報告書には、 侯覧の貪欲と奢侈が詳細に記されていたという。
逆に張倹を“党人”として誣告
しかし侯覧は逆に張倹を党人として誣告し、
李膺・杜密ら名士が連座して獄死した。
これは第二次党錮の禁の一因となる。
最期:専権を弾劾され、自殺
172年、侯覧は 「専権驕奢」=権力を乱用し奢侈を極めたとして
御史に弾劾され、印綬を没収される。
その後、侯覧は自殺し、 仲間たちもすべて免官された。
歴史的評価:後漢の腐敗を象徴した“金の宦官”
侯覧は、
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巨万の賄賂
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大規模私田経営
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一族ぐるみの財産没収
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豪邸・巨大墓の建設
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党錮の禁の悪化
といった行動により、 後漢末期の腐敗と宦官政治の象徴となった。
政治的な黒幕だった曹節とは異なり、
侯覧は “富の収奪と奢侈”に特化した宦官 として記憶されている。

