秦の始皇帝に仕え、二世皇帝胡亥を操り、
秦帝国の滅亡を決定づけた宦官として悪名高いのが趙高である。
「指鹿為馬(鹿を指して馬となす)」の故事で知られ、
権力者が事実をねじ曲げる象徴として現代まで語り継がれている。
趙高とは
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趙国の出身
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罪を犯して秦に連行され、宮刑を受け宦官となる説が有力
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法律に精通し、書記官として頭角を現す
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始皇帝の末子・胡亥の教育係
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始皇帝死後、李斯と結託してクーデター(沙丘の変)を主導
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二世皇帝を操り独裁
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最後は子嬰に裏切られ誅殺される
出自と宦官としての出発
趙国の出身、罪を犯して秦へ
趙高は趙国の遠縁の公族とも、貧しい家の出とも言われるが、
いずれにせよ罪を犯して秦に連行され、宮刑を受けたという説が最も広く知られる。
法律の天才として抜擢
宮刑後、宮廷で雑務をこなしながら法律を学び、
法に精通した書記官として始皇帝に抜擢された。
中車府令(皇帝の車両管理)に任命され、皇帝の身近で働くようになる。
胡亥の教育係として影響力を強める
趙高は始皇帝の末子・胡亥に法律や書法を教え、 胡亥から強い信頼を得ていた。
この関係が後のクーデターの基盤となる。
沙丘の変|始皇帝の死とクーデター
始皇帝の巡幸に同行
紀元前210年、始皇帝は李斯・胡亥・趙高を伴い巡幸に出る。
沙丘に到着した際、始皇帝は病に倒れ、
長子・扶蘇に「葬儀を取り仕切れ」と命じる遺書を趙高に託した。
遺詔の偽造
始皇帝が死ぬと、趙高は丞相・李斯を心理操作で抱き込み、
遺詔を偽造して扶蘇を自殺に追い込む。
本来の後継者を排除し、胡亥を二世皇帝に即位させた。
皇帝を操る
胡亥は即位をためらったが、
趙高は「断じて行えば鬼神も避ける」と説得し、
完全に皇帝を掌握した。
二世皇帝時代の独裁と暴政
李斯を失脚させ処刑
クーデターの共犯だった李斯も、 やがて趙高の邪魔になると処刑された。
重税と苛政で全国に反乱
趙高は法を乱用し、重税と暴政を強化。
陳勝・呉広の乱を皮切りに、
全国で反乱が勃発し秦帝国は急速に崩壊していく。
指鹿為馬|権力の恐怖を象徴する事件
鹿を連れてきて「これは馬だ」
趙高は大臣たちの忠誠を試すため、 鹿を連れてきて「これは馬だ」と言い張った。
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「馬です」と迎合した者 → 生き残る
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「鹿です」と正直に答えた者 → 後に処刑
この事件は、 権力者が事実をねじ曲げ、周囲が迎合する構造を象徴し、
現代でも「指鹿為馬」という成語として使われている。
秦滅亡への加速と趙高の最期
反乱が激化すると胡亥を殺害
反乱が止まらず秦が崩壊寸前になると、
趙高は責任逃れのため、 二世皇帝・胡亥を殺害した。
子嬰を傀儡皇帝にするが…
次に子嬰を皇帝に立てたが、 子嬰は即位後すぐに反撃し、
趙高を一族もろとも誅殺した(前207年)。
秦の滅亡
翌年、秦は劉邦・項羽らの攻撃を受け滅亡。
趙高の独裁と暴政が、 秦帝国の崩壊を決定づけたとされる。
歴史的評価
史記における“史上最悪の宦官”
司馬遷の『史記』では、 趙高は秦を滅ぼした元凶として描かれ、
中国史上屈指の悪臣とされる。
↓↓中国史上最大の歴史家・司馬遷についての個別記事は、こちら

新史料による再評価の動き
近年発見された『趙正書』では、
・始皇帝が胡亥を後継に指名した
・沙丘の変は陰謀ではなかった可能性
など、従来の趙高像を揺るがす記述もある。
ただし学界ではまだ議論が続いている。
まとめ
趙高は、
・宦官として異例の出世
・始皇帝の死を利用したクーデター
・二世皇帝の傀儡化
・暴政による反乱の激化
・皇帝殺害と自身の最期
という一連の行動により、 秦帝国を内部から崩壊させた象徴的存在となった。

