童貫|北宋末期に軍権を握った最強の宦官

宋の宦官 童貫 035.宦官

童貫(どうかん、?-1126年)は、北宋末期に政治と軍事の両面で絶大な権力を握った宦官である。
書画や骨董品の鑑定に優れ、芸術を愛した徽宗の信任を得て出世すると、
やがて朝廷の中枢へ入り込み、20年以上にわたって宋軍の兵権を掌握した。

西夏との戦争では軍事指導者として名声を高め、宦官としては異例の高位に昇進したが、
その後は蔡京らとともに徽宗政権を支える権力者となり、
方臘の乱鎮圧や遼・金との戦争にも深く関与した。

しかし燕雲十六州奪還を目指した対遼戦争では大きな失敗を重ね、
金の台頭を招いた責任者の一人として厳しい批判を受けることになる。

北宋滅亡直前には「六賊」の一人として弾劾されて失脚し、
最終的には処刑された。後世の『水滸伝』では奸臣として描かれたが、
実際の童貫は単なる悪人ではなく、北宋末期の栄華と没落を象徴する複雑な人物だった。

開封に生まれた宦官

童貫は開封府の出身である。

生年については明らかではないが、若くして去勢され宮廷へ入り、宦官として仕えるようになった。
北宋では宦官が皇帝の近侍として活動すること自体は珍しくなかったが、
その多くは宮中の雑務や伝令、財務管理などを担当しており、
後に童貫が到達するような政治・軍事の最高権力層へ進出できる者は極めて少なかった。

童貫は若い頃から機転が利き、礼儀作法や宮廷での立ち居振る舞いに優れていたと伝えられる。
また書画や骨董品への深い知識を持ち、美術品の真贋を見分ける鑑識眼にも優れていたという。
当時の宮廷では歴代皇帝の収蔵品管理や新たな名品の収集も重要な職務の一つであり、
童貫はそうした分野で頭角を現していった。

やがて童貫の才能は宮廷内で知られるようになり、書画や古器物を愛好した徽宗の目に留まる。
童貫は各地の名品収集や鑑定に携わり、皇帝の趣味を支える側近として信任を獲得した。
単に皇帝の機嫌を取っただけではなく、
美術品に関する実務能力そのものが高く評価されていたとみられている。

こうして徽宗の近臣となった童貫は、宮廷内で急速に地位を上昇させていく。
さらに当時宰相として朝廷で権勢を振るっていた蔡京と協調関係を築くことで政治的基盤を固めた
二人は徽宗政権を支える中核となり、人事や政策決定にも大きな発言力を持つようになる。

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宦官らしくない怪人物だった

童貫は後世において、その異様な風貌でも有名である。

一般的に宦官は去勢によって男性的特徴を失うことが多かったが、
童貫についてはまったく異なる記録が残されている。
『宋史』によれば、彼は身長が高く体格も非常に頑健で、筋骨隆々としていたという。
さらに顎には立派な髭が生えていたとされる。

宦官でありながら髭を蓄えていたという記録は極めて珍しく、
当時から多くの人々が驚いたようである。

また、多数の妻妾を囲い、多くの養子を抱えていたとも伝えられる。
もちろん実子ではないが、その生活ぶりは通常の宦官とはかけ離れていた。

こうした特徴から、童貫は同時代人からも一種の怪人物として見られていたらしい。

もっとも、こうした記録の一部には後世の脚色が含まれている可能性もある。
しかし少なくとも、一般的な宦官像から大きく逸脱した存在であったことは間違いない。

西夏戦線で軍事的名声を獲得

童貫がさらに大きな権力を手にする契機となったのが、西夏との戦争であった。
北宋と西夏は長年にわたって対立を続けており、
西北国境は朝廷にとって最も重要な軍事問題の一つとなっていた。

本来、宦官は宮廷内で皇帝に仕える存在であり、軍隊を指揮する立場ではなかった。
しかし徽宗は童貫を深く信任しており、彼を前線へ派遣して軍事を監督させるようになる。
童貫自身も兵法に強い関心を持っていたとされ、次第に軍事面での発言力を強めていった。

当時の西北戦線では劉延慶、楊可世、種師道、馬拡ら有力な将軍たちが活動していた。
実際に戦場で指揮を執ったのは彼らであったが、
童貫は皇帝の代理として軍全体を統括する立場に立ち、作戦や軍政にも深く関与した。
こうした軍事監督は宋代の宦官に見られる役割ではあったものの、
童貫ほど大規模な兵力を統率し、長期間にわたって前線に関与した例は少ない。

西夏との戦争では一定の戦果が挙げられ、童貫の評価も高まった
これらの成果は前線の将軍たちの功績による部分も大きかったが、
徽宗は童貫を高く評価し続け、その結果として彼はさらに重用されることになる。

1111年、童貫は太尉に任じられ、さらに枢密院の実権を握るようになった。
枢密院は宋朝の軍事を統括する最高機関であり、
その実権を掌握することは国家の兵権を握ることを意味した。
こうして童貫は20年近くにわたって軍の最高指導層に君臨し、
北宋末期の軍事政策を主導する存在となる

さらに童貫は宦官として初めて開府儀同三司にまで昇進した人物として知られる。
これは三公に準ずる極めて高い地位であり、彼が単なる皇帝の側近ではなく、
国家の最高権力者の一人であったことを示している。

民衆の怨嗟を集めた北宋末期政治

童貫が権勢を振るった徽宗の治世後半、北宋では社会不安が急速に高まっていた。
徽宗は芸術や文化の振興に力を注いだ一方で、
宮殿や庭園の造営、珍品の収集にも莫大な費用を投じており、
その負担は税や各種の徴発として民衆に重くのしかかっていた。

特に花石綱と呼ばれる珍石や奇木の収集事業は各地で大きな負担となり、
江南では強制的な輸送や徴発への不満が広がっていく。
また朝廷では蔡京をはじめとする権力者たちが政治を左右し、
汚職や縁故人事が横行しているとの批判も強まっていた。

童貫もまた、こうした徽宗政権を支える有力者の一人として人々の反感を集めた。
軍事と政治の両面で大きな権力を握った一方、莫大な財産を築いたとも伝えられ、
その専横を非難する声は少なくなかった。

こうした不満はやがて各地で反乱となって噴出し、北宋の統治体制を揺るがしていく。
後に童貫が蔡京・王黼・梁師成・李邦彦・朱勔らとともに「六賊」と呼ばれるようになる背景には、
徽宗末期に蓄積した民衆の怒りと政治不信があったのである。

方臘の乱と江南遠征

1120年、浙江を中心とする江南地方で方臘の乱が勃発した。
方臘は摩尼教系の宗教的結社を基盤として勢力を拡大し、
重税や花石綱による負担に苦しむ民衆の支持を集めて大規模な反乱を起こした。

当時の朝は金と結んで遼を攻撃する準備を進めていたが、
この反乱によって計画の修正を余儀なくされる。

童貫は燕雲十六州奪還のために編成していた軍勢の中から約15万人を抽出し、江南へ派遣した。
王淵、韓世忠、辛興宗らが各軍を率い、童貫は全体の指揮を統括して反乱鎮圧にあたる。

しかし方臘軍の抵抗は予想以上に激しく、戦闘は長期化した。
軍は各地で徹底した掃討作戦を展開し、その過程で江南地方は深刻な被害を受けることになる。
史料には数十万人規模の死者が出たとする記録も見られるが、
数字については誇張の可能性が指摘されている。

ただし、この戦争によって江南地方が大きな打撃を受けたこと自体は疑いない。
最終的に1121年、方臘は捕らえられて開封へ送られ、処刑された。
方臘捕縛には韓世忠の功績が大きかったと伝えられている。

もっとも、朝が支払った代償も決して小さくなかった。
童貫が投入した軍の多くは本来、遼との決戦に用いられるはずの精鋭部隊であり、
長期にわたる江南遠征によって疲弊していた
のである。
この消耗はその後の対遼戦争にも影響を及ぼし、結果的に北宋の軍事力を弱体化させる一因となった。

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海上の盟と遼への攻撃

同じ頃、北方では女真族が急速に勢力を拡大していた。
完顔阿骨打が建国した金は遼を圧迫し、その支配体制を揺るがしていたのである。

北宋にとって遼は長年の宿敵であり、特に燕雲十六州の喪失は建国以来の大きな課題だった。
燕雲十六州は華北北部の要地であり、防衛上も経済上も極めて重要な地域であったため、
歴代皇帝はその回復を悲願としていた。

こうした状況の中で成立したのが「海上の盟」である。
と金は遼を挟撃することで合意し、遼滅亡後には燕雲十六州を宋へ返還することが約束された。

にとっては失地回復の好機であり、
金にとっても南方から遼を攻撃させることで戦略的優位を得る狙いがあった。
童貫は軍の総司令官としてこの計画の実行を任される。

長年追い求めてきた燕雲十六州奪還の機会が訪れたことで、北宋朝廷は大きな期待を寄せていた。
しかし、この遠征はやがて童貫の名声を大きく損なう結果となる。

燕京攻略の失敗

1122年、童貫は海上の盟に基づき、燕雲十六州奪還を目指して北遼への攻撃を開始した。

しかし軍の期待とは裏腹に、燕京を守る北遼軍の抵抗は激しく、
遠征は当初から苦戦を強いられることになる。

当時の北遼では耶律大石ら有力将軍がなお健在であり、
童貫の指揮下にあった楊可世、辛興宗、種師道らの軍は各地で反撃を受けた。
宋軍は白溝河付近まで後退を余儀なくされ、さらに撤退中の混乱によって大きな損害を被る。

『宋史』によれば、童貫は追撃してくる北遼軍を恐れて退路の確保を優先し、
その結果として東路軍は壊滅的打撃を受け、西路軍も大きな損害を出したという。

兵力では優勢だったにもかかわらず、遠征は失敗に終わり、
軍は燕京攻略の難しさを思い知らされることになった。

郭薬師の投降と再度の敗北

北遼内部では宰相李処温が政変を企てたが失敗に終わり、一族は処刑された。
この混乱の中で北遼軍の有力者だった郭薬師がへ投降する。
郭薬師は燕京周辺の事情に精通しており、その投降は童貫にとって大きな追い風となった。

郭薬師の献策を受けた童貫は、劉延慶率いる軍に燕京奇襲を命じる。
作戦は当初成功し、軍は城内への侵入に成功した。
市街戦へ持ち込まれたことで、燕京陥落は目前とも思われた。

しかし北遼軍の抵抗は予想以上に激しく、戦局は急速に逆転する。
反撃を受けた軍は総崩れとなり、大きな損害を出して撤退した。
禁軍は壊滅的な打撃を受け、童貫が期待した燕京攻略は再び失敗に終わる。

燕京陥落寸前まで迫りながら勝利を逃したことで、童貫の軍事的評価はさらに低下することになった。

金の力で燕雲十六州を回復する

二度にわたる遠征の失敗によって、
童貫は軍だけで燕京を攻略することが困難であることを認めざるを得なくなった。
そこで同盟国である金に支援を求め、遼への攻撃を委ねることになる。

金軍は圧倒的な軍事力を発揮し、北遼軍を次々と撃破した。
耶律大石らの抵抗も及ばず、燕京はついに陥落する。
こうして北宋は建国以来の悲願であった燕雲十六州の回復を実現した。

しかしその代償は小さくなかった。
金軍は財物や住民を略奪した後に燕京を引き渡し、
はその見返りとして多額の歳幣を支払うことになる

さらに金はこの戦争を通じて宋軍の実力を見極めていた。
後に金が北宋へ侵攻する背景には、この遼攻略戦で得た経験が大きく影響していたと考えられている。

六賊として失脚し処刑される

1125年、金軍がへの侵攻を開始すると、徽宗は責任を回避するように皇位を欽宗へ譲った。

新政権のもとでは、それまで朝廷で権勢を振るっていた人物たちへの責任追及が始まる。
その中心に置かれたのが童貫であった。
太学生の陳東らは上書を行い、国家衰退の原因となった権臣たちの処罰を要求する。
童貫は蔡京・王黼・梁師成・李邦彦・朱勔らとともに「六賊」と名指しされ、
北宋を破局へ導いた責任者として激しく非難された。


そこには対遼戦争や対金政策の失敗だけでなく、
徽宗時代を通じて蓄積された民衆の不満や政治腐敗への怒りも含まれていた。

失脚した童貫は海南島への流刑を命じられる。
しかしその途中で処分は死罪へ変更され、1126年、御史の張澂によって斬首された。
これによって北宋末期に絶大な権力を誇った宦官の生涯は幕を閉じる。

童貫の最期については有名な逸話も残されている。
伝承によれば、その首は異常なほど硬く、処刑人が何度斬っても切断できなかったという。
そこで門の敷居を断頭台代わりに用い、ようやく首を落としたと伝えられる。

ただし、史実として確認できるのは処刑された事実までであり、
この逸話は後世の脚色である可能性が高い。

それでもなお、このような話が語り継がれたこと自体が、童貫が後世において特異な権力者、
あるいは北宋滅亡を象徴する人物として記憶されていたことを示している。

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『水滸伝』に描かれた童貫

後世の『水滸伝』では、童貫は高俅・蔡京・楊戩らと並ぶ奸臣として描かれている。
作中では梁山泊討伐軍を率いて宋江らと戦うが、
たびたび敗北を喫し、腐敗した朝廷を象徴する権力者の一人として登場する。

もちろん、これは史実そのものではない。
しかし実際の童貫も北宋末期に絶大な権力を握った宦官であり、
対遼戦争や対金政策の失敗によって厳しい批判を受けた人物だった。

そのため後世の民間伝承や講談、小説の中では奸臣の代表格として語られるようになり、
『水滸伝』でもそのイメージが受け継がれたのである。

まとめ

童貫は北宋末期に絶大な権力を握った宦官である。
書画や骨董品に対する優れた鑑識眼によって徽宗の信任を得て出世すると、
やがて政治だけでなく軍事にも深く関与し、20年以上にわたって宋軍の兵権を掌握した。

西夏戦線では一定の成果を挙げ、
宦官として初めて開府儀同三司にまで昇進するなど前例のない栄達を遂げた。
しかし方臘の乱鎮圧による軍の消耗、遼遠征の失敗、
そして金への依存によってその評価は大きく揺らぎ、
北宋衰退の責任者の一人として非難されるようになる。

最終的には「六賊」の一人として失脚し処刑されたが、
その生涯は北宋末期の栄華と没落を象徴するものでもあった。

宦官でありながら軍権を握り、国家の命運を左右した童貫は、
中国史上でも特異な存在として現在まで語り継がれている。

史書・参考文献

  • 『宋史』巻22・巻38・巻39・巻468「宦者列伝」
  • 『続資治通鑑』
  • 『資治通鑑長編』
  • 『三朝北盟会編』
  • 『靖康要録』
  • 『宋会要輯稿』
  • 李燾『続資治通鑑長編』
  • 脱脱ほか『宋史』
  • 漆侠『宋代政治史研究』
  • 竺沙雅章『宋代社会史研究』
  • 宮崎市定『中国史』

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