三国志の孫権といえば、魏の曹操、蜀の劉備と天下を争い、江東に呉を築いた皇帝である。
孫権の後宮で特に有名なのは、歩練師・王夫人・潘淑の三人である。いずれも孫権の寵愛を受けたが、後宮での立場や結末は大きく異なった。
長年寵愛した女性を皇后にできず、皇太子の母親は讒言によって失脚し、晩年に迎えた皇后は宮女たちに殺害された。さらに、孫権の娘まで後宮の争いに介入し、皇位継承を左右することになる。
孫権の有名な妃たち
歩練師(歩夫人):孫権が長年寵愛した女性。孫魯班・孫魯育の母。生前は皇后にならなかったものの、死後に皇后位を追贈された。

王夫人(大懿皇后):皇太子・孫和の母。皇后に立てられる可能性があったが、孫魯班との対立によって孫権の寵愛を失い、亡くなった。
潘淑(潘皇后):奴婢の身分から孫権の寵愛を受け、孫亮を出産。孫権が生前に正式に立てた唯一の皇后で、宮女たちに殺害された。

徐夫人:孫権の従兄・孫賁の娘。孫権の妃となり、皇太子・孫登を養育した。後に孫権から遠ざけられた。
謝夫人:孫権が若い頃に迎えた妻の一人。徐夫人が迎えられた際、彼女より低い立場になることを拒み、失意のうちに亡くなったとされる。
南陽王夫人(敬懐皇后):孫休の母。孫権の寵愛を受けたが、後に宮廷を離れ、息子の即位後に皇后位を追贈された。
袁夫人:袁術の娘。孫権の寵愛を受けたが子を産まず、皇后への冊立を辞退したと伝えられる。
趙夫人:「呉の三絶」と呼ばれる機織り・刺繍などの技芸で知られる女性。孫権に仕えたと伝えられるが、後宮での正式な地位は不明。

孫権の後宮はどんな場所だったのか
特徴的なのは、次の三点。
第一に、長年にわたって皇后が決まらなかったこと。 孫権は歩夫人を皇后に望んだが、群臣は皇太子・孫登を養育した徐夫人を推した。孫権は結論を出せず、歩夫人が238年に亡くなるまで正式な皇后を立てることはなかった。
第二に、皇子の後継者争いに妃たちが巻き込まれたこと。 孫和の母・王夫人は皇后候補だったが、歩夫人の娘である孫魯班の讒言によって孫権の怒りを買い、失意のうちに亡くなった。孫魯班は皇族の娘でありながら、父親の後宮と皇位継承の双方に影響を及ぼしました。
第三に、皇后になっても安全ではなかったこと。 晩年に皇后となった潘淑は、孫権が病床にあった252年、宮女たちによって殺害された。『三国志』は、潘淑の厳しい扱いに耐えかねた宮女たちが犯行に及んだと伝えている。
① 孫権の初期の後宮|謝夫人と徐夫人
孫権が若い頃に迎えた女性の一人が、会稽の名家出身の謝夫人(しゃふじん)である。
謝夫人は孫権から寵愛されたが、後に徐夫人(じょふじん)が迎えられると、その下位に置かれることを求められた。謝夫人はこれを拒み、失意のうちに亡くなったと『三国志』は伝えている。
徐夫人は孫権の従兄・孫賁の娘で、孫権の長男・孫登(そんとう)を養育した女性だった。
孫登の実母は身分が低かったため、徐夫人が母親として育てることになった。しかし、徐夫人も後に孫権の寵愛を失い、呉郡に残された。
229年、孫権が皇帝に即位すると、徐夫人は皇后候補として群臣から推されることになる。孫登自身も養母を深く敬っていたが、孫権には別に皇后にしたい女性がいた。
② 歩練師|最も寵愛されながら皇后になれなかった女性
歩練師(ほれんし)は臨淮郡淮陰県の出身で、戦乱を避けて廬江へ移り、その後、孫権の側室となった。
孫権との間には、孫魯班(そんろはん)と孫魯育(そんろいく)という二人の娘が生まれた。
『三国志』によれば、歩練師は嫉妬することがなく、ほかの女性たちを孫権に推薦していたという。そのため孫権から特別に寵愛された。
229年、孫権が皇帝に即位すると、皇后を誰にするかが問題となった。孫権は歩練師を皇后に望んだが、群臣は皇太子・孫登の養母である徐夫人を推した。
皇太子の養母を皇后にすべきだという群臣の意見と、長年寵愛してきた歩練師を皇后にしたいという孫権の意向は一致しなかった。
結局、孫権はどちらも正式な皇后に立てなかった。
それでも宮中では歩練師を皇后と呼び、親族への文書でも皇后として扱っていたと伝えられる。正式な冊立こそ行われなかったものの、歩練師は事実上、皇后に近い立場にあった。
238年、歩練師は正式な皇后にならないまま亡くなった。孫権はその死を深く悲しみ、皇后の位を追贈した。
長年にわたって孫権の寵愛を受けながら、生前には皇后になれなかった女性だった。
③ 王夫人は二人いた|孫和と孫休の母
孫権の後宮には、王夫人と呼ばれる女性が二人いた。
一人は皇太子・孫和(そんか)の母である琅邪王夫人、もう一人は後に呉の第3代皇帝となる孫休(そんきゅう)の母である南陽王夫人である。
琅邪王夫人|皇后候補から失脚へ
琅邪王夫人は、孫権との間に孫和を生んだ。
241年に皇太子・孫登が亡くなると、翌242年に孫和が新たな皇太子となった。これによって母親である王夫人の地位も高まり、皇后に立てられる可能性が生まれた。
しかし、孫権の娘・孫魯班との関係が悪化した。
孫魯班は、孫権が病気で苦しんでいるにもかかわらず、王夫人は喜んでいると讒言した。これを信じた孫権は王夫人を責め、王夫人は憂いのうちに亡くなったと伝えられる。
皇太子の母親として皇后に近づいた王夫人だったが、その地位は孫権の娘との対立によって失われた。
後に孫和の息子・孫皓が皇帝に即位すると、王夫人には大懿皇后の称号が追贈された。
南陽王夫人|息子の即位で皇后に追尊
南陽王夫人も孫権の寵愛を受け、孫休を生んだ。
しかし、琅邪王夫人の地位が高まると、南陽王夫人は宮廷を離れ、公安で暮らすことになった。その後、同地で亡くなったと伝えられる。
258年、孫休が呉の第3代皇帝として即位すると、母親には敬懐皇后の称号が追贈された。
二人の王夫人はいずれも生前には皇后になれなかったが、子や孫の即位によって死後に皇后として遇された。
④ 潘淑|奴婢から皇后になった女性の悲劇
孫権が晩年に寵愛したのが潘淑(はんしゅく)である。
潘淑は会稽郡句章県の出身で、父親が罪に問われたため、姉とともに宮中の織室で働く奴婢となった。
しかし、その美貌が孫権の目に留まり、後宮に迎えられた。
潘淑は孫権との間に孫亮(そんりょう)を生んだ。
250年、孫和が廃太子となると、まだ幼い孫亮が新たな皇太子に立てられた。翌251年、潘淑は正式に皇后となった。
奴婢として織室で働いていた女性が、皇帝の寵愛を受け、皇太子の母親となり、ついには皇后に上り詰めたのである。
ところが、その地位を長く保つことはできなかった。
252年、孫権が重病になると、潘淑は皇帝の看病にあたった。
この頃、潘淑は前漢の呂后がどのように政治を行ったのか、孫弘に尋ねたと伝えられる。
呂后は夫の高祖・劉邦の死後、皇太后として実権を握った女性である。潘淑も、幼い孫亮が即位した後の政治に関心を抱いていた可能性がある。
しかし、潘淑は孫権の死を待たずに殺害された。
『三国志』によれば、潘淑は普段から宮女たちに厳しく接しており、恨みを抱いた宮女たちが、眠っている間に首を絞めて殺害したという。
宮女たちは潘淑が急病で亡くなったと報告したが、事件は発覚し、関係者は処刑された。
皇后にまで上り詰めた潘淑は、夫の死の直前に、身近に仕えていた宮女たちによって命を奪われたのである。
↓↓前漢の呂后についての個別記事は、こちら

⑤ 袁夫人と趙夫人|皇后を辞退した女性と「呉の三絶」
孫権の後宮には、皇位継承に直接関わらなかった女性たちもいた。
袁夫人|皇后の座を辞退した袁術の娘
袁夫人(えんふじん)は、後漢末に皇帝を自称した袁術の娘である。
孫権の側室となり、品行の正しさで知られたが、子供には恵まれなかった。
孫権は歩練師の死後、袁夫人を皇后に立てようとしたことがあった。しかし袁夫人は、子供がいないことを理由に辞退したという。
歩練師や徐夫人のように皇后への冊立が実現しなかった女性がいる一方で、袁夫人のように自ら辞退した女性もいた。
趙夫人|機織り・刺繍・絵画に優れた才女
趙夫人(ちょうふじん)は、孫権に仕えたと伝えられる女性である。
絵画や刺繍、機織りに優れ、「呉の三絶」と称される技芸で知られた。
孫権の求めに応じて山川や軍陣を刺繍で描いた地図を制作し、暑さをしのぐために風通しのよい幔幕を考案したという。
ただし、趙夫人の逸話は主に『拾遺記』などの後世の文献に残されており、正式な後宮での地位や生涯には不明な点が多い。
娘・孫魯班の介入と二宮の変|後宮から朝廷へ広がった争い
孫権の後宮を揺るがしたのは、妃たちだけではなかった。
歩練師の娘である孫魯班も、父親の後宮と皇位継承に深く関与した。
孫魯班は琅邪王夫人と対立し、王夫人への讒言によってその失脚を招いた。さらに皇太子・孫和にも敵意を向けた。
孫和が父親の病気平癒を祈るため宗廟で祭祀を行った際には、祭祀を口実に外出し、皇太子妃の親族の家に出入りしていると孫権に告げた。
一方、孫権は孫和の弟である魯王・孫覇(そんは)を寵愛するようになり、皇太子と魯王の周囲には、それぞれを支持する官僚たちが集まった。
こうして朝廷は二つに分裂し、「二宮の変」と呼ばれる後継者争いへ発展した。
250年、孫権は孫和を廃太子とし、孫覇には自害を命じた。
孫魯班はその後、孫亮が皇太子になると、夫・全琮の一族から孫亮の妃を迎えさせた。孫亮の即位後、この妃は皇后となり、全氏一族は外戚として勢力を強めた。
孫権の死後も孫魯班の政治的な関与は続いた。
255年には、妹の孫魯育が孫和の復位を支持していたと告発し、孫魯育は殺害された。
しかし258年、孫亮が権臣・孫綝を排除しようとした計画が失敗すると、孫魯班も連座して豫章へ流された。
かつて父親の寵愛を背景に妃たちや皇太子の運命を左右した孫魯班も、最終的には宮廷の権力争いから排除されたのである。

孫権の後宮は、なぜこれほど混乱したのか
孫権の後宮が混乱した背景には、皇后の地位と皇太子の地位が長く安定しなかったことがある。
後宮の女性たちの序列は、孫権個人の寵愛だけで決まるものではなかった。皇太子の母親や養母であることは、皇后冊立をめぐる重要な条件となり、皇子の後継者争いは母親やその周囲の勢力にも影響を及ぼした。
また、皇女の孫魯班が父親の妃や皇太子の問題に介入したことで、後宮内の対立は朝廷の官僚たちを巻き込む政治的な争いへと広がった。
孫権は晩年、すでに成人していた孫和を廃し、幼い孫亮を後継者に選んだ。252年に孫権が亡くなると、わずか10歳の孫亮が即位した。
長年にわたって皇后の地位を確定できず、後継者をめぐる対立も収拾できなかったことは、孫権の晩年の政治に大きな影を落とした。
後宮は、皇帝の私生活の場であると同時に、皇后の地位、皇子の継承権、外戚の勢力が複雑に絡み合う政治の舞台でもあった。
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