一人の女性を格別に愛した明の皇帝7選|愛妻家から寵妃への溺愛まで

明の皇帝 通史・コラム

中国の皇帝といえば、多くの妃嬪を抱える後宮を思い浮かべる人も多いだろう。皇后のほかに多数の妃が置かれ、皇帝の寵愛をめぐって女性たちが争う。中国の宮廷ドラマでもおなじみの光景だ。

ところが、明の歴代皇帝には、特定の皇后や妃を長く大切にした人物が少なくない。

苦難の時代をともに乗り越えた正妻を生涯敬愛した皇帝、年上の女性を寵愛し続けた皇帝、ほかの妃嬪を置かなかった皇帝、愛妃の息子を皇太子にするため朝廷と対立した皇帝まで、その形はさまざまだ。

明の皇帝16人のうち、特定の女性との関係がとりわけ印象的な7人を紹介する。

① 洪武帝・朱元璋と馬皇后|天下統一を支えた糟糠の妻

明王朝を建国した洪武帝・朱元璋(しゅげんしょう)にとって、馬皇后は単なる正妻ではなかった。貧困と戦乱の時代から苦楽をともにし、皇帝となった後も諫言できる数少ない人物だった。

馬氏は、朱元璋が仕えていた紅巾軍の指導者・郭子興の養女である。郭子興は朱元璋の才覚を認め、馬氏を妻として与えた。

まだ朱元璋が一武将にすぎなかった頃、郭子興が周囲の讒言を信じて朱元璋を疑ったことがあった。馬氏は郭子興の妻との関係を取り持ち、夫の立場を守った。

食糧が乏しかった時期には、熱い焼き餅を懐に隠して朱元璋に届け、自分の胸を火傷したという逸話も『明史』に記されている。

皇帝になっても変わらなかった信頼

1368年、朱元璋が明を建国すると、馬氏は皇后となった。

朱元璋は、貧しい時代を支えてくれた妻の功績を忘れず、唐の太宗を支えた長孫皇后にたとえて称賛した。しかし馬皇后は、夫婦が苦難をともにしたことだけでなく、建国に尽くした臣下の功績も忘れないよう諫めた。

猜疑心が強く、功臣に対しても容赦のなかった朱元璋に、こうした忠告ができたこと自体、二人の関係を物語っている。

1382年、馬皇后は51歳で死去した。朱元璋は深く悲しみ、その後、皇后を再び立てることはなかった。

もっとも、朱元璋には多数の側室と子女がいた。現代的な意味で一人の女性だけを愛したわけではない。それでも、長年の苦労をともにした馬皇后が特別な存在だったことは確かだ。

↓↓朱元璋を支えた馬皇后についての個別記事は、こちら

馬皇后|洪武帝・朱元璋を支えた明の賢后・孝慈高皇后
馬皇后(ばこうごう)は、明の初代皇帝・洪武帝朱元璋の正妻で、孝慈高皇后と諡された明朝最初の皇后。郭子興の養女として朱元璋と結婚し、元末の戦乱では軍衣や軍需を支え、明建国後は質素な生活を貫いた。苛烈な朱元璋をたびたび諫め、宋濂や李文忠らの処罰を思いとどまらせた「賢后」の生涯と政治的役割、皇子たちの生母をめぐる諸説まで史実から解説する。

② 永楽帝・朱棣と徐皇后|靖難の変をともに戦った夫婦

永楽帝・朱棣(しゅてい)の正妻である徐皇后は、明の建国功臣・徐達の長女だった。

二人が結婚したのは、朱棣がまだ燕王だった時代である。徐氏は学問に通じ、礼儀を重んじる女性として知られ、朱元璋と馬皇后からも高く評価された。

朱棣が建文帝に対して挙兵した靖難の変では、徐氏も重要な役割を果たしている。

1399年、朱棣が軍を率いて出陣すると、建文帝側の李景隆が北平を攻撃した。徐氏は燕王府に残り、長男の朱高熾らとともに城の防衛を支えた。

『明史』には、徐氏が将兵の妻たちを励まし、武装させて城を守らせたことが記されている。

皇后となってからも夫を諫めた

1402年、朱棣は建文帝を破って即位し、徐氏を皇后に立てた。

徐皇后は政治に直接介入することを避けながらも、皇帝に対して民をいたわるよう進言し、外戚の登用にも慎重だった。

1407年、徐皇后は46歳で死去した。朱棣はその死を悼み、以後、皇后を再び立てなかった。

ただし、永楽帝には徐皇后以外にも妃嬪がおり、王貴妃や権賢妃などを寵愛した記録も残る。

徐皇后との関係は、一人の女性だけを愛し続けたというより、長年の夫婦生活と戦乱を通じて築かれた信頼関係として捉えるのが適切だろう。

↓↓朱棣を支えた徐皇后についての個別記事は、こちら

徐皇后|北平を守り永楽帝を支えた仁孝文皇后の生涯
徐皇后(じょこうごう)は、名将徐達の娘から永楽帝朱棣の皇后となった仁孝文皇后。靖難の変では女性たちを武装させて北平防衛を支え、即位後は民衆の休養や人材登用を進言した。外戚への恩賞を戒め、漢王朱高煦ら皇子を案じ、『内訓』『勧善書』を著した生涯と政治的役割を解説する。

③ 宣徳帝・朱瞻基と孫皇后|愛妃を皇后にするため正妻を廃した皇帝

宣徳帝・朱瞻基(しゅせんき)が特別に寵愛したのは、後に孝恭章皇后となる孫氏だった。

孫氏は幼い頃から宮中で養育され、朱瞻基と早くから面識があった。しかし、朱瞻基の正式な妻として選ばれたのは胡善祥である。

1425年、朱瞻基が即位すると胡氏が皇后となり、孫氏は貴妃に立てられた。

孫貴妃は皇帝の寵愛を受け、1427年には皇子の朱祁鎮を産んだ。後の正統帝である。

一方、胡皇后には男子がなく、病弱でもあった。

寵愛が皇后の廃位につながった

1428年、宣徳帝は胡皇后を廃し、孫貴妃を新たな皇后に立てた。

胡皇后には重大な過失があったわけではなく、廃后には楊士奇ら重臣も難色を示した。胡氏は出家して静慈仙師の号を与えられ、皇后の地位を失った。

宣徳帝は後年、この廃后を自らの過ちとして悔いたと伝えられる。

孫皇后への寵愛は、正妻を退けるほど強かった。しかし、その結果として胡善祥が不遇な立場に置かれたことも見逃せない。

宣徳帝と孫皇后の関係は、皇帝の個人的な愛情が後宮の秩序や皇位継承に直接影響した例である。

↓↓朱瞻基、胡善祥についての個別記事は、こちら

朱瞻基(宣徳帝)|仁宣の治を完成させた明第5代皇帝の生涯と実像
朱瞻基(しゅせんき/宣徳帝)は明の第5代皇帝で、叔父朱高煦の反乱を自ら鎮圧して皇位を守り、三楊と呼ばれる重臣たちを登用して政治の安定を図った。父洪熙帝とともに「仁宣の治」と称される繁栄期を築いた一方、寵愛する孫氏を皇后に立てるため胡善祥を廃し、宦官の政治関与につながる制度も整えた。領土拡張より国内の安定を優先した宣徳帝の功績と、その治世に残された問題をたどる。
胡善祥|罪なくして廃された明宣宗の皇后
胡善祥(こぜんしょう)は、明の宣徳帝・朱瞻基の最初の皇后。皇太孫妃から皇后となったが、男子を産まなかったことを理由に孫貴妃へ地位を譲らされ、楊士奇ら重臣の反対にもかかわらず廃后となった。張太后からはその後も皇后同然に遇され、死後20年を経て名誉を回復した。宣徳帝自身が後に悔いた「無過被廃」の皇后、その生涯をたどる。

④ 正統帝・朱祁鎮と銭皇后|捕虜生活と復位を経ても続いた絆

明英宗・朱祁鎮(しゅきちん)は、正統帝として即位し、土木の変によって捕虜となった後、天順帝として復位した皇帝である。

その波乱に満ちた生涯を通じて、正妻の銭皇后は重要な存在だった。

1442年、銭氏は朱祁鎮の皇后となった。銭皇后には子がなく、皇太子の朱見深を産んだのは周貴妃だった。

しかし朱祁鎮は、銭皇后を廃して周氏を皇后に立てることはなかった。

土木の変で夫を失った皇后

1449年、朱祁鎮はオイラトとの戦いで捕虜となった。

『明史』によれば、銭皇后は夫の帰還を願って財物を差し出し、昼夜を問わず泣き続けたという。その結果、片目の視力を失い、片脚にも障害が残ったと伝えられる。

翌1450年、朱祁鎮は明へ帰還したものの、弟の景泰帝によって南宮に幽閉された。銭皇后も夫とともに不自由な生活を送った。

1457年、奪門の変によって朱祁鎮は皇帝に復位する。

このとき、実子を持つ周貴妃を皇后に立てようとする動きがあったが、朱祁鎮は銭皇后の地位を守った。

死後も同じ陵墓に葬るよう遺言

1464年、朱祁鎮は死去する際、銭皇后を自分と合葬するよう遺言した。

ところが、銭皇后が1468年に亡くなると、皇太后となっていた周氏との間で合葬をめぐる問題が生じた。最終的に銭皇后は英宗の裕陵に葬られた。

皇帝にはほかの妃嬪もいたが、子を産まなかった銭皇后の地位を守り、死後の合葬まで望んだ点は印象的である。

↓↓朱祁鎮についての個別記事は、こちら

朱祁鎮(英宗)|土木の変と奪門の変を経験した明朝皇帝
朱祁鎮(しゅきちん/明英宗)は明朝で二度皇帝となった人物。9歳で即位し、宦官・王振を重用したが、1449年の土木の変でオイラト軍の捕虜となった。帰国後は弟の景泰帝によって南宮に幽閉され、1457年の奪門の変で復位。北京防衛の功臣・于謙を処刑し、石亨・徐有貞ら復位功臣も相次いで失脚した。晩年の朱文圭釈放や宮妃の殉葬廃止まで、その治世をたどる。

⑤ 成化帝・朱見深と万貴妃|19歳年上の女性への生涯にわたる寵愛

成化帝・朱見深(しゅけんしん)の万貴妃への寵愛は、明代の後宮史でも特に知られている。

万氏は1428年生まれで、朱見深より19歳年上だった。

幼い朱見深は、父の英宗が土木の変で捕虜となった後、皇太子の地位を失うなど、不安定な立場に置かれた。その時期から身近に仕えていたのが万氏である。

1464年、朱見深が皇帝に即位すると、万氏は後宮で特別な寵愛を受けるようになった。

皇后さえ退けた万氏の存在

成化帝の最初の皇后となった呉氏は、万氏を杖で打ったことが問題となり、即位後まもなく廃位された。

その後、王氏が皇后となったが、万氏の存在は後宮で突出していた。

1466年、万氏は皇子を産み、皇貴妃に進んだ。しかし、その皇子は翌年に亡くなった。

万氏はその後、子を得ることができなかった。『明史』には、ほかの妃嬪が懐妊した際に万氏が強い嫉妬を示し、皇子の出生に干渉したという記述もある。ただし、こうした記録には後世の政治的評価や伝聞が含まれる可能性があり、すべてを事実として受け取るには注意が必要だ。

万貴妃の死から間もなく皇帝も死去

1487年、万貴妃は死去した。享年はおよそ60歳だった。

成化帝はその死を深く悲しみ、同じ年に亡くなった。

万氏の死が皇帝の死因だったと断定することはできないが、長年にわたる寵愛の強さは『明史』にも明確に記されている。

万貴妃は皇后になることこそなかったものの、実際の後宮では皇后を上回るほどの影響力を持った女性だった。

↓↓成化帝とその寵妃・万貴妃についての個別記事は、こちら

朱見深(成化帝)|土木の変と奪門の変という大混乱の中で成長した皇帝
成化帝(朱見深/しゅけんしん)は、明朝第8代皇帝として23年間在位した。土木の変で父の英宗が捕虜となり、皇太子の地位を奪われた幼少期を経て即位。于謙の名誉を回復し、荊襄流民の反乱や北方の女真勢力への対応を進めた。一方、年上の万貴妃を寵愛し、宦官・汪直に西廠を監督させて官僚への監視を強め、道士の李孜省らも重用した。紀氏が産んだ朱祐樘の出生と養育、弘治帝への皇位継承まで、その治世をたどる。
万貴妃|成化帝の19歳年上の寵妃と皇后廃位・皇位継承をめぐる暗闘
万貴妃(ばんきひ)は明の成化帝に寵愛された19歳年上の妃。呉皇后の廃位、皇子の夭折、妃嬪への堕胎強要や弘治帝暗殺未遂の疑惑など、後宮での権力争いに深く関わった。皇子を密かに育てた張敏と呉氏、宦官や外戚との結託、万貴妃の死後に一族が受けた処分まで、史実と伝承を区別してたどる。

⑥ 弘治帝・朱祐樘と張皇后|ほかの妃を置かなかった皇帝

明の歴代皇帝のなかで、一途という言葉が最も当てはまりやすいのが弘治帝・朱祐樘(しゅゆうとう)である。

弘治帝は成化帝の息子で、万貴妃の寵愛が後宮を支配していた時代に育った。

生母の紀氏は朱祐樘が幼い頃に亡くなり、朱祐樘自身も皇位継承をめぐる不安定な環境を経験した。

1487年、父の成化帝が死去すると、朱祐樘が即位した。

皇后となったのは、皇太子時代に結婚した張氏である。

後宮にほかの妃嬪を置かなかった

弘治帝の特徴は、張皇后以外の妃嬪を正式に置かなかったとされることである。

中国の皇帝にとって、複数の妃嬪を持つことは単なる私生活の問題ではなかった。皇子を確保し、王朝の継承を安定させるという政治的な意味もあった。

それにもかかわらず、弘治帝は張皇后との夫婦関係を中心に後宮を営んだ。

二人の間には朱厚照、後の正徳帝が生まれたほか、早世した皇子や皇女もいた。

皇后への愛情が政治問題にもなった

ただし、弘治帝の張皇后への厚遇には問題もあった。

張皇后の父や弟たちは皇帝の外戚として高い地位を与えられ、特に弟の張鶴齢と張延齢の横暴が問題となった。

『明史』には、臣下が張氏一族の不正を訴えても、弘治帝が皇后への配慮から厳しく処罰しなかったことが記されている。

張皇后だけを大切にした姿勢は、夫婦関係としては珍しい。しかし、その愛情が外戚への過度な優遇につながった側面もあった。

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朱祐樘(弘治帝)|「弘治中興」を築いた明朝中期の皇帝
弘治帝・朱祐樘(しゅゆうとう)は、明朝第9代皇帝として18年間統治し、「弘治中興」と呼ばれる政治の安定を実現した。万貴妃が権勢を握る後宮で出生を隠され、母の紀氏を幼くして失いながら皇太子となった。即位後は宦官・梁芳や万安らを排除し、劉健・李東陽・謝遷らを重用して朝政を立て直した。張皇后以外に妃嬪を置かなかったとされる私生活、息子・正徳帝への皇位継承まで紹介する。

⑦ 万暦帝・朱翊鈞と鄭貴妃|愛妃の息子を皇太子にしようとした皇帝

万暦帝・朱翊鈞(しゅよくきん)が特に寵愛したのは、鄭貴妃だった。

万暦帝には王皇后がいたが、皇后との間に子はなかった。

一方、宮女出身の王氏は1582年に皇長子・朱常洛を産んだ。後の泰昌帝である。

鄭氏は1586年に皇三子・朱常洵を産み、皇貴妃に進んだ。

万暦帝は鄭皇貴妃を深く寵愛し、その息子である朱常洵を皇太子にしたいと考えるようになった。

愛妃への寵愛が「国本の争い」に発展

明の皇位継承では、皇后に嫡子がいない場合、皇長子を優先する原則が重視されていた。

そのため、臣下たちは皇長子の朱常洛を皇太子に立てるよう求めた。

しかし万暦帝は、朱常洛の立太子を長年にわたって先延ばしにした。鄭皇貴妃の息子を優遇しようとしていると受け止められ、朝廷では激しい論争が続いた。

これが「国本の争い」である。

最終的に1601年、朱常洛が皇太子に立てられ、朱常洵は福王となった。

皇后にはできなかった鄭貴妃

1620年、長年皇后だった王氏が死去した。

同じ年、万暦帝も亡くなった。万暦帝は鄭皇貴妃を皇后に立てることを望んだとされるが、実現しなかった。

鄭氏は皇帝の死後も生き、1630年に亡くなった。

万暦帝と鄭貴妃の関係は、単なる寵愛にとどまらず、皇位継承をめぐる朝廷の長期的な対立を引き起こした。

一人の女性を特別に大切にしたことが、必ずしも政治の安定につながるわけではなかったのである。

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万暦帝(朱翊鈞)|張居正改革・国本の争い・万暦怠政をわかりやすく解説
万暦帝・朱翊鈞(しゅよくきん)は、明朝で最も長い48年間の在位を記録した皇帝。10歳で即位し、張居正の改革によって財政と政治の立て直しを進めた。親政後は張居正を死後に処罰し、寧夏の乱・朝鮮出兵・播州の乱に対する万暦三大征を実施。一方、鄭皇貴妃の子・朱常洵を寵愛し、皇長子・朱常洛の立太子をめぐって官僚と対立した。長期にわたる朝議への不出席、鉱税使への反発、サルフの戦いでの敗北、死後の定陵発掘までをたどる。
鄭皇貴妃|万暦帝の寵妃と国本問題・梃撃の案をめぐる皇位継承争い
鄭皇貴妃(てい こうきひ/孝寧太后)は明の万暦帝に寵愛され、皇三子・朱常洵を産んだ后妃。皇長子・朱常洛の立太子をめぐる国本問題では、息子を皇位に就けようとしたと批判された。三王並封案、二度の妖書案、皇太子襲撃事件「梃撃の案」、泰昌帝急死をめぐる紅丸の案、移宮の案との関係、南明の弘光帝による孝寧太皇太后への追尊まで、その生涯と疑惑の実態をたどる。

明の皇帝たちの愛情は、なぜこれほど違ったのか

明の皇帝たちが特定の女性を大切にした理由は、それぞれ異なっていた。

洪武帝の馬皇后と永楽帝の徐皇后は、夫が皇帝になる前から苦楽をともにした妻だった。二人とも戦乱のなかで夫を支え、即位後も率直に諫言できる存在であり、皇后の死後、いずれの皇帝も後任を立てなかった。

正統帝と銭皇后の場合は、土木の変による捕虜生活と、その後の幽閉という苦難が夫婦の関係を特徴づけている。銭皇后には子がなかったが、正統帝はその地位を守り、死後は自分と合葬するよう遺言した。

宣徳帝は孫貴妃を皇后にするため胡善祥を廃し、成化帝は幼い頃から身近にいた19歳年上の万貴妃を生涯寵愛した。万暦帝も鄭貴妃を格別に愛したが、その息子を皇太子にしようとしたことで朝廷との対立を招いた。同じ寵妃への深い愛情でも、後宮や政治への影響は異なっていた。

そして弘治帝は、張皇后以外の妃嬪を置かなかった点で、ほかの六人とは一線を画している。多くの皇子をもうけることが王朝の安定にも関わる時代に、張皇后との間にだけ子をもうけ、その長男が後に正徳帝として即位した。ただし、皇后の親族を厚遇したことで、外戚の横暴を招いた側面もあった。

皇帝にとって、皇后や妃との関係は私的な愛情だけで完結するものではなかった。皇后の地位や皇子の出生は王朝の政治と結びついており、一人の女性への思いが、ときには皇位継承を左右することもあった。それでも、そこには政治的な事情だけでは語りきれない関係がある。

数多くの妃嬪を持つことが当然だった時代に、特定の女性を格別に愛した明の皇帝たち。 その愛情の形は一様ではなく、七人それぞれの生涯と深く結びついていた。

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