胡善祥(こ・ぜんしょう)は、明の第5代皇帝・宣宗朱瞻基の最初の皇后である。
永楽帝の治世に皇太孫妃に選ばれ、仁宗の即位後に皇太子妃、宣宗の即位後には皇后となったが、
宣徳3年(1428)、男子がないことと病を理由に皇后位を退かされた。
『明史』はこの廃后について「后無過被廃、天下聞而憐之」と記す。
すなわち胡善祥には廃位されるほどの過失がなく、世間もこれを聞いて彼女を憐れんだという。
宣宗自身も後年、「此朕少年事」と語り、自らの若いころの行為として廃后を悔いたとされる。
しかし胡善祥の生涯は、単に「寵愛を失って廃された皇后」というだけではない。
皇太孫妃に選ばれた経緯、宣宗を諫めた皇后時代、廃后をめぐる宣宗と重臣たちの密議、
張太后による庇護、二人の娘との死別、そして死後20年を経て行われた皇后位の回復まで、
明代宮廷史の重要な出来事がその生涯に集中している。
済寧の胡氏に生まれる
胡氏の家系と父・胡栄
胡善祥は洪武35年(建文4年、1402)4月10日、山東済寧に生まれた。
『明史』は単に「済寧人」とするが、墓誌にはより詳しい家系が記されている。
曾祖父の胡守儀は福建侯官県丞、祖父の胡文友は鍾氏を妻とし、
その間に生まれた胡栄が善祥の父であった。
胡栄には男子の胡安・胡瑄と七人の娘があり、善祥は三女だったという。
父の胡栄は錦衣衛百戸を務め、墓誌では「立心仁厚、処事詳雅」と評されている。
長姉の胡善囲については、洪武年間に宮中へ入り、女官として仕え、
のちに尚宮となったとする記録がある。
『勝朝彤史拾遺記』にも、胡栄の長女善囲が「才色」によって宮中に入り、
尚宮として重用され、その関係から胡栄が錦衣衛の官を得たとする話が見える。
もっとも、この経緯は後世に編纂された史料によるものであり、
『明史』や同時代の実録だけからすべてを確認できるわけではない。
誕生をめぐる瑞兆
胡善祥の墓誌には、誕生をめぐる瑞兆も記されている。
永楽初年、胡栄が官を免ぜられて北へ戻ろうとしていたころ、斗門橋の官舎に滞在していた。
ある夜、玄冠をかぶり羽衣をまとった神人が夢に現れ、
いまは不遇でも間もなく大いに栄えるという趣旨の言葉を告げた。
その翌日に生まれたのが胡善祥だったという。
成長した善祥について墓誌は「天性貞一、挙止荘重」とし、
占いをする者が彼女を見て、将来非常に高貴な身分になると予言したとも記す。
さらに皇太孫妃に選ばれる前、善祥が一人で暮らしていた小楼の戸から紅白の気が立ち上り、
一か月ほど消えなかったため、近隣の人々が集まって見物したという瑞兆譚も残されている。
これらは墓誌に典型的な貴人誕生・昇進の予兆として記録された逸話であり、
そのまま事実とみなすのではなく、
胡善祥の死後に形成された人物像を示す記録として見る必要がある。
永楽帝に選ばれ皇太孫妃となる
済寧から選ばれた皇太孫妃
永楽15年(1417)、永楽帝朱棣は皇太孫朱瞻基の正妃を選定し、胡善祥を皇太孫妃に冊立した。
『明太宗実録』には、光禄寺卿胡栄の娘胡氏を皇太孫妃とする冊立記事があり、
胡善祥が正式な嫡妻として朱瞻基に迎えられたことが確認できる。
後世の『勝朝彤史拾遺記』は、その選定に占星術が関係していたという逸話を伝える。
司天官が奎宿・婁宿の方向に星気が現れたため、
「済河の間」、すなわち済寧周辺で皇太孫妃を探すべきだと奏上し、使者が済寧へ派遣された。
そこで胡栄の三女が候補となり、容貌や人相を調べたところ「法相」にかなっていたため、
皇太孫妃に選ばれたという。
墓誌にも、皇后に対応する星が魯の地に当たるとの奏上を受け、
太監黄琰が派遣されて胡氏が選ばれたとする類似した話が見える。
孫氏との関係
胡善祥が選ばれる以前から、のちに宣宗の皇后となる孫氏も宮中にいた。
孫氏は鄒平の孫忠の娘で、永楽帝の皇太子朱高熾の妃であった張氏、
すなわち後の誠孝張皇后の母方の縁から宮中へ入り、
十歳ほどのころから張氏のもとで養育されたとされる。
朱瞻基の配偶者候補として早くから宮中に置かれていた女性だったが、
永楽15年の婚姻では胡善祥が正妃となり、孫氏は嬪となった。
『明史』も、朱瞻基の婚姻に際して「済寧胡氏」を妃に選び、孫氏を嬪としたことを記している。
『勝朝彤史拾遺記』では、孫氏を推していた張氏の母がこの結果に不満を漏らしたものの、
張氏自身は何も言わなかったという逸話も伝えられる。
ただし、これは後世の宮廷史料に見える記述であり、
実録で確認できる事実とは分けて考える必要がある。
子女と「如意童」をめぐる問題
胡善祥が朱瞻基との間にもうけたことが確実なのは、順徳公主と永清公主の二女である。
長女は永楽18年(1420)生まれの順徳公主で、
『明英宗実録』には「宣宗章皇帝長女、母皇后胡氏」と明記されている。
正統2年(1437)に公主として冊封され、石璟に嫁いだ。
次女の永清公主は『明史』の公主伝には記載されていないが、
胡善祥の墓誌には「公主二」として順徳公主とともに明記され、
『明実録』にも宣徳8年(1433)に死去したことを示す記録が残る。
永清公主は結婚する前に亡くなり、のちに母胡善祥の墓に祔葬された。
これとは別に、楊士奇の文集関係の記録から、
永楽16年(1418)ごろ朱瞻基に「如意童」と呼ばれる幼児がいたとする説がある。
この子を胡善祥が産んだ男子とみなす説もあるが、
『明史』は胡善祥を「未有子」とし、墓誌も子として挙げるのは二人の公主だけである。
したがって、「如意童」を胡善祥の実子で早世した男子と断定することは難しい。
朱瞻基に早世した子がいた可能性を示す史料として紹介するにとどめ、
胡善祥の確実な子女には数えない方が妥当である。
皇太子妃から宣宗皇后へ
永楽22年(1424)7月、永楽帝が死去し、朱高熾が仁宗として即位した。
朱瞻基は皇太子となり、皇太孫妃だった胡善祥も皇太子妃となった。
しかし仁宗の治世は短く、洪熙元年(1425)5月に崩御した。
朱瞻基が宣宗として即位すると、胡善祥は皇后となり、中宮の地位に就いた。
胡善祥の冊立に伴って一族も昇進した。
墓誌によれば、父の胡栄は光禄卿となり、驃騎将軍・中軍都督府僉事を授けられた。
兄の胡安は府前衛指揮僉事、胡瑄は府軍前衛百戸となった。
宣宗を諫めた皇后
墓誌には、皇后時代の胡善祥について興味深い記述がある。
宣徳年間は国内が比較的安定し、宣宗は遊幸を好んだ。
胡善祥は機会を見てこれを諫め、「無媚順態」、
すなわち皇帝の意向にただ迎合するような態度を取らなかったという。
また、日常の衣服・食事・侍従についても質素だったとされる。
一方、『勝朝彤史拾遺記』は、
宣宗が遊幸や遊戯を好むのに対して胡皇后がたびたび諫言したため、
宣宗が次第に彼女を疎むようになったとする。
これは廃后の背景を説明する後世の叙述であり、
宣宗が胡氏を嫌うようになった原因を諫言だけに求めることはできないが、
胡善祥が皇帝に迎合するタイプの皇后として記憶されていなかったことは注目される。
孫貴妃の台頭と皇太子朱祁鎮
貴妃に与えられた異例の金宝
宣宗即位後、孫氏は貴妃となった。
明朝の制度では、皇后には金冊と金宝を与える一方、
貴妃以下には冊のみを与え、宝は与えないのが原則だった。
ところが宣徳元年(1426)5月、宣宗は母の張太后に願い出て、
孫貴妃にも皇后と同様の金宝を与えた。
『明史』は「貴妃有宝自此始」と記し、貴妃に宝を授ける先例がここから始まったとしている。
孫氏が正式な皇后ではない段階から特別な待遇を受けていたことが分かる。
朱祁鎮の出生と実母問題
宣徳2年(1427)、宣宗の長男朱祁鎮、後の英宗が誕生した。
公式には孫貴妃の子とされたが、『明史』孫皇后伝には、孫氏自身にも男子がなく、
密かに宮人の子を自分の子としたと記されている。
その宮人が誰であったのかについて『明史』は名を記さず、
「英宗の生母を人々はついに知ることがなかった」としている。
このため朱祁鎮の生母については後世さまざまな説が生じたが、
少なくとも『明史』そのものが孫氏の実子ではなかったとする伝承を採用していることは確かである。
皇子の誕生によって孫貴妃の立場は大きく強まった。
朱祁鎮はほどなく皇太子候補となり、胡皇后自身も早く皇太子を定めるよう上表したとされる。
孫貴妃はこれに対し、
「皇后の病が癒えれば子をもうけることもあるだろう。
その場合、自分の子を皇后の子より先に立てることができようか」と辞退したと伝えられる。
しかし最終的に朱祁鎮は宣徳3年(1428)2月に皇太子に冊立された。

宣宗と重臣たちの廃后密議
「母は子によって貴くなる」
胡善祥の廃位は、宣宗が一方的に命令して直ちに実行されたわけではなかった。
皇后の廃立は王朝の秩序に関わるため、
宣宗は張輔・蹇義・夏原吉・楊士奇・楊栄ら重臣と繰り返し協議した。
『勝朝彤史拾遺記』によれば、宣徳2年11月、宣宗は五人を召し、
自分には長く男子がなく、皇后は妊娠しても子を育てることができず、近ごろは病気でもある一方、
孫貴妃には男子が生まれたと説明した。
そして「母以子貴」、母は子によって貴くなるのが礼であるとして、
胡皇后をどう処遇すべきかを尋ねた。
重臣たちは容易に答えなかった。
宣宗が胡皇后の過失を一、二挙げると、楊栄は廃してよいと答え、
蹇義は宋仁宗が郭皇后を廃した故事を挙げた。一方、張輔・夏原吉・楊士奇は沈黙した。
楊士奇の反対
宣宗から意見を求められた楊士奇は、
皇帝と皇后に仕える臣下は父母に仕える子と同じであり、
子が母を廃することを議論できようか、と答えた。
宣宗が後世の批判を受けないかと尋ねると、楊士奇は宋仁宗による郭皇后廃位を例に挙げた。
郭皇后の廃位に際して孔道輔や范仲淹らが反対して処罰され、
その出来事はいまなお史書で批判されている以上、
「外から議論されることはない」とはいえないと指摘した。
さらに楊士奇は、宣宗が挙げた胡皇后の過失についても、
皇后を廃するほどのものは一つもないとした。
翌日、宣宗は楊栄と楊士奇を再び呼んだ。
楊栄が胡皇后を廃すべき理由を書いた紙を差し出したところ、
楊士奇は内容を見て反発し、漢の光武帝が皇后を廃した際の詔にある「異常の事は国家の福ではない」
という趣旨や、宋仁宗が郭皇后の廃位を後悔した故事を挙げ、慎重にすべきだと諫めた。
宣宗は不機嫌になり、この日の議論も決着しなかった。
「辞位」という方法
その後も協議は続き、宣宗はついに楊士奇だけを召して解決策を求めた。
楊士奇が胡皇后と孫貴妃の仲は悪いのかと尋ねると、
宣宗はそうではなく、胡皇后が一か月以上病んでいたときには孫貴妃が毎日のように見舞い、
むしろ親しくしていたと答えた。
そこで楊士奇は、胡皇后が病気であることを理由に、
皇后自身から辞位を申し出る形にしてはどうかと提案した。
数日後、宣宗は胡皇后が実際に辞退を申し出たと楊士奇に告げた。
楊士奇は、そうするのであれば退位後も胡氏と孫氏を平等に扱い、
待遇に上下を設けず、最後まで恩義を保つよう求めた。宣宗はこれを約束した。
こうして、表面上は胡善祥が自発的に皇后位を譲るという形が整えられた。
皇后を廃され「静慈仙師」となる
宣徳3年(1428)春、胡善祥は皇后位を退いた。
『明史』はこの過程を「帝令后上表辞位」と記す。
宣宗が胡皇后に辞位の上表をさせたのであり、単純な自発的辞任とはしていない。
理由とされたのは「多病」と「無子」だった。孫貴妃は胡氏に代わって皇后となった。
宣宗が礼部に示した文書では、胡皇后が病によって祭祀や奉養の役割を十分に果たせず、
さらに男子がないため繰り返し退位を願ったので、
夫婦の義を考えて何度も拒否したものの、最終的にその願いを認めたという形が取られている。
また、退位後も称号・衣食・侍従は従来どおりとするとされた。
退居先については史料に違いがある。
『明史』や『勝朝彤史拾遺記』は「長安宮」とする一方、
墓誌系の記録には「長楽宮」とするものがある。
いずれにしても、胡善祥は皇后の地位を離れて別宮に移り、黄老の清静の教えに従う生活に入った。
「静慈仙師」という称号についても史料上の問題がある。
『明史』は廃位時に宣宗から「静慈仙師」の号を与えられたとするが、
私撰史料などには死後の諡として扱うものもある。
そのため、廃位直後から正式にこの号を用いていたかについては史料間に差がある。
「無過被廃」
胡善祥の廃位について、『明史』は「后無過被廃」と明記する。
男子がいないことは皇統上の問題にはなり得たが、それ自体は皇后の罪ではない。
宣宗が重臣との協議で挙げた「過失」についても楊士奇は廃后に相当しないと判断していた。
『明史』はさらに「天下聞而憐之」と続け、人々が胡氏の境遇に同情したとする。
宣宗自身も後年、廃后を悔いたとされる。
『明史』には「宣宗後亦悔」とあり、自ら「此朕少年事」と弁明したという。
当時の宣宗は二十代後半であり、文字どおり少年だったという意味ではなく、
自らの若いころの判断だったとして釈明した言葉と考えられる。
張太后に庇護された廃后
孫皇后より上座に置かれる
皇后位を失った胡善祥を庇護したのが、宣宗の母である張太后だった。
『明史』によれば、張太后は胡氏を賢い女性として憐れみ、しばしば清寧宮へ召した。
宮中で朝会や宴が開かれる際には、現皇后である孫氏よりも胡氏を上座に置いた。
孫皇后はこの扱いを不満に思い、常に「怏怏」としていたという。
『勝朝彤史拾遺記』も同様の話を伝え、英宗即位後に張氏が太皇太后、孫氏が皇太后となってからも、
胡善祥に対する張太皇太后の扱いは変わらなかったとしている。
胡善祥は正式な皇后ではなくなったものの、
張氏が健在である間は、宮廷内で一定の尊重を受け続けた。
宣徳10年(1435)、宣宗が死去し、朱祁鎮が英宗として即位した。
孫皇后は皇太后、張太后は太皇太后となった。
胡善祥は皇帝の母でも祖母でもなかったため政治的地位を持たなかったが、
張太皇太后の庇護によって宮廷との関係を保った。
二人の娘との死別
胡善祥の二人の娘はいずれも母より先に死去した。
次女の永清公主は宣徳8年(1433)に未婚のまま死去した。
『明史』公主伝からは漏れているが、
後年の『明実録』にも永清公主が宣徳8年に亡くなったことを確認できる。
長女の順徳公主は正統2年(1437)、石璟に嫁いだが、正統8年(1443)正月に死去した。
『明英宗実録』は順徳公主を宣宗の長女、母を胡皇后と明記している。
これによって胡善祥は、自身が亡くなるまでに二人の娘をともに失ったことになる。
張太皇太后の死と胡善祥の最期
正統7年(1442)10月、長年胡善祥を庇護してきた張太皇太后が死去した。
『明史』は、胡善祥がその死を「痛哭不已」、激しく泣いて悲しんだと記す。
『勝朝彤史拾遺記』にはさらに具体的な逸話があり、
張太皇太后の死後、胡氏が祭奠に参加した際、
その名は孫太后と並べられず、妃嬪の列に置かれたため、胡氏が痛哭したとしている。
張太皇太后の死によって、廃后である胡善祥を特別に扱う人物が
宮中からいなくなったことを示す記録である。
翌正統8年(1443)正月には長女順徳公主も死去した。
同年11月5日、胡善祥も死去した。墓誌が伝える生年月日を採れば、42歳だった。
皇后ではなく「嬪御」の礼で葬られる
胡善祥の死後、葬礼をどの格式で行うかが問題となった。
『勝朝彤史拾遺記』によれば、
このとき楊士奇は病気で休んでいたため、諸臣がその意見を聞きに行った。
楊士奇は皇后の礼によって葬るべきだと答えたが、
諸臣が「これは内廷の意向ではない」と告げると、
楊士奇は寝台の方を向いて何も言わなくなったという。
結局、胡善祥は皇后ではなく「嬪御」の礼で葬られた。
『明史』は葬地を「金山」とする。
『明英宗実録』にも胡善祥の墳園完成後に金山の神へ告祭した記事がある。
一方、墓誌には次女永清公主が「祔后葬玉泉山之陽」とあり、
胡善祥の墓を玉泉山の南麓に位置づけている。
金山・玉泉山一帯は近接した北京西郊の皇族墓域であるため、
史料によって広域の地名と具体的な位置の表現が異なった可能性がある。
胡善祥には「静慈仙師」の諡が用いられ、皇后として宣宗の景陵に合葬されることもなかった。
死後20年を経て皇后位を回復
銭皇后の進言
胡善祥の死後も、その処遇はそのままにはならなかった。
天順6年(1462)、孫太后が死去すると、
英宗朱祁鎮の皇后である銭皇后が胡善祥の名誉回復を進言した。
『明史』によれば、銭皇后は英宗に対し、
胡氏は「賢而無罪」、賢明で罪がなかったにもかかわらず廃されて仙師となり、
死去した際にも人々が太后を恐れたため、殮葬が礼にかなったものではなかったと述べた。
そして胡善祥の皇后位を回復するよう勧めた。
ここでいう「太后」は孫太后を指す。
胡善祥の葬礼が嬪御の格式に抑えられた背景について、
『明史』は孫氏の存在を意識した宮廷側の判断があったことを示している。
李賢の進言と英宗の決断
英宗は大学士李賢に意見を求めた。
李賢は皇后位の回復に賛成したうえで、単に称号だけを戻すのではなく、
陵寝・享殿・神主についても皇后として整備する必要があると進言した。
英宗もこれを受け入れた。
英宗自身の敕諭では、父宣宗の時代に胡氏が孫氏へ皇后位を譲り、
その後は栄華を離れて道を慕い、清虚を尊んで生涯を終えたと説明する。
そのうえで、当時は自分が幼少だったため十分な処遇をできなかったが、
いま考えれば「子としての心」に尽くせていないところがあるとして、
礼部に皇后の尊諡と陵寝の修復を議論させた。
天順7年(1463)閏7月、礼部尚書姚夔らの議を経て、
胡善祥には正式に「恭譲誠順康穆静慈章皇后」の尊諡が贈られた。
陵寝も皇后として修復された。胡善祥の死から約20年、廃位からは35年後のことだった。
ただし、名誉回復は完全なものではなかった。
『明史』は「修陵寝、不祔廟」と記しており、
陵寝は整備されたものの、宣宗の皇后として太廟に祔られることはなかった。
胡善祥の人物像と「宣徳廃后」
胡善祥について残る同時代・後世の記録には、一貫して大きな罪状が見えない。
墓誌では「天性貞一、挙止荘重」とされ、皇后となってからも生活は質素で、
遊幸を好む宣宗に対して機会を見て諫言し、皇帝に媚び従う態度を取らなかったとされる。
廃后をめぐる協議でも、
宣宗が挙げた胡氏の過失について楊士奇は廃位に値するものではないと判断した。
後世に成立した『明史』も最終的に「后無過被廃」と評価している。
一方で、皇后に男子がなく、寵愛を受けた孫貴妃の子とされた朱祁鎮が誕生したことで、
皇太子の母と皇后が別人になるという状況が生じた。
宣宗は「母以子貴」を理由として孫氏を皇后にする意向を固めたが、
胡氏を廃するだけの明確な罪がなかったため、重臣との協議を重ね、
最終的には胡善祥自身に辞位を申し出させる方法を取った。
この経緯から、宣徳3年の出来事は単純な病気による皇后の自主的退位とはみなしにくい。
『明史』自身が「帝令后上表辞位」と記しているように、宣宗の意思によって進められた廃后だった。
廃位後も張太后は胡善祥を賢い女性として遇し、宴席では孫皇后より上座に置いた。
宣宗自身も後に廃后を悔い、胡善祥の死後には銭皇后が「賢而無罪」と評価して名誉回復を求めた。
そして英宗は最終的に皇后位を回復し、「恭譲誠順康穆静慈章皇后」の諡を贈った。
胡善祥は皇太孫妃、皇太子妃、皇后、廃后という異なる立場を経験し、
死後に再び皇后として認められた。
彼女の生涯については瑞兆や占星術、孫氏との関係など後世に加えられた逸話も少なくないが、
少なくとも『明史』『明実録』や廃后をめぐる諸記録から確認できるのは、
重大な罪によって廃された皇后ではなかったという点である。
まとめ
胡善祥は洪武35年(1402)、済寧の胡氏に生まれ、永楽15年(1417)に朱瞻基の皇太孫妃となった。仁宗の即位後には皇太子妃、宣宗の即位後には皇后となり、順徳公主と永清公主をもうけた。
しかし男子を得ないまま、孫貴妃の子とされた朱祁鎮が誕生すると状況が変化した。
宣宗は張輔・蹇義・夏原吉・楊士奇・楊栄らと廃后を協議し、
楊士奇らが慎重論を唱えるなか、最終的に胡善祥自身に辞位を申し出させる形で皇后位から退かせた。
廃位後の胡善祥は別宮に移り、黄老の清静を奉じて暮らした。
張太后は彼女を賢い女性として庇護し、宮中の宴では孫皇后より上位に置くことさえあった。
だが張太皇太后が死去するとその特別な待遇も失われ、
正統8年(1443)、二人の娘にも先立たれたのちに死去した。
葬礼は皇后ではなく嬪御の格式で行われた。
それから約20年後、孫太后の死を契機として銭皇后が名誉回復を求め、
英宗は天順7年(1463)、胡善祥に「恭譲誠順康穆静慈章皇后」の尊諡を贈った。
陵寝も修復されたが、太廟には祔されなかった。
『明史』が残した「后無過被廃」という評価は、胡善祥の生涯を考えるうえで重要である。
宣徳の廃后は、皇后自身の重大な失行によって起こったのではなく、
皇太子の誕生、孫貴妃への宣宗の寵愛、そして「母以子貴」という論理を背景として進められた。
胡善祥はその決定によって中宮を去り、
死後になってようやく皇后としての位号を取り戻したのである。
史書・参考文献
『明史』巻113「后妃一」
『明太宗実録』『明仁宗実録』『明宣宗実録』『明英宗実録』
『勝朝彤史拾遺記』巻2
沈徳符『万暦野獲編』巻3「宣宗廃后」
「恭譲章皇后墓誌」
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