【魏】曹真|曹操に養育され、曹魏三代の軍事を支えた大司馬

曹真(魏・曹操の養子) 033.武将

曹真(そうう)、字は子丹という。
曹操のもとで育てられ、若くして虎豹騎を率い、曹丕の時代には雍州・涼州の軍事を統括した。
曹叡の時代には大将軍、さらに大司馬へ昇り、
蜀漢の諸葛亮による北伐への対応を担った曹魏宗室の重臣である。

曹真というと、後世の『三国志演義』では諸葛亮に翻弄され、
司馬懿と比較して劣る将軍として描かれることが多い。
しかし正史『三国志』に記された曹真は、そのような人物像とは大きく異なる。

若いころには追ってきた虎を一矢で倒し、その勇猛さを曹操に認められて虎豹騎を任された。
夏侯淵の死後には漢中方面の軍を統率し、曹丕からは陳群・司馬懿らとともに後事を託され、
曹叡の時代には諸葛亮の進路を予測して陳倉の防備を整えさせている。

その一方で、旧友の遺児のために自らの食邑を分け、
軍の恩賞が不足すれば家財を将兵に与えたことも伝えられる。

呉質の宴席で肥満をからかわれ、激怒して刀を抜いたという逸話も残り、
温厚な人物としてのみ描かれているわけではない。

曹真の出自には史料によって大きな相違があり、
曹氏の一族であったとする説と、
本来は秦氏で曹操によって曹氏に迎えられたとする説が併存している。

出自――曹操の族子か、秦氏の遺児か

曹真の生年は不明である。
その出自については、史料によって異なる説が伝えられている。

『三国志』本文と『魏書』では、曹真は曹操の一族である曹邵の子とされる。
これに対して『魏略』では、本姓は秦で、曹操を救って死亡した秦伯南の子とされる。

父の名も、曹氏との血縁関係も異なっており、両説を同時に事実とみなすことはできない。

したがって曹真の出自については、正史本文では「曹操の族子・曹邵の子」とされる一方、
裴松之注には「本姓秦・秦伯南の子」とする異説も残されている、と整理するのが適切である。

『三国志』本文――曹操の族子・曹邵の子

『三国志』曹真伝は、曹真を「太祖族子也」、すなわち曹操の族子と記している。

父は曹邵で、曹操が兵を挙げた際に人々を募り、その活動に協力した。
しかしその後、州郡の勢力によって殺害されたという。
『三国志』本文には、曹邵がどのような人物で、なぜ殺されたのかまでは記されていない。

これを補うのが、裴松之注に引用された『魏書』である。
それによれば、曹邵は忠実で誠実な性格で、才知も備えていたため、曹操から厚く信頼されていた。

初平年間、曹操が義兵を起こすと、曹邵も人々を集めてこれに従った。

ところがこのころ、豫州刺史の黄琬が曹操を害そうとしたため、
曹操は難を避けたものの、曹邵は殺害されたとされる。

この説に従えば、曹真はもともと曹氏一族の出身で、
曹操と近い関係にあった曹邵の子ということになる。

『魏略』――本姓は秦、父は秦伯南

一方、裴松之が同じ箇所に引用する『魏略』は、これとは異なる出自を伝えている。

『魏略』によれば、曹真はもともと曹氏ではなく秦氏で、父は秦伯南という人物だった。
秦伯南は以前から曹操と親交があった。

興平年間の末、曹操が敵に襲われて追撃を受けた際、秦伯南の家へ逃げ込んだ。
秦伯南は曹操を家にかくまい、追手が曹操の居場所を尋ねると、自ら「私が曹操だ」と名乗った。
そのため秦伯南は曹操の身代わりとなって殺害されたという。

曹操はこの恩を忘れず、秦伯南の遺児を引き取った。
そして姓を曹氏に改めさせ、自分の一族として養育した。
その遺児が曹真であったと『魏略』は伝えている。

曹操に引き取られ、曹丕とともに育つ

父を失った曹真は、曹操によって引き取られた。
『三国志』は、曹操が幼くして孤児となった曹真を哀れみ、
「諸子と同じく養い」、曹丕と一緒に生活させたと記している。

曹操の一族の子であったとする場合でも、秦伯南の遺児であったとする場合でも、
父の死後に曹操自身の家庭へ迎え入れられた点は共通している。

曹真は単に曹操の配下となったのではなく、
曹丕をはじめとする曹操の子供たちと近い環境で成長したことになる。

若いころの曹真は、後に魏の文臣となる呉質とも交遊していた。

裴松之注に見える記事によれば、曹真と曹休は呉質らとともに渤海で交遊したことがあり、
その後、曹真と曹休は宗室として封爵を受け、将軍として出世したのに対し、
呉質は長史の地位にとどまっていた。
曹丕は呉質を慰める手紙のなかで曹真と曹休に言及している。

曹真・曹休・曹丕・呉質らの関係は、曹丕が即位してから突然形成されたものではなく、
曹操の時代から続くものであった。

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虎を一矢で射殺し、虎豹騎を率いる

曹真の若年期には、その武勇を示す逸話が残されている。

あるとき曹真が狩猟をしていると、虎に追われた。
曹真は逃げ続けるのではなく、振り返って虎へ矢を放った。
矢は命中し、虎はその場で倒れたという。

曹操はこの行動を見て、曹真の「鷙勇」を壮とした。
「鷙」は猛禽のような勇猛さを意味する言葉であり、曹操は曹真の激しい勇気を評価したのである。

その結果、曹真は曹操軍の精鋭騎兵である虎豹騎を率いることになった。
虎豹騎は曹純ら曹氏の近親者が指揮した精鋭部隊であり、
曹真がこれを任されたことは、武勇だけでなく曹操からの信頼も示している。

その後、曹真は虎豹騎を率いて霊丘の賊を討ち、これを攻略した。
この功績によって霊寿亭侯に封じられた。

劉備軍との戦い

曹真は偏将軍となると、劉備軍との戦いにも投入され、下辯で劉備の別将を攻撃してこれを破った。
この戦功によって中堅将軍に任じられ、その後は曹操に従って長安へ入り、中領軍を兼ねた。

建安二十四年(219)、漢中をめぐる戦いでは、定軍山で夏侯淵が劉備軍に敗れて戦死した。
夏侯淵は長年にわたり関中・隴右方面の軍事を担ってきた重鎮であり、
その死によって魏軍は西方戦線の再編を迫られることになった。

曹操はこの事態を受けて曹真を征蜀護軍に任じ、徐晃らを督して劉備軍への対応にあたらせた。
曹真は陽平で劉備の別将・高詳を攻撃してこれを破り、夏侯淵の死後も漢中方面で軍事行動を続けた。

その後、曹操自身も漢中へ進出したが、最終的にはこの地の維持を断念し、諸軍を撤退させた。
曹真は武都へ向かって曹洪らを迎え、帰還させたのち、陳倉へ駐屯している。

この時期の曹真は、すでに一軍を率いて戦うだけの将ではなく、
夏侯淵亡き後の西方戦線で諸将を統率する立場に進みつつあった

曹丕の即位と雍州・涼州諸軍の統括

延康元年(220)、曹操が死去して曹丕が魏王を継承すると、
曹真は鎮西将軍に任じられ、假節を与えられて雍州・涼州諸軍事を都督した。
また、それまでの戦功によって東郷侯へ進封されている。

雍州・涼州は蜀漢と接する一方、
羌・氐などの諸勢力を抱える曹魏西方の重要地域であり、
曹真はこの方面の軍事を統括する立場となった。

その後、酒泉で張進らが反乱を起こすと、曹真は配下の費曜を派遣して討伐にあたらせた。
費曜は反乱軍を破って張進らを斬り、酒泉の反乱を鎮圧した。

曹真はそれまで自ら軍を率いて各地を転戦していたが、
このころには広い地域の軍事を統括し、
必要に応じて配下の将軍を派遣して作戦を遂行させる方面軍の司令官となっていた。

上軍大将軍となり、孫呉を攻める

黄初三年(222)、曹真は洛陽へ帰還した。

曹丕は曹真を上軍大将軍に任じ、中外諸軍事を都督させ、假節鉞を与えた。
假節鉞は軍事上の強い権限を示すものであり、
曹真は地方方面軍の司令官から、魏軍全体の中枢を担う将軍へ進んだ。

同年、曹丕は孫権に対する大規模な軍事行動を開始し、
曹真も夏侯尚らとともに孫呉への攻撃に加わった。
『三国志』曹真伝では牛渚に駐屯していた呉軍を撃破したと記される一方、
夏侯尚伝には、夏侯尚が諸軍を率いて曹真とともに江陵を包囲したことが見える。

江陵では呉将朱然が守備にあたり、魏軍の包囲を受けながら城を守り続けた。
魏軍は長期間にわたって攻撃を続けたものの江陵を陥落させることはできず、
最終的には軍を撤退させた。

戦役後、曹真は中軍大将軍へ転じ、給事中を加えられた。

呉質の宴会で肥満をからかわれる

曹真の外見について『三国志』本伝は詳しく記していないが、
裴松之注に引用された『呉質別伝』には、
その体格をめぐって宴席で騒動になった逸話が残されている。

黄初五年(224)、呉質が洛陽へ朝見すると、
曹丕は上将軍・特進以下の高官たちを呉質の邸宅に集めて宴会を開かせた。
この席には曹真のほか、曹洪、王忠、中領軍の朱鑠らも出席していたが、
史料は曹真を「性肥」、朱鑠を「性瘦」と記しており、
曹真は太った体格、朱鑠は痩せた体格だったという。

酒が進んだところで、呉質は俳優を呼び、太った者と痩せた者を題材にした芸を演じさせた。
これを自分への嘲弄と受け取った曹真は恥じ怒り、
「卿は私を部曲の将のように扱うつもりか」と呉質を責めた。

ところが、同席していた曹洪と王忠まで曹真の肥満をからかうような発言をしたため、
曹真の怒りはさらに激しくなった。
刀を抜いて目を怒らせ、「俳優が無礼を働くなら斬る」と言い放つと、
呉質も剣に手をかけ、「曹子丹」と曹真を字で呼んで応酬し、
その権勢を恐れるものではないという態度を示した。

険悪になった場を収めようと朱鑠が立ち上がったが、呉質は今度は朱鑠を叱りつけた。
朱鑠もこれに腹を立て、剣を抜いて地面を斬りつけたため、宴会はそのまま散会となった。

曹真が自らの体格を題材にされたことに強く反発し、
刀を抜くまでに至ったこの逸話は、軍事上の経歴とは異なる曹真の一面を伝えている。

曹洪の処刑をめぐる曹真の発言

曹丕の治世には、曹操以来の功臣である曹洪が死罪に問われた際、曹真もこの問題に関わっている。

曹洪は曹操の従弟で、挙兵以来その軍事活動を支えた人物だったが、
非常に裕福である一方で吝嗇でもあったと伝えられる。
曹丕は若いころ曹洪に財物を求めて断られたことがあり、そのことを恨んでいたという。

曹丕の即位後、曹洪の食客が罪を犯すと、曹洪自身も連座して投獄され、死罪に処されようとした。
群臣が助命を願い出ても曹丕は聞き入れず、曹洪を処刑する意向を変えなかった。

『魏略』によれば、このとき曹真は曹丕のそばにおり、
「いま曹洪を殺せば、曹洪は必ず私が讒言したと思うでしょう」と述べた。
これに対して曹丕は、「私自身が処置するのだ。お前に何の関係があるのか」と答えたという。

曹洪は最終的に、卞太后曹丕に強く働きかけたことで死罪を免れた。
曹真の発言からは、曹洪の処刑そのものに言及するだけでなく、
その死が自分の讒言によるものと受け取られることを懸念していたことがわかる。

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曹丕から後事を託される

黄初七年(226)、曹丕が病床に就いた。
曹丕は死を前にして、曹真・陳群・司馬懿らに遺詔を与え、後継者である曹叡を補佐させた。


曹操に引き取られ、曹丕とともに育てられた曹真は、
この時点では皇帝から後継者を託される重臣となっていた。

曹叡が即位すると、曹真は邵陵侯へ進封され、さらに大将軍へ昇進した。
この「邵陵侯」という封号について、裴松之は疑問を呈している。

曹真の父の名は曹邵である。
父祖の名を避ける慣習を考えれば、その「邵」の字を含む邵陵侯へ封じられるのは不自然
であり、
裴松之は、もし誤記でないなら論じようがないと指摘している。

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諸葛亮の第一次北伐

太和二年(228)、蜀漢の丞相諸葛亮が第一次北伐を開始した。
諸葛亮は斜谷道から郿へ進出すると宣伝し、趙雲・鄧芝を箕谷へ向かわせて魏軍を牽制する一方、
自らは主力を率いて祁山方面へ進出した。

蜀漢による大規模な北伐を受けて魏の関中一帯は動揺し、
南安・天水・安定の三郡が相次いで魏に背き、諸葛亮に呼応した。
曹叡はこれに対処するため、曹真に関右の諸軍を統率させて郿に駐屯させ、
張郃らを蜀軍の迎撃にあたらせた。

諸葛亮は街亭の守備を馬謖に任せたが、馬謖は諸葛亮の指示に従わず、
街道を押さえずに山上へ布陣した。
これに対して張郃は蜀軍の水路を断って攻撃を加え、馬謖軍を大破したため、
諸葛亮は祁山方面から撤退することになった。

街亭で馬謖軍を直接破ったのは張郃であり、曹真自身がこの戦場で指揮を執ったわけではない。

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楊条の降伏と三郡の平定

蜀軍への対応と並行して、曹真は諸葛亮に呼応して離反した地域の鎮定にあたった。
安定郡では楊条らが官吏や住民を率いて月支城に立て籠もっていたため、
曹真は自ら軍を進めて城を包囲した。

曹真の到着を知った楊条は、
「大将軍が自ら来たのなら、私はもともと早く降伏したいと思っていた」と仲間に語り、
自らを縛って城外へ出て降伏した。

これにより安定郡は魏の支配下へ戻り、
南安・天水とあわせて、諸葛亮の北伐に呼応して離反していた三郡は平定された。

諸葛亮の陳倉進出を予測する

三郡を平定した曹真は、
祁山方面で敗退した諸葛亮が次に出兵する際には陳倉を経由するだろうと予測し、
あらかじめ将軍の郝昭・王生を陳倉に配置して城の防備を整えさせた。

同年十二月、諸葛亮は曹真の予測したとおり散関から出撃し、陳倉へ進んで城を包囲した。
しかし陳倉ではすでに郝昭が守備を固めており、兵力では蜀軍に劣っていたものの、
雲梯を用いた攻撃には火矢を放ち、衝車には石を落とすなどして諸葛亮の攻城を防いだ。

諸葛亮は攻城兵器や地下道を用いて二十日余りにわたって攻撃を続けたが、
郝昭はそのたびに対策を講じ、陳倉を守り抜いた。
魏側では曹真が費曜らを援軍として派遣し、曹叡も張郃を救援に向かわせたため、
兵糧が尽きた蜀軍は陳倉を攻略できないまま撤退した。

曹真は第一次北伐の結果から諸葛亮の次の進路を陳倉と判断し、
実際の侵攻に先立って守備を強化していた。


この功績などによって加増され、食邑はそれまでと合わせて二千九百戸となった。

大司馬となる

太和四年(230)、曹真は洛陽へ入朝した。
曹叡は曹真を大司馬へ昇進させ、さらに「剣履上殿」「入朝不趨」の特権を与えた。

剣を帯び、履物を履いたまま殿上へ上がることを許され、
朝廷へ入る際にも臣下の礼として小走りする必要がないという特別待遇である。

曹真は曹魏の軍事官として最高位に近い地位へ到達した。

蜀漢への大規模侵攻を提案

太和四年(230)、曹真は、蜀漢がたびたび魏の国境へ侵攻していることを理由に、
今度は魏側から蜀漢を討つべきだと曹叡に上奏した。

その構想は一軍だけを漢中へ向かわせるものではなく、
複数の軍を異なる経路から同時に進めるというもので、曹叡はこの提案を採用した。

ただし、蜀漢への遠征をめぐっては朝廷内から慎重論も出ていた。
『三国志』陳群伝によれば、曹真は当初、斜谷から蜀へ進軍することを提案したが、
司空の陳群は補給の困難を理由に反対した。

陳群は、かつて曹操が陽平関で張魯を攻めた際にも、
現地で豆や麦を調達しながら軍糧が不足したことを挙げたうえで、
斜谷は険阻で進退が難しく、軍糧を運ぶ輸送部隊も敵の襲撃を受けやすいと指摘した。
輸送路を確保するため要所ごとに兵を配置すれば、その分だけ前線へ投入できる兵力も減少するため、
長距離の侵攻には大きな危険が伴うというのである。

曹叡がこの意見を受け入れると、曹真は斜谷に代えて子午道から進軍する案を提出した。
陳群はこの経路についても不便があるとして、軍事費や補給の問題を改めて論じた。

曹叡は陳群の意見を曹真にも示したが、遠征そのものを取りやめることはなく、
最終的には曹真を中心とする蜀漢侵攻が実施されることになった。

太和四年の蜀漢遠征

太和四年(230)八月、曹真は蜀漢への遠征を開始し、曹叡はその出征に際して自ら見送りに出た。
曹真は長安から子午道を南下し、司馬懿は別方面から漢水を遡って南鄭へ向かい、
曹真の軍と合流する計画であった。
そのほかにも斜谷などから軍を進め、複数の経路から漢中へ侵入する作戦が採られた。

『三国志』曹真伝には、このとき「武威」から進入する軍もあったと記されている。
ただし武威は漢中から遠く離れているため、
『資治通鑑』の胡三省注は地理的に不自然であることを指摘しており、
「武都」などの誤記ではないかと考えられている。

蜀漢側では、諸葛亮が魏軍の侵攻を知ると成固の赤坂に駐屯し、迎撃態勢を整えた。
しかし魏軍と蜀軍が本格的に衝突する前に三十日余りにわたって大雨が続き、
山中の桟道が各所で寸断されたため、魏軍の進軍と軍糧の輸送は困難となった。

遠征前から山岳路における補給の難しさを指摘していた陳群は撤兵を求め、
太尉の華歆や少府の楊阜からも遠征の継続に慎重な意見が出された。
こうした状況を受けて曹叡は撤退を命じ、曹真らは蜀漢領内への進軍を中止して軍を引き揚げた

曹遵・朱讃の遺児に食邑を分ける

曹真の本伝には、軍歴だけでなく、
若いころから親交のあった人物とその遺族に対する逸話も残されている。

曹真は若いころ、宗族の曹遵、同郷の朱讃とともに曹操に仕えていたが、
二人はいずれも早くに亡くなった。
曹真はその死を哀れみ、自分の食邑の一部を分け、
曹遵と朱讃の子供たちを封侯してほしいと朝廷に願い出た。

曹叡はこの申し出を認め、
「大司馬には叔向が孤児を養育した仁があり、晏平仲が古くからの交友を大切にした情義がある」
という趣旨の詔を出し、曹真の食邑を分けて曹遵と朱讃の子をそれぞれ関内侯とし、各百戸を与えた。

詔に挙げられた叔向は春秋時代の晋の人物で、晏平仲は斉の名臣として知られる晏嬰である。
曹真が亡くなった二人との旧交を忘れず、その遺児にも配慮したことを、
朝廷は古人の故事になぞらえて称賛した。

将兵に私財を分け与える

曹真が兵士をどのように扱っていたかについても、『三国志』は具体的な記事を残している。

曹真は出征するたび、将兵と労苦をともにした。
軍から支給される恩賞が不足すると、自分の家財を取り出して将兵へ分け与えたため、
兵士たちは曹真のために働くことを望んだという。

曹真が長期間にわたって方面軍を統率できた背景を考えるうえで重要な記事であり、
宗室という身分だけによって将兵を従わせていたわけではなかったことがうかがえる。

駿馬「驚帆」

曹真には馬に関する逸話も伝わっている。

崔豹『古今注』によれば、曹真は「驚帆きょうはん」という名の駃馬を所有していた。
その走る速さが、烈風によって帆が持ち上げられるようであったことから
「驚帆」と名づけられたという。

『三国志』本伝の記事ではないため、曹真の軍歴を直接証明するものではないが、
後世まで伝えられた曹真に関する逸話の一つである。

病に倒れ、曹叡が自ら見舞う

蜀漢への遠征から帰還した後、曹真は病にかかり、洛陽へ戻った。
曹叡は曹真の病状を案じ、自らその邸宅を訪れて見舞っており、
皇帝から厚く遇されていたことがうかがえる。

曹真はそのまま病から回復することなく、太和五年(231)三月に死去し、「元侯」と諡された。
生年については史料に記録がないため、没年時の年齢も不明である。

曹叡による追悼

曹真の死後、曹叡はその功績を追想して詔を出した。

その内容では、曹真が忠節を実践して「二祖」を補佐したこと、
内では皇族としての寵愛を頼みにせず、外では身分の低い者にも驕らなかったことが称賛されている。
さらに、高い地位にありながらその立場を保ち、謙譲の徳を備えていた人物であった
と評価された。
ここでいう「二祖」は曹操と曹丕を指す。

曹真は曹操の時代から軍人として活動し、
曹丕から遺詔を受け、曹叡の時代には大司馬まで昇った。
曹叡の詔は、宗室として優遇された人物というだけでなく、
その地位にふさわしい行動を取った臣下として曹真を評価している。

陳寿も曹真を含む曹氏・夏侯氏の諸将について、
曹操との親族・旧知の関係によって重用された一方、
それぞれが軍事面で功績を挙げたと総評している。

六人の息子と弟曹彬

曹真の爵位は長男の曹爽が継承した。

曹叡は曹真の功績を追念し、曹爽以外の五人の息子もすべて列侯に封じた。
その名は曹羲・曹訓・曹則・曹彦・曹皚である。
したがって、『三国志』から確認できる曹真の男子は曹爽を含めて六人となる。

また曹真には曹彬という弟がいた。
曹丕の時代、曹真の食邑から二百戸が分けられ、曹彬も列侯に封じられている。

曹爽の台頭

曹真の爵位を継いだ曹爽は字を昭伯といい、
若いころは慎み深い人物と見られ、曹叡が皇太子だったころから親しく遇されていた。

曹叡の即位後は散騎侍郎、城門校尉、散騎常侍、武衛将軍などを歴任し、
宗室の一員として次第に地位を高めていった。

景初三年(239)、曹叡が病床に就くと、曹爽は大将軍に任じられ、
假節鉞・都督中外諸軍事・録尚書事となり、司馬懿とともに幼い曹芳の補佐を託された。
父の曹真も曹丕の死に際して曹叡の補佐を託されており、
父子二代にわたって皇帝の死後を支える輔政の重任を受けたことになる。

曹爽が政権の中枢に立つと、その弟たちも要職に就き、
曹羲は中領軍、曹訓は武衛将軍、曹彦は散騎常侍侍講となった。

そのほかの弟たちも列侯として宮中に出入りし、
曹真の子供たちは曹魏宗室のなかで大きな勢力を占めるようになった。

高平陵の変と曹真の子供たち

正始十年(249)、
曹爽兄弟が皇帝曹芳に従って曹叡の陵墓である高平陵へ出かけた隙を突き、
司馬懿が政変を起こして洛陽を掌握した。

大司農の桓範は洛陽を脱出して曹爽のもとへ駆けつけ、
曹芳を奉じて許昌へ移り、皇帝の命令によって各地の軍を動員して司馬懿に対抗するよう勧めた。

しかし曹爽はこの策を採用せず、
司馬懿が軍権を放棄すれば身分と富貴は保障すると約束したことを受け入れ、
抵抗を断念して洛陽へ帰還する道を選んだ。

これを見た桓範は涙を流し、
「曹子丹は佳人であったのに、お前たち兄弟のような豚や子牛を生んだとは。今日、お前たちのために一族が滅びることになるとは思わなかった」という趣旨の言葉を吐いたと伝えられる。

「佳人」はここでは容姿の美しい人物ではなく、立派な人物、優れた人物という意味であり、
桓範は曹爽兄弟の判断を父の曹真と比較しながら非難したのである。

洛陽へ戻った曹爽は、
やがて何晏・丁謐・鄧颺らとともに謀反を企てていたとして罪に問われ、
弟の曹羲・曹訓らとともに処刑された。

一族にも処分が及んだため、曹真の子孫が政権中枢に築いていた勢力は、
曹真の死から十八年後の高平陵の変によって失われた。


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曹熙が曹真の後を継ぐ

曹爽一族が処刑された結果、曹真の祭祀を継承する者も失われた。
しかし曹真本人の功績まで否定されたわけではなかった。

嘉平年間、太尉蔣済は曹真の功績を理由として、
その祭祀を絶やすべきではないと主張したと伝えられる。

その後、曹真の族孫にあたる曹熙が新昌亭侯に封じられ、三百戸を与えられて曹真の後嗣とされた。
曹爽一族の失脚後も、曹真本人の功績については別に扱われていたことがわかる。

曹真碑

曹真の死後には、その功績を顕彰する碑も建てられた。

いわゆる「曹真碑」は後世に残欠が発見されており、
清の道光二十三年(1843)に陝西省西安の南郊で発見されたとされる。
発見時にはすでに破損しており、碑の中間部分のみが残っていた。

碑文には曹真の軍事活動を称える内容が残るが、現存状態が完全ではないため、
曹真の事績を復元する際には『三国志』などの伝世史料とは区別して扱う必要がある。

『三国志演義』との違い

後世の曹真像に大きな影響を与えたのが『三国志演義』である。

『三国志演義』では、諸葛亮の北伐に対応する魏の中心人物として司馬懿が強調される一方、
曹真はしばしば諸葛亮の策に敗れる人物として描かれる。

しかし正史では、第一次北伐時に関右諸軍を都督していたのは曹真であり、
張郃をはじめとする諸将を用いながら蜀漢の進出に対応している。

さらに第一次北伐後、諸葛亮が次には陳倉へ向かうと予測し、
郝昭らに防備を整えさせたのも曹真である。諸葛亮は実際に陳倉を攻撃したが攻略できなかった。

太和四年には曹真自身が蜀漢への多方面侵攻を提案し、曹叡の承認を得て大軍を率いている。

この遠征も、正史では諸葛亮との戦闘に敗れて撤退したのではなく、
三十日余り続いた大雨によって桟道が寸断され、進軍・補給が困難となったため中止された。

『三国志演義』ではさらに、遠征失敗後に諸葛亮から送られた書状を読んだ曹真が憤激し、
そのまま病状を悪化させて死ぬという展開が描かれる。

正史にはそのような記事はない。
『三国志』では、曹真は病気のため洛陽へ帰還し、
曹叡が自ら邸宅へ見舞いに訪れ、その後に死去したと記されるだけである。

人物評・評価

曹真は曹操に養育され、曹丕とともに育ったという特別な立場にあったが、
その軍歴を見ると、単に曹氏一族の一員というだけで高位に上った人物ではない。
若いころから武勇を認められて虎豹騎を任され、曹操の晩年には西方戦線で諸将を督する立場となり、
曹丕曹叡の時代には方面軍を統括する将軍から大将軍、大司馬へと進んでいる。

とくに曹真の軍事面で注目されるのは、諸葛亮の北伐への対応である。
第一次北伐では関右諸軍を統括して蜀漢に呼応した地域の鎮定にあたり、
その後は諸葛亮が次に陳倉へ進出すると予測して、郝昭らに防備を整えさせた。

太和四年(230)には魏側から蜀漢へ侵攻する作戦を立案し、
複数の経路から漢中を攻める大規模な遠征を実行している。

この遠征は長雨によって中止されており、
陳群からは事前に補給や交通の困難も指摘されていたため、
作戦の成否とは分けて見る必要があるが、曹真が曹魏西方の防衛だけでなく、
対蜀戦略そのものに関与する立場にあったことは確かである。

人物面では、部下や旧友に対する厚い配慮を伝える記事が目立つ。
曹遵と朱讃が早くに亡くなると、その遺児に自分の食邑を分けるよう願い出ており、
出征中には将兵と労苦をともにし、恩賞が不足すると私財を取り出して分け与えた。
そのため兵士たちは曹真のために働くことを望んだとされ、
将兵との関係を重視する統率者だったことがうかがえる。

その一方で、呉質の宴会で自らの肥満を笑いものにされた際には激怒して刀を抜いており、
侮辱に対して強く反応する気性も伝えられている。

曹真について残された逸話は、温厚で寛容な人物という一面的な像を示すものではなく、
旧友や部下には情が厚い反面、自尊心を傷つけられると激しく怒る一面もあったことを伝えている。

曹真に対する朝廷の評価は高かった。
曹叡はその死後、曹真が曹操・曹丕に忠節を尽くし、
皇族としての寵愛を頼みにせず、身分の低い者にも驕らなかったとする詔を出している。

また高平陵の変では、曹爽兄弟の判断を見た桓範が父の曹真を「佳人」、
すなわち優れた人物と呼び、息子たちと対照させた。

曹爽一族が司馬懿によって処刑された後も曹真自身の功績は否定されず、
のちに族孫の曹熙が後嗣に立てられて祭祀が継承されたことからも、
曹爽の失脚と曹真本人への評価は区別されていたことがわかる。

まとめ

曹真は曹操の族子で曹邵の子とされる一方、
『魏略』には本姓を秦とし、曹操を救って殺された秦伯南の遺児とする異説がある。
父を失った後は曹操に引き取られ、曹丕らとともに養育された。

若くして武勇を認められ、曹操・曹丕曹叡の三代にわたって軍事の要職を歴任した。
とくに曹魏西方の軍事を長く担い、諸葛亮の第一次北伐では関右諸軍を統括し、
その後の陳倉進出を予測して事前に防備を整えた。

晩年には大司馬となり、太和四年(230)には自ら蜀漢への大規模な侵攻を指揮したが、
長雨によって撤退している。

旧友の遺児に自分の食邑を分け、恩賞が不足すれば私財を将兵に与えるなど、
周囲への配慮を伝える逸話が残る一方、
呉質の宴席では侮辱に激怒して抜刀するなど、気性の激しい一面もあった。

太和五年(231)に死去し、諡は元侯。
子の曹爽は後に曹魏政権の中枢を握ったものの、高平陵の変で失脚して処刑された。
それでも曹真自身の功績は否定されず、のちに族孫曹熙が後嗣となって祭祀を継承している。

後世の『三国志演義』では司馬懿に劣る将として描かれるが、
正史の曹真は西方戦線を長期間統括し、曹魏三代から重用された主要な軍事指導者の一人であった。

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史書・参考文献

  • 陳寿『三国志』魏書「諸夏侯曹伝」
  • 裴松之注『魏略』『魏書』『呉質別伝』ほか
  • 陳寿『三国志』魏書「文帝紀」「明帝紀」「陳群伝」「王粲伝」「曹洪伝」「夏侯尚伝」ほか
  • 陳寿『三国志』蜀書「諸葛亮伝」「後主伝」ほか
  • 司馬光『資治通鑑』魏紀
  • 崔豹『古今注』
  • 『曹真碑』