曹節(そうせつ)は後漢の桓帝・霊帝期に活躍した宦官。
霊帝の即位を実質的に主導し、外戚を排除し、宮中の実権を完全に掌握した。
竇武・陳蕃の誅殺事件では中心的役割を果たし、
その後は王甫・侯覧らとともに専横を極め、
十常侍の時代へとつながる“宦官政治の土台”を作った張本人として知られる。
曹節とは
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順帝期に小黄門、桓帝期に中常侍
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霊帝即位を主導し、皇帝の側近として絶大な権勢を得る
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竇武・陳蕃の宦官排除計画を察知し、逆に誅殺
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長楽衛尉・大長秋などを歴任
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一門の多くが列侯となるほどの巨大勢力を形成
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181年に死去、車騎将軍を追贈
出自と桓帝期の台頭
南陽出身の宦官として宮中へ
曹節は南陽郡新野県の出身で、祖先は魏郡の人とされる。
順帝期に小黄門として宮中に入り、桓帝期には中常侍へ昇進した。
霊帝擁立で権力の頂点へ
168年、桓帝が死去すると、後継に劉宏(のちの霊帝)を迎えることが決まる。
後漢では、幼い皇帝を迎えるときは、
通常、外戚(皇族の親族)・大将軍・太傅といった名門の重臣が主導するのが礼制だった。
しかし、曹節はこれを完全に無視し、兵を率いて劉宏(のちの霊帝)を迎え、
さらに皇帝の乗る車に同乗して洛陽へ入城した。
これは本来ありえない行為であり、
「霊帝は曹節の保護下にある」という強烈な政治的メッセージでもあった。
外戚・竇武と名臣・陳蕃の宦官排除計画と曹節の反撃
霊帝即位後、政権を握った大将軍・竇武、太傅・陳蕃 は、宦官勢力を一掃しようとした。
しかし計画が漏れ、曹節らが先手を打つ。
曹節は、王甫、侯覧、朱瑀 らと結託し、詔勅を偽造して竇武を反逆者に仕立てた。
竇武は包囲され自害、陳蕃も獄中で殺害された。
これにより 外戚政治は完全に崩壊し、宦官政治が絶対的支配力を獲得した。
曹節は、長楽衛尉、育陽侯(三千戸) に封じられ、権力は頂点に達した。
また、一門の多くも列侯に封じられ、権力を鼻にかけ横暴な振る舞いをした。
霊帝期:曹節の“黒幕政治”が本格化
竇太后死後の落書事件
172年、竇太后が死去すると、宮中に 「曹節・王甫・侯覧を批判する落書」 が現れた。
曹節は激怒し、
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司隷校尉・劉猛に捜査を命じる
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劉猛は「落書の内容は正しい」として拒否
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曹節は劉猛を左遷し、段熲に捜査を命じる
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結果、太学生1000人以上が投獄される
これは後の 党錮の禁(第二次) へとつながる重大事件である。
勃海王劉悝を讒言し、自害に追い込む
曹節は桓帝の弟・劉悝を讒言し、
皇族ですら自害に追い込むほどの権力を見せつけた。
陽球・陳球ら名臣を失脚させる
179年、王甫が陽球により処刑され、段熲も自害したが、
曹節の権力は揺るがなかった。
逆に、陽球・陳球ら「宦官排除派」を失脚させ、獄死に追い込んだ。
晩年と死
曹節は晩年、尚書令の職務まで行うようになり、
宦官としては異例の“政務の中心”に立った。
181年に死去し、 車騎将軍を追贈された。
歴史的評価
宦官政治の決定的な転換点を作った人物
曹節は
・竇武・陳蕃の誅殺
・宦官政治の制度化
・党錮の禁の前段階を形成
・十常侍体制の土台を作る
という、後漢史の腐敗を決定づけた人物である。
「十常侍」ではないが、その前段階の頂点
三国志演義では十常侍の一人として扱われるが、
実際には黄巾の乱(184年)より前に死去しているため、
十常侍とは別系統の“前期悪宦官の頂点”である。

