【南朝宋】檀道済|「万里の長城」と呼ばれた名将

檀道済(南朝宋・武将) 033.武将

檀道済は、東晋末から南朝宋初期にかけて活躍した武将である。
劉裕の桓玄打倒に加わって頭角を現し、盧循の乱や後秦への北伐を戦い抜き、
劉宋建国後には北魏との戦いを担う最高位の武将へ上り詰めた。

後秦北伐では捕虜四千人余りを殺さず解放し、北魏との戦いでは兵糧が尽きたことを砂で隠した
「唱籌量沙」の計によって追撃をかわしたと伝えられる。
敵軍を破るだけでなく、劣勢となれば軍を失わず退くことにも長け、その名は北魏にまで恐れられた。

しかし、劉裕以来の古参功臣として巨大な軍事的名声を持ったことは、
やがて朝廷から警戒される原因となる。
436年、謀反を企てたとして逮捕された檀道済は、
自らを処刑することを「万里の長城を壊す」行為だと言い残し、一族や腹心とともに殺された。

その死から十四年後、北魏軍が長江北岸まで南下すると、
檀道済を処刑した文帝自身がその不在を嘆いたという。
さらに後世には「三十六策、走るを上計となす」という言葉にもその名を残し、
檀道済は劉宋を代表する名将の一人として語り継がれた。

出自と劉裕への従軍

出自

檀道済は高平郡金郷県の人で、本貫は現在の山東省南西部にあたる。
一族は東晋の軍事拠点であった京口に移り住んでおり、兄には檀韶、檀祗らがいた。
生年は史書に記されていない。

『宋書』によれば、幼くして父母を失ったが、
喪礼をきちんと守り、姉に仕え、兄たちにもよく従ったため、
「和謹」、すなわち温和で慎み深い人物として知られていたという。

後に百戦を経験する武将となった檀道済だが、
史書が最初に伝える人物像は、勇猛さではなく家族への礼を守る穏やかな青年としての姿である。

劉裕の挙兵と桓氏残党との戦い

元興3年(404)、桓玄が東晋の皇帝から帝位を奪って楚を建てると、劉裕らは京口で挙兵した。
檀道済も兄の檀韶・檀祗らとともに参加し、劉裕に従って建康奪回に加わった。

桓玄は西へ逃れた末に殺されたものの、荊州方面にはなお桓氏の残党が残っていた。
檀道済は劉裕の建武将軍府で軍事に参画した後、
西方の戦いに加わり、魯山を平定して桓振を捕らえた。
戦功によって輔国参軍・南陽太守となり、劉裕挙兵への功績によって呉興県五等侯に封じられた。

劉裕が後にを建国する十六年も前から従っていたことになり、
檀道済は劉宋成立後に登用された将軍ではなく、
王朝創業以前から劉裕と戦場をともにした古参の武将だった。

盧循の乱

桓玄勢力が衰退した後も東晋の混乱は続き、南方では盧循・徐道覆の勢力が拡大した。
各地でも反乱や群盗が相次ぎ、郭寄生らが作唐に集結すると、
揚武将軍・天門太守となっていた檀道済がこれを討って平定した。

その後は劉裕の弟・劉道規に従い、桓謙・荀林らを討った。
『宋書』はこの戦いで檀道済が「身先士卒」、
自ら兵士に先んじて戦い、向かうところ敵を破ったと記している。

義熙6年(410)、盧循軍の徐道覆が荊州へ迫ると、劉道規は迎撃に出た。
檀道済も戦闘に参加して大きな功績を挙げ、安遠護軍・武陵内史に昇進した。
その後は太尉参軍、中書侍郎、寧朔将軍などを歴任し、
戦功によって作唐県男、食邑四百戸を与えられた。

さらに劉裕の世子である劉義符が京口を鎮守すると、その司馬・臨淮太守となり、
梁国内史、冠軍将軍などを歴任した。
後に檀道済は劉義符を皇帝の座から追う政変に参加することになるが、
それ以前には世子時代の劉義符の幕府で軍事を担当していた。

後秦北伐

義熙12年(416)、劉裕は後秦を滅ぼすため大規模な北伐を開始し、
檀道済を前鋒として淮水・肥水方面から北上させた。

檀道済軍の進撃は順調で、許昌を攻略して後秦の寧朔将軍・潁川太守姚坦と大将楊業を捕らえた。
さらに成皋へ進むと兗州刺史韋華が降伏し、
そのまま洛陽へ向かうと、平南将軍・陳留公姚洸も帰順した。
後秦が河南に築いていた支配網は急速に崩れていった。

この進軍の過程で、檀道済は城や砦を攻略して四千人余りを捕虜とした。
軍中からは捕虜をすべて殺し、その遺体を積み上げて戦勝を示す「京観」を築くべきだ
という意見が出たが、檀道済はこれを退けた。

『宋書』に記された言葉は、「伐罪弔民、正在今日」である。
罪ある者を討ち、民を救うのはまさに今である、という趣旨であり、
檀道済は捕虜を殺さず全員を解放した。
この処置を知った北方の人々は喜び、劉裕軍に帰順する者が相次いだという。

その後も西へ進んで潼関を占領し、諸軍とともに後秦軍を破った。
翌417年には劉裕軍が長安を攻略して後秦を滅ぼし、
檀道済は戦功によって征虜将軍・琅邪内史となった。

後秦滅亡後は再び劉義符の幕府に入り、南蛮校尉などを歴任した。
劉裕が宋王となると侍中、世子中庶子、兗州大中正などを務め、
軍人としてだけでなく新政権の中枢にも組み込まれていった。

劉宋建国と創業功臣としての地位

劉宋建国

永初元年(420)、劉裕が東晋から禅譲を受けて皇帝となり、を建国した。

檀道済は護軍将軍となり、散騎常侍を加えられ、首都建康の軍事的要衝である石頭城を守った。
また宮中へ直接出入りすることも許され、劉裕挙兵以来の功績によって永脩県公、
食邑二千戸に改封された。ほどなく丹陽尹にも任じられている。

劉裕が病に伏すと班剣二十人を与えられた。
班剣は高官に付けられる儀仗であり、
檀道済がこの時点で王朝を代表する重臣の一人に数えられていたことが分かる。

永初3年(422)に劉裕が死去すると、長男の劉義符が少帝として即位した。
檀道済は鎮北将軍・南兗州刺史として外鎮を任され、北方防衛の一翼を担った。

北魏の青州侵攻

景平元年(423)、北魏軍が青州へ侵入し、青州刺史竺夔の守る東陽城を包囲した。
檀道済は使持節・監征討諸軍事となり、王仲徳とともに救援へ向かった。

檀道済が到着する前に北魏軍は攻城具を焼いて撤退したため、宋軍は追撃を試みようとした。
しかし長く包囲されていた東陽城には兵糧が残っていなかった。

そこで地下に埋もれていた古い穀物倉を掘り出し、数丈もの深さから穀物を取り出して兵糧とした。
作業に二晩を費やしたため、その間に北魏軍は遠くへ退き、檀道済は追撃を断念して広陵へ帰還した。

劉義真の廃位と少帝廃立

少帝の治世では、劉裕から後事を託された徐羨之・傅亮・謝晦らが朝廷の実権を握っていた。

徐羨之らは少帝の弟である廬陵王劉義真を危険視し、その地位を奪おうとした。
徐羨之は事前に檀道済へ相談したが、
『宋書』は「道済意不同、屢陳不可」と記しており、檀道済は繰り返し反対した。
しかし意見は受け入れられず、劉義真は廃された後に殺害された。

徐羨之らは続いて少帝劉義符の廃位を決めた。
大きな軍事力を持つ檀道済を無視して政変を行うことは難しかったため、
檀道済を建康へ呼び寄せ、到着してから計画を告げた。

檀道済は今度は廃位に加わった。
政変の前夜には領軍将軍謝晦の府に泊まったが、
翌日に皇帝を廃するという重大事を前に謝晦が緊張して眠れなかったのに対し、
檀道済は横になると熟睡した。謝晦はその胆力に感服したという。

元嘉元年(424)、少帝は廃され、荊州にいた劉義隆が迎えられて文帝として即位した。
少帝はその後殺害されている。

檀道済は征北将軍となり、散騎常侍を加えられ、鼓吹一部を与えられた。
さらに武陵郡公、食邑四千戸への進封を命じられたが、これについては固辞している。

徐羨之・傅亮・謝晦の粛清

文帝は即位後、兄の劉義真と少帝が殺された責任を徐羨之・傅亮・謝晦らに問おうとした。

少帝廃位に参加した檀道済の処遇も問題となったが、
文帝は、檀道済は徐羨之らに従ったに過ぎず、以前から廃立を主導していた人物ではないと判断した。
そのため檀道済を粛清対象には加えず、逆に徐羨之らを倒すための軍事力として用いた。

元嘉3年(426)、徐羨之・傅亮が排除されると、荊州刺史だった謝晦は挙兵した。

文帝が謝晦の軍事能力について尋ねると、
檀道済はかつて劉裕の北伐でともに関中へ入った経験から、謝晦の知略を高く評価したという。
『南史』によれば、軍議で十の策が必要なら、そのうち九までを謝晦が考え出すほどだったと語った。

ただし、大軍を自ら率いて決戦した経験は乏しいとも見ていた。
自分は謝晦の智略を知り、謝晦は自分の勇を知っているうえ、
自分には皇帝の命という大義があるため、
実際に戦陣を交える前に勝負は決するだろうと判断したという。

討伐軍では到彦之が先行したものの、謝晦軍に敗れて後退した。
ところが謝晦側は檀道済も徐羨之・傅亮らとともに処刑されたと思っており、
檀道済本人が討伐軍として到着したことを知ると大きく動揺した。
『宋書』によれば、謝晦軍は人心が崩れて敗走し、反乱は鎮圧された。

戦後、檀道済は征南大将軍・開府儀同三司・江州刺史となり、
江州を中心とする広い地域の軍事を統轄した。
食邑も千戸加増され、劉宋の方面軍を預かる最高位の将軍となった。

文帝の北伐と檀道済の名声

文帝の北伐と滑台救援

文帝は北魏に奪われた黄河南岸の地域を回復しようと考え、
元嘉7年(430)、到彦之らに大規模な北伐を命じた。

北魏軍はいったん黄河以北へ後退したため、宋軍は洛陽や虎牢などを回復した。
しかし冬になると北魏が反撃に転じ、金墉城や虎牢などが相次いで陥落し、到彦之軍も撤退した。

滑台では朱脩之らが孤立して籠城を続けたため、
文帝は檀道済を都督征討諸軍事として救援に向かわせた。

翌431年、檀道済は東平郡寿張県へ進み、北魏の安平公乙旃眷と遭遇すると、
王仲徳・段宏らを率いてこれを破った。
さらに高梁亭へ進むと、北魏の済州刺史悉頬庫結が前後から攻撃してきたため、
段宏・沈虔之らに奇兵を率いさせて撃破し、悉頬庫結を斬った。

その後も済水方面を進み、
『宋書』によれば二十余日の間に北魏軍と三十回余り戦い、多くの戦闘で勝利した。

しかし個々の戦闘に勝っても、戦役全体の状況は改善しなかった。
北魏騎兵に補給路を脅かされ、周辺の穀物も焼かれたため、宋軍は深刻な兵糧不足に陥った。
滑台でも食糧が尽き、籠城を続けられなくなった末に北魏軍に攻略された。

救援すべき滑台を失い、補給も続かなくなったため、檀道済は撤退を決断した。

唱籌量沙

撤退中の宋軍では兵糧がほとんど尽きていたが、
さらに宋軍から北魏へ逃亡した兵士が現れ、檀道済軍に食糧が残っていないことを敵へ密告した。

『南史』によれば、
檀道済は夜になると兵士に籌を使って数を唱えさせながら、米を量っているように見せかけた。
実際に袋へ入れたのは砂で、その表面だけを少量の米で覆い、
外から見れば大量の兵糧が残っているように偽装した。

北魏側はこれを見て、宋軍には十分な食糧があると判断した。
兵糧不足を告げた逃亡兵の情報を虚偽と疑い、かえってその者を処刑したと伝えられる。
これが後に「唱籌量沙」と呼ばれるようになった逸話である。

それでも宋軍が兵力面で不利なことに変わりはなかった。
軍中には追撃への恐怖が広がったが、檀道済は兵士たちに甲冑を整えさせる一方、
自身は白衣姿で車に乗り、悠然と進んだ。
北魏軍はその落ち着いた様子を見て伏兵がいるのではないかと疑い、
不用意に攻撃できなかったという。

檀道済は河南を回復するという北伐の目的こそ果たせなかったものの、軍を壊滅させずに帰還した。『南史』はこれによって「雄名大振」、その威名が大いに高まったと記し、
北魏では檀道済を恐れるあまり、その肖像を描いて鬼を祓うために用いたとも伝えている。

司空への昇進と朝廷の警戒

北伐から帰還した檀道済は司空に昇進した。
三公の一つに列したことで、官位の上でも劉宋を代表する重臣となった。

しかし『宋書』は、このころの檀道済について、武帝劉裕の時代から大功を重ねて威名が非常に高く、腹心には百戦を経験した者が多いうえ、息子たちにも才気があったため、「朝廷疑畏之」、朝廷が疑い恐れるようになったと記している。

『南史』には、当時の人々が「安知非司馬仲達也」、
どうして司馬仲達ではないと言い切れるのか、と評したという記事もある。

司馬仲達とは司馬懿であり、曹魏に仕えて軍事・政治の実権を握り、
その子孫が最終的に魏から帝位を奪って晋を建てる基礎を築いた人物である。

檀道済自身が皇位簒奪を企てたことを示す記録はないが、
創業皇帝以来の軍功を持ち、軍中に多数の腹心を抱え、一族にも有能な男子が多いという状況は、
皇帝側から見れば司馬懿を連想させるものだった。

しかも文帝は病気がちで、たびたび危篤状態に陥った。
その間は弟の彭城王劉義康が政務を広く担っており、
『南史』では領軍劉湛も檀道済を警戒していたとされる。
『宋書』によれば、劉義康は文帝が死去した場合には檀道済を制御できなくなることを恐れたという。

建康召還と檀道済の最期

建康への召還

元嘉12年(435)、文帝が重病となり、
同時に北魏が国境を侵すと、江州にいた檀道済に入朝命令が下された。

妻の向氏はこの召還を不吉に感じた。
『南史』によれば、世に抜きん出た功績は道家の忌むところであり、
何事もないのに突然召されるのは禍が訪れる兆しではないか、と夫に語ったという。

檀道済が建康へ到着すると文帝の病状はいったん回復したため、すぐには処罰されなかった。
翌元嘉13年(436)春には任地へ戻ることを許され、すでに船へ乗って出発の準備をしていた。

『南史』は、このとき鷦鳥に似た鳥が船に集まり、悲しげな声で鳴いたとも記している。
名臣の非業の死を前に置かれた凶兆譚であり、
事実関係とは別に、後世の檀道済伝承の一つとして残されたものである。

ところが文帝の病状が再び悪化したため、檀道済は送別の宴から呼び戻され、
そのまま捕らえられて廷尉へ送られた。
『南史』では劉義康が詔を偽って召還したとしており、
『宋書』とは逮捕に至る過程の記述に違いがある。

謀反の罪

檀道済を処刑するために出された詔では、
長年朝廷の厚恩を受けながら二心を抱き、下の者を取り込んで皇帝を欺いたこと、
謝霊運の反逆的な言説を受け入れて庇護したこと、
密かに金銭をばらまいて軽薄・危険な者を招き、逃亡者を集めたことなどが罪状として挙げられた。

さらに文帝の病気につけ込んで変事を起こそうと企てたとされ、
王仲徳から以前より不穏な動きが報告されていたことや、
南蛮行参軍庞延祖から陰謀の密告があったことも処刑理由とされた。

したがって公式には、単に「力を持ちすぎたから殺された」のではなく、
具体的な謀反計画が発覚したため処刑されたことになっている。

ただし、これをそのまま事実とみなすことには慎重さが必要となる。
『宋書』本伝そのものが処刑記事の前に、
檀道済の威名、百戦の腹心、有能な息子たちを挙げたうえで「朝廷疑畏之」と記し、
さらに文帝が死ねば制御できなくなると劉義康が恐れていたことを伝えているためである。

檀道済本人が皇位を望んだことを示す発言や、
実際に挙兵準備を進めていたことを独立して裏付ける史料は残っていない。

「万里の長城を壊す」

処刑されることを知った檀道済は激怒した。
『南史』では、その目は松明のように輝き、一斛の酒を飲んだと描写される。
檀道済は頭巾を脱いで地面へ投げつけ、「乃復壊汝万里之長城」と言った。
「お前たちは自らの万里の長城を壊すのだ」という意味である。

北魏から劉宋を守る最大の防壁が自分であり、
その自分を処刑することは国家が自ら防衛力を破壊する行為だと訴えた言葉だった。

元嘉13年(436)、檀道済は処刑された。

処罰は本人だけでは終わらず、給事黄門侍郎の檀植、司徒従事中郎の檀粲、
太子舎人の檀隰、征北主簿の檀承伯、秘書郎の檀遵ら息子たちも殺された。
尋陽にいた檀夷・檀邕・檀演らにも使者が送られ、処刑されている。
『宋書』と『南史』では一部の名に異同があるものの、
檀氏の成人男子に広範な粛清が及んだことは共通している。

さらに檀道済の腹心だった司空参軍薛彤と高進之も殺された。
二人は勇力で知られ、当時の人々から三国時代の関羽・張飛に比べられていたという。

一族の男子すべてが絶えたわけではなく、
檀邕の子・檀孺は助命され、後に宋孝武帝の時代に奉朝請となった。

檀道済の死後と後世の伝承

処刑後に残された伝承

『南史』は、檀道済が殺された当時、
「可憐白浮鳩、枉殺檀江州」という歌が人々の間で歌われたと伝えている。
「哀れな白い浮鳩よ、罪なく檀江州を殺した」といった意味で、
「檀江州」は江州刺史だった檀道済を指す。

同書には、処刑された日に建康で地震が起こり、
白い毛のようなものが生じたという怪異も記録されている。
こうした天変地異の記事は、
名臣の非業の死や政治上の異変に自然現象を結びつける中国史書の伝統のなかで理解する必要がある。

一方、北魏では檀道済の死が歓迎された。『南史』によれば、北魏の人々は、
「道済已死、呉子輩不足復憚」「檀道済が死んだ以上、南方の者などもう恐れるに足りない」
と語ったという。

文帝が惜しんだ檀道済

檀道済を失った後、文帝は殷景仁に、誰がその代わりになれるかと尋ねたという。

殷景仁は、檀道済が名将として知られるのは長年戦場で功績を重ねたからであり、
ほかの将軍も同じように用いれば名声を得る者が現れるという趣旨で答えた。

文帝はこれを退け、漢の名将李広を例に挙げた。
李広が生きていた間、匈奴はその存在を恐れたのであり、
単に戦場へ出る機会を与えれば誰でも同じ威名を得られるわけではないという認識だった。

元嘉27年(450)、文帝は再び北魏に対する大規模な北伐を決断した。
沈慶之は過去の到彦之や檀道済の遠征を挙げて反対したが、文帝は受け入れなかった。
この議論のなかでは、檀道済が敵を完全に滅ぼさず、自らの重要性を保とうとしたという趣旨の
「養寇自重」の批判も文帝から出たと伝えられる。

北伐は失敗し、北魏の太武帝拓跋燾が大規模な反撃に転じた。
北魏軍は劉宋領内を南下して長江北岸の瓜歩まで到達し、対岸の首都建康を直接脅かした。

文帝は石頭城へ登って北魏軍を眺め、「若道済在、豈至此」
「もし檀道済が生きていたなら、どうしてこんなことになっただろうか」と嘆いたという。

この逸話は『南史』に伝えられたもので、
檀道済自身が処刑直前に口にした「万里の長城」という言葉と鮮やかに対応している。
そのため細部には後世の物語化を考慮する必要があるものの、
檀道済が死後、北魏に対する劉宋の防壁となり得た名将として記憶されたことは明らかである。

「三十六策、走るを上計となす」

檀道済の名は、死後数十年を経て別の形でも語られた。

南斉の武将王敬則について、
『南斉書』王敬則伝には、「檀公三十六策、走是上計」という言葉が記されている。

「檀公」は檀道済を指し、
多くの策があるなかでも、危険となれば逃げることが最上の策であるという意味になる。
北魏との戦いで、勝利の見込みがなくなった檀道済が無理に戦闘を続けず、
策略を用いて軍を保ったまま撤退した故事を踏まえた言葉と考えられている。

後世には「三十六計、走るを上計となす」「三十六計、逃げるに如かず」などの形で
広く知られるようになった。

ただし、現在知られる兵法書『三十六計』を檀道済が著したわけではない。
「三十六策」は多くの策を意味する表現であり、
後世になって三十六種類の具体的な兵法と結びつけられたものである。

北宋期に編まれた『十七史百将伝』にも檀道済は歴代の名将の一人として収録され、
後秦北伐や北魏戦での行動が軍略の実例として取り上げられた。

↓↓兵法書『三十六計』についての個別記事は、こちら

兵法三十六計とは何か|全36計の意味・戦例・使い方まで徹底整理
兵法三十六計を全36計すべて戦例付きで徹底解説。勝戦・敵戦・攻戦・混戦・並戦・敗戦の6分類ごとに意味と使い方を整理し、中国兵法の本質である「状況判断」を体系的に理解できる完全ガイド。

人物評・評価

檀道済について『宋書』が強調するのは、武帝劉裕以来の大功と、軍中に築いた圧倒的な威名である。最終的に朝廷から「疑畏」されたという記述も、謀反人としての性格を説明するというより、
その軍事的存在感が皇帝権力にとって無視できない規模に達していたことを示している。

戦歴を見ると、必ずしも常勝の将軍ではない。
とくに431年の北伐では滑台を救えず、河南回復にも失敗している。
それにもかかわらず名声が高まったのは、
補給を失って撤退する軍を崩壊させず、北魏の追撃を警戒しながら帰還させたためだった。

『南史』が「唱籌量沙」や白衣での撤退を詳しく伝え、後世に「走為上計」の故事まで生まれたのも、
檀道済が単純な猛将ではなく、
勝てない局面で損害を抑える判断力を持つ将軍として記憶されたためである。

一方、妻向氏の予言、船に集まった凶鳥、処刑当日の地震、文帝の「若道済在、豈至此」など、
現在の檀道済像を形作る印象的な記事の多くは、『宋書』より後に編纂された『南史』に詳しい。
これらを同時代記録と同じ確度で扱うことはできないが、檀道済が後世に
「国家が自ら殺してしまった名将」として理解されていった過程を示す史料として重要である。

まとめ

檀道済の生涯を特徴づけるのは、戦場で得た名声がそのまま政治的な危険へ転化したことである。

劉裕の挙兵から従った古参であり、
後秦北伐では前鋒を務め、劉宋成立後も北魏との戦争や国内の反乱鎮圧を担った。
軍功を重ねた結果、司空にまで昇ったが、百戦を経験した腹心と有能な息子たちを抱える存在は、
病弱な文帝とその周囲にとって、皇帝の死後まで安心して残しておける臣下ではなくなった。

公式には謀反を企てた罪によって処刑されたものの、その計画を独立して裏付ける史料は乏しい。
むしろ『宋書』が明記する「朝廷疑畏之」という言葉に、
檀道済が排除された事情が端的に表れている。

処刑の際に残したとされる「万里の長城」という言葉は、
十四年後に北魏軍が長江まで達したことで後世に強い印象を残した。

さらに「唱籌量沙」や「三十六策、走是上計」の故事によって、
檀道済は敵を破る勇将としてだけでなく、
危機のなかで軍を生還させることのできる将軍としても名を残している。

史書・参考文献

『宋書』巻43「檀道済伝」
『宋書』「少帝紀」
『宋書』「文帝紀」
『南史』巻15「檀道済伝」
『資治通鑑』宋紀(少帝・文帝期)
『南斉書』巻26「王敬則伝」
『十七史百将伝』巻7「檀道済」

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